武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第24回イメージライブラリー課外講座
「日本映画の再発見 活弁付きサイレント映画『雄呂血』上映」の記録


講師:澤登翠(活動弁士)、松田豊(マツダ映画社代表)、小池晴二(武蔵野美術大学理事長 在任2003~2007年)、立花義遼(武蔵野美術大学教授 2010年退任)
開催日:2006年11月17日
主催:立花義遼研究室+イメージライブラリー

 

この講座について

現在、無声映画時代の作品は多くが失われ、私たちがその作品を鑑賞する機会は限られてしまっています。本講座は、そうした無声映画を当時の上映スタイルと同じ活動弁士の語り付きで上映し、ライブパフォーマンスとしての映画と、活弁という日本独自の文化を体験するものとして企画いたしました。上演作品は二川文太郎監督、阪東妻三郎主演の『雄呂血』。上演前には、立花教授による「映像記号論」の特別講義として、澤登翠氏、松田豊氏、小池晴二氏によりかつての映画文化と活動弁士についての対談が行われました。本記録は、その対談と、澤登氏上演前のお話を採録しています。


はじめに

立花 今日は澤登先生の他に、本学理事長の小池先生に特別出席して頂きます。小池さんも非常に映画狂なので、色々な話が出ると思います。それから、この後に上映を行いますが、その操作をするのは素人ではできないので、マツダ映画社の代表取締役の松田さんに来て頂いているので、またそこで少しスピーチをして頂こうかと思っています。
 皆さんの中でいままでサイレント映画で活弁付きのものを観たことがある人がいたら、ちょっと手を挙げてください。多分誰もいないでしょうね。はい、分かりました。サイレント映画と普通のトーキーがどう違うかと言ったら、フィルムのコマ数が違うということらしいです。トーキー映画は、一秒間で映画のコマが24コマということになっているんですね。ところがサイレントの方は16コマなんです。コマ数が違う。これについては今日澤登先生に聞いてみたいんですが、例えば、普通の映画の音を消して、それについて活弁をするというのはどうなのかなっていうこと。そんなことも聞いてみたいなと思ってますし、それから、サイレント映画に関するお話の後に、今日上映する映画がどういう映画なのかということをちょっとお話し頂こうと思います。
 活弁というのは、スクリーン脇に座って喋るんです。それは形態としては非常に面白いものになっています。普通どうやってナレーションするかというと、ここに座って台本を見て行います。一人で全部の役をやったり、そういった面白い形態であるということです。映画がトーキーになるまでの間、活弁は非常に流行っていて、映画のスターと同時に活弁のスターというのがいたんです。「今日はこの人の活弁だから観に行こう」というような大変なスターがいたということです。多分皆さんはほとんど知らないと思いますが、徳川夢声という活弁のスターがいました。徳川さんはトーキーになってからは、俳優になったり、そのあとラジオのナレーションなんかやって活躍していました。私たちの世代が子どもの頃、ラジオで宮本武蔵という連続のナレーションをずっとやっていたんです。もうそれを必死で聞いていたことがあるんですけれども。そうしたら徳川さんのそのナレーションが今度CDになって出るんです。間が物凄くあって、次の言葉が出てこないかなと思うとちゃんと出てくる、という。そういう非常に上手いナレーションで、徳川夢声というスーパースターがいたんです。ということを言ってるうちに小池先生がいらっしゃったようです。
 小池さんは先ほど言ったように本学のトップなんですが、あなた方とは、おそらく入学式と卒業式にしかお会いにならない、お会いになれないというか。オリンピックみたいな存在です。一言お願いします。

小池 小池です。本当に入学式では会っているはずなんだけれども、多分誰も覚えてないだろうと思うけれどもね。この次は卒業式で会うということになるんですけれども。今日は澤登翠さんと松田さんにおいで頂いてこの講義をするということで、私もお手伝いさせて頂くことになりました。前から一度澤登さんにはおいで頂いて、映画の原点である、サイレント映画というものの面白さについてのお話をして欲しいとお願いしていて、立花先生も随分前からこの話をしていたんですが、今日実現できて本当に嬉しく思っています。今日は、これから色々と話していきますから、あんまり長くは振りませんが、映画ができてちょうど100年ちょっとになります。そういう中でどういう風に映画が動いてきたか、映画というものがどういう風に考えられてきたのか、というあたりについて色々お話をしていくことができるのは大変僕は良いと思うし、これから皆さんたちが映画を観ていく、映像を観ていくという中で、そういうことをベースとして分かって頂く、知って頂くと、映画を見るときの面白さというのがまた出てくるだろうという風に思っています。

立花 小池先生は本学の油絵学科のご出身で、卒業された後、石原裕次郎であるとか、小林旭とかそういう方が活躍していた日活という映画会社に入られて、その後NHKの美術部にいらっしゃって美術部長の後、武蔵野美術大学の校友会の会長をされて、その後今の理事長のお仕事に就かれました。 今、澤登先生がご到着されました。拍手でお迎えください。

澤登 こんにちは、澤登翠です。宜しくお願いします。

立花 それでは、澤登先生がお着きになりましたので、ご紹介します。澤登先生のプロフィールはここ、 (『イメージライブラリー・ニュース』2006年11月 第19号)に詳しく載っておりますが、一応ご紹介としましては、法政大学の文学部哲学科を卒業されまして、松田春翠さんという活動弁士のスーパースターの方の門下生になられたんですね。それでその後あっちこっちで大活躍をされていらっしゃいます。参考までにちょっと申し上げますと、10月の東京新聞の夕刊に無声映画が非常に流行っているということが掲載されました。東京の中でも公演のラッシュだとあります。それで弁士が奔走していると。澤登先生は…確かこのときは東京国際映画祭でしたっけ?

澤登 東京国際女性映画祭です。

立花 東京国際女性映画祭で公演されていまして、公演がここに全部載ってるんですね。新聞の記事の中には10月の22日から11月の4日までしか載ってないんですが、実はこの11月4日には多摩美でやっていらっしゃるんですね。ムサビはちょっと出遅れたんですが、しかし多摩美では澤登先生ではなくて、澤登先生のお弟子さんですか?

澤登 そうです。

立花 では、こちらでは澤登先生ご登場ということなので、良かったなと思っています。もう一週間ぐらい後のスケジュールだったら、本学での公演も新聞に載ったんですけれど…。今、非常に無声映画が再発見されているという、そういう状況の中で今日澤登先生のお話を伺い、更に素晴らしいその活弁ぶり、活動弁士の姿を見せて頂こうと思っています。それでは、澤登先生ちょっとお話をお願いします。

澤登 こんにちは、はじめまして。今ご紹介頂きました澤登翠です。こちらにいらっしゃいます小池理事長さんには、ずっと私たちの無声映画鑑賞会にお力添えを頂いておりまして、それから立花先生もこの間私どもの無声映画鑑賞会にいらして頂きました。無声映画とか活弁とか言っても、多分皆さん見たことないかもしれませんね。私も活弁と聞いたとき、最初は豚カツのお弁当かしらと思ったぐらいで、全く馴染みがなかったんですけれども、なぜかこういう仕事、弁士の仕事をしてます。今日は本当にありがとうございます。宜しくお願い致します。

立花 小池先生は年代的に言いますと、活弁というのを実際リアルタイムでご覧になっているんでしょうか。その辺どうでしょう。

小池 トーキーができたのは1931年ですかね。それくらいですね。

澤登 国産トーキー第一作は1931年ですね。

小池 そうですね。僕は33年生まれですから、小学校に入るぐらい前には、まだ活弁が劇場にかかっていた。活動写真といった時代ですが—活動写真から活弁という言葉が出てきたんでしょうけれども、子どものときに連れて行かれて、チャンバラを観て、怖くて怖くてね。それで、活弁の方の語りを聞いて、もう怖くて怖くて。もうその次のときから映画に親が行くっていうとき、「活弁」「チャンバラ」って言うと「もう留守番する!」って言うくらいおっかなくて。だから、子どものときに何を観たか覚えていないけれども、小学校に入る前ぐらいのときには1、2回サイレント映画、活弁の映画、活動を観た、という記憶があります。それで今申し上げたように、33年、トーキーができたのは31年ですから、物心ついた頃はもうトーキー映画の時代に入っていましたけれどね、小学校のときは。小学校3、4年生のときに観た『次郎物語』というのが僕の記憶に残っている最初の映画じゃないですかね。それと黒澤さんの『姿三四郎』あたりかな。そのあたりが僕の映画のスタートだという風に思います。

立花 私はですね、当然のことながらというか、サイレントというのは観ていないですね、弁士付きでは。私が最初に観た活弁は澤登先生の、また随分昔ですが、浅草の雷門のゴロゴロ会館という所でかなりやってらっしゃいましたね?

