武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第10回イメージライブラリー課外講座
映像作家・松本俊夫の世界」の記録


講師
松本俊夫(映像作家、映像理論家、日本大学大学院芸術学研究科客員教授、造形研究センター研究員)
黒坂圭太(映像作家、武蔵野美術大学教授)
今野勉(演出家、脚本家、武蔵野美術大学教授(2004年度退任))
佐々木守(脚本家、武蔵野美術大学非常勤講師(2006年逝去))
開催日:2000年 第1日目/6月22日 第2日目/6月26日

 

この講座について

 イメージライブラリーでは、1998年より松本俊夫氏の映像作品をコレクションしており、また本学映像学科には氏と関係の深い先生方も多いことから、松本氏をお招きし作品上映と対談を企画しました。1日目は黒坂圭太先生による作品解説と上映、2日目は今野勉先生のイントロダクションから始まり、佐々木守氏との対談、そして作品上映を通して、映像作家・松本俊夫の世界を紐解きました。

松本俊夫氏について

 もともと画家志望であった松本俊夫は、東京大学医学コースから美学美術史科へ移り、そこで20年代ヨーロッパのアバンギャルド映画の存在を知る。それはパリを中心に、サルバドール・ダリフェルナン・レジェなど当時の美術家が積極的に映画と関わって生まれた、全く新しい映像芸術であった。また、その頃日本に入ってきたイタリア・ネオレアリズモの現実を直視した表現方法にも強い刺激を受ける。この二つからの影響は、後にアバンギャルドとドキュメンタリーの融合を論じた「前衛記録映画論」(58年)の礎となっている。
 大学卒業後、映画会社に就職すると、処女作『銀輪』(56年)を武満徹や実験工房の山口勝弘らと共同で制作する。『西陣』(61年)では、織物の街・西陣のステレオタイプ的な説明描写を意識的に排除して、目には見えない内面のリアリティを表現し、ベネツィア国際記録映画祭で銀獅子賞を獲得した。その前衛的な姿勢は記録映画だけに留まらず、新しいメディアやテクノロジーの探求という形で、当時まだ目新しかったビデオをいちはやく取り入れた『マグネチック・スクランブル』(68年)や、赤外線フィルムを使用した『アートマン』(75年)などに見ることができる。新たな視覚体験を生み出したこれらの作品は、その後のビデオアートやメディアアートに深く影響を与えた。『薔薇の葬列』(69年)では商業映画にも挑戦し、当時まだタブー視されていたゲイボーイを主役に据え、エディプス神話の舞台を60年代の新宿に置き換えて描いた異色作として映画史に名を刻んでいる。
 また評論家としても、前述の「前衛記録映画論」を始めとする数々の論評を雑誌「記録映画」、「映画芸術」、「FILM」などで発表し続けてきた。芸術や映画に対する既成概念を根底から揺さぶるような理論はしばしば論争にも発展し、大島渚など松竹ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちも巻き込むこととなった。
 一方、優れた教育者としても知られ、東京造形大学、九州芸術工科大学、京都芸術短期大学、京都造形芸術大学などで教鞭を執り、黒坂圭太や伊藤高志、森下明彦など多くの作家を誕生させた。松本俊夫の着任した地では、大学のみならずその周辺においても作家同士の交流や上映会が活発化するなど、これまで東京に集中していたネットワークを地方へと結びつけ、映像文化の地表を広げることに大きく貢献した。

文=狩野志歩(武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー)
イメージライブラリー・ニュース 第4号(2000年6月)「映像作家・松本俊夫」より

第1日目 講師:黒坂圭太教授
『モナ・リザ』と『エニグマ 謎』について

黒坂 今回の講座では、今週、来週の2回にわたって映像作家の松本俊夫を取り上げます。松本俊夫の作品には、4本の長編劇映画があります。それらがちょうど1年前の今頃、かなりのロングランでリバイバル公開されました。なかなか4本まとめて上映されるというのは珍しいんですけれども、意外なことに、その映画が作られた頃にはまだ生まれていなかったような若い世代の人たちから共感を受けたんです。その反応を詳しく聞いていくと、1960年代とか1970年代がブームになっていますが、単にその頃の風俗が見られて面白かった、ということに留まらずに、「本当に感動した」「自分のアイデンティティーがクラクラきた」「すごく考えさせられた」と。歴史的価値ではなく、同時代的に作品そのものに素直に感動した−そういう声を非常に多く聞きました。そのような、時が経っても色褪せない実験精神を語るとしたら、松本俊夫以外にいないんじゃないか。そういう理由でご本人に講演をお願いしましたところ、そんな風に若い方々が喜んで下さるなら、ということで、大変快く引き受けて下さいました。監督ご自身は来週来校されますので、直接いろんなお話が聞けると思います。
 それでは、今日は松本俊夫の作品世界について紹介していきます。略歴などは、みなさんのお手元にある『イメージライブラリー・ニュース(2000年6月第4号)』に書かれてありますので、そちらを見て頂ければと思います。松本俊夫は1950年代末頃に記録映画の監督としてデビューしました。そしてそれ以降、記録映画をベースに、当時はまだ過渡的というか、始まったばかりで初々しい−というよりはすごく未成熟なテレビ・メディアの世界で様々な活躍をします。劇場映画に関わったのは意外に遅く、初めはドキュメンタリー映画、テレビのドキュメンタリー番組、CM、演劇、ラジオドラマ、テレビドラマなど、様々なマスメディアに携わっていました。それだけなら松本俊夫以外にも大勢いると思うんですけれども、この人はそれに留まることなく、当時は実験映画、ビデオアートというように呼ばれ、今日ではメディアアートという言葉でひと括りにされているものを日本でいち早く手掛けた。そういう芸術行為におけるパイオニア世代の代表的な一人です。ほとんど、この人が一人で始めたと言っても過言ではないくらい早い時期に、それに目覚めた人なんです。その芸術活動は今日観て頂くような映像の世界に留まらず、現代美術、例えばインスタレーションとかパフォーマンスなど、そういうものにまで及んでいます。更には1970年に行われた大阪万博−歴史上最大規模の万博なんですけれども、そのパビリオンの中に特設会場を設営して、当時としては画期的な先端メディアを使って映像と音と空間を一体化させた巨大イベントを行なっています。そして更には、映像化は絶対に不可能とまで言われた夢野久作の『ドグラ・マグラ』を映画化しました。『ドグラ・マグラ』は怪書、奇書として名高い大正期の小説ですが、それを今から10数年前、長編映画として堂々と世に出したのです。当時のレトロブームとも相まって、それは夢野ブームに火をつける大きな原動力のひとつになりました。
 さて、このように多岐に渡って表現を続ける松本俊夫の活動の全貌を、この講座ですべて伝えるということは到底不可能です。ここではとりあえずインスタレーション、テレビドラマ、演劇、そういった類のものは省き、ここで上映可能な映像作品、すべてではなくその一部なんですけれども、を取り上げることにします。映像というメディアは、ダ・ヴィンチにとっての絵画がそうであったのと同じように、マルチ・アーティストである松本俊夫にとって、ひとつの中心を成しています。それを知ることは、松本俊夫のすべてではないけれど、その世界観を知る糸口になると思いますので、たっぷりその世界を堪能して頂ければと思います。

