武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第20回イメージライブラリー課外講座
「飯村隆彦 フィルム/ビデオ/パフォーマンス」の記録

この講座について

日本の実験映画、ビデオアートのパイオニアの一人である飯村隆彦氏は、映像作品、インスタレーション、パフォーマンスなどを多数発表し、海外でも高い評価を得ているアーティストです。1950年代より映像制作を開始し、オノ・ヨーコ赤瀬川原平小杉武久などの前衛芸術家たちと交流しながら数多くの実験映画を発表、1964年には大林宣彦ドナルド・リチーらと「フィルム・アンデパンダン」を結成して日本で初めての実験映画祭を開催しました。1966年の渡米以降、ニューヨークと東京を拠点にニューヨーク近代美術館やポンピドゥーセンター、世界各国の映画祭などで上映、パフォーマンス、講演を行なっています。また、近年はDVDやウェブによるマルチメディア作品も手掛けるなど精力的に活動されています。
2004年にイメージライブラリーでは、飯村氏の初期から1990年代までの作品を収蔵しました。氏の40年に渡る創作活動を俯瞰する本コレクションは世界的にも珍しく、研究資料としても非常に貴重なものとなっています。本講座はこれらの中から8作品を上映しながら、飯村氏による作品解説とビデオ・パフォーマンスを行なって頂きました。

飯村隆彦氏紹介

シャルル 大勢来て頂きありがとうございます。飯村さんのことはこのパンフレット(『イメージライブラリー・ニュース』2004年6月第15号)にすでに書かれてあります。1ページ目に飯村さんによる「実験映画とインターネット」、2ページ目からは私が書きました「飯村隆彦氏の多角な活動について」です。飯村さんは色々な分野で活動していらっしゃるので、そのことについて、非常に簡単で単純な見方かもしれないですが、少し書いてみました。
 私は1987年に来日しました。目的のひとつは博士論文をまとめることでした。来日した80年代はビデオアートが盛んでした。以前から興味のありました日本のビデオアートを、博士論文の主題として研究したいという目的がありました。その後1996年、筑波大学に博士論文を提出しました。この論文は日本の実験映像の歴史と、それから8人の作家を見ていくというものでした。寺山修司、飯村隆彦、松本俊夫中谷芙二子山口勝弘山本圭吾中島興河口洋一郎を取り上げました。順番が重要なわけではないんですが、なんとなくアナログからデジタルへということで、飯村さんは2番目、寺山修司の後、松本俊夫の前、という位置付けをしています。飯村さんは50年代の終わりからフィルムという媒体を使って、その後は60年代の終わりからビデオ、70年代はアナログとデジタルの両方のメディアを使っています。先程申し上げた作家は河口洋一郎以外、博士論文で取り上げた作家の方々は大体両方やっていますね。彼らの仕事に於いても、フィルムとビデオそれぞれの特徴が互いに強調されたり影響し合ったりしていました。意味で非常に大事な転換の時期を論文に書こうと思ったわけです。
 先ほど言いましたように、飯村さんはフィルム、ビデオのみならず、他に例えばパフォーマンスも沢山なさっています。それから本も沢山書かれています。『芸術と非芸術のあいだ』というのが73年に出版されて、『映像実験のために』が1986年、それからその前に『パリ—東京・映画日記』というのがありました。あと『‘80年代芸術・フィールド・ノート—ニューヨークの映像、美術、パフォーマンス』というのもありまして、それから数多くのカタログがあります。これはまだ販売されていないと思うのですが、『Review of Takahiko Iimura』*1という、これは外国人が書いている英語の論文集です。
 飯村さんに初めてお会いしたのは1988年でした。私が来日したばかりの年でした。それ以来ずっと色々な情報、例えばニュースレターとかメールマガジンをくださったりと何かと気遣って下さいました。また、風倉匠さんといってネオダダのメンバーの一人にもお会いしました。私も即興音楽などをやっているので、その後、彼とは何度かコラボレーションもしていますが、その風倉さんやサウンドアーティストの古館徹夫さんといった共通の友達がいたりと、飯村さんとは常に接点がありました。映像作家として、パフォーマーとして、本当に幅広く活躍されていて、東京都写真美術館でも非常に緊張感のあるパフォーマンスを披露されています。
 『イメージライブラリー・ニュース』には、飯村隆彦の四つの主な「テーマ」について書いていますが、私が重要と思っているのは、「不・服従」という点です。ちょっと大胆な言葉かもしれませんけれど、つまり一つの特徴として、サービスというかエンターテインメントの要素が無いわけです。それに、センチメンタリズムとか、美学的な、例えばテクスチャーの美しさの探求というか、そういうところも感じられない。これはマルセル・デュシャンのレディメイドを思い起こさせます。レディメイドは美しさではなく、むしろニュートラルな性質を持っているという、一種のミニマリズムではあるんですが、それはストイシズム、禁欲とか、そういったニュートラリティを求めている、というようなところを目指しているような気がします。
 現代でいえば、例えばカーステン・ニコライというドイツの作家がいます。彼のサウンドアートでいうと、サインウェーブの素材が多いのですが、それらを“聞かせる”というよりも、むしろサインウェーブを忘れることによって、作品に入っていない音が聞こえてくる。リズムもありますが、こちらが踊りたくなってくると突然リズムがストップしてしまう。サインウェーブから静寂、リズムから静止といったように、常に観客の感覚や意識の移動を求めているような作品です。そういうやり方に、もしかしたら飯村さんの考え方との共通点があるかもしれません。
 飯村さんの作品には、色んな関係を明白にするというような意図があるのではないかと思います。人との関係とか、映画やビデオとシステムの構造とか、それぞれの関係を分析し、提示しているわけです。飯村さんの作品の本質は、“時間”にあるように感じています。熟知、観察、監視といった、様々な形で非常に細かく分析していく“時間”そのものだと僕は解釈しています。方法は徹底的ですが、分析する“時間”を見る者が楽しめるように導いているような気がします。
 ちょっと長くなりましたが、これから上映とそれぞれの作品についての説明に入ります。

