武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第29回イメージライブラリー課外講座
「ヌーヴェルヴァーグ再考」の記録

この講座について

1951年に創刊されたフランスの映画評論誌カイエ・デュ・シネマからは、フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェットエリック・ロメールなどの映画監督が輩出されました。既成の映画製作システムにとらわれず、即興演出、ロケ撮影、同時録音といった斬新な手法を試みた彼らの映画は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれ、世界に衝撃を与えました。今なお映画制作を続けるかつてのヌーヴェル・ヴァーグの騎手たちは、現代の若者たちにとっても近しい存在です。本講座では、改めてその誕生を振り返ることによって、ヌーヴェル・ヴァーグが映画史に与えた影響について再考しました。


『あこがれ』について

 今日はまず、フランソワ・トリュフォーというヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督の処女短編『あこがれ』からお話を始めたいと思います。正確にいうと処女短編ではなく、その前に“Une visite”『ある訪問』というのを撮っているんですけれども、トリュフォーがあまり人に見せたくないということで、生前観客の前で見せたのは、1982年にトリュフォーが日本に来まして、その時に一度だけ西武劇場(現パルコ劇場)で上映されただけで、ほかは全く上映されたことがありません。ですからこれはDVDなどの映像には全く残っていない作品になってしまいました。2作目の短編となる『あこがれ』は、子供たちと女の人と男の人がそれぞれひとりしか出てこない、物語がないような映画なんですが、これがどうしてヌーヴェル・ヴァーグ――新しい波、映画の新しい文体――になったのかは、後で一緒に考えていきたいと思います。
 冒頭で自転車に乗るベルナデット・ラフォン――この女優さんは実名もベルナデット・ラフォンという名前で、当時は確か18歳だと思いましたね。恋人役のジェラール・ブランはのちにクロード・シャブロルの『いとこ同志』にも出演しますけれども、当時彼らは本当に結婚していて、そのカップルが登場している。ぼくみたいに長生きしていると知っているのですが、こののち彼らはすぐ破局し、ジェラール・ブランは80年代初頭にガンで亡くなります。ベルナデット・ラフォンもつい最近ガンを患っていました。彼らふたりにとっても50年以上前の映画ですから、今生きていればおじいさん、おばあさんになっているんでしょうが、本当に彼らが若い時の、素晴らしい詩を切り取ったような映画だな、と思います。 後でもお話するんですけれども、冒頭の自転車の早さ――本当にゆっくりゆっくりカメラが後退移動していくような――何と言うんでしょうね、映画でなければできないような何か、と言うんでしょうか。それがヌーヴェル・ヴァーグだったんですね。ですから、ヌーヴェル・ヴァーグの重要な要素のひとつは野外で撮影するということなんです。それまでの映画は、体育館みたいな大きなスタジオに野外のセットを作って撮影していたり──京都の撮影所がまだ残っていますが──そういう所に昔の町並みを作ってそこで物語を作っていたりしたわけです。しかしヌーヴェル・ヴァーグの映画というのは、スタジオで撮影するということからはなれて、野外で、屋外で、自分たちの生きている空間で、現実のその場で撮影する。したがって移動撮影が非常に多くなりました。当時はミッチェルという40キロ位ある超重量級のカメラを使っていたんです。キャメラマンは皆ジムに通っていたそうですよ。屋外で撮影するということは、もうひとつ非常に重要な要素があります。自然光を使うということですね。つまり、スタジオだとたくさん照明があって女優さんの顔に照明を強く当てたりしますが、屋外ですと自然光の中で撮影するわけで、逆光になった部分、あるいは木立と広場のように暗い所と明るい所が一緒になったところ、人間の顔が判別できないくらいの逆光ショット、光が強くなったりするような場面というのが出てきます。そういうところはふつうスタジオ撮影ではNGショットになって、もう一回撮ることになるんですけれども、「屋外で撮る。したがって、こういうことはそのままでいい」。つまり、彼らがどのように映っているかということではなく、映っていること、それが重要だということになるんですね。つまり映画というものの目的が、とてもはっきりと変わってきたわけです。
 ぼくたちがふつうテレビドラマなども含めて映像のドラマを見ると、それは物語がいかに過不足なく語られているか、上手に物語が語られていて、これは泣かせようとしているんだな、というようなところを中心に演出されている。けれど『あこがれ』では、自転車に乗っているところなんか物語に全く関係ありません。そのあと少年たちが自転車のサドルの匂いを嗅ぐところを映せばそれでいいわけです。さらにはまたふたりがテニスをする前、水を撒いているおじさんがいて、そのホースを子供たちが踏んでおじさんの顔に水がかかるというシーンがありますけれども、このシーンも物語には全く関係ないですよね。これもまた後からお話しますけれども、「映画には歴史があって、その映画の最先端でぼくたちが仕事をしているんだ」ということを初めて意識した一群の映画作家たちの作品をヌーヴェル・ヴァーグと言うわけです。
 映画の最初期、リュミエール兄弟という人たちが撮った映画がありました。映画が公式に出来たのは1895年なんですが、その処女作のひとつが、リュミエール兄弟がパリのグランカフェで上映した『ラ・シオタ駅への列車の到着』という映画でした。南フランスにラ・シオタという場所があって、そこの駅へ列車が到着するところだけを撮った数分の作品です。当時の客はそれを見て、本当に機関車がスクリーンから出てきて轢かれるんじゃないかと思って身をよじってよけたという話も残っています。そのリュミエール兄弟が撮った映画の中で『水をかけられた水撒き人』という映画があるんですけれども、それと全く同じシーンを『あこがれ』に使っているわけですね。また、ジェラールがニームの駅で別れる場面で一瞬機関車が映るんですけれど、さっき言った『ラ・シオタ駅への列車の到着』と全く同じアングルで撮ってます。つまり映画には長い歴史があって、その中でぼくたちは撮っているんだ、ということを、映画を撮りながら確認している作業――これもまたヌーヴェル・ヴァーグだったわけです。
 そこで物語がいかに過不足なく語られているか、というようなことはあまり考えない。目の前にある風景と、目の前にいる登場人物たち、俳優たち、そして子供たちが光の中でどうやって存在しているかということを誠意を込めて写す。それだけで映画は成立する。さっきベルナデット・ラフォンはこの時18歳って言いましたけれど、一番美しい時の彼女がこうやって十数分間記録に残っている。映画とは記録に残すことが重要であるわけです。つまり映画は、物語がそこで語られていることよりも、そこに誰かがいて、そこに誰かが存在していたということ、それをもう一回映画で確認してみようじゃないか、ということなんですね。無声映画の最初期、ラ・シオタ駅に列車が到着したり、水を撒いてるおじさんの顔に逆に水がかかったりするのも、ちょっとだけその場面を映画で確認してみよう、という思いがあったわけです。そしてトーキーになって物語の映画が発展してきた中で、もう一回そうやって映画の新鮮な息吹というものを確認していく作業――これがヌーヴェル・ヴァーグであった。それと同時に、その時のその人の姿をそのまま写し込んで、それを何と言うんでしょうか、熱いままの料理を缶詰にして、その缶詰を開けると熱い料理がそのまま出てくるような、そういう仕掛けを映画の中で作っていこうじゃないか、というのがヌーヴェル・ヴァーグであったわけです。ですからヌーヴェル・ヴァーグというのは、できたての料理をそのまま缶詰にしちゃっているわけですから、もう一回開けた時、その新鮮さは決して失われない。ベルナデット・ラフォンは今はもう病に伏せった老女かもしれない、ジェラール・ブランは死んでしまった。そして何よりもこの作品を撮ったフランソワ・トリュフォーはもう今から20年前にこの世を去ったかもしれないけれども、あの日のあの光景、あの夏の光景はこうやってまだフィルムの中に生きているわけですね。だからヌーヴェル・ヴァーグは絶対に古びない、というふうにパンフレット(『イメージライブラリー・ニュース』2008年9月 第24号)にも書かせていただいたんですが、何度見ても「若い」「若々しい」「みずみずしい」「新鮮である」というような形容詞が次々に浮かんできます。
 もちろんヌーヴェル・ヴァーグの映画には、フランソワ・トリュフォーばかりではなくて有名な映画監督が5人程います。トリュフォーのライバルといわれたジャン=リュック・ゴダールという映画監督、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット。この5人を「ヌーヴェル・ヴァーグの五銃士」というふうにも言いますけれども、友達だった彼らが同じようなコンセプトで、それぞれが映画を撮り始める。これが1950年代の末期です。その一群の映画作家たちをヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちと呼んでいます。 では、映画とは一体何なんだろう? 記録をするメディアであったと言いました。そして運動を運動の中で捉えていく――つまり写真ではない。映画は1秒間に24回写真が動くわけですけれども、運動をそのまま、ほとんど何のてらいもなく写し込んでいくということ、それが映画なんだ。
では映画は何を写すんだろうか? それは特色のない現実そのもの。つまり、何の装置もなく、そこに照明をたくわけでもなく、そこにセットを作るわけでもなく、その場で映画を撮り始めるわけですから、そこに何よりも強い現実感、現実そのものがそこに映り込んでくるわけです。
 では現実って何だろう? ふつう、社会に住んでいる底辺の人の問題とか、病気になった人の問題とか、いってみれば社会のダークサイドみたいなものを告発するような映画が現実主義的な映画と言われているわけですけれども、ヌーヴェル・ヴァーグが語る現実というのは決してそんなものではない。問題を提出するのではない。そこにある現実をそのままなるべく客観的に、フランス語で言うとオブジェクティヴに――レンズのことをフランス語でobjectifと言うんです。なるべく客観的にそこに提出すること、それが映画なんだ、ということですね。