澤登 そうですね。

立花 それに通った思い出があるんです。その後京橋のフィルムセンターなどでずっと拝聴と拝見をしていました。その後ちょっとしばらく途絶えてて、つい先日また拝聴して、それで今日という、そういう状況です。一番最初に私が観た活弁体験は、この澤登先生だということです。澤登先生はどういうきっかけでこういう道にお入りになったんでしょうか。その辺をちょっとお願いします。

澤登氏 映画体験・弁士になったきっかけ

澤登 ちょっとお話が長くなってしまうんですけれども、皆さんは多分映像体験は例えばテレビだと思うんですけれど、私たちはやっぱり映画というか、映画館ですね。第二次大戦が終わった後の、ちょうど昭和30年代、1950年代というのが、私の懐かしの映画の最初の頃という感じなんです。今新宿に丸井って大きな建物がありますが、その丸井があった辺りに名画座があったんですね。エレベーターが無いもんですから、4階か5階まで階段を昇らなきゃならないんですよ。昭和30年代、1950年代の初めというのは、まだ戦前の匂いと言いますか、戦争直後の匂い、いわゆる戦後の匂いというのが残っていまして、雑然としたちょっと怖いような、危ないようなですね、今の新宿の盛り場が醸し出すあの感じと全然違って、もっと殺気立った、切迫した、そういう匂いというのが流れていたんですよ。新宿のちょうど丸井の辺りとか、伊勢丹の辺りとか、あの辺の。そういう雑踏にもまれながら、近所のお姉さんに手を引かれて行った、今の丸井のある所の上にあった名画座。そこでルネ・クレマンの『禁じられた遊び』という映画を観まして、それは幼い少女と少年の言わば本当の初恋みたいなものを描きながら、静かに反戦を訴えた素晴らしい映画です。ラストシーンは駅の雑踏の中を女の子、ポーレットが可愛いんですよね。「ミシェル、ミシェル」とこう呼びながら、雑踏の中でその声が「ママ」という声に変わっていくという素晴らしいラストシーンなんですけれども、本当に戦争というものに対する静かなプロテストを湛えた映画を近所のお姉さんに連れて行ってもらって観て、それが私の初めての映画体験だったんですよ。ものすごくやっぱり幼心に強い印象を受けまして、モノクロームの映像で。『禁じられた遊び』はテーマミュージックも良いですしね。二人が、動物が亡くなった、ハトですね、そのお墓を作ってあげるんです。木で十字架を作ってこう立てるんですね。もう、最後の少女が呼びながら雑踏の中を消えていくと、もう涙が滂沱と流れて涙でスクリーンが霞んで見えない、というこれが私の映画の初めての体験だったんですね。それから皆さんテレビというのはお馴染みなんですけれども、もうちょっと経ってから今度は、今、NHKでリバイバルされていますね、『ローハイド』。アカデミーの監督賞を二回も獲っちゃった、あのクリント・イーストウッドが、こんな凄い監督になると思っていなかった若い頃のクリント・イーストウッドが、つっころばしのお兄ちゃん、西部劇のお兄ちゃんみたいな役で出ているわけですね。非常に背が高い、190cm以上。それでああいう感じ、ちょっと飄々としてですね。眩しそうにこういう風に眉間にしわ寄せて人を見るというあの癖は、若い頃も今も変わらない。そのクリント・イーストウッドがカウボーイとなってキャトルドライブ、牛の大群と共に旅をするという、この連続テレビ西部劇『ローハイド』。これはね、テレビで見ました。多分立花先生も小池理事長さんも観てらっしゃると思います。それからもう私は西部劇大好きなんですね、個人的に。お話長くなっちゃいますけれど。それから、スティーブ・マックイーン。『ゲッタウェイ』とか出てましたね。あの人はそんなに年を取らないで死んでしまったんですが、あの人が若い頃に出ていた『拳銃無宿』というのがあるんですよ。賞金稼ぎの孤独な男。良いんですよねぇ、すごい早撃ちで格好良いんです。ロバート・フラーという甘い二枚目が出ていて、淀川長治さんが大好きだった『ララミー牧場』。それからドナ・リード。『地上(ここ)より永遠に』という映画でアカデミー助演女優賞を得たドナ・リード、知的な美人です。この人が出ていた『うちのママは世界一』。昔のほら、今流行ってますよね、ウエストがちゃんとウエストの位置で締まって、ピュッとスカート広がってるっていう懐かしいあのスタイル。今は新しいんですけれど、そういうのが50年代流行っていましてね。ああいう女性のファッションも非常に少女の頃、多感な少女の頃は、「あぁ素敵だわ」と思って観まして、こういう知的なお母さんがあったらいいなと思ったし、ロバート・ヤングの『パパは何でも知っている』。ということで、西部劇からホームドラマ、アメリカ製のドラマというのをテレビで観ましたし、フランスやドイツの名画というのも、テレビ名画座という時間帯がありまして、ジュリアン・デュヴィヴィエ『舞踏会の手帖』、マルセル・カルネ『悪魔が夜来る』。それから可愛い小悪魔の様な、子猫の様なシモーヌ・シモンが出ておりました『乙女の湖』。こういうものをテレビで観ていまして、すっかり映画ファンになってしまいました。大学時代は、—私は法政大学文学部哲学科です—福田定良先生という名物先生がいまして、旧約聖書のゼミとかもう凄く面白かった。良い先生がいっぱい、ムサビと同じようにいらしたんですけれども、講義の合間にと言いますか、映画館に行く合間に実は講義を聞いていたという状態で、非常に映画漬けの毎日ということで。本当にそういうことで、子どもの頃から映画が大好きだったんですが、大学を出て出版社に勤めたりも致しましたが、組織がだめ。どっか変わってるということで、自己表現の場を求めておりましたところ、1972年の秋に無声映画鑑賞会に行って、今年没後50年の日本が誇る世界の監督、溝口健二監督の無声映画代表作『瀧の白糸』を観て、そのときの弁士の松田春翠先生に弟子入りをしました。ですからもともとの映画ファンが高じて弁士になってしまったという事なのです。どうもありがとうございました。一巻の終りです。すみません、長くなって。

立花 いや、もっと長くてもいいんです。今おっしゃっていた丸井の名画座って、日活名画座でしょう? 私もあそこによく通って、あの階段で…。和田誠さんのポスターが非常に良かったという事で、私もほとんどあそこで観ていたという。小池先生はあそこは…?

小池 よく知っていますよ。それで今歳の差をしみじみと感じながら聞いてたんだけれども、今澤登さんがおっしゃった映画はほとんど僕、映画館で観ました。終戦のときが僕は小学校6年生ですから、次の年あたり、旧制中学に入った頃に洋画が解禁になったんですね。フランス映画にしても、アメリカ映画にしても、何にしても一遍に解禁で、どっと現れた時代で、もう夢中になって映画を観に行きましたね。『ターザン』なんかは満員で観客席に入れなくて、スクリーンの横から観てるもんだから、ひん曲がった様な『ターザン』を観てたなんていう経験があります。今言われた『禁じられた遊び』なんかはちょうど浪人時代、ムサビに入る1年前で、一緒に行った女の子が泣いて泣いて、帰る途中泣きながら帰るのが恥ずかしくて困ったという経験もありますけれども、とにかくそういう時代で、今おっしゃった映画はほとんど映画館で観たわけです。それと、日活の名画座。あそこは本当に良い映画館だったんですけれども、僕が覚えてるのは、裕次郎が出ている『陽のあたる坂道』。これが当たりに当たって、あの映画館は上と下両方あったのね、日活の映画がね。それを両方やってまだ入りきらないっていうぐらいでした。皆さんが知ってる裕次郎は『西部警察』あたりの裕次郎だと思うんだけれども、デビューした頃は本当に芝居は下手だったけれども、恰好は良かった。ちょうど僕が(日活に)入った頃、裕次郎がいて『嵐を呼ぶ男』とか、あのあたりのスタジオは僕も知っているんですけれども、下からあおった等身大以上の大きい裕次郎の切り出しで作った看板を、映画館の外壁に飾り付けていたのを覚えてます。ですからあの頃は本当に日本映画の一番、ある意味での戦後のピークの時代だったかもしれませんね、日活のあのあたりが。ちょうどその頃カラー映画が主流になってきた時代ですけれどもね。

澤登 なんか懐かしいです。

立花 もうそのときはマツダ映画社はあったんですか?