 それでは今日の上映作品の話に移りたいと思います。最初に『モナ・リザ』と『エニグマ 謎』、短編2本を続けて観て頂きますが、この作品について若干の補足説明をいたします。まずここで注目すべきところは、日本においてメディアアート、ビデオアートというジャンル自体がまだなかった時代に完成した、第一世代の作品であるということです。『モナ・リザ』はニューヨーク近代美術館が主催するビデオアートの国際的シンポジウムに出品され、海外に紹介された日本人によるビデオアート第一号と言うことができます。この作品のテクニックなんですけれども、みなさんは聞き覚えがないと思いますが、スキャニメイトという機械を使って作られています。スキャニメイトというのは、スキャンというビデオ用語と、アニメイトはアニメーションのことですけれども、それをくっつけた造語です。主にCM、それから番組のタイトル等の特殊な画像処理を扱うマシンとしてイマジカがアメリカから輸入したもので、今ではちょっと想像できないかもしれませんが、アナログコンピューターを内蔵しています。この機械は主に複数の画像をシンセサイズ−つまり、変形したり解体したり再構成したり、そういった合成を自在に行える。自在と言ってもすごく原始的な機械ですから、今のCGのようなものではなく、ただ形をグニャグニャ曲げたり色を変えたり、そういうのがこの機械の主な性能です。ここで特筆すべきなのは、松本俊夫という人が元々フィルムから始めた人だけに、単にこの機械の性能のみに依存するような方法を取らなかったということです。ビデオによる映像表現の可能性が少しずつ試みられ始めたその時代に、彼はフィルムとビデオの持っている一番強い部分を重ね合わせることによって作品を作ったのです。具体的に言うと、まずフィルムカメラで多数の映像素材を撮影しておいて、それをイメージ素材の断片として取り込み、それを何と映画のクレジットロールを撮影するための機械にかけるんです。長いクレジットをぐるぐる巻き取る機械なんですが、その機械にかけることによって、あたかも絵巻物でも見るかのように色々なイメージがずうっと繋がれていく。それだけだと平面なんですが、それを裏から筒状の状態に映し出すような仕掛けの機械なんですよね。そこに組み込むことによって、当時としては想像を超えるような、誰も見たことのない世界を作り出しています。当時この機械のマニュアルにはそんな使い方は載っていなかった。この機械を発明した会社でさえ、そのような性能を持っているなんて考えてもみなかったわけです。このふたつの作品について言えるのは、既製の機械を使いながら、マニュアルにないオリジナルの技法をその作品のために考案したということです。それによって、その機械を使えば誰もが作れるのとは明らかに違う視覚イメージを作り出した。創造性という言葉を使うならば、まさしくこれが創造と言えるのではないでしょうか。
 松本俊夫の作品を大きく分けると、先端のメディアを使って一体何ができるのかという、非常にメディアにこだわった作品と、今日あとで観て頂く劇映画のような、人間の深層心理のドロドロした部分、どす黒い部分にメスを当てていくような深い表現を持った作品に分けられます。松本俊夫はそのふたつを同時に持っている珍しいタイプの人なんです。『モナ・リザ』と『エニグマ 謎』はその前者に属する作品です。さっきも言ったように、機械に依存するのではなく、あくまでもそういう視覚効果を心理的な影響にまで持っていくために、新しいハードを自ら開拓するという実験が行われた作品です。作家がそういう問題を出していくことによって、機械を作る人はそれに対応できるようによりよいメディアを作っていく、そういう一番いい関係が結べたのではないでしょうか。当時、そういう考え方をする人というのは稀有な存在でした。その意味でも、ひとつの時代が生んだメディアアート作品と言えるんじゃないかと思います。

<『モナ・リザ』『エニグマ 謎』上映>

『薔薇の葬列』について

 後半は松本俊夫の長編劇場用映画『薔薇の葬列』についてお話ししたいと思います。最初にも申し上げましたが、松本俊夫の場合、劇映画を撮るようになったのは驚くほどあとになってから、映像の世界に入って10年以上経過した頃からでした。1969年に公開された『薔薇の葬列』が劇映画として最初の作品ということになります。去年リバイバル公開されましたが、ピーターという俳優さんの映画デビュー作でもあることから大変話題を呼びました。1960年代の世相、言ってみれば当時のゲイ文化が赤裸々に反映されていて、なかなか普段見られないようなシーンが、潜入カメラによるドキュメンタリーのように撮影されている。どちらかというと怖いもの見たさや興味本位、あるいは“1960年代のカタログ”的なレベルで語られることも少なくなかった作品です。しかし、この作品の創作意図というのはもちろん、そういうところにあったわけではありません。松本俊夫がこの『薔薇の葬列』を撮るということが発表された時、同業者といいますか、同じくアヴァンギャルドの運動をしていたアーティストの一部からは、「お前も前衛から商業主義に身を売ったのか」と、そういう皮肉交じりの、悪意ある中傷みたいなものを浴びせられたということですが、もちろんそれは全くのいいがかりもいいところで、むしろこの時期の松本は、当時の映画の状況に疑問を持っていたんです。その時代の主流と言われていた、旧大手5社の劇場映画−5社と言われてもみなさん多分ピンとこないと思うんですけれども、既に今は存在しないものもありますので具体的に言うと、東宝、東映、日活、大映、松竹、これら5つのメジャー映画会社を総称して、5社と呼んでいたわけです。当時、映画は娯楽の中心にありまして、1週間に1本くらい新作がどんどん作られるという時代でした。もちろんいい作品もありましたけれど、粗製乱造のプログラムピクチャーや、本当にもう、ただただフィルムを垂れ流しているだけみたいなものも、いっぱいあったわけです。そういう状況に、松本は「やっぱり、そうじゃないだろう」、「映画というのは単に暇つぶしで観るようなものでは済まない。もっともっと深く考えさせるような、そういう可能性があるんだ」と提言しようとした。
 ともすれば映画が単なる暇つぶしの材料みたいに扱われていた当時の状況に、彼はすごく批判精神を持っていて、あえて大手ではないアート・シアター・ギルドで制作をしました。アート・シアター・ギルドはもうなくなってしまいましたが、ATGと呼ばれていた制作会社です。名前くらいは知っている方はいると思うんですけれども。そこではものすごい低予算、当時の価格で1000万円、今日ではたぶん1億円に満たないくらいの予算で劇場映画を撮るわけです。予算が少ない分、逆に制作上の自由はものすごく尊重されていました。日本にも作家主義の映画を根付かせていこうと、そういう運動から生まれたのです。それだけに経営が困難になって最終的には潰れてしまうんですけれども、その絶頂期にここで『薔薇の葬列』を作ったわけです。当時の作者の目的というのは、あくまでも主題と方法の追究というところにあって、まだ他人が踏み込んでいない未開の領域をいかにして切り開くか、その辺に情熱があったわけです。ゲイボーイの世界を扱うということで、ある種ゲテモノ趣味というか風俗趣味というか、そういう風な中傷もあったんですけれども、むしろ作者がここで描きたかったのは、秩序を超えたところに成立する人間存在の根本でした。彼らがその時代の中で、一体なぜそうならなければなかったのか。そういう問題を突き詰めていこうという、そういう見極めが根底にあったのだと思います。さて、この『薔薇の葬列』は、ギリシャ悲劇『エディプス王』の現代風の翻案という構造を取っています。お読みになった方も多いかと思いますが、『エディプス王』は簡単に言うと、自分の父親を殺して母親と関係を持ってしまうという話です。この作品がそういう話を下敷きにしたものだということだけ頭に入れておいて頂いて、それが実際にこの作品の中ではどういう風に作者によって大幅に脚色を施されているか、そこは作品を観てのお楽しみということで、充分楽しんで頂きたいと思います。作品の内容については一切コメントを差し控えたいと思います。もう本当に、観て感じることがすべてということです。
 ただ、この作品の周辺状況について、松本自身の発言をここで紹介しておきます。多分みなさんのご両親の世代がみなさんくらい若かった頃の話だと思うんですけれど、その頃というのは70年安保を前にして全共闘運動が盛んだった時代でした。そういう時代にギリシャ悲劇みたいなものを引き出して、なぜ直面している政治状況に正面から取り組まないのかと、そういう批判はあったそうです。しかし松本に言わせれば、政治的状況それ自体に映画の価値を見出すのは間違っている、と。そこで描かれている政治的な主題がいかに進歩的な思想を持っていたとしても、それがあくまでも表現のレベルで陳腐で月並みな、誰もが信じて疑わない既製の映画文法に則って描かれたのでは、本質的な解決にはならないだろう。新しい概念、新しい素材を描くには、当然それに見合った新しい容れものが必要だ。これ以前の作品というのは、いかに新しい思想であっても、昔から使い古された容れものを使っていた。そうじゃない、容れもの自体もそれに見合うだけの新しいものを探さなくちゃいけない−そういうところで作者はものすごく苦しんだそうです。ある意味で、それこそがこの作品で最もやりたかったことだとも言っています。
 最後に作者自身のポリシーについてなんですが、松本にとってジャンルの区別というのは本質的にどうでもいいことで、あくまでも自分の内的な表現衝動を最も大事に考えている。それがたまたま劇映画であったり、テレビドラマであったり、インスタレーションであったり、現代美術であったりと、方法を変えるだけ。これが彼の考え方です。その時自分が一番わくわくする、心が躍るようなもの以外は作らない。そういう意味では頑ななまでに作家性を貫き通している人です。実際に、例えばマルチ・プロジェクション方式の作品『つぶれかかった右眼のために』とか、インターメディア作品の『イコンのためのプロジェクション』とか、伝統的な映画形式を無視して形式そのものを映画から逸脱させるような試みもしている。その一方で、伝統的な映画形式が使い古されて可能性がなくなったわけでは絶対にない、とも考えている。形式自体が伝統的なものであっても、表現としての可能性はまだまだ未開の領域がたくさんある−この意見はたぶん、それから30年経過した今も全く変わっていないと思われます。あくまでも、映像表現というものが時代の変化、時代の推移というものにどう関わっていくのか、そこが作者にとって一番重要な問題なのです。自分と自分を取り巻く世界の関係を、思想の上でも、ものを作るという感性的なレベルの上でも、それに伴って変革をしながら、自分を更に内部から変えていく。そういう精神的な自由さを体得したい−それが松本俊夫の一貫した考え方です。もしここで、あえて前衛とかアヴァンギャルドという言葉を使うとしたら、それはまさしく、そういった常に臨機応変に変貌していく精神の自由さというものに他ならないんじゃないか。以上は受け売りで恐縮なんですけれども、この映画に託した監督自身のコメントということで、今日は僭越ながら私が代行して喋らせて頂きました。