『大人は判ってくれない』について

 ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはいずれもパリで長編映画を撮ることでスタートしました。『あこがれ』は夏休みにみんながそこに集まったという偶然があってニームという南フランスの小さな町で撮られましたが、長編は全員パリで撮り始めています。パリでなぜ撮るかというと、理由のひとつはお金がなかったからです。何十人もの撮影隊を率いて、ロケバスでどこか遠くの町に行くわけにはいかない。そうするとホテル代もかかるし食費もかかる。それよりも通える場所、ぼくたちが知っている町で映画を撮ろう、ということになるわけです。
 フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』の冒頭のタイトルバックは、車の上にカメラが乗っていて、ゆっくりゆっくり移動しながらエッフェル塔を仰角ぎみに撮っているだけなんですけれども、「完全にパリ」ですよね。住んでいる人だったら、こうしたパリの映像というのは何度も見たことがあると思うんですけれども、映画にはなかなかこういうパリは登場しない。トリュフォーはエッフェル塔が大好きで、自分のコレクションでエッフェル塔の置物を400本持っていると言ってました。エッフェル塔があるから自分の居所がわかる、ということも言ってました。エッフェル塔を見ることによってパリを意識し、エッフェル塔が見えることでパリの映画ということが自然に認識される。
 『大人は判ってくれない』の冒頭は、モノクロの映画なのではっきりしませんけれど、おそらく空は曇っているだろう。エッフェル塔が見える角度から判断すると、冒頭はパリの7区から撮っていって、移動しながらエッフェル塔を捉えながら、一番最後にエッフェル塔のアーチの真下にやってきます。そこに大きく「mise en scène de François Truffaut」と字幕が出ます。この瞬間は何度見ても、本当にヌーヴェル・ヴァーグの処女長編である『大人は判ってくれない』は、パリ・シネマである、パリの映画である、というふうに思います。
 こうした都市を撮る映画というのは少ないです。たとえばウディ・アレンのニューヨークがありますけれど、あれは風景ではなく風俗なんですね。もちろん、ウディ・アレンの『マンハッタン』のタイトルバックはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のタイトルバックから強く影響を受けたと言われていますけれども、街の息吹みたいなものがそのままフィルムに写し込まれている映画というのは滅多にありません。東京というのを考えてみて、こういうものが思い当たるでしょうか? 東京タワーが見えただけではセットにしか見えない。エッフェル塔そのもの、パリそのものが非常に強い存在感を持って、こんな映画で姿を見せている。ただそこに何かがある、というだけでは、映画にはならないわけですよね。街のシンボルが映っているだけでは意味がない。つまり、現実の世界のある瞬間の中に何かが実在することを実感されなくてなりません。だから季節はいつなのか、ということも非常に重要です。
 日本にやってきたルイ・マルという映画監督にインタビューしたことがありました。彼の『さよなら子供たち』という映画のキャンペーンにやってきたときでした。この映画、全部冬なんですよ。ドイツ軍が攻めて来るので子供たちがパリから逃げてきているんですが、全員寒そうにしているんですけどすごく不思議なことがあって、ルイ・マルに質問したんですね、「子供たちの口から息が出てるんですけど、白くない。どうしてですか?」。ルイ・マルは「映画だからだよ」と笑っていましたけれど、フランソワ・トリュフォーの映画、あるいはヌーヴェル・ヴァーグの映画というのはそうじゃないです。冬は本当に冬です。夏は本当に夏です。例えばさっき名前を挙げたロメールの映画を連続的に見ていますと、「何月何日」という字幕がしばしば出ますけれど、それは本当に何月何日です。撮影日と映画に盛られた物語の日付が一致しているんです。つまり、映画は記録だ。その時にそうなったその人たち、その風景の記録だ、ということですね。
 『大人は判ってくれない』では、この映画が本当に冬に撮られていて、本当に寒い、ということがフィルムを見るだけで伝わってくるシーンがあります。アントワーヌ・ドワネル少年が家出をして、友達のルネから紹介された印刷工場で一泊する、というシーンなんですけれども、パリの夜、冬ですね。印刷工場はすごく雑音が強く、ここで明らかに同時録音しているということがわかってくるんですね。その後にお腹がすいて街を徘徊する。夜明け前でしょうか、ちょうど牛乳配達が――通りに立ってその牛乳を1本盗む。それを飲むわけですけれども、その飲み方が本当にきれいですね。何度も何度もリハーサルをやったと思うんですけれど、クーッと飲む。いかにもお腹がすいていて。つまり、牛乳を飲むことが重要ではなくて、どうやって飲むかが重要なんですね。これが映画的な演出なんです。2カット目では牛乳を最後まで飲み干す。次に牛乳瓶を下水道の所に捨てると、しばらくしてガチャーンと音がする。こういうところも、後から音を入れたんじゃなくて、その音がそのまま聞こえてくるような状況ですね。下水道の底はかなり深いわけです。そうすると夜が明けてきて、ちょっと顔を洗いたくなったり口をゆすぎたくなったりする。クリッシー広場というところに噴水があるんですが、噴水の水が凍ってるんですね。凍ってる水をポンポンッと割って、中から出てきた水は本当に冷たい。ここは本当に水が凍ってないとそういうことができないわけです。本当に冬じゃないと、本当に冬の夜明けじゃないと、こういうシーンは考えられない。ヌーヴェル・ヴァーグは記録だというふうに言いましたが、1958年の冬のパリが明らかに記録されています。
 では、なぜ街を記録するのか? ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちは全員パリに住んでいたのですが、そのことについて後で評論家が言ったことがあります。若い時のフランソワ・トリュフォーやゴダールが、若いと言っても十代くらいからなんですけれども、映画批評を書き始めたカイエ・デュ・シネマというフランスの映画雑誌があります。その映画雑誌で80年代に編集長をしていたセルジュ・ダネーという人がいます。この人は映画作家にはならなかったんですけれども、当時の同時代の批評をリードして、ぼく自身も彼から非常に強い影響を受けて今日まで批評をやっています。その人によると、「ヌーヴェル・ヴァーグというのは、パリという街は映画で捉えるに値するんだ、撮影するに値するんだ、ということの決意表明の映画である」。確かに、この街は映画的に成立するであろうか?ということを考えると、なかなか成立しがたい。
 例えばパリを撮ったフランス映画ってあんまりないんですね。正確に言うと、パリのフランス映画っていっぱいあるんですけれども、同時代のパリを撮影したフランス映画は非常に少ないんです。どういう意味かといいますと、パリの映画というのはぼくの母の世代から今日に至るまでずうっとあるんですが、そのほとんどがスタジオにパリを再現したパリの映画だったんですね。例えば『リラの門』とか──皆さんご存じないかもしれませんけど──30年代、フランス映画の名画といわれているものにはパリを舞台にした映画がたくさんあります。でも、その中でパリで撮影された映画はほとんどなく、パリの郊外にビヤンクール撮影所というのがあって、そこにパリのセットを作って撮影したわけです。そのパリのセットは、いずれも有名なパリのセット・デザイナーのアレクサンドル・トローネルとアンドレ・バルサックがデザインしました。撮影所に作られたパリというものが、パリの映像として世界に輸出されただけで、本当の生のパリを撮ったフランス映画は非常に少ない。例外的にパリの映像を撮ったふたりというのが、ジャン・ルノワールジャン・ヴィゴ。ジャン・ルノワールというのは、オーギュスト・ルノワールの息子のジャンですね。半年くらい前でしょうか、東急文化村で展覧会がありましたけれども。ジャン・ヴィゴというのは2、3本映画を撮って死んでしまった人で、この人にも1本だけパリで撮ったすばらしい『アタラント号』という映画があります。そのルノワールとジャン・ヴィゴというふたりの映画を除いて、パリで撮られた映画はありません。ほとんどセットで作られたパリで映画が撮影されていたんです。
 では、セットではないパリで撮られた映画というのはフランス映画以外にあったのか? アメリカ映画は結構パリの映画を撮ってますね。例えば『巴里のアメリカ人』というミュージカルでありますとか、オードリー・ヘプバーンが出ている『パリの恋人』というミュージカルなんかも本当にパリでロケされている。ただこちらのパリは絵葉書のようなパリで、本当のぼくたちが、住民たちが生きているパリとは違う、観光客用のパリですね。ですから東京の映像を撮るのに浅草の雷門を出すとか、銀座の和光を出すとか、そういう映像になってしまう。けれどヌーヴェル・ヴァーグは同じエッフェル塔を出しても、全然違う生々しさ、みずみずしさというのがその中にある。これはやっぱり、季節と風景というのを両方真実として、現実として捉えたからだと思います。

『勝手にしやがれ』について

 すでに見ていただいた方も多いと思いますが、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』にも、「本当にパリ」という場面がありますね。『勝手にしやがれ』は10回以上見ているので大体覚えているんですけれど、本当に『勝手にしやがれ』の名シーンのひとつです。若い頃映画のワンシーンの台詞を言って、何の映画か当てるというクイズをよくやりましたが、「ニューヨーク・ハロルド・トリビューン!」というのをやって、「『勝手にしやがれ』のあそこだよね」とわかる、有名なシーンですけれど。ジーン・セバーグジャン=ポール・ベルモンドが久しぶりにパリのシャンゼリゼで再会するシーン。「Monter le champ」というのが台詞で駄洒落になっていましたね。
 季節はいつなの? 絶対、夏ですよね。なんかこう、ヨーロッパの透明な夏の風景がピーンと伝わってくる。ニューヨーク・ハロルド・トリビューンのTシャツを着たジーン・セバーグがとってもステキで、何よりも、いかにもヌーヴェル・ヴァーグっぽいのはふたりの歩き方ですよね。ふたりがこちらに向かって歩いてくるのを後退撮影で撮っていく。『あこがれ』の冒頭を思い出してください。人物の動きを、移動撮影の動きの中で捉えている。足が切れてないですよね。足まで全部撮っている。そういう、映画の昂揚感と言うんでしょうか、このショットを見ただけで「映画だ」というふうに思うことが必要なんです。
 ふつう、こういうふうに歩いてくるシーンはテレビのドラマを見ているとほとんど出てきません。テレビドラマを見ていると大体歩くところはカットして、ふたりが出会うとふたりの腰から上を撮る、というふうになっています。なぜかというと、遠くから歩いてくるところを撮ると音が聞こえないということがひとつ。もうひとつは、ご存じのとおりテレビの画像は走査線の数によって決まっているので、映画の画像ほど濃くならないんですよね。ですからあまり離れた所を歩いているのを撮ると顔が見えなくなってしまう。
 つまり、テレビドラマはほとんどバスト・ショット以上の切り返しで以って作られているので、映画とは全く違う。ですからテレビ出身の監督は『勝手にしやがれ』のような映像を思いつきません。最近フジテレビなどがお金を出して、テレビドラマから出た監督がいっぱい日本映画を撮っていますけど、その中で描かれている遠くのシーンというのは、単に遠くのシーンである。遠くから人物が近づいてきて、カメラが後退――というような映像は思いつかない。なぜゴダールやトリュフォーが思いつくかというと、ずっと映画を見てきて、映画というのはこういうものだ、ということを体の心から自然に覚えているからでしょうね。