『くず』『Ai(Love)』について

飯村 みなさん、どうもありがとうございます。シャルルさん、とても良い解説ありがとうございます*2。それからこの『イメージライブラリー・ニュース』も、みなさんの協力でできたことを嬉しく思っています。
 ここには前にも一度、確か映像学科だったか、来たことがあります。新しいフェイス、古いフェイスも全て覚えているわけではないですが、久しぶりに皆さんの顔を見て、また元気が湧いてきた気がします。今日は作品を見て頂いて、若干説明を加えながらお話ししていきたいと思います。勿論、途中質問があれば、手を挙げるなりしてください。そういったアクションもあっていいかと思います。
 最初に上映するのは『くず』という、僕の処女作というか、最初に作った作品の一つ。もう一つに『視姦について』というのがあって、処女作が二つあるのもおかしいですが、その一つですね。この『くず』というのは、今はもう既にないのですが、東京湾の晴海に色々なジャンクが押し寄せる所があってですね、そこへ僕は8ミリカメラを担いで何回も通ったわけです。完成した8ミリは当時プリント(複製)を作れなくて、そのまま何回も上映していたものですから、傷が沢山ついています。それも含めて作品と言っていいと思うんですが。
 音楽は小杉さん*3が作っています。映画詩的な所がある作品です。一種ドキュメンタリーのようなタッチですが、ドキュメンタリーとも違う。それを越えるというか、それとは違うもの。もっと自分がインボルブ(関与)してそこに参加していく。当時こういうジャンクアートが流行ったのも事実なんですが、それに対する僕なりのアプローチ、それはジャンクをもう一度生き返らせるというか、そういう試みであったわけです。

<『くず』上映>

 これは最初のタイトルの背景に新聞の株式市況の欄を使っているんですね。資本主義のくずみたいなものに対する批評もあって作りました。
 60年代というのは、古い言葉でいえばドイツ語の「シュトゥルム・ウント・ドラング」*4、嵐が吹き荒れる、或いは台風が来たような、河もひっくり返った様な、そういう印象があります。戦後の日本でのアヴァンギャルドの一つの開花というか、当時はネオダダの動きがアートの方でもあって、僕だけではなくて、ハイレッド・センターとか、僕の友達でもそういう人たちが、美術館だけではなくて、街にまで出てハプニングをやったりイベントをやったりした。それがちょうど60年代の始めくらいから。大きく見れば国際的な動きと連動してはいたわけですが、日本では、アートがアートの枠をはみ出して、美術館から飛び出してきた。
 僕はフィルムという新しいメディア、当時のニュー・メディアだったわけですが、それをいち早く取り入れた。当時は映画が個人で作れるとは誰も思っていなかった中で、発売されたばかりの8ミリを使って自分で映画を作った。それには色々な影響もあります。本からだったり、かつてヨーロッパで興った1930年代のアヴァンギャルド運動とか、同時代のアメリカやヨーロッパの動きにも勿論影響されています。ただ、アヴァンギャルドの映画は当時まだ日本では見られなかったので、本を読んで僅かに想像するくらいだったわけです。そういう中で模索しながら作りあげたんですね。
 次の『Ai(Love)』という作品。これは16ミリ。8ミリを後でブロー・アップしています。非常に具体的なもの、部分を撮っていますが、それが異常に拡大されることで抽象化されて、男か女かも、体のどこの部分かも分からない。そういうある種、性を越えたところ、所謂セックスの役割みたいなものを越えて、映像として見える世界といったものを作ったわけです。音楽は、たまたま日本に来ていたオノ・ヨーコがこの作品を気に入って、即興的に作ったものが入っています*5。