登 もちろんです。マツダ映画社はありました。

立花 今話に盛んに出ているマツダ映画社の代表でいらっしゃる松田さんがいらしてますので、ちょっとマツダ映画というのはどういうようなものなのかお話を…。マツダ映画代表の松田さんです。

マツダ映画社について

松田 マツダ映画の松田です。宜しくお願い致します。マツダ映画社というのは戦後なんですけれども、私の父が松田春翠なんですね。松田春翠というのは弁士としては二代目でして、私の祖父が初代の松田春翠だったと。子どものときに少年弁士として活弁をやってたんですね。その後映画がトーキー化されて、普通の職業に就いたりしたんですけれども、戦争に行って戻って来て何をやろうかなと思ったときに、九州の方で無声映画がブームだったんです。それで戦友を訪ねて九州の方で弁士として再びスタートしたわけですね。その頃からフィルムをコレクションするようになりました。今私どもの会社にはだいたいタイトル数だけで言えば1000本くらいの作品があるんですけれども、そのコレクションした無声映画のフィルムを運用するために昭和28年、登記はもう少し後なんですけれども、昭和28年に設立した会社です。多分、今無声映画だけを主に専門にやっている会社は私どもくらいだと思うんですね。無声映画は松竹さんにもありますし、フィルムセンターさんにもありますし、個人的にお持ちになってる方もいらっしゃるんですけれども、無声映画を対象として事業をしているのは多分私たちぐらいでして、弁士付きの無声映画の上映会を開催したり、それからテレビの方にフィルムを貸し出して放映して頂いたりですとか、テレビで言えばよく資料映像みたいな形で古い映画が出てくることがあると思うんですけれども、フッテージというんですが、昭和初期の風俗などをテレビ番組に挿入するために貸し出したりだとか、主にそういったことをやっております。一般の方に関してはビデオの販売ですとか、無声映画鑑賞会、昭和34年から毎月一回ずつやってる会なんですけれども、月に一回弁士付きで無声映画を観る会というのを続けておりまして、それの運営をしているのもマツダ映画社です。それぐらいで、宜しいですか?

立花 一番伺いたいのは1000本のコレクションですね。集められるのには大変な費用がかかったのではないかと思うのですが、それはどのように…?

松田 フィルムを集めだしたきっかけというのは、今少し話しましたけれども、ちょうど戦争があって新しい映画がなかなかできない時代があったんですね、戦後直後というのが。そのときに九州の方は炭鉱で景気が良かったらしいんですよ。人が結構集まっていた。そこの余興で浪曲師が一座を組んでまわったりというような形で、弁士も一座を組んで昔の映画を使って上映会の活動をしていたわけですね。そのときに、たまたま私の父が二日続けて同じ映画を観に行ったんですって。そしたら一日目にあったシーンが二日目に観たらなくなっていると。それで、映写室に行って、あそこ良いシーンなのにどうして上映しなかったんですかって聞いたら、フィルムの状態が悪くて、あそこに来ると引っかかっちゃうから、そこはもう切って捨てちゃったって言われたらしいんですよ。そのときに、果たしてこのフィルムがもう一本あるのかな、ということがすごい心配になって、一座が上映して終わったフィルムを譲ってもらったりして買い集めてきたんです。結構そういった形で本当に二束三文で手に入れたフィルムもありますし、少し経ってからですが、家を抵当に入れて買ったフィルムもあります。それから最近ですと、よく質屋さんの蔵を開けるとフィルムが出て来たりとかね。結局映画館や一座の上映が済むと質に入れてお金に換えてそのまま流しちゃうんです。それが何年か経って使い道が分からなくって出てきたりだとか、そういったところですね。ですから、一概にどのくらいかかったかというのは分からないんですけれども、ただ同然で手に入れたものもあれば、大金をつぎ込んで購入したものもあると、そういう風には聞いています。

立花 探すのも大変なんじゃないんですか?

松田 そうですね、今はなかなか出てこないですけれども、やはり集めているってことを言うと、ブローカーみたいな方が出てきたりだとか、色んなところで上映されていたっていう情報を聞いて訪ねて行ったりとか。ただそれで当たり外れはもちろん沢山あったということですね。

立花 それから今日上映する阪妻(阪東妻三郎の映画ですが、これは人に聞いた話だからちょっとよく分からないんですが、阪妻さんが亡くなったときに阪妻さんの家にあったものを誰かが持って行ってしまって、それをしばらく経ってから松田さんの所で買われたっていう話があるんだけれど、それは本当ですか?

松田 ええ。『雄呂血』というのは日本の無声映画の中ではオリジナルのネガが残っている貴重な作品なんですよ。私の父親は幼いときに千葉に住んでいまして、ちょうど阪妻さんの谷津の撮影所というのが千葉にあってその近くだったもんですから、よく撮影所に遊びに行っていたらしいんですよ。それで弁士の息子だっていうことで、私の父は阪妻さんに結構可愛がって頂いていたんです。それで毎回チャンバラシーンがあると、若い衆に「お前らに『雄呂血』見せてやりたいな」みたいな話をしているのを何度も聞いていたんですね。ですから私の父の頭の中に『雄呂血』という題名っていうのはものすごく残っていたらしいんですね。それで、阪妻さんが亡くなったときに、ご遺族の(田村)高廣さんを訪ねて、昔阪妻さんが『雄呂血』という作品をお撮りになったと言ってましたが、そのフィルムがあるのでしょうか、というお話をしたときに、確かに昔家にはあったと。ただ、亡くなった後に、やっぱり家の中がすごい混乱していたらしいんですね。ファンだと言って訪ねてくる人がたくさんいて、ご遺族の方はファンだって言うから家の中に入れて、色々アルバムとかを見せて、お茶を出しに行ってる間に戻ってきたら写真が皆なくなっていたとか、そういったことがすごいあったらしいんですよ。それで、確かに家にあった記憶があるんだけれども、今は探したけれどもフィルムはないという話だったんですね。それから17年かしたときに、大阪のほうの方だと思うんですけれども、どういう経緯かはちょっと分からないんですが、フィルムを持っているということが分かって、それで大阪に行く度に訪ねて行って、なんとかネガを譲ってくれないかという様な話をしていたんですけれど、なかなか譲って頂けなかったんです。その方が亡くなったときに、松田さんが一番しつこかったから、松田さんに譲りますよ、ということで、譲って頂いたんです。そのときには先頃亡くなられた高廣さんと一緒にお伺いして、一緒に引き戻して頂いてうちの方で管理させて頂いているということなんです。そんなに金額的に高い、という話はあんまり聞いたことがないですね。