『女と男のいる舗道』について

 ゴダールの3作目の長編『女と男のいる舗道』は、ゴダールの中でも非常に有名な作品です。当時のゴダールの奥さんのアンナ・カリーナが娼婦役で、当時26歳くらいかな。つい数年前に日本でアンナ・カリーナが歌手としてコンサートをやった時、目の輝きは同じでしたがもうおばあさんで、ゴダールの映画で知っているアンナ・カリーナと比べると老い隠せないな、と思いました。その時一緒にお寿司を食べに行ったんですけれども、「パリで日本料理店に行くと、『女と男のいる舗道』のアンナさんでしょ、とか、『気狂いピエロ』のアンナさんでしょ、とよく言われる。日本人ってみんな私のこと知ってるのね」という話をしていました。ですからやっぱりこの映画というのは日本人にとってとても有名な映画なのかなと思います。
 『勝手にしやがれ』は夏でしたが、この作品では、ゴダールの冬というのを見ることができます。アンナ・カリーナが、街路に立っている。それが冬で、なんかとても寒そうな感じがするわけです。注目していただきたいのは、その場面のほぼ最初、カメラが舗道の右側から左側を、ノーカットで写して、そのまま移動撮影に入るんですね。ふつうならそれはカットしながら撮るんですけれど、なぜかゴダールはカットしないですね。
 それともうひとつ、さっき言ったこととは矛盾するんですが、ゴダールの身体表現を表すことなので注目していただきたいことがあります。さっきは歩くところは足まで写すもんだ、と言いましたけれど、この映画だとちょうど膝から上を撮っている。アメリカン・ショットというふうに映像の言葉で言いますけれども。そしてだんだんバスト・アップ以上になるんですね。
 ゴダールの場合、パリ・シネマというものから少しずつ離れていって、映画が抽象的になっていきます。抽象的になるとは、人の顔と髪しか映らなくなるということなんです。この映画では、パリのカフェというものと、アンナ・カリーナの顔というのが次第に強く映し込まれてくるんですね。ゴダールのフィルムをずうっと見てきた方はわかると思いますけど、だんだんトリュフォー、ヌーヴェル・ヴァーグ的なものから少しずつゴダールは離れていって、『勝手にしやがれ』的なものからも少しずつ離れていって、次第に抽象度が上がっていった。つまり、ここはどこなのか?――パリなんだけれどもどこでもあるような。この人は誰なんだろうか?――アンナ・カリーナだけれども、26歳の女性であるような。そういうような抽象にゴダールの映画は次第に導かれていくんです。