<『Ai(Love)』上映>

 『イメージライブラリー・ニュース』の作品解説にも出ていますけれども、この『Ai(Love)』をオノ・ヨーコがニューヨークのジョナス・メカスに見せて、彼が「フィルム・カルチャー」という雑誌で紹介してくれたものですから、それが機会になってニューヨークに飛びました。そこで随分問題を起こしたりして、今はそんなことはないんですが、当時、大学で上映すると警官が出てきたりして、一種の暴動のようなことが起こったこともあります*6。

『椅子』『アイ・ラブ・ユー』について

飯村 次が『椅子』です。今度はビデオですね。60年代を通してずっと実験映画というか、フィルムを使った作品を8ミリで、その後16ミリでも作ってきましたが、60年代の末にビデオが現われて、ニューヨークで初めてビデオアートを体験したわけですが、その後すぐ東京に戻って作った最初のビデオ作品がこれです。非常にミニマルというか、椅子だけしか出てこない。というか実際には椅子とその影なんですが、モニター上で音と光がシンクロして明滅しているわけです。これが『椅子』という作品。実際はもっと長かったのですが、今は5分くらいの作品になっています。

<『椅子』上映>

 次は『アイ・ラブ・ユー』という作品です。70年代の後半くらいから、いわゆるコンセプチュアル・アートと言いますが、概念、特に言葉に大変興味を持って、言葉を使った作品をいくつも作っていて、これもその一つです。ここで「I love you」という英語を使っていますが、これは言わば決まり文句なわけです。それを男女が言い合うんですが、ここで代名詞を「I」、「You」、「He」、「She」と入れ替えています。それによって誰のことを指すのかがその度に変わるわけです。さらに注意して頂きたいのは、画面の中の人物が喋っているのか、或いは画面の外の人物が喋っているのか、という違いによってそのアイデンティティが異なってくることです。所謂アフレコの口合わせですね。女の口に合わせた男の声だったり、男の口で女の声だったり、という入れ替えが起こっています。誰が喋っているかということによって意味する関係が異なってくるんですね。「I love you」というのは一つの言葉の形式、フォームなんですが、それを色々言い替えることによって、映像との関係が変わってくる、ということを試みたんですね。

<『アイ・ラブ・ユー』上映>

『1秒間24コマ』『カメラ、モニター、フレーム』について

飯村 時間というのも映画における非常に重要な要素なのですが、映画における時間とは何なのかということを考えていって、最小単位である「コマ」、映画にはコマがあって一秒間に24コマでカメラも映写機も動くわけですね、それを分析していって作られたのがこの作品『1秒間24コマ』です。
 1コマは1/24秒という非常に短い時間ですが、この作品では、その1コマが1秒の間で1コマずつ移動し、だんだん増えていって、24コマ目に達する。そういう時間の運動を白と黒のコマだけを使って行っています*7。分かりやすい例として、所謂、陰陽のマーク、韓国の国旗にも使われている古典的なマークがありますね。白と黒に分かれていて、白のなかに黒い点があり、黒の中に白い点がある。それでひとつのシンボルになっているわけですが、映画の言葉ではそれをポジとネガというふうに言い替えることが出来ます。ポジはネガを含み、ネガはポジを含むといったように、一種の二重構造になっているんですね。
 音もそれにシンクロして1/24秒、2/24秒、3/24秒…というふうに長くなっていきます。半秒の12/24秒のところから、本来は13/24秒になるのですが、そうはならずに11/24秒になるという、ちょっと数学的な話になるのですが、音の知覚と絵の知覚というのは必ずしも同じではないということをこの作品で僕は発見したのです。そういうわけで微細な時間と、時間の中の光と闇の関係ですね、そういうものを探検した、というふうに言って良いと思います。