立花 じゃあその阪妻さんの家にあったのが消えたというのは、本当だったわけですよね。

松田 そうですね、はい。

活動弁士の仕事

立花 では今度はお話を澤登先生の方にまた戻します。それで、当然、活動弁士として修行されたわけですよね。その辺の具体的なお話をお聞かせください。

澤登 そうですね、私は1972年の秋に入門致しまして、デビューはもう二ヶ月後くらい、1973年だったんです。ですから本当に短い期間だったんですね。私は高校時代は演劇部とかしておりましたけれども、ことさら芸能、芸の道には関係がなかったものですから、本当に初期の頃は独学というか…。ちなみに先生に伺いましたところ、昔も新人というか見習い弁士は先輩の弁士の語るのを聞いて、自分でそれをいわば自分のものにしていく、人の語りを聞いて自分のものにしていくということでしたので、私も二ヶ月経ってからデビューということを先生から伺って、しかも、デビューの作品が尊敬するチャールズ・チャップリンの短編『スケート』という作品でしたので、一生懸命先生の事務所に伺って、当時はビデオがあんまり普及しておりませんので、試写をして頂いて、それを頭の中に記憶して、家へ帰って台本を書く。弁士は台本を自分で書くんですね。それも驚いたんですけれども。ですから自分で書いて、また先生の所へ行って映して頂いて、話して、加筆訂正して台本を練り上げるということをしまして、そして1973年の1月の新宿紀伊國屋ホールのニコニコ大会といいまして、喜劇の大会ですね、チャップリン、ロイド、キートンなど、人気無声映画スターの映画一挙上映ということで、松田春翠先生や、西村小楽天先生、牧野周一先生といった当時ご存命の往年の弁士の先生方の前座で出して頂くということでしたから、その二ヶ月の間では修行というのはとにかく映画を自分の中に記憶して、それで台本を書くということがあったんですね。そして、むしろ修行というのは、73年にデビューして舞台に立った後、自分で小唄の先生の所に行って学ぶ、唄う、三味線も学ぶ、間のとりかたに日本の音曲が良いということでそこに通う。それから義太夫の先生につく。ボイストレーナーの先生につく。アナウンス学校に行って発声、発音訓練、ナレーションという様なものも致しました。ですからそういうことを全部自分で自費で先生を訪ねて自分でするということです。あとは落語、講談。皆さん、私ね、聞いているんですよ、テレビのCMなんかに出てくる小さん師匠とか、それから圓生師匠とか、馬生師匠とか、そういうもう亡くなられたね、昭和の素晴らしい落語家さんたちの芸を紀伊國屋の寄席とかヤクルトホールとか、そういうところで端から拝聴してるんですね。そういうことで話芸のうまい人の芸を聞く。もちろん松田春翠先生の芸を常に拝聴する。あとは実地に習い事をして修行致しました。

立花 先日伺ったときに門下生というか若い方々が随分活躍されていらっしゃいますが、今は澤登先生には何人か門下生がいらっしゃるわけですよね。

澤登 はい。おります。男性が一人。女性が三人です。山崎バニラちゃんも門下生の一人です。

小池 ちょっと一つ質問していいですか。台本を自分でお書きになるということですが、そのシノプシスというのかな、それはあるんですか。

澤登 字幕が出ますが、字幕を書き写したものと粗筋しかありません。

小池 あらすじというのは、大体残ってるの?

澤登 それは映画を見れば分かりますし。

小池 いやいや、元に作ったやつは残ってるの?

澤登 キネマ旬報に載っているあらすじがあります。それをもとに字幕と字幕の間の語りとセリフを全部考えて作るんです。でもそういうご質問すごく嬉しいんですよ。あらかじめね、決められた台本があってそれを皆喋るのかと思ってる方がかなり多くて。

小池 そうすると弁士の方によって、セリフも違うでしょ。

澤登 変わっちゃうんですよね、映画。

小池 筋が違っちゃったりする? ない?

澤登 筋そのものは変わりませんが、解釈が違うので、どこに力点を置くか。悲劇でも母物でも、母の心情に力点を置くか、娘の心情に力点を置くかで言葉が変わってきますよね。

立花 まさにその通りで、私も同じ映画を澤登先生じゃない弁士の方で観たときとは全然違うんですよね。女性の観点から見た男性だったり違ったりするっていうのがあって。決まった台本があるのにこういう風に違うのかなと思っていたんですが、今伺って全部自分で作られるってことだと、非常に納得がいったわけです。澤登先生のところの若い方のはちょうど噺家のようなね、ちょっと落語風のスタイルだったから、修行として落語であるとか、色んなものを勉強させていらっしゃるのでしょうか?

澤登 特に、私はああしなさい、こうしなさいって言っていないんです。松田春翠先生もそういうことはあんまりおっしゃらなかったものですから、そういう点では自分でとにかく色々見つけなければ、ということで却って良かったんですね。私も今いる四人の人たちにはそういうことはほとんど言わないんです。あとは皆個人的に落語好きだったり、講談好きだったりということで、そういうものを観に行ったりして取り入れてるんじゃないかと。基本的に昔の弁士の人も、弟子はあったでしょうけれども、必ずしも師匠の芸を受け継いでいくとか、そういうことではないようですね。

立花 じゃあそこは落語なんかとかはちょっと違うわけですよね。

澤登 そうですね。落語の場合は一つの話でも決まっていますよね。古典落語で『寝床』とか『明烏』とか。そういうのを師匠の前で語って、師匠に色々批評を受けて、ということですけれども、私たちの場合は台本も各自が書くわけですから、その基本的なところで変わってきますよね。ですから仮にAという先生が昔なさったものを現在する場合、同じようにはしないということになりますね。そういう意味では自由が許されている反面、怖いという。つまり自分で編み出さなくてはならなくなるということはあるでしょうから。

小池 僕がさっきお聞きしたのはね、途中字幕が出てくるでしょ、セリフの。元々映画が作られるときには多分、その筋書きっていうのは多分あったんだろうと思うのね。監督が作るとき、撮影のときには。

澤登 初期の頃にはないんですよ。

小池 父が大学時代に読んでいたドイツの映画のこんな小さいやつ、これが無声映画時代のシナリオだって言って父から貰ったんだけれど、それを見ると本当にこんな薄っぺらい。それで一時間ぐらいの映画を作ってたんだっていうんで、あぁこの頃の人は多分セリフがほとんどないから、筋書きだけで画を作ってやっていたんだな、という風に思ったんですよ。画作りをね、監督が。だからそういう意味からいくと映像の作り方というのは今みたいにセリフに頼るんじゃなくて、映像で見せる、というのがやはり基本にあって、僕はやっぱりそれが映画の原点じゃないかなという風に思ってますけれどね。

澤登 私、今ちょっと勘違いをしていました。撮影台本が殆どなくて、シノプシス的なもので撮影していた初期の頃と、台本がちゃんと書かれた時代があって、小津安二郎監督とか、そういう監督さんのは全部撮影台本や、シナリオ集とかありますから。シナリオというのはあるんですね。だからおっしゃった様なシノプシス的なものはかなり、あったことはあったと思うんです。ただ、弁士のところにまわってくる台本というのはそういうものではなくって、字幕を書き写したものと、あらすじを加筆したもの、ですよね。そういうものが、まわってきたということですね。

小池 徳川夢声さんとか松田春翠さんとか、漫談にいかれた大辻司郎さん達とかという方たちが、かつて活弁やっていた。そして、トーキーになったとき、トーキーに反対して大騒動が起きたっていうような話も聞いたんですよね。俳優さんも当時は全然自分で喋ったセリフが出てこないから、セリフが上手でも下手でもいい。女の女優、女の女優さんておかしいけれど、女優さんの役はほとんど男がやっていたという、歌舞伎からの伝統の中で。衣笠さんもそうでしょ。

澤登 衣笠貞之助監督が日活の向島撮影所で女形を…。

小池 女形の役やったよね。だからトーキーになったときに俳優さんも初めて自分で喋らなきゃいけなくて、セリフが喋れなくって駄目になった俳優さんっていうのがいっぱいいたって言うんですからね。

澤登 います。例えばジョン・ギルバートって言ってグレタ・ガルボの相手役もした、凄い綺麗な、今で言ったら誰ですかね、あの人気ナンバーワンのキムタクよりももうちょっとおじさんぽい顔ですけれども、非常に格好良い人がいたんです、男性的なね。無声映画ですごく良かったんですけれど、音の出る映画になったら、皆が思ってる二枚目の声と違う。キンキン声だったらしいんですよ。当時、初期の頃ですからマイクロフォンの設備とかも今程良くないわけじゃないですか。ですからマイクにのる声とそうじゃない声っていうと、そうじゃない声の場合はかなり厳しいものがあって。彼もその声のせいだけではなかったんでしょうけれど、発声練習とかそういうのをあんまりしなかったせいか、なにか非常に良くない声で。それで、あんなハンサムな人があんなキンキン声だわって失笑…映画館で笑い声が起こっちゃって、凋落して。最期は自殺に等しい死を迎えたのです。クララ・ボウもトーキー化で凋落してしまったようです。

小池 活弁という仕事はほんとすごい人気職業だったんでしょ? 