<『薔薇の葬列』上映>

第2日目 講師:松本俊夫氏、黒坂圭太教授、今野勉教授、佐々木守氏
はじめに

今野 映像学科の今野です。松本俊夫さんの紹介ということでお時間を頂いておりますが、経歴や作品歴については『イメージライブラリー・ニュース(2000年6月第4号)』に詳しく書いてありますので、ここでは松本さんとの個人的な関わりについて話して紹介に代えさせて頂きたいと思っております。
 僕は1959年にテレビ業界に入りました。テレビのことも映画のことも全く知らずに入ったのですが。実はその前年、1958年というのは不思議な年でしてね。映像史の上である意味画期的な年でした。ひとつは、その年の2月に松本さんが「前衛記録映画論」という論文を発表したのです。これは前衛映画とドキュメンタリーを統合するという新しい考え方を論じたものでした。松本さんに言わせると、発表した当時は誰も相手にしてくれなかったそうです。それは、その頃の記録映画がどういう考え方で作られたかということに因るのですけれども。そのあと、テレビのドキュメンタリストで武蔵野美術大学映像学科を作った吉田直哉さんも論文を発表しました。その時は27歳くらいだったと思うんですけれど。どういう論文を発表したかというと、「記録映画への訣別状」という論文で、これは『記録映画』という雑誌に載ったらしいです。それまでの記録映画というのは、イデオロギーとか社会問題の告発とか、割と予定調和的に始めから主張、結論が決まっているような作り方をしていました。しかし吉田さんは、「我々テレビのドキュメンタリーはそういうことはやらない」と宣言しました。吉田さんは、制作にあたって「作業仮説」を立てました。仮説だからどっちに結論が転んでいくか分からない。その仮説を実証するため−あるいは実証できないかもしれないのだけれど、そのプロセスを記録していく。作業仮説という言葉が初めて使われました。そういう一種のジャーナリスティックな記録というものをやっていこうと、吉田さんは27歳でそういう論文を『記録映画』という雑誌に出したんですね。同じ頃、和田勉という人が『映画評論』という雑誌に、やっぱり同じように、これからのテレビドラマは今までの映画のストーリー主義から決別して、新しいテレビドラマを作らなければいけない、という一種の映画への決別を論文に発表するんですね。さらにまた同じ年に、その頃まだ松竹の助監督だった大島渚さんが、状況と闘う人間を描くべきだと、やっぱりストーリー主義と決別する。大島さんはまだ一本も映画を作っていなかったのですが、そういう論文を発表しました。ですから同じ1958年に、松本俊夫さんと吉田直哉さんと和田勉さんと大島渚さんが、いわゆる古い記録映画作りとドラマ作りに対して決別のマニフェストを出したのです。4人とも全然お互いを知らないんですよ。和田勉さんは大阪にいるし、吉田直哉さんは東京にいるし、お互いに全然知らないんですけれども、それぞれが同じような宣言を出した。1958年というのは非常に面白い年だと思います。
 僕はその頃、映画は好きでしたが自分で作ろうなんて思っていなかった。1959年にテレビ局に入った時にはそれらの論文は全く知りませんでした。けれど不思議なことに、局に入って2年後の1961年、松本さんが編集委員をやっていた『記録映画』という雑誌を、なぜかずうっと購読していた。どういう雑誌かというと、(実際の雑誌を手に取って)これが1961年の3月号です。こんなに薄っぺらくて雑誌とは言えないようなものなんですが、当時はこれでも大変だったらしいです。この雑誌は1959年から正式に出版され始めるのですが、松本さんはこれの編集委員を務められたのです。本日お越し頂いている佐々木守さんは、大学4年生の時にこの雑誌の編集部でアルバイトをしていて、松本俊夫さんとの関係ができたそうです。たぶん僕がこの雑誌を取るようになったのは、僕と一緒にTBSに入社した村木良彦という男がいるんですが−彼はドラマ志望のくせに当時なぜかドキュメンタリーに興味を持っていたようで、村木はその頃から松本さんを知っているんですね。つまりその村木の勧めでしょうがないから僕はこの雑誌を取るようになったと思うんです。僕は記録映画なんて全然興味なかったんです、その頃はね。でもなぜか延々、毎月ちゃんと取っていたんですよね。
 どういうことが書いてあるか、ちょっと見てみますとですね、松本さんは「モダニズムとクリティック」という題名で書いてます。モダニズムと批評家、という意味ですね。最後のところを読みます。これは当時、たぶんまだ20歳代の松本さんの言葉です、「作家の生命というものは、結局のところ何をいったかにあるのではなくて、何を作ったかというところにあるのですから」。これはですね、松本さんは理論家として知られていますけれども、理論だけじゃあ駄目だよと自分に言い聞かせているんですね。もうひとつ、これは5月号なんですけれども、どうしてこれを持ってきたかというと、編集後記に「今回で佐々木守さんは編集部を辞めます。東京シネマに移ります」という記事がある。さっきご本人に確かめたら、東京シネマで記録映画やPR映画の助監督を経験して、それから作家活動を始めたそうです。今回これを読んでたまたま知ったんですけれども。僕と佐々木守さんが出会うのはもう少しあと、1965年くらいですね。僕がTBSでやっていた『七人の刑事』というドラマの脚本を彼に頼んだ時、一緒に広島にシナリオ・ハンティングに行ったりして。この雑誌が出た頃はまだ佐々木守さんのことは知りませんでした。それから10月号にはですね、大島渚の『飼育』という映画がありますが、松本さんがその脚本を手伝ったということが書かれています。しかも佐々木守さんは大島渚の助監督になっている、という記事もあります。人間っていうものは面白いもので、そういう人間の関係がだんだんでき上がっていく。そういうことがこの小さな雑誌からも窺えるんです。11月号には、『西陣』という短編映画というかPR映画があるんですが、松本さんがそれを発表した直後で、そのことが松本さんの論文に生々しく書かれています。サブタイトルは「自作を語る」となっていて、その最後のところにこういう文章が書いてありますね。「こうしている今、『西陣』が大阪での上映中、およそ3分の2くらいのところまで映している最中に、京都市によって映写を中止された、という知らせが届いた。『西陣』はあまりにも暗く、絶望的だという理由で市と業者から改作もしくはカットせよ、という圧力が加えられて、ちょうど盛んにもめていたところであった。私たちの前途はこのように多難であり、このように闘いの連続でしかない。そしてそれを乗り越えていく者だけが真のドキュメンタリストの名に値するものとなるに違いないのだ」。これで結ばれています。『西陣』は今は名作ということになっているけれど、発表当時は大体上映中に「これ、やめろ」と言われたそうで、前途多難だった。
 1962年には、TBSに入った僕らの同期生が次々とデビューしていきました。最初にデビューしたのは、のちに映画監督となった実相寺昭雄。彼は大島渚さんに脚本を頼んだんですね。2番目にデビューしたのが先程の村木良彦という男です。村木良彦はこの『記録映画』という雑誌の研究会に出入りしていたこともあって、松本俊夫さんにデビュー作の脚本を頼んだんですね。『傷だらけの夜』という題名なんですけれども。松本さんがその打ち合わせのためにラジオ東京−今のTBSにいらして、その時に初めて僕は松本さんにお会いしたんじゃないかなと思います。
 そのあと『映像芸術』という雑誌で松本さんは編集長をやっています。これは1966年の復刊第1号。ここでも一種の宣言をしています。どういう宣言かというと、その一部をちょっと読んでみますね。冒頭です。「映像芸術の会を創立するにあたって、我々はここに映像芸術の批評的変革を目指す作家、技術者を結集し、芸術運動体、映像芸術の会を創立する」。なぜここを引用したかと言いますと、芸術運動というものが松本さんを理解するためのひとつのキーワードなんですね。いろんなところで芸術運動という言葉が出てくる。『記録映画』もそうです。そのあと、『映像の発見:アヴァンギャルドとドキュメンタリー』という最初の単行本が出版されます。この最後の論文が「運動の変革」という、芸術運動をどういう風にやっていくか、その課題は何か、何を目指すべきかという論文なんですね。芸術運動の担い手として、芸術運動をどう組織化するか、どうオーガナイズするかということが、松本さんのこれまでの大きな仕事だったような気がします。
 僕と松本さんが出会うのはそのあとですね。フィルムアート社から出ている『フィルム』という季刊誌があり、僕はその編集委員になったんです。その時、中原佑介という美術評論家が編集委員長で、粟津潔さんがイラストレーター。それから松本俊夫さん、石崎浩一郎さんという評論家がいて、のちに寺山修司さんも編集委員に加わる。この6人で編集会議をやるのですが、その時初めて松本さんとお会いしました。その『フィルム』という季刊誌は少し経って潰れちゃって、『芸術倶楽部』という総合芸術の月刊本になったんですけれど、これも2、3年で潰れちゃいました。そういう本があまり売れなくなったわけです。そういうことで松本さんとはその後しばらくお会いしていませんでした。
 芸術運動をどうオーガナイズするかというのは組織としての仕事のやり方なのですが、松本さん個人がどのように映像を考えていたかというと、これは1950年代の終わりから1960年代にかけての特有の問題なんですけれども、ひとつは商業主義への決別。もうひとつは、政治主義への決別。今のみなさんはそう言われても、まぁ商業主義への決別くらいは分かるかな。政治主義への決別っていうのはあんまり何のことか分からないかもしれません。当時は記録映画にしろ普通の劇映画にしろ、いわば表現の良し悪しの基準がイデオロギーによって決められる時代でした。その中で商業主義あるいは政治主義への決別というのは、映像の自立的表現、作家主体の表現に繋がっていくわけですね。松本さんはこういうスタンスをずっと取り続けてきた。このことは僕らにも少なからぬ影響を与えていました。少なくとも僕自身はそうでした。僕がTBSを辞めたのは、TBS闘争という、ある人間をクビにするかどうかという闘いがきっかけでした。それをきっかけにしてTBSを辞めた僕たち仲間が、テレビマンユニオンという日本で最初のビデオの制作会社を作ることになるんです。その当時、TBS社内にはいろんな議論があったんですね。どういう議論だったかというと、ひとつは大衆受けする番組を作って視聴率を上げろという会社側の圧力。大衆主義というか、一種の商業主義ですね。もうひとつは、その頃は今とは違って割とイデオロギー的労働組合があり、ここはイデオロギー的に正しければ良い番組、そういう番組をやるべきだという、完全な政治主義なんですね。僕たちは会社側と労組側、その両方に対して「表現というのはそういうものではないんじゃないか」と主張して、どっちにも理解されないで辞めちゃった。かっこよく言えばね。それは松本さんが説いてきた表現の自立とか作家主体という考え方と少し通じるものがある。松本さんが書いたものを読んで突っ走ったわけではないんだけれども、自分たちが日頃からずっと考えている中で、松本さんと同じような考え方になったということなんですが。そのあと松本さんとはしばらくお会いすることがありませんでしたが、今日はその後の松本さんのお話なんかも聞けるのではないかな、と楽しみにしております。ということで、松本さんの紹介に代えて私の体験談をお話ししました。