<『1秒間24コマ』上映>

 この作品は二つバージョンがあって、24分のものと、それを半分にした12分のものがあります*8。今上映したバージョン(24分)の方がある意味では分かり易いですね。というのは、最初は黒の中に白いコマがあるんですが、白いコマが増えていって、24/24になると今度はそこから白の中に黒コマになる、という形で反転しているわけです。繰り返しているように見えますが、白と黒の関係は逆転しているわけです。
 次は『カメラ、モニター、フレーム』という、これは『オブザーバ/オブザーブド』*9の中に入っている部分ですけれども、それ自身としても成立している作品なので、『カメラ、モニター、フレーム』*10の短いものを選んだというように考えて見て下さればいいと思います。
 これは「ビデオの記号学」といって、ビデオの“カメラ”“モニター”“フレーム”という、三つの要素を取り上げて、それを言葉との関係で検証したわけです。例えば「これはカメラです」とか、「これはモニターです」というナレーションが入っています。その「これはカメラです」という映像が、それぞれカメラでありモニターであるんですが、違ったカメラであったり、違ったモニターであったりする。見て頂ければ分かると思うんですが、モニターの中にモニターが現われたり、ただのノイズとしての映像が現われたりするわけです。そういう意味で、言葉と映像は同一ではない。同じ言葉が様々な映像、しかも、それでいて、同一の意味を発生するというような、ある種の研究的な作品と言っていいんですが、映像の、ここではビデオの記号学的な関心から作られた作品です。

<『カメラ、モニター、フレーム』上映>

 「This is a camera(これはカメラです)」というテロップとナレーションの後、カメラの1と2、それから何もない白い壁の画面、それが交互に出てくるわけですね。同じ「This」がカメラを表したり、壁を表したりする。そういうことを映像と画面で検証しているわけです。
 次のモニターの方が分かりやすいかと思います。「これはモニターです」と言っていますが、ここでモニターというのはテレビ画面のことなので、今日はスクリーンに映していますからちょっと状況が違いますが、モニター画面で見ると「これはモニターです」と言っているのが、画面のなかのモニターを指しているのか、或いは現に見ているスクリーンとしてのモニターを指しているのか、そういうふうにイメージと実物の間を行ったり来たりするわけですね。いわば、虚と実の間と言ってもいいんですが、同じモニターという言葉が双方を意味しているのです。

『ニューヨーク・ホットスプリング』『ジョン・ケージ・パフォームス・ジェイムス・ジョイス』について、
パフォーマンス『あいうえおん六面相』

飯村 次は『ニューヨーク・ホットスプリング』。これは抜粋ですが、ある種の風景ビデオと言ってもいい作品です。ここではニューヨークの冬の名物である、スチームが道路から出てくるところ、それを10か所写しています。様々な形態というか、スチームですから決まった形態は勿論ないわけですが、浮遊する湯気を構造的に捉えるという、ちょっと矛盾している様な、でも別に矛盾ではないんですが、構造的に繰り返すという、そういう作品です。

<『ニューヨーク・ホットスプリング』部分上映>

 「ニューヨーク・ホットスプリング」は、日本語で言えば「ニューヨーク温泉」ということになるのですが…。この作品は繰り返しの中で少しずつ順序が変わってくるわけです。
 次は『ジョン・ケージ・パフォームス・ジェイムス・ジョイス』です。ジョン・ケージが僕のためにというと、何か大事みたいに聞こえますが、たまたま彼のポートレイトを撮りにスタジオを訪れた時に、「じゃあ、パフォーマンスをやろう」と言ってやってくれたものです。ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」という、非常に難しいと言われている小説があるのですが、そこから彼が易を使って、言葉を全部組み替えたんですね。ジョン・ケージ語と言っていいのか、意味がほとんど無い、まあ10パーセントくらいはありますが、言葉を使って3通りで声のパフォーマンスをやった。それを見ます。

<『ジョン・ケージ・パフォームス・ジェイムス・ジョイス』上映>

 アマチュア用カメラで撮りましたからノイズがいっぱい入っていますね。ノイズを音楽として取り上げたジョン・ケージが、ノイズに抗してというか、ノイズと一緒に作品を演奏しているというのも一つのパフォーマンスではないかと思います。