澤登 当時は首相のサラリーより多い月収を貰ってた弁士の方も…。

小池 そうですよね。今残ってると思うんだけれど、活弁番付っていうのがあるんだよ、東から西の。お相撲さんの番付みたいに。東の徳川夢声、松田春翠とか、ずーっと下まで。お相撲でいくと幕下三段目ぐらいまで並んだ、弁士番付っていうのがありましたよね。僕はある意味からいくと無声映画というのは、活弁を聴きに行くという楽しみの方が日本人にはすごく大きかったのかなという風に思いますね。今日は誰がやるから、この映画は誰が喋るから観に行くんだ、という様なところがすごく大きかったんじゃないかなと思ってるんです。

『雄呂血』について

澤登 そうだと思います。あとは『雄呂血』もそうなんですけれど、私は今1910年代、20年代のヨーロッパと日本の文化、欧米文化と日本の関わりというものを自分なりに調べようとしてるんですけれど…まだまだ足りないんですけれど、例えばバレエありますよね。古典的な『白鳥の湖』とか『ジゼル』とか、そういうバレエがあったんですけれども、1900年代にロシアでディアギレフという人がロシア・バレエ、バレエ・リュスというのをこしらえます。それは創作バレエであったり、非常に官能的であったり、それまでバレエっていうとプリマ、女性が主だったんですけれども、男性舞踊手に焦点を当てる。ディアギレフが美少年が好きだったということもあるんですけれども、男性舞踊手でニジンスキーとか、そういう人たちが出てきて『牧神の午後』とか『春の祭典』とかそういうのをするんですね。それは、それまでの古典的なバレエの枠を破った非常に荒々しく官能的な、人間の心と身体の解放を訴えるようなそういうバレエだったんです。舞台装置も、例えばキリコが、ピカソが協力し、衣装はシャネルが協力、みたいに。パリ公演のときなんか凄かったんですね。ジャン・コクトーなんかも非常に心酔した。例えばバレエ一つとっても20世紀は新しい、1900年代というのは新しい、18世紀にない、ものすごく新しい人間の心身を高くパーッと解き放つような、そういう運動が出て来たんです。それから美術。美術は表現主義と言って、外界をその通りでなくて人間の内側に取り込んで主観的に表現をするといった、例えば歪んだリンゴとか、映画でいったら『カリガリ博士』の歪んだ装置とか。そういう風に外界を一旦人間の感性の中に取り込んで異形のものとして表現する、表現主義、それからダダ、そういった新しい芸術運動が起こってきまして、そういうものが日本にやってきて、そして、後ほどご覧頂く『雄呂血』もそうなんですけれども、ちょうど時あたかも人間の心身を解き放つという様なことが全体的にあったときに、日本ではチャンバラ映画が非常に盛んだったんですね。どこか通じてませんでしょうか。例えばちょっとバレエ・リュスの方が先かもしれませんけれど、ニジンスキーが舞台で『牧神の午後』『春の祭典』でものすごい跳躍をして、パーッと観てる人が眩暈起こすようなすごい跳躍をして、パッと跳びます。皆さん、頭の中のスクリーンに思い浮かべてください。ニジンスキーが跳びます、バッと。その次、阪東妻三郎が跳びます。血刃を振います。斬って走ります。次、ニジンスキーがまた跳びます、という風なこと。つまり、イメージ的には世界的な文化の流れというのが、人々を古いものから解き放っていこうよ、もっと自由になろうよという動きのところに、日本の時代劇のスターたちの、正にこういうカァッと激しい運動というものがあるわけなんですね。だから時代劇といって日本だけの、もちろん日本独特の歌舞伎の伝統からきてるんですけれども、そしてその歌舞伎の伝統を打ち破って新しい殺陣を作っていったというところは非常に日本的なんですけれど、日本的と見えるそこにも世界の1900年代の新しい感性、新しいムーブメント、新しい芸術と響き合い、そこから影響を受けているものがすごくあって、まさにニジンスキーや阪妻や、そしてダダや表現主義やリリアン・ギッシュ、皆同時代なんですね。文学でもそうです。だからそういう風に考えると、映画というのは映画だけじゃなく、映画を越えて当時の芸術、そこには絵画、文学、音楽、バレエがあります。そういうものと結び合わさっていくということを私は考えたいし、そういうことをこれから訴えて行きたいと思っているんです。

立花 そういうことは非常によく分かります。同時代の色んな躍動感とか、ジャンルの流れの中で開花するというのがあってね。それはまさにおっしゃる通りで。例えばですね、『雄呂血』は1960年代ですか、市川雷蔵さんの主演で、監督田中徳三さんだったと思うんですが、リメイクをしてるんです。それが全然違うんですよ、阪妻のあの面白さが。確かに市川雷蔵というのは凄いスターで良いんだけれども、そういう雰囲気というか、それが全然出てこない。やっぱり映画というものはその時代の文化というものを非常に背負って、それで作られているんだなということをしみじみ感じるんです。だからリメイク版はまるでそういう時代的な躍動感というか、共鳴するような部分に欠けるところが多いと思うんですね。そんなことを考えていまして、今度あの黒澤明監督の『椿三十郎』がリメイクされるから、どういうことになるのか今から楽しみにしてるんです。

小池 僕ね、今先生が言われたリメイクっていうのはね、あんまり好きじゃない。僕が最初に観た映画がもう既にリメイクだったというのもいっぱいあるんだけれども。ヴァレンチノがやった映画を後でタイロン・パワーがやったなんて映画、『血と砂』かな? あのあたりは僕はリメイクの方から観て、後からヴァレンチノの映画観たりなんかして。今でも何となく最初に観た映画のリメイクっていうのは観たくないなって気分がどっかにある。今おっしゃった雷蔵さんの『雄呂血』と、阪妻さんの『雄呂血』。セリフがあるかないかで観る方に緊張感が、というか画の緊張感が違ってきてるんじゃないかな、という風に思うんですね。最初の頃の阪妻さんがやった時代は歌舞伎から来られた方が沢山いたんだけれども、その裾裁きだとか、そういうものを俳優さんたちは非常に気にしたんでしょう。僕の祖母なんかが観ていると、やっぱりアラカン(嵐寛寿郎)が一番良いって言う。どうしてって聞いたらパッパッて歩くときのあの裾の歩き方が綺麗だから、なんて言っていました。そういう画で見せる映画ということがやっぱりサイレント映画の時代の面白さだったと思うんですね。後からトーキーが出てからは、筋を追うという方の映画作りに変わってきたんだろうという風に思う。今日は『雄呂血』を観て頂くんだけれども、そういう目でも一回動きを見て欲しい。カメラもまた凄いね、当時としては。今みたいな色んな機械が無い時代に、ああいう撮り方ができてるっていうのは本当に深みというのかな。あのあたりの作り方なんていうのは当時としては大変なことだったんでしょうね。

澤登 そうですね。あの投げる瓦、色んな三種類くらい瓦を用意して、それをこう…下に。あの撮影は奈良の法蓮町で撮っていますけれどね。移動撮影も当時としてはすごい画期的だし、おっしゃいました俯瞰撮影も見事ですね。

小池 ちょっと話飛ぶけれども、松島ね。あそこ島がいっぱいあるじゃないですか。あれをこうやって上から撮ると、松島がどういう形で島が並んでいるのかが分かる。江戸時代に描いてる地図がほとんど狂いなく俯瞰できてる地図があるのね。どうやってその島の地図を作ったのか分からないんだけれど、人間って実に不思議なことをやってるものだという風にしみじみ思いますね。

澤登 映画みたいな発想って、もうギリシャ時代にあった様な気がしますね。

無声映画について

小池 僕ね、20世紀っていうのはすごく大変な時期だったと思うのは、映画をリュミエールが作ったのは1895年くらいなのかな、ということはもう20世紀に入るときですよね。思うに、人間が有史以来、有史以来ではないな—発生以来考えていた一つの事は、空を飛ぶということで、これは神話時代から色んな話がある。背中に羽をつけてロウで固めて飛んだら、お日様の近くで溶けて落っこちたとか、色んな民族の神話にある。もう一つは、二次元の中で動く物を見るということ。これも人間の随分長い間の夢で、古い洞窟の中に馬や鹿の足を何本も描いて走っているのを表現していたり、江戸時代のからくりの幻灯なんかでも物を動かすことをやっている。二次元で物を動かすということ、それを皆が見れるということ。随分人間が追っかけてきたことが、この映画ができたときに初めて自分たちのものになったというか…。それが100年の間にあっという間に変化してきた。20世紀というのは凄い世紀だと思うんですよね。その最初のときのこだわりじゃないけれども、画でもって見せる、二次元の画で見せるというところからいうと、やっぱりサイレント映画。セリフがないから。弁士がついていたから筋は分かるんだけれども、観てる方も。ただ弁士が付くというのは日本だけだったんでしょ?