<『石の詩』上映>

対談 松本俊夫氏×佐々木守氏

佐々木 先程今野先生が仰ったように、1950年代の終わりから1960年代の初めにかけて、私は当時松本さんが所属されていた記録映画作家協会の発行する『記録映画』という雑誌の編集部に雇われて、その事務局員という形で編集をしたことから松本さんと知り合いました。私は大学4年生の秋からそこに勤めまして、当時は松本さんもまだ20歳代の若々しい助監督でした。みなさんは若いからご存じないかと思いますけれども、やがて、日米安保条約の改定を巡って何十万という人たちが連日国会議事堂へ押し掛けた、いわゆる60年安保闘争のある時期を迎えるわけです。そういう日本が大きく揺れ動いていた時代に、松本さんは多くの作品をお作りになりました。松本さんをはじめとした記録映画の監督たち、助監督たちが集まっている会で私が仕事をしていた関係で、今日こうして対談させて頂くことになったわけですけれども、実は私と松本さんはその後ずっと会わない時期がありましたので、今日の対談はどうしても1960年代の話が中心になると思います。お聞きしたいのは、その頃の日本で特に記録映画の分野がどういう形で動いていたのかということ。それから、先程今野先生も仰いました通り、当時の雑誌で松本さんは様々な形で映画運動というものについて語っていましたが、現在はもう映画運動などという言葉はほぼ死語に近くなっているんじゃないかなと思います。その運動はただ単に映画だけではなくて、絵画の運動、写真の運動、様々な運動があったわけですけれども、その芸術運動とはどういうものであったのか、その辺りのところも松本さんに色々お聞きしたいと思います。どうも本当にしばらくでございました、松本さん。

松本 どうも。

佐々木 当時、1950年代の末から1960年代の初めにかけてアヴァンギャルド運動というのが非常に盛んになりました。日本では花田清輝さんという評論家が『アヴァンギャルド芸術』という本をお出しになったり、画家の岡本太郎さんが『アヴァンギャルド』という画集をお出しになったりして、日本の戦後の美術界に大きな波紋を呼んでいたわけです。そのアヴァンギャルドという考え方が、その後映画やその他に広がっていくわけですけれども、当時の事情についてちょっとお聞きしたいと思います。当時のアヴァンギャルド運動というのは、現在から見てどう考えていけばいいんでしょうか?

松本 最近パラダイム・チェンジという言葉が流行っていますよね。大きなものの見方、感じ方、価値観の枠組み、そういうものが根っこのところから地殻変動を起こすというか、つまり時代が変わっていくということです。前の時代から残っている窒息しそうな枠組みが、変わろうとする時代を締めつけている。50年代から60年代にかけてはその矛盾が限界まで溜まってきて、新しい時代の新しいエネルギーが爆発しようとしていた。そのことに根差して、それを押さえつけているいろんな枠組みを壊していく運動が、かなりラジカルな形でいろんなジャンルを超えて結び付いていた。1960年代で言えば、日本が戦争が終わったあとに作り上げてきた戦後の体制−その枠組みは、戦争・戦後責任を主体的に自己分析して乗り越えるということなく、横滑りに軍国主義から民主主義へという変わり方をして、欺瞞的な装いの中に安住してしまった。僕らが出てくる前に、そういう体制がものすごく強い形で社会に基本的な枠を作っていたわけですね。いろんな点からそれをぶっ壊していかない限り、新しい時代っていうのは来ないという、かなり切実な思いがあって、無謀にもその前世代が作り上げた巨大な体制に対して立ち向かっていこうとした。その時に、志を同じくする者たちがジャンルを越えて一緒に立ち向かわなきゃいけない、という問題意識があって、運動という形になっていったわけです。もちろんそれだけじゃなくて、時代全体もひとつの地殻変動の変革期でしたから、60年安保、70年安保のような形で出てくる政治的な運動もあったけど、それ以上に、もっと大きく、近代が作り上げてきた時代の物の考え方や価値観を根っこから検証し直していくということが、最大のテーマとして自覚され始めたんだと思う。

佐々木 運動ということで考えてみますとね、1960年代には映画の世界ではフランス・ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた一群の作家たちがいたわけですね。それと同時に、イタリア映画でも新しい形で映画が作られ始めてきている。そして新しい映画監督たちも登場してきた。一方、それらを反映してというか、ほぼ時期同じくして、日本では特に松竹あたりで、大島渚吉田喜重といった人たちが中心になって新しい映画を作り始める。これはマスコミがフランスのヌーヴェル・ヴァーグから名前をとって、松竹ヌーヴェル・ヴァーグという風な言い方をしたわけですけれども。その流れは松竹の大島さんや吉田さん、あるいは篠田正浩さんといった方たちだけではなくて、東宝で恩地日出夫さんが、日活で今村昌平さん、浦山桐郎さんが出る、という風な形で非常に幅広く広がっていきました。劇映画においては、そうした日本も含めてのいわゆるヌーヴェル・ヴァーグ運動というものがあり、一方で記録映画では、特にヌーヴェル・ヴァーグとは言いませんでしたけれども、松本さんを中心にした若手の、新しい記録映画監督たちがたくさん現れてきたと思うんです。当時の映画界におけるヌーヴェル・ヴァーグ運動について、現代から見た意味と言いますか、そういうことについてはどうでしょう?