 それでは、これからビデオ『あいうえおん六面相』というのを上映いたします。これは日本語の母音、「あいうえおん」、「ん」は、本当は母音ではないのですが、おまけで使っています。システムGという、一時コマーシャルなんかでも使われた、ソニーが作ったデバイスのソフトを使って、私の顔を色々歪めたり、音(あいうえおん)と別々に編集したりしているわけですね。最初にビデオ作品を見て頂いて、次にパフォーマンスを行います。それぞれ8分ずつ、合計で20分近いものになると思います。

<パフォーマンス『あいうえおん六面相』>

飯村 はい、どうもありがとうございました。

質疑応答

シャルル 先程、飯村さんの作品はサービス精神がないと言いましたが、今日は大サービスですね。
 この『イメージライブラリー・ニュース』に書いたように、飯村さんの作品にはいくつか軸があるように思います。オブジェの探究とか、風景ビデオとか、それから、『1秒間24コマ』といったフィルムとかビデオを解体するような作品などがありますが、『ジョン・ケージ・パフォームス・ジェイムス・ジョイス』はどういう位置づけでしょうか?
 ケージは音楽を完全に解体して、その形態、構造、素材、方法とか、それから作曲家の位置付け、観客の位置付け、演奏者の位置付けとか、音楽の在り方と音とノイズの最大値とその沈黙など、色んな意味で分析したわけですけれども、飯村さんは同じようなことを映像において考えられている。そういう意味で、ジョイスを唱えているケージのビデオというのも非常に意味深いと思います。ドキュメンタリーとは違うと思うんですが、ケージとの関係であったり、どういう作品なのかということを教えて下さい。

飯村 たまたま僕が記録したということではあります。記録する上でも、特に何か付け加えたというわけでも、或いは変更したわけでもないのです。さっきも言ったけれども、カメラが彼のパフォーマンス、声も、それからバックのノイズも一緒に拾っているわけですね。それがとても面白かった。後で発見したんですが、彼の声が大きくなるとノイズが少し抑えられるんですね。そして彼が声を出さないとノイズが大きくなるという、そういう相関関係もあって、それは僕というよりカメラの痕跡かもしれない。そういう意味では特に何かやったわけではないけれども、そういうことを発見した。
 画面の下にジョイスのテキストから引用してスーパーで入れています。ちょっと読みにくいかもしれないけれども、と言っても誰も正確に読めないわけですが、ケージは同じテキストを3通りに渡って読んだり、歌ったり、ささやいたりしているんです。僕はささやく部分が一番好きなんですけれども、ノイズとのせめぎ合いというか、相克があるわけです。言葉の意味よりも、彼の歌というか、祈りというか、ある種お経を聞いているような気分になるので、それが非常に面白かった。ジョイスから大分離れてやっているわけですから、テキストは使っていますけれども、やっぱりケージの作品じゃないかと思います。あえて功績と言わせて頂ければ、非常に安いカメラで撮ったので、ノイズもパフォーマンスも両方、作品として記録することが出来た、ということくらいかな、という気がします。

質問者1 さっきシャルル教授から少しお話が出たんですけれども、「あ」という言葉が出たら僕たちは「あ」と認識するわけです。そういった概念が崩れていくということ、音と映像の関係が崩れていく、それは僕たちが今座っている状況にさえも疑問を投じるというか、そういったアンバランスさみたいなものを感じるのですけれど、先生はそういった概念との関係、映像と音の関係についてどうお考えなのかお伺いしたいです。

飯村 勿論、肉声では「あ」という口をして「い」と言うことはできないですね。言い替えというのはビデオ、映像というメディアで初めて出来るわけです。テレビで外国映画を見ると吹替えでみんな日本語を喋っていて、逆に、外国に行って日本の映画を見れば、その国の言葉で喋っている。そういう吹替え、つまり置き換えというのは常時行われているのです。映像と音は、我々は同一のものとして認識しているわけだけど、それは言うなれば操作しうるもので、メディアはそういうものを常時操作して作り出しているんですね。
 この『あいうえおん六面相』という作品では、そういう操作を利用して音を発音しているわけです。それによって「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」、「ん」という日本語の一番根幹に関わる音、英語にも母音はあるのですが、特に日本語の場合は母音によってすべての音声言語が出来ていますから、それを組み替えるというところに興味を持ったんですね。音と映像というのは自由に操作しうる、別々のものなんだということに気がついてもらえれば、そこからまた色々なことが可能になるんだということを思いますね。

質問者2 『アイ・ラブ・ユー』という作品なんですが、これを英語で作った意味について考えていました。日本語だと「好き」という動詞一つで通じてしまったり、「あなたが好き」のように、主語不在で通じてしまいますが、これを作る時に日本語で作ることは考えましたか?