澤登 初期の頃は欧米にもいました。はい。なくなったんですね。

小池 そういう意味からいくと、もともと日本には本当の無声映画はないという言い方もあるけれど。でもやっぱり作る方はセリフがないから画でもって話を観てる人に分からせるということ。画の積み上げを作ってきたっていうところ。繰り返すけれども、サイレント映画の作り方が、映画の、映像の作り方の原点かなぁという風に思うね。

立花 ちょっと質問が変わるんですけれども、サイレント映画のコマ数って16コマで、トーキーが24コマですよね? 

松田 16コマというのは一応ひとつの基準ではあるんですけれども、一番初期の頃は手回しですから、正確な数っていうのは出ないですね。それから時代や作品によって多少違っていまして、常にこの作品はどのくらいの回転数でやるのが適切なんじゃないか、というのは研究の対象にはなっていることですね。まあ、だいたい16、18、20ぐらいですかね。

立花 じゃあトーキーの方が多いんですね。

松田 そうですね。一秒あたりに速く回転した方が動きとしては滑らかに見えます。今のビデオは30コマくらいで早く回っていますし。そうですね、だいたい。

立花 そこでちょっと伺いたいのがですね、澤登先生、今の、音声が入ってる映画の音を消して、それで活弁をするというようなことはお考えになったことありますか? 

澤登 難しいですね。セリフをずっと喋ってる人が多いんですよ。トーキーって。

立花 黒澤さんとかそのへんの時代の人というのは非常にセリフが多いけれども、小津安二郎の作品は「あぁそうか」とか「そうだね」で終わってるところが随分多いんで。例えば小津安二郎さんのトーキーの作品で、仮に音を消して活弁をするということは実験的なんですけれど…。

澤登 小津監督の場合は、もう定番になってるような俳優さん—笠智衆さんとか、原節子さん。すると原節子さんの声、笠智衆さんの声、東山千栄子さんの声、それから三宅邦子さんの声。小津映画はセリフと、そのセリフを喋る声がセットになって、皆さんそれを追体験したいという方がいらっしゃるので、小津さんの映画はちょっとそっとしておきたいと。むしろフランスやなにか、日本でもそうですけれど、実験的映画。トーキー初期の頃でもいいし、または今現在作られているゴダールとか。そういう人たちの実験的な映画を全然違う映画にしたい、というのがありますね。

立花 先ほど、顔や体格は変わるかもしれないけれども、人間にとって一番変わらないのは声じゃないかという話をしていまして。そうなってくると、例えば佐分利信の声であるとか、笠智衆の声というのを消してやるということは非常に難しいということになると、役者にとってみると、顔よりも声の方が大事かもしれない、というようなことをちょっと考えたんですが、どうでしょう? 

澤登 そうですよね。電話って怖いですよね。顔が見えなくても、その声で相手のどういう風な…。「今いいのよ、いいのよ」って言っていても実はそうじゃないって、声音で、声の微妙な感じで相手が分かってしまうんですよ。だからおっしゃる様に、顔でいくら愛想笑いをして「いいのよ、いいのよ」って言っていても、その声の表現。その言ってるときの声の調子で分かるんですよ。だからおっしゃる様に声は誤魔化せないし、声は絶対外形よりも正直です。ちょっと私が言ってるのは違うかもしれないけれども…。

立花 そうです、正直ですね。

小池 テレビでね、大物の刑事が出てくるじゃないですか、えーと…。

立花 コロンボ? 

小池 そう、コロンボ。コロンボの声ははじめ小池朝雄さんですよね、初めの頃ね。日本人は皆吹き替えでもってあの映画を観ている。本人の声はもっと甲高いんですよ。そうするとね、観てる人は小池さんの声じゃないとコロンボに見えないんですよ。だから、Aは小池朝雄さんの声で—今は替わられてまた同じような声を出してるんだけれども、Bはもともとの声。すると皆ね、Aの小池朝雄の声の方がコロンボらしいと言う。あれが頭の中に染みついてるんですよね。声っていうのは僕はすごく大事だという風に思う。  さっき出た手回しの話ね。この間亡くなった高村倉太郎さんという有名な撮影監督がいらして、この人が僕が日活に入った頃、よく話してくれたんですが、彼が入った頃はまだカメラは手回しだったんですって。それで、戦争映画を撮っていてこう回していると—自分の中で数えながら回してるんですね、あのリズムを。するとドンって地雷なんかがくると一瞬駄目だと思いながらもパッと止まってしまって、そこで画が止まるんで、叱られてやり直しだって。
トーキーができたのは33年くらいですかね、31年くらいかな。ジョルスンのトーキー*1。

澤登 アメリカでは27年。日本では31年くらい。

小池 そのあたりですね。映画というのはサイレントからトーキーになって、トーキーのモノクロ映画がカラーになる。それからサイズが変わってきたね。僕は随分映画を観る見方が違ってきたんだなぁって思う。今はテレビで観られるから。映像を観る方も、場所と見方も随分変わって来てるんだろうと。私はやっぱり映画は映画館で、というのは、これだけは崩したくないですね。

澤登 群衆の中の孤独って言いますか、全く知らない人達の間で、一人で、そして画面と向き合っている。だけど、他人が周りにいっぱい。その方が孤独があるじゃないですか。それで観る。面白いところがあると、場内バーっとなって。オールナイトで『網走番外地』とかね、拍手起こっちゃったりするんですよね。『緋牡丹博徒』とかね。赤穂浪士の討ち入りじゃないけれど、お竜さんが行くときなんかも、それから高倉健さんが行く時とか、ああいうところ皆拍手が起こるという。だから孤独でありながら、あるところ共感しうるところは皆と共感する、そういう状態で映画を観る。そういう体験をしちゃうとテレビとかそういうのはもったいないな、ってそういう感じがします。

小池 僕の経験で言うとね、撮影のとき途中でラッシュを観るじゃないですか。ラッシュというのは、写したやつがどんなふうに写っているか確認するために、現像が終わってスタッフだけで観ること。それを観る。それから、できあがった時に完成試写といって、撮影所の中でそれを観る。それから映画館で観る。そして、最近はその映画を「あぁ懐かしい」って言ってテレビで観る。全部観てる場所によって違うのね、感じ方がね。だから映画というのは家でひっくり返って観てるとやっぱりダメなところがあるんじゃないかという風に思う。

澤登 そうですね。映画そのものの発生は見世物として始まったので、それはつまり日常を越えた空間に人を誘うということが映画のそもそもの始まりですから。やはりすべからく、そういうものは日常と異なるところで観た方が面白いんではないかと思います。

小池 非日常ですもんね。最近で言うともうひとつね、端的なのは俳優さんですよ。昔はスターというのがあってね、スターというのは手の届かないところにあるお星さまだったんですよ。それはどこの国でもそうで、インドネシアに行くとお星さまのことをビンタンっていうんだけれど、だから綺麗な人とか女優さんをビンタン、ビンタンなんて言う。スターというのは手の届かない人で、ちょっとおかしな話で申し訳ないけれども、昔の人は皇后陛下と高峰三枝子さんは本当にトイレに行くんだろうかって思ってたというくらい、女優さんの綺麗な人、男優の美男というのは自分たちの手の届かない別世界の人だ、という感覚の中でスターの映画を観に行ったのね。今はもうテレビでしょ。しかもコマーシャルに出て「これ買うと安いですよ」なんてやってるところにスター俳優さんが出ていると、ちっともスターじゃなくてスターダストくらいまでに落ちてきていることになってしまう。そういう意味からいくと、非日常性というあたりが今すごく混乱してきているんだなという風に思いますね。だから高倉健さんなんかが割に孤高を保っているのは僕は良いな、という風に思います。

無声映画時代のスター俳優

立花 今スターの話が出ましたが、スターというと阪妻とか、アラカンとか、勝新とか、詰めた名前ね。他にあんまりないんですね。そういう風に呼ばれる人で、今で言うとキムタク。これは木村拓哉を縮めたものですよね。それから豊川悦司もトヨエツと言われてるからその辺はスターなのかな。スターというのはそういう風に詰めて呼ぶというのが一つの…。だから市川雷蔵は駄目だとかね。

澤登 いや、そんなことはないと思うんですけれど…。

立花 違いますか? 