『夜霧の恋人たち』について

 最後にパリの映像についてもうひとつだけ。『大人は判ってくれない』から9年後、フランソワ・トリュフォーの1968年の映画『夜霧の恋人たち』の冒頭でもやっぱりエッフェル塔が映るんですが、ここでは少し違う映像が写し込まれています。エッフェル塔が映ってそこに「Mise en scêne François Truffaut」(演出フランソワ・トリュフォー)と出るのは、パリで撮ったフランソワ・トリュフォーの常套手段であるわけですけれども、その前に「本日休館」と書かれた建物が映ります。トロカデロ広場の横にあるシャイヨー宮という場所にあったシネマテーク・フランセーズです。
 シネマテーク・フランセーズというのはフランスのパリにある、アンリ・ラングロワという人が創設したフィルムセンターで、映画を収蔵する場所であるとともに、上映する場所でもあります。最初はアンリ・ラングロワが自分のお金で作ったんですが、映画を収蔵するということはお金がかかることなので、フランスの文化省から補助金をもらい、次第に半分国立みたいな施設になっていきました。収蔵している本数は5万本以上だと言われています。5万本って大したことないように思えますけど、1日3本映画を見て1年間に1000本ちょっとなんですね。それで50年かかるわけです。ですからシネマテーク・フランセーズに収蔵している映画を全部見た人はおそらくいないはずです。そのくらい映画がたくさんある。
 そしてアンリ・ラングロワは映画を収蔵することばかりでなく、それをどうやって上映するかということにも心を砕いた人でした。上映ホールがふたつあって1日3本、つまり6本の異なった映画を上映するわけですが、非常に面白いプログラムを立てています。その前に京橋の東京近代美術館付属フィルムセンターのプログラムと比較すると分かりやすいでしょう。京橋のフィルムセンターでは大体、春夏には前の年に亡くなった女優さんや映画監督などを偲んでその特集をやります。秋には一人の映画監督を取り上げてその人の全作上映みたいなものをやって、大体季節によっていろいろ企画が決まっている。知人も働いているので批判はできませんけれど、ある程度ルーティン・ワークでできると思うんです。
アンリ・ラングロワのプログラムは非常に興味深いものです。ぼくは同時代にそこで映画を見たわけではないので、正確には言えませんが、例えば1日3本上映する時に、全部マクベスを上映してしまうんです。シェイクスピアの『マクベス』が原作になった3本立て。1本目はオーソン・ウェルズの『マクベス』で、2本目が黒澤明の『蜘蛛巣城』──日本の戦国時代に舞台を移した『マクベス』の翻案です──で、3本目はロマン・ポランスキーの『マクベス』。見に行くだけでとってもおもしろくなるような、単に「映画史がもう1回わかりますよ」「今日紹介する亡くなった映画人は非常に優れた人でしたよ」「この人はこのような優れた作品を撮っていますよ」みたいなのじゃなくて、映画というものの表現の多彩さ、映画というものが持っている可能性の大きさが、プログラムの中で出るようにプログラムされていました。この伝統は今でもずっとあって、今の館長はセルジュ・トゥビアナというぼくの友人なんですけれど、この人もラングロワの精神に則って、映画のプログラムをずっと作っている人ですね。
 フランソワ・トリュフォーたちは若い頃、ほとんどの時間を映画館で過ごしました。なぜかというと、フランソワ・トリュフォーは小学校しか出ていないので暇だった。色々バイトもしたけど長続きしなかった。これは『大人は判ってくれない』を見ればわかるでしょう。あの作品は自伝的なものですから、そういう人なんですね。ほかの人たちは、例えばゴダールはソルボンヌ大学で人類学の講座を取っていたけれども、大学がつまらないからずっと映画館に行っていた。高校の古典文学──つまりギリシャ語、ラテン語ですね──の先生をやっていたエリック・ロメールは、映画好きの教え子の少年たちに祭り上げられてシネクラブをやっていた。つまりどの人たちもみんな映画を見て、毎日過ごしていたんです。熱狂的な観客というのは次第にそこで友達になっていくわけです。フランソワ・トリュフォーはエリック・ロメールがやっているシネクラブの討論会で過激な意見を言っていたので、映画好きの間ではすごく有名な少年だった。そこにゴダール、ロメール、リヴェット、シャブロルが加わって、みんなで映画を見るという習慣がつく。みんなで映画を見た後は当然、映画についてお話する、というのが日常的な作業となっていくわけです。
 エリック・ロメールによると、そのお話するのは2派あって、派閥Aは学食派、お腹が空くと学生食堂で食べる派。派閥Bはカフェ派、お金はないのでカフェに行く派。学生食堂派は数が少なかったそうですが、カフェ派は非常に数が多かった。パリに行ったことがある人ならわかると思うんですけど、今はカフェはすごく高くなってるけど、その当時は非常に安かった。椅子席に座ると高いんですが、カウンターでコーヒーやビールを飲んだりしている分には、当時の値段50円60円で何時間でも粘れた。そこでずっと映画の話をしていた。ちょっと暇になるとみんなカウンターの横にあるピンボール・マシンをやって。ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはみんなピンボール・マシンが上手かった、という話があります。つまり映画を見た後、夜を徹してとまではいかないでしょうが、延々と映画の話をするわけですね。そこでお互い映画についてのコンセプトを共有して、映画批評を書き始めて、映画作家になる、というのがヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちのスタイルだったわけです。
 さあそこで、彼らはどんな映画を見たんだろう? さっきアンリ・ラングロワのプログラムについて述べましたけれども、5万本の映画があるのですから――一ぼくも大学で映画史とか教えてると、リュミエール兄弟からヌーヴェル・ヴァーグまで、1900年代はこれ、1910年代はこれ、1920年代はこれ、というプログラムをやると、なんか自分が馬鹿みたいに思えてきて。そうやって歴史って見るもんじゃないだろう。「30年代ってこういった作品があるよ」というのじゃなくて、映画ってやっぱり「あ、この作品面白いね。えっ、30年代に撮られたの!?」というふうに見られた方がいいと思うんですよ。つまり映画というのは一番初めに見られた時が発見する時なんですよ。一番初めに見るということは、映画館で見ても、シネマテークで見ても、フィルムセンターで見ても、さらにはDVDで見たって、新しいわけです。古い映画だけれど、新しいわけです。ですから新しさの中から、発見の中からいろいろなものを探していく見方というのを、アンリ・ラングロワのプログラムによって、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちは若い頃ずうっと体験していたわけです。
 これはクロード・シャブロルが回想しているんですけれども、彼らはお金がないんで家に電話なんかなかったそうです。でも、例えば今日の3時から、シネマテークであの映画があるから絶対あいつはあそこにいる、というふうに思うと、全員がそこに来ている。つまり待ち合わせなんかする必要もなく、シネマテークで会うことができた。この伝統はぼくがパリに住んでいた30年くらい前にも充分生きてましたね。ぼくはサンジェルマン・デ・プレに住んでいて、当時はシャイヨー宮にあったシネマテークまで63番というバスで通っていたんですが、サンシュルピスという所からいつも乗ってくる映画大好きな奴がいました。そいつがサンシュルピス停留所にいると、これから見る映画はいい映画に決まっている。ちなみに現在は、昔のアメリカン・センター、リヨン駅の裏の方のパリで唯一あるフランク・ゲーリーの建物が、シネマテーク・フランセーズになっています。