飯村 確かに日本語と英語の違いがあります。「I love you」という一番典型的な言葉を、勿論日本語でも可能ですが、どこの国でも通用するという意味も含めて使ったわけですね。
 日本語のスーパーを入れるとか、或いは逆にするとかいうことも考えられましたが、ここではあえてそれをしないで、英語で主に代名詞を言い替えることによって、「I」が「You」になったり「You」が「He」、或いは「She」になったりする。そういったことが非常に、分かりやすく見えてくるんじゃないかなということがあって、英語にしたわけですね。
 確かに日本語の場合は主語を喋らないという問題には気が付いていて、僕の作品にそういうことを議論したものもあります。ここでは勿論英語を使っていますから、その比較はしていませんけれども、日本語を使えば「愛しています」とか「好きです」とか、色々言い方があるわけで、そういうニュアンスの違いが英語以上に出てくるだろう、ということはあるんですね。英語は「I」という言葉が男でも女でも使える。日本語だと別々にしなくてはならない。そういうこともあって、ここでは共通に理解される言語モデルとして使いました。それと同時にハリウッド映画が「I love you」を一番大量生産している。それに対する僕なりのひとつのパロディとして成立するとすれば、と思って使ったわけですね。

質問者2 先程、日本語について言及した作品があると仰っていましたが、何という作品でしょうか。

飯村 これは日本語と英語を両方使った作品で、「私があなたを見るようにあなたは私を見る」という日本語と「As I see you, you see me」という英語を使っているんですね。この場合は英語と日本語を両方使ったり、日本語のときは英語、英語のときは日本語のスーパーが入ったりすることで、文章構造が違いますから、同じ「You」でも違った人物がそこに出てくる。違う人物を指していることがわかるんですね。

質問者3 作品の一番始めの所に、先生のお名前がアルファベットで出るんですが、名前の表記を「Taka」で終わらせていたり、「Takahiko」ってなっていたりします。その当時の想いだったり、何か意味はあるのですか?

飯村 そんなに深い意味はないのですが、アメリカで映画を作っている時に、「Takahiko」という文字が長くてひとつの画面に入らない、それを縮めることで画面の中にうまく入った、そういうこともあって短くしたというのもあるし、アメリカ人は「Takahiko」というのをなかなか発音しにくい。「Taka」ならば発音できるという実際的な理由もあって。今は両方使っていますけどね。フルネームで入れるときもあれば、短くする場合もあります。英語でもビルと言ったりウィリアムと言ったり、ロバートと言ったりボブと言ったりすることもありますからね。そういう使い分けというか、別にフォーマル・インフォーマルというのに限らず両方使っています。

質問者4 先生はビデオというものが誕生してから、映像というよりもビデオのシステムというものに注目して、パフォーマンスを含め色々なことをされていますが、今でもビデオシステムは研究の余地があるとお考えですか?

飯村 ええ、もちろんあると思いますよ。ビデオはある程度決まってきてはいるけれども、それでもフィルムに比べればまだまだ進化というか変化しているメディアだと思うんですね。全然変化がないわけではないけれども、フィルムの場合は素材も含めてテクノロジーが固定化されています。ビデオはまだテクノロジーの面では、今はデジタルということで大きな変化が起こっている。それはコンピューター技術にも繋がっているわけですけれども、そういう意味で、素材の変化もあるし、システムの面でもまだまだ色々な面で研究する余地はあるだろうと思いますね。僕自身もやめたわけではないし、CD-ROMとか、DVDとか、そういう別のテクノロジーと繋げることでビデオのシステムとしての意味とか役割などが変わって来ている。そういうものを自分でも作っていますが、他にも色々な使い方があると思います。

質問者5 『1秒間24コマ』という作品解説の最後に、「視覚と聴覚は同様に認識するものではないということがこの作品で分かった」と仰っていましたが、それは詳しくはどういうことでしょうか?