松本 そうですね。日本で1958年に、さっき今野さんがちょっとお話して下さったけれども、私なんかも「前衛記録映画論」という宣言風の文章を書いていました。20歳代半ばは過ぎていたと思いますけれども。その頃、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグっていうのはまだヨーロッパでも始まっていないんですよね。1960年代になってゴダールの『勝手にしやがれ』なんかが入って来てですね、それに対する評価が色々分かれて。なんだあの素人くさいのは、みたいな人が多かったと思いますが、いずれにしてもその中に何か新しいものを感じて、共振すると言うか、国際的な同時代性、連帯性というものを感じました。既に日本での映画に対する変革のヴィジョンというものがそれなりに始まっていて、それが共鳴し合ったという感じでした。ヌーヴェル・ヴァーグという言葉は確かに日本にはなかったんですけれども、同時代的なうねりを感じたといいますか、そんなところですね。日本の場合に特徴的だったのは、映画だけじゃなくて、美術とか音楽とか演劇など、いろんなジャンルが相互に影響していた。大きな制度に対する反抗といったような点で共通した芸術の動きが、横に繋がっていくというのかな。ですから同じジャンルの縦の関係よりも、芸術思想的に、いわば共鳴し合う横の関係が非常に強くできていったというところもあるわけです。そのことが作品作りにもいろんな形で反映していくんですね。
 映画の場合には、さっき話に出なかったけれども、『記録映画』の雑誌よりもちょっと早めに『映画批評』という雑誌が出ているんです。その編集長をやっていた粕三平君は交通事故で数年前に亡くなっちゃったけれども、知っている人もいると思いますが、シュヴァンクマイエルなんかを日本に紹介する上で、彼がいなかったらこういう形にならなかっただろう、という人です。その粕君が『映画批評』という雑誌を始めて、僕なんかも面白いと思って接触していったわけですが、当時面識がなかった大島渚、吉田喜重、羽仁進佐藤忠男、佐藤重臣、そういう人たちもそこで一緒になって同人を作るわけです。ですから『映画批評』という名のひとつの場において、映像の中のジャンルを越えた接触が始まったと言える。まぁ、まだみな名前もない人たちですよ。この頃は助監督やなんかをやっていてね。その名前のない連中が、お互いに「こいつとは何か一緒にやれそうだ」、そういう何かしらを感じて集まった。雑誌という形を取りながら、それぞれ作家になろうとしていたり評論家になろうとしていたり、いろんな人がいたわけですが、あとになって考えると、その後の日本のヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画の運動、あるいはテレビも含めて、そのうねりのいわば推進力になった人たちは、そこでの接触から始まっていたな、と思いますね。

佐々木 確かに、おっしゃる通りですね。僕は『記録映画』という雑誌の編集をやっていましたが、毎年1回、記録映画作家協会の監督さん、助監督さんの中から大体6、7人が編集委員に選ばれて、その人たちで編集委員会というのが行われるんです。松本さんはその中心的な人物でした。編集委員たちは、来月号はどういう特集にしようか、このことについては誰に書いてもらおうか、という討論をするわけですけれども、記録映画の監督、助監督が集まっているにも関わらず、劇映画の人たち、美術の人たち、音楽の人たち、様々な人たちに対して、あの人に頼もう、この人に頼もうという意見が出るわけですね。それが決定しますと僕は一流の文学評論家、美術評論家、実際に絵を描いていらっしゃる方、あるいは彫刻の方、音楽家の方、そういう方のところへ平気で訪れて、「こういう雑誌の者です。是非原稿を書いて下さい」とお願いして歩いたわけですね。僕はさっきも言いましたように、大学4年生から関わっていましたので、大学を卒業したばかりのまだ22歳か23歳のぺいぺいだったんですけれども、時代がそういう時代だったんですね。しかもその『記録映画』は実は雑誌ではなくて、記録映画の監督、助監督たちが自分たちの会費で作っている協会の機関誌なんです。だからほとんど原稿料なんか出ないわけですよ。もう、「タダで書いて下さい」と言ってお願いして歩くという。そういう意味では非常に無茶苦茶な時代であったけれども、非常に楽しい時代でもありました。縦の繋がりだけではなく、そういう風に横にずうっと広がっていく繋がりがあったんですね。
 実はその後、僕は『記録映画』の編集部は2年半で辞めまして、松本さんに「助監督で使って下さい」と頼みに行って、松本さんの『私はナイロン』という作品の助監督にしてもらったんです。実にダメな助監督だったようで、怒鳴られてばっかりいましたけれども。普通、映画の美術といえば映画の美術担当がやるんですけれども、『私はナイロン』では美術家の山口勝弘さんが美術を担当されて、音楽はその後大変有名になられた湯浅譲二さんが担当されました。この作品について僕はなかなか思い入れもあるし、楽しい作品だったとも思うんですけれども、松本さんどうですか。

松本 『私はナイロン』は、僕の作品歴の中には書いてなかったんですよね。時期によって少しずつ違うんですが、原則的に僕はいわゆるPR的なものとかCMは作品歴から外しちゃっている。そんなのは作品じゃない、と自分に言い聞かせて。しかし『私はナイロン』はそういうものの中では異色の作品で、シュルレアリスムっぽい映画です。今でも残っているのかどうか分かりませんが。

佐々木 監督はそうでもないのに僕だけなぜ覚えているかというと、僕は本当によく怒鳴られたんです。当時は今とは違ってまだまだ映画監督が威張っている時代で、助監督なんて怒鳴られっぱなしで。ひどい時には蹴飛ばされたりした助監督もいたということです。松本さんに怒鳴られて僕が一番記憶にあるのは、あとで松本さんが僕に謝ったことなんです。松本さんは覚えていないと思うんですけれどね。この作品は、先程松本さんが作品歴から消していると仰っているだけあって、東洋レーヨンのPR映画で、東レが一年間で販売する全ての商品を紹介する番組なんですね。ですから東レのあらゆる製品が山のように現場に届くわけです。ある日、東レの女性用の夏のスーツを紹介するというシーンを撮影することになったんです。6階建てくらいのビルの上からカメラが俯瞰して、その下を東レのスーツを着たモデルが10人ばかり歩くという、どうってことはないシーンなんです。撮影前に監督が「佐々木君、赤い服を着た人はここ、緑の服を着た人はここ、青い服を着た人はここ。よーいハイの合図があったら一斉に動かして」と全部指示して、助監督の僕はその一覧表をもらってモデルたちを全部配置することになっていた。監督とカメラマンがビルの上へ行って、モデルを配置した僕がいざ「はいどうぞ、撮影始めて下さーい」と言っても、なんか上で監督が怒鳴っているわけですよ。僕は下で「何やってるんですか、早くどうぞー」って。こっちは道路で人や車を止めたりしているから大変なんです。それなのに怒鳴ってばかりで始めてくれない。そのうち監督が突然ビルの上から駆け降りてきましてね。「違うじゃないか、お前! 俺が指示した服の色が全然違う!」って怒鳴った。怒鳴ったあとで突然「あぁ、そうか。君は色覚異常だったなぁ。申し訳ない」と言って。僕は色覚異常なもんですからね、僕はそれで正しいと思っていたんだけれども、監督が緑や赤に指示していたのを全部逆に置いていたんですね。これは監督に怒鳴られはしたけれど、なぜか僕が謝ることはなかったという不思議な思い出です。でも僕が助監督をしたのは、記録映画では松本さんともう一人、大沼鉄郎さんという方、あと大島渚監督に3本ばかりあるくらいで、非常に少ないんです。
 『私はナイロン』とは関係ないのですが、当時の芸術は芸術運動という形で展開していたような気がするんですね。中にはもちろん、芸術作品というのは個人のものである、個人がいい絵を描けばいいじゃないか、個人がいい彫刻を作ればいいじゃないか、個人がいい映画を撮ればいいじゃないか、運動などは関係ない、という人もいたわけです。しかし一方では、そうではないんだ、これから本当に新しい芸術を作っていくためには運動がなければだめだ、という。松本さんが仰ったように、当時は昭和30年代前半ですから、戦後まだ14、5年しか経っていない。そういう中で初めて新しいものが少しずつ現れ始めてきていた。ですから、これから我々の作る新しい芸術というものは伸びていかなくてはいけない、という時代だったと思うんです。その中で特に映画という形で考えていきますと、例えば『西陣』という作品は、当時京都にあった「記録映画を見る会」が自分たちでお金を集めて作った作品でした。当時は映画の作られ方にも新しい方向の模索が始まっていたと思います。映画の内容的な意味でも、やっぱりあの頃からすごく新しい形が出てきたと思うんです。その辺りについて松本さん、何か聞かせて頂ければと思います。