 ちょっと話を戻します。彼らがどういう映画を見たかというと、ほとんどアメリカ映画です。アメリカ映画というと、スピルバーグなどのハリウッド映画ですよね。ふつうハリウッド映画は商業映画とされていて、ヌーヴェル・ヴァーグのような“作家の映画”と対極にあるような感じがするんですけれども、彼らはアメリカ映画を最もたくさん見ました。なぜかというと、単にアメリカ映画が一番面白いからです。今でもぼくそう思います。どんな馬鹿なアメリカ映画でも、アメリカ映画は面白いです。なぜかというと、もちろんそこに大きな資本が投下されていて、世界中の観客に向けられていてわかりやすく、おもしろくないと映画が資本回収できない、ということも当然ある。そしてそれだけ映画に大きなお金を使え、映画にいかにも必要不可欠なスターたちがそこに出ると、それはやっぱりエンターテインメントとしての映画で一番上にいくのはハリウッドであることは仕方ない。これは昔も今も同じことでした。
 ところがフランソワ・トリュフォーやゴダールたち、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはそこから別の観点を引き出すんです。例えばぼくたちが小さい頃はまだ西部劇がたくさん上映されていましたが、父に手をひかれて映画館に行って西部劇を見ると、帰りにライフル銃が欲しくなったりしました。犯罪映画を見に行くと、ピストル買ってよ、と思ったりしました。自動車レースの映画を見たりすると、多摩テックに連れて行けと帰りにせがんだ、と死んだ親父が言ってました。映画を見るとついその気になっちゃうじゃないですか。ジョン・ウェインの西部劇をたくさん見た時代は、映画館を出ると、みんなジョン・ウェインなりきり少年になってしまったわけです。
 でもフランソワ・トリュフォーたちは、そういうふうに映画を見なかったんですね。どう見たか? 映画をたくさん見ていると、何か同じ共通点があるぞ、Aという作品とDという作品とHという作品とKという作品が何か近いぞ、よーくタイトルバックを見ると、監督同じじゃん!と、そういうのに気がつくわけですね。それを映画の“作家主義”と言います。「映画監督」と「映画作家」というのは何かイメージが違っていて、「映画作家」というと実験映画の人みたいな感じがするんですけど、フランソワ・トリュフォーたちが初めて映画監督に、オートゥール――映画作家――という名前を与えました。
 当時は1950年代だったので、世界の歴史を紐解くと、東西冷戦時代でした。一方で資本主義的なキャピタリズムのアメリカ、一方でソーシャリズムの、コミュニズムのソ連というのがあって、若い人たちは当然のことながらそこでみんな「資本論」を読んでいた。社会に変革を起こそうとするマルクス主義者だったんですね。そういう中で、フランスではサルトルが非常に流行っていた。そういう思想的な状況の中でフランソワ・トリュフォーたちが提唱したのが“ヒッチコック=ホークス主義”でした。ヒッチコックというのはアルフレッド・ヒッチコック、ホークスというのはハワード・ホークスという人です。ヒッチコックはもともとイギリスで映画を撮っていてのちに1939年からハリウッドで映画を撮り始めた人です。ハワード・ホークスは西部劇だのミュージカルだの何でも撮っていたハリウッドの映画監督です。トリュフォーたちは、多くのハリウッド映画を見た中で、やっぱりヒッチコックとホークスが一番すごい、ということを提唱して、これを“マルクス=レーニン主義”の代わりに“ヒッチコック=ホークス主義”と、こういうふうに言ったわけです。
映画を真面目に見ようとする人たちには、ヒッチコックは軽蔑されていました、「あんなのただのサスペンス映画じゃない!」。ハワード・ホークスなんかはもっと軽蔑されていました、「ただのエンターテインメントじゃない!」。そうなんですけど、例えばヒッチコックのことをゴダールはこう言ってるんです、「恋愛シーンのように殺人シーンを撮っている」。ハワード・ホークスのことをトリュフォーはこう言っています、「ハワード・ホークスほど透明な映像を撮る映画監督はいない」。確かに、ぼくらはヒッチコック=ホークス主義の後に生まれてきて、ヒッチコック=ホークス主義を以って映画を見た世代なので、「なるほどな」とうなずくしかないんですね。つまりぼくらの父母の時代は、「ヒッチコック? やっぱり、ヨーロッパ映画よ!」みたいなのがインテリのある種の印だったんですが、本当正直言って、ヒッチコック=ホークス主義があったおかげで、ぼくたちこんなに映画を楽しんで見ることができました。
 ですから映画にはそういう意味で既成の上下、生まれ落ちた時の価値観の上下というのがないわけです。ヒッチコック=ホークス主義があったおかげで、ぼくはまだインディ・ジョーンズの新しい作品もちゃんとお金を払って見に行くし、同時にゴダールの新作だって見に行きます。つまり映画というのは広く見ていくと、そこの影に作家がいて、その作家には必ずある種の文体があって、その文体というのは映画に今までなかった何かをそこに与えている。ひとりひとりの作家は映画がずっと続いてきた中で、ある種映画を更新していく、新しくしていくのに寄与しているんだ、ということを考えたのが作家主義だったと思います。
 ただ、映画というものの美学、映画というもののエクリチュール、映画というものの様式――そういうものをヌーヴェル・ヴァーグの人たちが愛でていたか?目で鑑賞していたか?グルメしていたか?というと、決してそうではありません。さっき言ったとおりヌーヴェル・ヴァーグの人たちは、そこに現実が映っている、その人がそのまま映っている、というのがすばらしい映画だ、と言っていたわけです。そうした要素がホークスの映画にもヒッチコックの映画にも存在し得るからこそ、ゴダールはヒッチコックの映画を「殺人のシーンがまるで恋愛のシーンのようだ」、そしてトリュフォーはホークスの映画を「これほど透明な映画はない」と言っている。
例えば、暇があったらDVDを借りて見ていただきたいんですが、ヒッチコックの『めまい』を見るとこれほどすばらしいサンフランシスコのドキュメンタリーはありません。そしてハワード・ホークスの『ハタリ!』を見ると――ぼくはこれを小学校3年生の時に学校の映画教室で見に行って非常に感動したんですけれども――これほどすばらしくアフリカを映した映画はありません。多国籍の若者たちがアフリカに行って、動物園に売るために毎日猛獣狩りをする映画です。アフリカ・オール・ロケです。そこに出てくる人たちが毎日生きていること、そこにいる現地の人たち、そこのサバンナの広さ、そういうことを本当に『ハタリ!』という映画は明瞭に伝えてくれていると思います。でもハリウッド映画ですから、小学校3年生でも学校で見に行くような映画なんですね。同時に『めまい』という映画は、ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァクという同時代のハリウッドの大スターが出ているサスペンス映画でもあるわけです。でも、サンフランシスコのドキュメンタリーなんです。つまりヌーヴェル・ヴァーグによって、ハリウッドの映画さえも違う価値というものをそこに見出すことができた、ということになると思います。