飯村 この場合、時間に関してなんですが、同じ1秒間でも闇の1秒間、光の1秒間、それをフィルムでは24コマのクロミという黒いフィルム、スヌケという透明のフィルムを使って、交互に投影すると、長さの知覚が違う。長さだけではなく、実際に経験するひとつの量であり、質量でもある。それに音が加わった場合、例えば「ブッブッ」という点による音と「ブー」という持続音、それを加えることでまたその知覚が違ってくる、ということを色々実験したわけですね。それによって知覚上、認識上、音とビジュアルとの関係がズレを起こす。それを体験されたかどうか分かりませんが、1/24秒という非常に短い「ブブッ」という短い音が段々長くなって、半秒である12/24秒になると、同じ長さになり、その後、本来さらに長くなるはずの音が逆にまた短くなっていく現象を僕は知覚したんですね。人間の耳にとって、同じ「ブッブッ」という音ですが、それが独立した存在として存在するか、他との関係で存在するか、コンテクストによって長さの知覚が異なってくるわけですね。それを発見した。要するに短い音の方が繋がってリズムとして知覚されるものですから聞きやすいわけです。2つの音だけでは分からないのですが、それが3つなり4つなりという音の関係として出てくる時に初めて知覚されるわけですね。今、肉声でそれを表現できないんですけれども、映画の中でそれを知覚したということになりますね。

シャルル 『1秒間24コマ』の上映の時、僕はスクリーンの横にいたので、そこから会場側を見ると大変面白い光景が見えてきました。全体の空間が映写の光によって生きていた。光に反射するみなさんの顔も面白かった。空間の中に時間、視覚、聴覚があって、この作品はすごく広い意味で全体の空間を分析しているようだと感じました。しかも長かったですね。でもそれが良かった。

飯村 仰るように、スクリーンというのはある種、反映板になっていますから、それによってこちら(スクリーン側)から見ると、皆さんの顔が見えたり、消えたりするわけですね。それがこの部屋全体の空間をその瞬間、ヴィジブルにするわけです。時間だけではなく、そういう空間も同時に持っているのです。それによって3次元のリアル空間というのが成立するわけです。映画が反射板として機能しているというのは、仰る通りです。

シャルル ビデオの研究の余地がまだあるのかという質問の延長ですが、以前ICCで「フューチャーシネマ」*11という展覧会があったんですが、所謂商業映画もかなり変わって来ている今、映像のありかたとか映像の未来について、映像の原点に戻った作家としてこれからどうなっていくとお考えでしょうか? 答えにくいかもしれませんけれども。

飯村 そうですね、僕も正直どうなるのかわからないので、予言者みたいなことは言えないんですが、映画技術というのはある意味で廃れてきているというか、もう博物館入りしているという世界的な印象があるかもしれません。でも今、逆にカムバックもしているんですね。アートの面でも80年代から90年代くらいまでビデオがかなり流行って、ビデオ技術に対する飽きもあるんですね。それで逆に実験映画がまたカムバックしてきて、美術館でも実験映画を見る観客が増えているということもあるので、必ずしも映画技術が博物館入りするとも思えないんですね。そういう意味で、手作業も含めてフィルムテクノロジーというのはまだまだ、おそらく利用される。
 僕自身は所謂、映画作品としては使っていませんが、インスタレーションみたいな形で、或いはパフォーマンスとしてはフィルムを使っています。はじめがあって終わりがあるという、5分なり10分なり1時間半の作品としては他にやる人がいっぱいいるわけですから、僕自身はそれよりもむしろフィルムのパフォーマンスやインスタレーションという形で別の可能性をやった方が、と思っています。今日はビデオのパフォーマンスをやりましたけれども、フィルムのパフォーマンスも他で機会がある度にやったりしているんですね。そういう意味でフィルムというマテリアルはまだまだ使えると思います。テクノロジーが廃れようとアイデア次第でそれを利用して、新しい命を与えるということは、アーティストの重要な仕事ですから、平たく言えばテクノロジーがどうなろうと知ったこっちゃない、というところで、使っていいんじゃないかというふうに思います。

スタッフ では、最後に私から。映像の未来という話が出てきて思ったのですが、飯村さんご自身『イメージライブラリー・ニュース』でインターネットという可能性にちょっと触れられていたので、今後の作品でインターネットを使って制作されるような可能性があるのでしょうか?