澤登 たまたま名前がちょうど…。市川雷蔵でイチライとかね、ちょっと違うでしょ? マリリン・モンローがMMって表記されて、ブリジット・バルドーがBBとかね。それからクラウディア・カルディナーレがCCとかね。

立花 そういう略語というか、非常に記号的なんですね。まさに名前の記号化というのがされやすいほどスターだっていう説もあるんですけれども。例えば三船敏郎だったら、そうじゃないとかね。

小池 そういうことからいくとね、今は詰めるんじゃないんだな、もう。苗字だけとか下だけとかいう呼び方はね、戦後もあるんです。石原裕次郎と長く言わないで裕次郎、裕ちゃん。アキラっていうと小林旭だとか。吉永小百合だって小百合ってだけいうような。有馬稲子さんの稲から、有馬さんに似てる綺麗な子だ、って言うんでお麦なんて呼ばれた女優さんがいました。

立花 芦川いづみでしょう? 

小池 芦川いづみかな。彼女がお麦なんて呼ばれて、有馬稲子さんに似て綺麗なんだけれども稲っていう名はあれなんで、お麦と呼ばれたなんてことはあるけれども。あれは歌舞伎時代の影響ですかね、俳優の名前を短くしちゃったというのは。阪妻だとかアラカンだとかっていうのは。

立花 その方が言いやすい。子どもでも年寄りでも言えるというね。阪東妻三郎とかね、嵐寛寿郎っていうと舌を噛んじゃうような感じでしょ。そうするとそれでアラカンとなる。そのときに芸名の付ける側の方のポリシーだという説もあるんですけれども、それはどうなんでしょう? 

澤登 でもねぇ、大河内傳次郎とかもいますし、市川雷蔵はすごいスターで、今もファンがいる。

立花 錦之助も。

澤登 錦之助も。だからたまたまね、姓と名を縮めやすかったりする…尾上松之助が目玉の松ちゃんって言われたり。たまたま突出したそういうものがあったりとか、名前を縮めやすいっていうことで、別にそういうものができるから大スターっていうのはどうなんでしょう。どうですか?

小池 大衆性があったということなんでしょうね。

立花 そういう大衆性があるってことでしょうか? どうでしょうか、その辺のところ。

松田 うーん…。ニックネームで呼ばれるというのは一つのスターの証かもしれませんけれど、必ずしも縮めるから、とは言えないかもしれませんね。

立花 高倉健だって健さん。だから是非そういうことを伺ってみたかったんです。あとは、役名でもって呼ばれちゃう人もいる。渥美清さんは寅さん寅さんと呼ばれたという。渥美清ってフルネームで呼ばないでずーっとそういう風に呼ばれる。そのくらいの大衆性というか…。つまり非常に記号化されてしまって、それがスター性だということなんですけれどね。

小池 いや、俳優さんの名前を覚えなくなったことは確かなんですよ。それはテレビが悪いっていうかね。仮に朝ドラに出るでしょ、『おはなはん』。樫山さんが、おはなはん。そうすると樫山文枝という名前を「おはなはん」で覚えているのね。朝ドラなんかに出てくると、ほとんど主演の女優さんの名前を役者の名前で覚えないで色んな役の名前で覚えちゃって、その時の役の名前で「あ、何とかちゃんがいる」という。ある俳優さんがこの間こぼしてたけれど、本当に名前を覚えてくれてる人が少ないんだよねって。何かのときのタイトルが出てきて「え、あの人あんな名前だったんだ」っていうぐらいに、皆役で覚えて、芸名で覚えてくれない時代がきている。嘆いてましたけれどね。

立花 それから、先ほどもおっしゃってた様に、映画というのはできるだけビデオや自分の家では見ない方が良いなと私は思っています。やっぱり映画というのは闇の世界で観るということ。これはバルトというフランスの記号学者が言ってますが、映画館の闇というのは映画を一番生かす。それに非日常であると。闇が一番良い。その方が何があるか分からない。映画が良いかもしれないし、痴漢がいるかもしれないし、分からないということで。なかなか映画館の闇っていうのは良いものだと。それが段々なくなってくるっていうことが、僕は良くないことだと思ってるんです。

小池 ひとつは、さっき澤登さんが言われたように、映画館で闇の中のスクリーンと向き合って、群衆の中でも孤独で、という見方するんだけれども、例えば『風と共に去りぬ』のね、アトランタの駅前の累々としたモブシーンなんていうのは、テレビで観たらあんまり感激しないんですよ。ところが大きいスクリーンであれを観るとすごくぐっとくる。それから『アラビアのロレンス』の砂漠のシーンでね、連れて来たひとりがラクダから落ちちゃう。それをロレンスが拾いに行くんですよ、もう無理だよというのを。映っているのはね、延々と空(から)の砂漠なのね。それを観ていて、向こうにポツッと出て来たときに、皆がアッていう、「来たっ」ていう感動がある。テレビで観てるとね、ポツッだかなんだか分からないのね。それからもうひとつ言っておくと、『アラビアのロレンス』の延々と続く砂漠のシーン、何秒か、何分か。それをね、仮にテレビで見せたら、みんな飽きちゃってチャンネルを変えたくなるんですよ。だけど映画館の中にいると、さっき非日常性と言ったけれど、自分がいる空間性の違いの中でそれが見える。それから時代劇の映画なんかでよくあるんだけれども、大きな屋敷やお城の中を映す。俳優さんが出てこないで屋敷の説明みたいにして空舞台で。映画で観ていると別に長いとか、退屈だとか思わないんだけれども、テレビであれをやったら、観てる方はまーだこんなことやってるぞってチャンネル変えられる。それぐらい、テレビで映像を観る日常性の時間の感覚と、映画を非日常的な場所で観る時間の感覚というのは、絶対違うだろうという風に思うね。だから、すごく保守的なこと言うんだけれども、映画はやっぱり映画館で見なさいよと。こういう方が面白いと思うんですね。

立花 それにテレビだと小さいですからね。やっぱりスターの顔ってでかく見たいじゃないですか。大きさが僕はすごい違うと思う。小さいと「なんだよ」ってことになる。大きい方が良いなっていうことを思っています。  あとは澤登先生に、伺いたいんですが…。ご職業柄こういうこと聞いていいか分かりませんけれども、一番好きな、自分でやってこれだったらいつでもやってもいいという様な作品はありますか?

澤登氏 一番好きな映画

澤登 『瀧の白糸』ですね。この間フィルムセンターで上映された『瀧の白糸』を語らせて頂いたんですが、これ原作泉鏡花。私、全集を持っています。大変な美文の大作家です。ほんとすごい。ちょっとシュールレアリズムみたいなところがあって、日本的な繊細な美意識と、シュールレアリズムのような空間感覚を持つ素晴らしい言語魔術師、泉鏡花。この人の『義血侠血』が原作ですね。水芸の太夫、芸人の女性が恋しい男の人を世に出すために苦労をして殺人まで犯して、奇しくもその検事となった彼に裁かれるという悲劇なんですけれども、これを溝口健二が映画化したんです。泉鏡花という人は幼い頃に美しい母を亡くして女性崇拝なんです。溝口健二は家が貧しくて、芸者になっていたお姉さんに助けられたという。だから鏡花は女性崇拝ですけれど、溝口健二は女性に対する愛憎半ばというか、憎悪もすごく持っているという人なんですね、お姉さんに助けられましたけれど。ただ『瀧の白糸』の共通性というのは、泉鏡花の女性崇拝と溝口健二が姉に助けられたという、女性に助けられた、というようなところで、『義血侠血』の原作と溝口健二とは通底するんですが、しかし片や、泉鏡花はロマンチスト、片やリアリストということで、原作者と監督の資質は全然違うこの映画。入江若葉さんのお母さんの入江たか子さんと、岡田茉莉子さんのお父さん、岡田時彦さんが、当時最高の美男美女が演ずる昭和8年、1933年の作品で、入江たか子さんの日本における女優初のプロダクション、入江プロダクションの制作なんです。これを観てまして。ずーっと観てたんです。ずーっとこの作品は大好きで。この世界に入るきっかけは松田先生の語られた『瀧の白糸』でしたから、ずっと観てたんですけど、ウン十年たってやっと気付いたんですね。これは言うところの溝口健二が女性の受難として、この人は女性の受難が得意な作家ですから、映画作家として女性の受難として描いていますけれども、現代の私たちが観たら、特に私だけかもしれない、私が観たら、これはそうじゃなくて、ギリシャ悲劇に通底する崇高なる人間の物語だと、これは女性の受難だとかそんなものじゃない、という風に私は自分の中ではたと気付いたんですね。というのは『瀧の白糸』のヒロインは選ばれたる人なんですね。正に非日常空間の芸の世界に生きる、選ばれたる人で、しかも彼女が演じる舞台には、水の宮殿が舞台に描かれるんですね。水というのは流体ですが、ある一瞬、その瞬間止まったところは水晶と化すわけです。つまり彼女は水晶宮の女神なんですね。そういう選ばれたる人が非常に義侠心があって、もう自分はどうなってもいいからその人のために尽くすという、現在絶滅しちゃったような広い義侠心を持った人。これはギリシャ悲劇に登場するような人なのですね、こう凄い人は。その彼女が男性の為にということですから、選ばれたる人、選ばれたる瀧の白糸が選んだ相手というのがまたすごいわけですね。非常にこう、凛とした魂をもっている。凛とした魂を持っている白糸と、同じくそれに応える凛とした魂を持っている村越欣弥。もうそれは通常の恋愛を越えて魂と魂が共に飛翔していく。そしてそれは映像上では水晶の宮殿の様な水として表されている。そういう世界だと思ったんです。これはすごいと思って、台本を書き直してこの間フィルムセンターで語らせて頂いたんですけれども。そういうものを溝口健二が作ったと。本人がそういう意図では作ってなくても、そういう風に読み取って語ることができるような凄い世界がそこにあったということで。もう、ものすごく好きです、この作品。是非、外国の映画祭でもう一度語ってみたいと思っております。はい。