松本 一作一作何かを試みようとして、必ず映画会社とトラブルになるという時代でしたね。僕は1950年代の終わり頃になると、「松本に映画を作らせたら会社が潰されちゃう」と言わんばかりに毛嫌いされて、どこに行っても、「もう松本は…」ということで、いわば門前払いと言いますか、疎外されるようになってね。結局『西陣』では、そういうものとは全然関係ないところで映画を作るという形が生まれて。しかもその当時は、政治運動をバックにしないで、純粋に芸術表現としていい映画を作ろうという動きはほとんど稀だったんですね。しかし『西陣』も、さっきちょっと今野さんも仰っていたけれど、最初の上映の時に中止にされたりという風にトラブルが多かったんですね。今ご覧になった『石の詩』は、今野さんも所属していたTBSでテレビ番組として作ったんですが、今ではなかなかこんなものはやらせてもらえない。というかできないと思うんですけれども。その当時、やっぱりたまたま運悪く、これを観ていた局長が怒ってですね、担当の制作の副部長が飛ばされてしまった。それから「松本はもうTBSは出入り禁止」ということでテレビ局に出入りできなくなっちゃう。当時は他のテレビ局も含めていろんなブラックリストができていたと聞いています。安部公房とか井上光晴とか、寺山修司もそうでしたけれども、それまでやっていたことができなくなっていったんですね。僕はまさにこの『石の詩』のあと、映画はもちろん、テレビも含めて、映像一切から追い出されちゃうんですよ。それで3年半ちょっと、全く映像の仕事ができないという状態になりました。あとから言うと、「3年半ね」と言うだけでその1つのエピソードは終わっちゃうんだけれども、その只中にいると、「一体いつまで作れないんだろう」「もしかすると僕はもう映画を作れないのかもしれない」というくらい厳しい状態で。結果的に言うと、その間は演劇などをやっていました。劇団青俳というところでピランデルロの芝居をやったり。そこでは今は有名になった蜷川幸雄が役者をやっていました。でも役者は下手だったから、「演出部に変わった方がいいよ」と言っていたので、やっぱり演出家になって良かったな、と思っています。いずれにしても、そういう風に映画以外のことで3年半やっていかなきゃならなかったし、大久保通りの職安に並んで晴海埠頭のバナナの荷積みの肉体労働なんかもやってた。うん、そんな時代でした。

佐々木 いや、僕はその辺までの松本さんしか知らなくてね。今回こういう催しがあるということで事前に色々見せてもらったんだけど、それ以後の松本さんの作品が結構多いので、馬鹿な話ですけれども、「あの時確か干されたはずなのに、どうしてこんなにたくさん作品を作れたんだろう?」という風に一瞬思ったりもしました。そのあと、映画制作に復帰なさって映画を作り続けられた中で、制作の条件というか、制作の在り方みたいなものについてはどうですか?

松本 今、佐々木君と話していて思い出したことがあるんだよね。昔、佐々木くんが僕に「なぜそんなにいつもやりにくいやり方でばかりやろうとするんだ」と、そんなことを言ったの覚えていますか?

佐々木 言われて思い出した。「なんで難しいことばかり、難しい場所ばかり選ぶんですか?」と言ったことがありましたね。

松本 もしかしてそういうことかなぁ、と自分で思うんですけれども、ある意味でマゾヒストなんですよね。つまり、自分で自分をすごくやりにくい場に追いこんでいるというところがあるんですね。一番やりにくい場からやって何かができれば、みんなできるはずだ、という風な変な考えがあるわけ。作品にもそういうところがあるんですよね。今の『石の詩』なんかがやっぱりそうなんです。映画というのは動きがあって、映画的な対象というものがあるでしょう? だけど『石の詩』はわざと映画的でないものを選んでいるんですよね。これはかなりわざとなんです。対象が石でしょ、石では映画に成りようがない。さらに、観ていてお分かりになったと思いますが、写真を素材にして撮っているわけですね。写真も動かない、石も動かない。一番映画から遠いんですよね。「なんでこんなところから映画をやるんだ?」というところをわざと選んでいる。つまり、映画にならない、映画は死んでいる。でも、もしも映画にとって死でしかないような世界から、その中から映画が生まれてきたら? 映画が鼓動を打ち出したら? ちょうど映画の中に、「石工が石を切り出して磨いて、だんだん石が生きてきました」という話がありましたよね。それが僕の中で重なっていて。それと同じように、「あ、映画が生まれてきましたね」というような形で映画を生むことができたら、その時はきっと本質的なものと出会えるんじゃないか、という風な考え方があったんですよ、当時の僕の中にね。一番遠いところから始めて、何かそこを乗り越えて生まれてくる。そこに生まれてくるものが映画なんだという、“映画の本当の誕生”を自分の中で確かめたい、そういうところが1960年代の初めに、僕の出発点としてあったのだと思います。それは「なんで非常にやりにくい場からやろうとするんだ?」という問題と共通しているなと思いますね。

佐々木 最後に、運動としての芸術について今まで随分とお聞きしたんですけれども、現在、運動と芸術というものがほとんど結び付かないような時代になってきていると思うんです。芸術というものの在り方、運動というものの在り方を考えた時に、今後もしも運動としての芸術があり得るとしたら、どういう形であるだろうと思われますか?

松本 難しいね、どうかなぁ。今言ってきたような意味での運動の概念は、やっぱりもう成立しない。だけれども、全く一人一人が個々でやっていればいいのか、そういう個に還元できちゃうものなのかというと、やっぱり同時代的に生きてるんですよね。一人一人がバラバラで他の奴とは何の関係もない、というものではなくて、やっぱり共鳴したり反発したり、関係を作り上げていかざるを得ないわけじゃない。日本だけじゃなくて国際的な視野で見れば尚更でしょう。やっぱりね、何かを目指すヴィジョンというものが相互的に刺激し合って、個人を越えた創造の場を形成していくのだと思います。少なくとも、昔のような狭い意味での組織的な行動を伴う運動というものじゃなくて、もっと大きな文化芸術精神の共有というものを図っていかないといけない。やっぱり芸術って、自分が楽しくて作るだけではない。それを見る人も含めて、ある種の心の昂ぶりの触れ合いの中に生まれてくるものを抜きにしては、やっぱりアートではないわけですよ。そういう点では大きな意味での運動というのは、やっぱりなくならないと思いますよ。ただね、もう完全に、大きな物語としての運動という時代ではないと思うんです。

佐々木 どうもありがとうございました。それでは、これから作品を是非楽しんで観させて頂きたいと思います。

<『つぶれかかった右眼のために』『色即是空』上映>

質疑応答(聞き手:黒坂圭太教授、イメージライブラリー・スタッフ)

スタッフ 『つぶれかかった右眼のために』は日本初のマルチ・プロジェクション作品ということを伺ったんですけれども、上映した当時のお客さんの反応ですとか、どういった経緯でこのような作品になったのか、お聞かせ頂けますか?