『日曜日が待ち遠しい!』について

 すでにゴダールとトリュフォーの違いというのはどんどん明らかになってきていましたけれども、1968年に五月革命が起こり、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはだんだんそれぞれの作品を撮ることになり、5人一緒に活躍する時代はなくなってきます。したがってパリの映像もだんだん減ってきます。フランソワ・トリュフォーはある時代から、もうパリの映画を撮ることはしないと言ってます。なぜかというと、「パリは映画的な描写のできる街ではなくなった。どんどん人口が多くなってきて、偶然人が出会ったり、そこで偶然何かが起こったりすることがほとんどない空間になってしまった。ですから私はどこか田舎で映画を撮る」というふうに言って、ある作品を南フランスに撮りに行きました。1982年のことです。その作品は『日曜日が待ち遠しい!』という映画で、悲しいことにこれがフランソワ・トリュフォーの遺作になってしまいました。当時トリュフォーは脳腫瘍を患っていて、残りの時間が少ないことを知りながらこの作品を撮ったと言われています。最初の『あこがれ』が1957年、『日曜日が待ち遠しい!』は1982年ですが、冒頭のシーンは同じですね。女優さんこそ違うものの、自転車に乗っているか歩いているかが違うものの、フランソワ・トリュフォーはずうっとこういう映画を撮っていました。『あこがれ』はニームというローマ時代の遺跡が残っている街で、『日曜日が待ち遠しい!』は同じく南フランスのトラギニヤンという香水で有名な街で撮っています。
 ひとつ思い出話をさせていただくと、この遺作が試写会になる前に、フランソワ・トリュフォーはシネマテーク・フランセーズで一度だけこれをお客さんと一緒に見る会をやりました。1983年の9月、ちょうど今頃でしたね。たまたま夏休みでぼくはパリにいたので、その上映会をとても楽しみにしていました。映画の上映は夜9時からなんですけれど、シネマテーク・フランセーズの客席は221しかないので、友だちとふたりで3時頃から6時間くらい並びました。その間トイレに交代で行ったり、バスで15分くらいかかるシャンゼリゼのマクドナルドまでビッグマックを買いに行くのをジャンケンで決めたりして、やっとフランソワ・トリュフォー立会いのもとに、この映画を見ることができましたね。何回か個人的に会ったことはあるんですけれど、その時にトリュフォーを見たのが生前最後になってしまったでしょうか。
 冒頭のシーンが始まった時――そこに集まったのはみんなトリュフォー・ファンですから、今までトリュフォーの映画は暗記するくらい見てるんですね。この作品はわざとモノクロで撮っているんですけれど、最初、ファニー・アルダンという女優さんが向こうから歩いてくるだけで、音楽が鳴るだけで、椅子が震えるくらいに泣いてる人が半分くらいいましたね。ぼくも例外ではありませんでした。泣きましたね。当時フランソワ・トリュフォーは正式な結婚は1回しかしていないんですけれど、フランソワ・トリュフォーが遺した女の子が、冒頭で歩いてくるファニー・アルダンのお腹の中に、ちょうど1ヶ月か2ヶ月くらい、芽が出ていたところでした。