立花 ありがとうございました。ちょうど時間ですね。では、来年は『瀧の白糸』でいきましょう。どうもありがとうございました。

『雄呂血』上演前に

澤登 …こんにち私たちが観るような映画ではなくて、スクリーンのそばに弁士がおり、楽士がいるということですから、人間が介在するライブ・パフォーマンスというのが昔の映画の形だったわけです。大変に素晴らしい資料が皆さんのお手元にありますね*2。そこに懇切に書いて頂いてるんですけども、1896年、明治29年に日本に映画がやって参りました。エジソンのキネトスコープという覗き眼鏡式のものでありました。とても短いフィルムが輪になって繋がっておりまして、それがくるくると箱の中を回るという、それを覗き穴から一人ずつ覗くという形であります。エジソンのキネトスコープというのが1896年11月神戸で公開されまして、その後大阪、京都などでも公開されまして、その当初から説明者がいたそうです。上田布袋軒という人がその始まりだと言われております。ですから日本では、映画が輸入された当初から説明者がいたわけであります。また、本当に程なくして、シネマトグラフという、フランスのリュミエール兄弟発明のスクリーン投影式映画が日本にやって参りまして、これも勿論説明者がついたという訳です。では、どうして日本ではこのように当初から説明者がついたのか、そしてまた、最盛期には七千数百人もの弁士が、中には女性弁士も活動していたのかというところがひとつのポイントであります。欧米にも初期の頃、語り手がおりまして、イタリアでは映写技師が映写窓から怒鳴るという様なことがありましたし、アメリカではレクチャラーといって上映前に語り手が出て映画の内容を話したり、それから俳優さん達がスクリーンの後ろに立って、今日のアテレコ式の様に語ったり、ということがあったようなんです。アメリカ、イタリア、フランス、フランスはジョルジュ・メリエスが自らの映画を語る、という様なことがあったようなんですね。ところが、欧米では初期の頃いたんですけれども、やがて消えてしまう。パリのソルボンヌ大学の先生に伺いましたら、パリでは1915年位まで語り手がいたと、パリでも500人位いたということでありました。ところがその語り手と言うのは、要所要所を説明するだけということですから、日本の弁士の様に無声映画を自分のものとして物語るということではないのです。物語の語り手ではなくてポイントポイント、観客が分からないな、と思う所だけを所々語ったということであります。欧米にはその様に初期の頃いたんですが、消えてしまった。ところが日本では七千数百人もの弁士がいた。七千数百人もの弁士がいて、大衆文化として成立したというのは日本だけなんです。では、どうして日本にはこれだけ弁士がいたのか、人気を集めていたのか。先程のお話にもありましたけども、ものすごい人気で、弁士の語りを聞きに映画館に行く、なぜこの現象が生じたのかと言いますと、日本には昔から文楽の伝統があり、お人形がお芝居をすると義太夫が語る。「—はや東雲の街道筋〜」これは『卅三間堂棟由来』の一部ですけれども、そういう風に語るというのがあります。それから歌舞伎でもお芝居、そして長唄という様なことがあります。とにかく演じられるものに語りがつくという、もっと古くは平家物語を語る人がいる、太平記読みがいるということですよね。語りの伝統がある。それから江戸時代になりまして、浪人が始めたという辻講釈、これが講談ですね、それから落語といったように日本には数々語りの芸能が昔からあったわけです。そこへ1896年から97年とキネトスコープやシネマトグラフが入ってくる。日本には昔から外来の物を取り込んで、それを日本的に再創造するという伝統があります。外来の物、舶来の映画が入ってきて、それを日本に昔からある語りの伝統や芝居の伝統の中に取り込んで、映像と語り手と楽士が存在する娯楽、日本的な映画の見せ方、ということが成立したわけなんです。ですから日本の伝統というのは、日本における弁士の発達に欠くべからざる大きな要因という風に言えるのではないかと思います。弁士も色んな人が弁士になりました。新派の声色屋さんですとか、色んな人がいたんですけれども、中には徳川夢声のように第一高等学校ですね、東大の前身です。それを受験して、失敗して落語家志望が弁士になった人とか、それから英語もよく解る弁士の人とか。そういうインテリ、教養のある弁士も多々輩出致しまして、それこそ全国に活動写真館があり、そして勿論たくさんの弁士がいたということです。川端康成の『伊豆の踊子』の最後の方を読みますと、主人公の水原が下田の映画館に行くとそこで女性弁士が語っていた、という風に弁士のことが小説に書かれたり、それから弁士の影響を受けた方もおりますし、弁士のことについて書いているのが尾崎翠。私は同じ名前で、翠さんの天才にあやかりたいと思ってますが、鳥取生まれの女性作家、尾崎翠という方は『映画漫想』という随筆の中で徳川夢声のことを書いてます。そして『カリガリ博士』といった昔の無声映画について書いてます。ですから当時の文人墨客、芸術家の中にも弁士の語りというものに触発をされて、そういうものと自分の芸術というものを結び合わせようとした人がいましたし、谷崎潤一郎のように自ら映画制作に乗り出すといった人たちがいるということで、明治に始まった活動写真—1910年代から30年代が一番盛んでしたけど、その頃は活動写真が多くのジャンル、多くの芸術分野に影響を与えた。そして勿論、なんといっても大衆的に人気のある一大娯楽だったわけであります。ということで、お話をさせて頂きましたが、今からご覧いただきます『雄呂血』というのは、私の恩師である松田春翠が家を抵当に入れて求めたという、本当に大切なネガから保存されている作品でございまして、この作品は1925年、大正14年の作品でございます。日本には色々な動きが、芸術的にも社会的にも揺れ動く時代、青年は悩み、そして、もう様々な思想なり芸術なりが百花繚乱と咲いた、その時期がありまして、多感な青年であった阪東妻三郎は、剣劇スターではありましたが従来の型にはまった目玉の松ちゃんなどの剣劇を打ち破り、新しい、自由な伸び伸びとした、人間の魂と身体の自由を謳うような剣劇を編み出しました。そしてその彼は大変文学青年でありまして、当時の時代というものについて大変敏感な青年でありましたので、そういったものがこの中にも織り込まれているはずでございます。今日にも通ずるテーマでありますが、テーマにつきましてはゆっくりとご鑑賞頂いた上、皆様それぞれおひとりの感性で受け止めてくださいませ。お待たせ致しました。それでは阪東妻三郎主演、二川文太郎監督、寿々喜多呂九平脚本、『雄呂血』でございます。どうぞご高覧のほど宜しく御願い申し上げます。

<『雄呂血』澤登翠氏による活弁付き上映>

*1 「ジャズ・シンガー」のこと。映画史上初のトーキーと言われる作品。
*2 「イメージライブラリー・ニュース 第19号

(2006年11月17日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)