松本 『つぶれかかった右眼のために』は1968年の作品なんですけれども、1960年代の終わりに、日本だけじゃなくて世界的にものすごく思考、感性、価値観のパラダイム・チェンジが進むわけですね。過激な学園紛争から風俗の次元まで、既成のものが全て壊されて、新しい時代が生まれようとする激動期の頂点にあったんです。そこで僕は1968年をドキュメントしておきたいと思ったんですけれども、今までの映画の形式で、線的にと言いますか、整合してリニアに展開するのではなく、混沌としたある時代の感覚的な体験そのものが記録されるような表現がないものだろうかと思ったんですね。そこで、今は割と見慣れている人がいるかもしれませんが、マルチ・プロジェクションという複数の映像を同時にからませながら上映する方法でそれを表現しようと思いついたわけです。それまで日本にはそういう前例が全くありませんでした。初めての試みでどうなるか分からないけれど、ともかくやってみよう、と挑戦したんです。赤坂にある草月会館は、建て替え前はガウディみたいな建物だったんですが、そこで割とアヴァンギャルドな催しを行っていまして、『つぶれかかった右眼のために』はそこで最初に発表しました。今日上映したのはビデオなのでちょっと暗いんですけれども、当時は16mmフィルムだったのでもっと明るくてね。シネスコの大きなスクリーンに3台のプロジェクターで投影していました。最後はストップモーションになって一斉にパッと止まるんですね。今日の上映ではそのままでおしまいになっていましたが、実際には3台のプロジェクターをシンクロナスモーターでコントロールして一緒にパッと止まる。その瞬間に僕がスイッチを押すと、舞台の袖にですね、5つだったかな、写真の大きなフラッシュが連動するように繋いでありまして、それがドーンという音とともにすごい閃光を放って、しかも煙がバァッと上げるわけですね。会場は超満員だったんですけれど、そんなことは知らされていませんから、テロリストが爆弾を仕掛けたような感じになって。最前列には、もう亡くなった植草甚一さんや評論家の人たちがいたのですが、すぐ目の前の舞台袖でドーンと爆発していますから、その瞬間にびっくりして椅子から転げ落ちたんですね。それを見ていた僕は、「ヤッター!」ってな感じで。ともかくそういうことばっかり、絶えずスキャンダルを起こすという形でやりましたけれど、これが日本で最初のマルチ・プロジェクションということになりました。それから2年後の大阪万博まで、そういうことをやる人が割と続くんですが、お金もかかるし、装置が大変だからあんまりやらなくなっていった。『つぶれかかった右眼のために』にしても、当時の話をする時にいちいちプロジェクターを3台並べるわけにはいかないので、今日はビデオで合成したのをお見せしたという次第です。

スタッフ 『色即是空』のテーマにとても興味があるのですが、その辺りのお話を聞かせて頂けないでしょうか。

松本 『色即是空』は1975年の作品です。『つぶれかかった右眼のために』を制作した1968年はまだ革命の雰囲気の中にあったんですが、そのあと日本では70年安保があった。世界中が革命に燃えたけど、最後は挫折して潰れていくっていうのかな。全く前に戻ったわけじゃないにしても、いろんな夢が崩れていく、というところに入っていったのが1970年から71年にかけてなんですよね。1967年にはゴダールも『中国女』なんかを撮って気勢を上げていたんだけれども、さっき僕が自分について言ったように、だんだん孤立しちゃうわけですね。ある種の抑圧を個人で耐えなきゃいけないという非常につらい時代に入っていった。ともかく時代のうねりが過ぎたあとで、いろんな思いが、反省も含めて僕の中にありました。問題なのは安保だの何だのというんじゃなくて、もっと大きく、近代という時代が生み出した体系的な秩序と物差をもう一度根底から洗い直す必要があると。かといって、流行りであったヤクザ映画のような形で前近代的なものに戻るのも違う。そうじゃなくて、その次元を本当に越えていくために、温故知新ではないけれども、東洋の思想と表現を自分の中でもう一回辿り直して、そういう伝統的なものとアヴァンギャルドの問題をぶつけ合わせていくという作業を始めたわけですね。これがひとつの流れとして1970年代の僕の作品にはあり、『色即是空』はその中で作られた1本なんです。その次の作品として『アートマン』が作られるわけです。同時期に作られているという意味でも根っこは同じなんですが。
 『色即是空』は御覧のように、般若心経の262文字、短いお経の文字を使ってそれを5回反復させながら、その5回の反復の中で人間の五感から五感の対象になる世界、そしてもっと本質に迫った宇宙的な覚醒を通して、最後に光だけの世界に到達するといった構造的な表現が取られています。残念ながら今日はビデオで観たので薄暗く映っていましたが、最後に色の光だけになるところなんかはフィルムで見ると眩しいくらいなんですよ。感覚的な経験として、ある種の眩しさが最後にやってくる、という風になるんですね。いずれにしても、『つぶれかかった右眼のために』も『色即是空』も説明をできるだけしない。そこで感じるものから、観客がそれで終わらせずに何かを考える、そういう痕跡を残したい。ある種のインパクト、そういう強度、インテンシティをどこまで生むことができるかということが、当時の僕の芸術上の課題でした。それは時間の推移とともに少しずつ変わってくるので、やっぱり1968年の『つぶれかかった右眼のために』と1975年の『色即是空』ではかなり違ってきています。でもどこかでそういう繋がりや共通性を追うような時期が1970年代の半ばにやっぱりあったということですね。

スタッフ 先程の『石の詩』もそうなんですけれども、既成概念を覆すような実験的な作品ばかり手掛けていらっしゃいますが、同時にテレビやCMのお仕事もされていたということでした。商業ベースのお仕事ですと、なかなか実験的なことができなかったり、スポンサーとの兼ね合いで制約が多かったのでは、と思います。コマーシャルのお仕事は純粋な自己表現とは対極にあるような気がするのですが、それについてはいかがでしょうか。

松本 僕はアート・シアター・ギルド(ATG)で1969年に長編劇映画『薔薇の葬列』という作品を、その2年後に鶴屋南北の歌舞伎『盟三五大切』を原作にした映画『修羅』という時代劇を作るんですね。アート・シアター・ギルドは今はもうないのでお分かりにならないかもしれませんが、監督が製作費の半分を負担するシステムだったんです。ある金額以上に製作費をかけたい時は、それは監督負担になってしまう。そこでどんなに監督がお金を出していても、収益については配給会社と監督に半分ずつ還元、というようなシステムなんですよね。すごい小予算でやらなきゃならない枠だったし、自分で撮っているから、自分で自分に制約を課すことが上手くできなくて、やっぱりオーバーしちゃうわけです。そこでお金をなんとか工面するんですが、作ったあと、思ったようにお金が還元されてこない。還元される前に色々収奪されちゃうわけですね。借金を返さなくちゃいけないけれど、やっぱり個人ではなかなか返せない。しかしそれを返さないと次の作品が作れない、というところまで追い込まれた時に、借金返済のためにはテレビ・コマーシャルをやるのが一番手っ取り早い、と思ったわけですよ。しかし、ただそれだけのためにコマーシャルをやるのはしんどいので、何かワンポイント、ちょっとでも楽しめることをやりながらやってみようと思った。当時利子も含めて約2千万円という借金がありましたから、1970年代から1980年代の頭まで10年くらいCMをやった。自分ではCMはあんまり気が進まなかったので、借金を返したらやめちゃったわけですけれども。その間に作ったCMは、なんと60本くらいあるんですね。