『デーモンラヴァー』『ビフォア・サンセット』について

 ヌーヴェル・ヴァーグとパリのお話はこれで大体終わりなんですが、それでこの後一体どうなったんだろう? ゴダールは抽象的になり、ロメールはパリ以外の街で撮るようになりました。映画と街、映画と都市というのは、どう関係を結んでいくんだろうか?
 トリュフォーたちが批評を書いていたカイエ・デュ・シネマという映画雑誌では次々と若い批評家が映画批評を書き始めます。1980年代、ぼくは1953年生まれなんですが、ちょうどぼくらの世代から批評家が登場します。その代表的な批評家であるオリヴィエ・アサイヤスは、カイエ・デュ・シネマの伝統に従って映画批評家から映画作家になった人です。彼はフランソワ・トリュフォーが死んでからちょうど20年近くたって、東京で『デーモンラヴァー』という映画を撮りました。正確に言うと、パリ、東京、メキシコで撮っているんですけれど。その東京の映像がいかにヌーヴェル・ヴァーグと違うか。悪いと言ってるんじゃないです、世界が変わってきたんです。風景というのはこうして変遷しているんです。『デーモンラヴァー』ではぼくは東京での撮影部分の助監督をやっていたので、どの撮影にも全部ロケハンから付き合いました。どうやって東京の街を見ていって、どういうふうに東京を捉えているのか。そこにはぼくたちとは異なる眼差しがありました。
 首都高のシーンは高井戸から撮ったんですが、首都高の見えるマンションの屋上に上がるだけで許可をとるのが大変でした。その後はリムジンを渋谷のスクランブル交差点に通しているんですけれども、それも許可をとるのは大変でした。撮影した映像を見てみると、東京の映像って屋外も屋内もほぼ均一、フラットなんですね。パリの映像みたいに遠近法的に街が出来ていなくて、いろんな要素がいろんなところにポツポツとあって。さっきぼくは国分寺駅で降りてここまでバスで来たんですが、もちろんここの映像は違いますよ。都心の映像はほとんどどう見ても同じ。もちろんランドマークがそこにはあるんですけれど、ランドマークも室内も演劇の舞台の背後にある書き割りと同じようなものなんですよ。その後、この間閉店が決まった“イエロー”というクラブを3日間借り切って撮った映像が続くんですけれど、そのクラブの中のVJの映像と東京の屋外の映像がほぼ等価なんですね。つまり「あの日のこの人のこの映像」というのは、もうだんだん消えてきて、東京の映像というのはこういうふうにしか撮れないだろう。いつでもなく、どこでもない。いつでもあり得る、どこでもあり得る。それが東京、そういう映像しかあり得ない。監督のオリヴィエ・アサイヤスと一緒に3週間ほどいろんな場所をまわってロケハンしたんですけれども、そう思いました。
オリヴィエ・アサイヤスによると世界の大都市の実写映像はホテルだというんですね。ホテルの中でも高層ビルのホテルのことで、内装がどこもほぼ同じで、そこから見る景色もニューヨークか東京かわからない。そこでテレビを点けるとCNNが映ったりする。つまり、世界中同じ映像に囲まれていてフラットになってきて、まさに“イエロー”の中でVJがやってるような映像になってきているんだ、と言ってました。
 この映画の内容は、日本のエロティックな3Dアニメの製作の背後にいろんな投資会社がうごめいていて、ハリウッド女優のコニー・ニールセン演じる主人公が次第にエロティックな拷問サイトに入り込んでしまう、というものです。カンヌ映画祭に出品されて大絶賛と口笛を半々に受けた非常な問題作でした。問題作に協力できてとてもうれしかったですけれど。それから音楽好きな方のために、この映画の音楽は全てソニック・ユースが担当しています。ジム・オルークなんかも頑張って音楽を付けた、と言ってましたね。
 さて、こういうふうに具体的な映像がなくなってきて、ヌーヴェル・ヴァーグみたいなパリはどこに行ったんだろうと思っていたら、偶然ヌーヴェル・ヴァーグ以上にヌーヴェル・ヴァーグみたいな現代のアメリカ映画が1本見つかりました。『ビフォア・サンセット』という映画です。5時から9時頃までのできごとがリアルタイムで起こっていく。監督はリチャード・リンクレイターという人で、ジャック・ブラックの『スクール・オブ・ロック』とかご覧になっていますかね、それを撮った人です。この映画は本当に全部パリでロケしていて、ノートルダムなどのモニュメントがぽんぽんと映し出された後、その後主人公のイーサン・ホークとジュリー・デルピーがずうっと歩行しながら会話していく。
 アメリカ人のリチャード・リンクレイターが映画を撮ろうと思ったきっかけが、トリュフォーやゴダールの映画を見たからなんですね。『スクール・オブ・ロック』みたいな映画もあるけど、そのような映画で当てたお金で、『ビフォア・サンセット』のような自分で撮りたい映画を撮ってしまうんですね。これを見た時、「ああ、やっぱり世代というのは続いていくんだな」と思いました。『ビフォア・サンセット』はぜひ見ていただきたいと思います。
 今、フランス映画はこういう映画を撮っていない。世界のどこで撮っているのかというと、やっぱりハリウッドで、インディペンデント・プロダクションでこういうフィルムが作られるというのは、すごく長く映画を見てきて、映画と共に走ってきたぼくらにとってはうれしいことだなと思いました。