飯村 そうですね、ここでは主にネットワーキングのためにインターネットを使っているということでしか書いていないんですけれども、インターネット上で作品の一部なり、静止画なりを出しているという意味では、ネット上にある種のイメージを提供しているわけです。それを特にネット作品とまでは呼んでいませんが、事実上はそういうふうにネット上に出された作品として扱っても構わないわけです。『あいうえおん六面相』も一部見ることができますし、その辺これからも利用していきたいと思っています。オリジナルも作りたいと思いますが、いかんせん、テクノロジーの勉強自体が追い付いていないということもあるんですね。そんなに大袈裟に考えなくてもいいかもしれませんが、ゆくゆくはオリジナル作品も作っていきたいとは思っています。

スタッフ ありがとうございました。それでは飯村先生、シャルル先生、今日は貴重なお時間と貴重なパフォーマンスをありがとうございました。


*1  2001年出版。2004年に増補版と日本語版「飯村隆彦映像作品論集」を出版(飯村隆彦映像研究所)。著者にジョナス・メカス、ドミニク・ノゲズ、スコット・マクドナルド、マルコム・レグライス、ダニエル・シャルル、ジョン・ハンハート、スラフコ・カチュンコ、フレッド・アンダースン、山口勝弘、浅沼圭二、松本俊弘、石崎浩一郎など。

*2 2011年、飯村隆彦氏による補足:私は(美しさ)や(欲望)を否定してる訳ではなく、シャルルさんとその意味は違うかも知れませんが、私の作品に(美しさ)(例えば『くず』—映像として—の美しさ)も、作品の動機に(欲望)(例えば制作する欲望)もあると思っています。

*3 小杉武久。現代音楽家、当時、刀根康尚らと「グループ・音楽」を結成して、前衛音楽を作曲した。

*4 18世紀後半にドイツで興った革新的な文学運動。理性や秩序を重んじる啓蒙主義や古典主義に反対し、感情の開放や独創性を主張した。日本語では「疾風怒涛」「嵐と衝動」などと訳される。

*5 「当時、彼女は渋谷のマンションの一三階にキョウコちゃんという娘と暮らしていました。そこへ訪ねていき、音をつけてくれるように頼んだら、その部屋の窓からいきなりマイクを突き出して風の音やノイズを録音したんです。「これ、あなたにあげる」って言って。ところどころ、自動車のサイレンとかが入ってるんですけどね。それが『LOVE』に使われている不可思議なノイズ音のようなサウンドトラックとなりました。」(「金子遊のこの人に聞きたいVol.13 飯村隆彦(映画作家)インタビュー」『映画芸術DIARY』 http://eigageijutsu.com/article/160835098.html)

*6 「その渡米のときに『LOVE』をイェール大学で上映したことがありました。その頃のイェールはまだ男子校で、興奮した学生たちがこの映画を見せろと言って押し寄せたんです。翌日のニューヨーク・タイムスの記事は、こんな風に報じました。ぼくもびっくりしたんですけど。『昨夜興奮した暴徒のために、イェール大学のアートギャラリーで日本の実験映画の上映が妨害された。警察の発表によると暴徒の数は千人にものぼる。上映は二〇時半からの予定だったが、一時間前にはギャラリーに通じるストリートの前に群集が集まりはじめた。二〇時頃には群集の騒ぎは大きくなり、通りに人があふれだした。タクシーがクラクションを鳴らして通ると、人々はブーイングで応じますます殺気立つ。何組かの学生グループは、道を開けろ、ポルノ映画だぞ、と叫ぶ。二〇時四五分に五人の警官がドアの前に並び、誰もビルの中に入れないようにした。通りは大混乱になった。紙くず、ビン、ビール缶が辺りに飛び散った」と。」(「金子遊のこの人に聞きたいVol.13 飯村隆彦(映画作家)インタビュー」『映画芸術DIARY』 http://eigageijutsu.com/article/160835098.html)

*7  1/24は1コマがスヌケ(白)、残りの23コマはクロミ(黒)で表される。続いて、その反対(ネガ)の1コマがクロミ(黒)、残りの23コマはスヌケ(白)が続く。2/24は2コマが白、22コマが黒とそのネガが続き、分子が増えるに従って白コマ/黒コマの比率が1秒内で増減していき、24/24で反転する。

*8 2011年現在では、後者の12分のバージョンのみ配給し、DVD「映画時間論」でもこのバージョンが収録されている。

*9 『オブザーバ/オブザーブド』は、『カメラ、モニター、フレーム』、『オブザーバ/オブザーブド』『オブザーバ/オブザーブド/オブザーバー』の3部作からなる「ビデオ記号学」の一つであると同時に3部作を総称するタイトルでもある。

*10 『カメラ、モニター、フレーム』は、1976年版(20分)と1998年版(8分)の二つのヴァージョンがある。両者はシナリオとナレーションは全く同じであるが、後者はバンフ・アート・センター(カナダ)での再制作。

*11 「FUTURE CINEMA-来るべき時代の映像表現に向けて」NTTインターコミュニケーション・センターICC、2003年12月12日〜2004年2月29日

(2004年6月17日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)