黒坂 CMについて、何か記憶に残っていらっしゃるエピソードがありましたら、少しお話頂けますでしょうか。

松本 CMについては語るほどのことはないんですが…。なるべく技術的に今までやったことのないような試みや、勉強になることを含ませるようにした。技術的という言葉がふっと出てきたのはですね、お金をかけなきゃできないことってやっぱりあるんですよね。僕なんかは普段、先程言ったように個人でお金を集めて作るような範囲でやっているから、やっぱりその範囲でしか作れない。結局できることが限定されちゃうわけですね。ところが、映像の表現というものが果たしてどこまでできるのかということを、技術的に同時代的な先端を常に経験していたいという思いもある。そういう意味ではCMは割とそれができたんですね。贅沢といえば贅沢なこともできた。例えばマツダの車のCMでは、モニュメント・バレーというアメリカの砂漠−ジョン・フォードの『駅馬車』という映画を好きな人は知っていると思いますが、そこで撮っているわけです。『駅馬車』の場合はジョン・ウェインが主役をやっているんですけれど、CMに出てくるのはジョン・ウェインの息子なんです。別に息子であろうとなんであろうとどうでもいいんだけれども、やっぱり自己満足として、親父が駅馬車を走らせた場所を息子が車で走る、ということをやってみたかった。それから、ジョン・フォードは車による移動撮影をかなりやっているんですけれど、僕はウエスカムという振動を吸収する装置を付けた特別なカメラをヘリコプターの下にくっつけて、遠隔操作で撮影をしている。これなんかは当時日本ではまだあんまり使っていなかったので、とりあえず使ってみたかった。そしてまたヘリコプター自体を砂漠まで運ぶのにも、大きい特別なトレーラーを使うのですごいお金かかるわけです。スタッフについては、アメリカの組合の決まりでアメリカのスタッフを使わなきゃいけないし、ロサンゼルスから現地までみんなを運ぶのに特別なチャーター機を2台用意して、ある意味じゃ、めちゃくちゃ贅沢をしていた。普段贅沢な撮影とは無縁な僕が、CMでは最高に贅沢なんです。そういうことが息抜きの快感に繋がったわけですね。この撮影の時は、ついでだからあと2タイプ撮っていこう、ということになったんです。そのうちの1本は、ハリウッドで一番大きいクレーンを借りてきて撮影しました。そしてロサンゼルスの警察官にバイトでお金を出してね、撮影現場の路地を全部交通ストップしちゃったわけね。そういう何だかけしからんことをやって撮影したということも含めて、割とCMでは普通ではできないことをやっていました。

黒坂 そのハリウッドの撮影には、予算的にはどれくらいかかったんですか?

松本 3タイプのCMを作るのに、僕のアート・シアター・ギルドの長編劇映画2本分以上かかっています。

黒坂 思わず絶句という感じですね。そろそろ時間ですので、最後にこれからの創作活動のご予定や夢について伺いたいと思います。今日は1960年代から1970年代の作品をたくさん観させて頂きました。それに関しては佐々木先生からも大変興味深いお話を伺ったんですけれども、当時と現在とでは、私たちを取り巻いている社会状況がほぼ180度変化していると思うんですよね。例えば先程のお話の中で運動や政治という言葉がありましたが、そういう意味では当時は何を相手に闘うかということが分かりやすかった。こんなこと我々なんかが言ったら大変失礼な話なんですけれども、そんな気もするわけです。表現の自由という点に関しては、松本先生の努力と運動の成果があって、現在はかなり開かれてきているという感じはします。そういうこととは逆に、今の日本という国を見た限りでは、運動や政治という言葉こそ無縁になったものの、例えばもっと身近なところで、終身雇用の神話が崩壊してリストラが相次いだり、少年犯罪が過激化したり、さらに昔はSF小説とか漫画の世界でしかなかったような環境汚染によって人類存亡が危うくなってきているみたいなこととか、そういう問題があります。当然それに伴って、芸術というものの概念、あるいは芸術家というものの存在理由−極端な言い方をすると社会がそういうものを必要としているのかということも含めて−は大きく変わってきたと思います。つい最近の新聞でもかなり大きな美術館が相次いで潰れていると報道されていました。アートをやる人間にとっては、1960年代、1970年代とはまた別の意味で、非常に難しい時代に来ていると思います。そういう中でもうじき21世紀を迎えるわけなんですが、先生ご自身はどういう切り口で今後の創作活動を21世紀に展開していこうとお考えですか。率直なところを伺えればと思います。

松本 すごく難しい問題ですよね。短時間ではとても話せそうにない。今日観たような実験的な作品は別として、さっき言ったような長編の劇映画もそう簡単に撮れない。撮りたいのはいくつもあるんだけれども、『ドグラ・マグラ』という作品を撮って以来、長編は撮れていないですね。「長編はもうやらないんですか」「次は何をやるんですか」とかよく聞かれるんですが、聞かれる度に辛いんですよ。なにも作りたくなくて作らないんじゃない。作りたいのはやまやまで、いつでも企画を2つ3つは持っているんだけれども、なかなか作れない。話があっても「そんなのは無理ですよ」っていう風に言われちゃう。できるだけ妥協して、娯楽性を含めて取っ付き易くしていこうとするんだけれど、あるところまでいくと、ここまでして自分でやって良かったという作品になるだろうか? と思ってしまう。それだったら作るよりも作らない方がまし、というとろまで来てしまう。作ることがかえってマイナスというところにまで来て、放棄、断念しなきゃならない。そして『ドグラ・マグラ』以降、あっという間に10年以上経ってしまった。そう簡単に解決できない問題なんですね。このような話はまさしく現在の状況とも絡んでいるわけですよ。そんなものを作ってもマイナスになるばかりだ、と思ってしまうような映画しか要求されず、撮りたいものを撮れない。そして21世紀、人間の文化というものは一体どこへ向かうんだ、という問題に繋がっていくわけですね。
 しかしそれもね、考えてみると、20世紀に僕らがなんだかんだやってきたことの結果とも関係するだけに、やっぱり苦しいわけですね。そういうところまでしかできなかったというか、本質的な打開はできなかった。しかしよく考えると、歴史というものはいつもそうで、確実に変化した面を含みながらも、ある意味では同じことを繰り返している。いつの時代にも矛盾がすべて解決されることはない。そういう意味ではあんまり大きいことを考え過ぎないで、コツコツとできることだけをやっていく。現実的な問題としてはそう考えるよりはしょうがない、と思います。そういう無念さも含めて、21世紀に向かって自分がどういうところに立ち、どういうことをしようとしているのか−2000年の今年は特にそういう意味で境目ですから、自分としては突き詰めていかなきゃいけないな、と思っています。変な話だけれど、僕はもともと20世紀のこんな終わりまで生きるとは思っていなかったんですよ。夢としては、ちょっとでもいいから21世紀を見られればいいなぁと思っていたのですが、なんかすごく現実的にそういうところまで来ちゃったわけですね。さっきの黒坂さんの話ではないけれども、現在のアクチュアルな、あるリアリティを持った現実というものが、何かしら昔のそれと違ってきている。現実においての現実感がだいぶ希薄化してきている一方で、ある種の虚構の世界がそれなりに切実なリアリティを持ってきている。虚構と現実の関係が、やっぱりいろんな意味で少し変わってきたなという感じがしますね。
 過去40年くらい作品を作ってきましたが、その中のひとつの柱として、虚構と現実の問題というのがあるんですね。右から左からいろんな形で虚構と現実を表現しようと取り組んできたんだけれども、30年前、20年前、10年前、そして現在のそれではやっぱり変わってきていると感じます。それをテーマにしてもう1本長編を撮りたいなと思っているんです。シナリオもある程度できているんだけれども、意味が分からない、と言われるわけです。まぁ、そういう意味では『ドグラ・マグラ』も反応が分かれちゃっていて。初めから「あれを作った監督さんじゃ無理だ」「難解過ぎる」という風に反応するプロデューサーが結構いますので、今考えているものを作品にすることができるかは危ぶまれているところです。若い世代を前にして、もうちょっと明るいことを喋れればいいんだけれど。僕の中ではね、どうもそんな明るくないんですよ。困ってるんですけれども。しかし少なくとも、やらなきゃならない最低のことだけはやっておこうと思っています。こんなところで勘弁して下さい。

黒坂 いや、すごくいいお話を聞けました。切実な…。

松本 切実になり過ぎちゃうようなこと聞くからね(笑)。でも、やっぱり若い人とは違うと思うんですよ。どういうところに立っているかで違う。そういう意味じゃ、僕なんかこのままでポックリ逝っちゃったんじゃ、やっぱり無念が残るわけですよ。あるところまでは持っていかなきゃと焦るんですね。やっぱり21世紀に向かって、何かをもうひとつ挑戦したいという気持ちはあります。まぁ、しつこくやります。

黒坂 期待しています。今日は本当にありがとうございました。

(2000年6月22日、6月26日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)