質疑応答

質問者1 都市と映画の関係について、パリやサンフランシスコなどの話が挙がりましたが、日本映画と東京の関係についてお話を伺いたいんですが。

梅本 ふたつお話したいんですが、ひとつは古典の時代ですね。東京を一番見事に捉えたのはおそらく小津安二郎成瀬巳喜男だと思います。それぞれ1本ずつ挙げるとすると、成瀬巳喜男だったら『流れる』。これは本当に浅草橋の方のドキュメンタリーみたいに見えます。そこは昔、芸者さんがいた所なんですけど、その町がだんだん滅びていくところを描いている。田中絹代、山田五十鈴という名女優さんが出演しています。
 それから小津安二郎ですと、『東京物語』と言えばとっても簡単なんですけど、『麦秋』ですね。小津安二郎の映画ってどれもみんな原節子が嫁に行く話なんですけれど、『麦秋』にはいいシーンがひとつあります。原節子は丸の内で重役の秘書をしていたんですが、ラスト近くになると結婚して夫になる人の転勤先の秋田に行くことになるんです。それで最後に重役にご挨拶に行くんですが、その重役さんの役をやってるのが、関口宏さんのお父さんで佐野周二という人です。「よく来たね。君みたいな人が行っちゃうのは残念だな」というような話をしていて、突然、佐野周二が重役の椅子から立ち上がる。オフィスの窓際から外を見て、「どうだい見ておけよ、東京もいいぜ」って言うだけなんですけれど。そうすると佐野周二の肩越しから、車が数台止まっているだけの丸の内の車道が見えるんです。今の丸の内と違って全部9階建てのモダンなビルがザーッと立ち並んでいるところが美しく見えましたね。それが好きです。古典時代にはそういうのがありました。
 ただ、60年代70年代になると結構撮影の許可をとるのが大変なんですよ。大島渚の『新宿泥棒日記』みたいに全部新宿でロケした例外的な作品もあるんですが、なかなかそうはいかない。最近になると、さっきの『デーモンラヴァー』みたいに東京も映画の撮影に協力しようとしてますけど。
 日本人の映画作家だと、何といってもやはり黒沢清さんでしょうね。『アカルイミライ』と、今週末から恵比寿ガーデンシネマで封切られる『トウキョウソナタ』。これはもう、今の東京の映像の極めつけでしょうね。街にはホームレスの人が溢れていて、品川のどこかで出されている炊き出しにホームレスの人たちが並んで。ぼくの教え子もエキストラでホームレス役をやったんですけれども、「格好はそのままでいい」と言われてとってもがっかりしていました。香川照之が会社で肩たたきにあったんだけれど、そのことを奥さんの小泉今日子に言えない。本当に、ひとつの家庭の中から今の東京というものが映し出されているんですね。ぼくはこれを試写会の前の初号試写でスタッフ・キャストの人たちと一緒に見せて頂いて「キョンキョンがあそこにいるな」「あ、役所さんだ」とか、ほとんどミーハーで後ろの方から見ていたんですけれど、最後は号泣してしまいました。それくらいすばらしいフィルムなんで、ぜひこれは見ていただきたいと思います。
 そういう感じですかね。つまり、日本では結構スタジオが長続きしたんですよ。例えば時代劇とか。水戸黄門だってまだテレビでやってるじゃないですか。そういうものから外に出ちゃう映画というのは、結構冒険的な、独立プロ系の映画だったわけですよ。例えば日活ロマンポルノなどは80年代まで続きましたね。ロマンポルノは屋外じゃないですからね。絶対室内でベッドがないと映画にならない。外で撮るよりも室内で撮った方が安く作れるから、そういうものばかりになっちゃう。
 黒沢清さんは最近全部ハイビジョンDVで撮っていて、機材が軽いですね。『アカルイミライ』では表参道ロケをしているし、『回路』では銀座通りを車が疾走するシーンを撮ってます。そんな話をしていたらだんだん思い出してきました。ミシェル・ゴンドリーとポン・ジュノとレオス・カラックスが撮った『TOKYO!』という映画があるんですが、その中のレオス・カラックス編の「メルド」は銀座通りをオール・ロケしていて、今の銀座が映ってましたね。
 だから東京を捉えた日本映画ってないことはないんですけれど、やっぱりヌーヴェル・ヴァーグの一群がパリを撮ったのに比べると、まだまだ意識しないと作っていけないかな。ただ古典時代はやっぱり多かったし、小津安二郎の映画の半分くらいは東京なんじゃないですかね。

質問者2 今まで見た映画の中で一番おすすめの映画を聞かせてください。

梅本 難しいですね。もう1回今の『ビフォア・サンセット』を見たい気がします。もう4回見てるんですけれど。映画は、何と言うんでしょうね、好きなCDを何度も聞くのと同じで何回も見るんですよ。今は幸いDVDとか出てお金がかかんないですけど、映画館で見ていた頃は本当にエンゲル係数ならぬ映画係数がどんどん上がっていって、例えば昔はヒッチコックなんてDVDもビデオもなかったんで映画館に毎日行ったりするわけですよね。そういうふうに見た映画って、やっぱり好きになりますよね。だからさっき言ったヒッチコックの『めまい』、今すごく見たいですね。うちに帰って見ようと思います。
 まあ、その日によっていろいろ違うんですけれど、今日取りあげた映画作家の中で好きな作品を挙げると、トリュフォーだと今日の中では一応『夜霧の恋人たち』なんですが、もっと好きなのは『ピアニストを撃て』。でもその映画を入れると今日の話が全然繋がらなくなっちゃうんで今日は入れてない。ゴダールだと『はなればなれに』というのが本当に好きですね。 あとは…うーん、その日によって違うな。こういう仕事をしていると年間大体200~300本見るんですね。ぼくは一応ものを書き始めて今年で28年目なんですけど、仕事始める前から見てるんで、その中から選べというのはすごく酷じゃないですか? 
 だから、こう、心を動かされる映画という方がわかりやすいですよね。「これが好きだ」っていう映画より、驚く映画です。驚くというのは、怖くて驚いたりするんじゃなくて。いっぱい見てると、「あ、次こうなるね」「次、こういう台詞くるんじゃないかな」と、大体わかるんですよ。そういう予想が裏切られた時が一番面白いです。裏切られる時って2種類あって、ひとつは「俺よりも映画知らないのかよ!」という感じのおバカな裏切られ方。もうひとつは、物語じゃなくて映画そのものが全く予想ができないような展開をする。そういう時って絶対すごい。映画も一応アートですから、今まで見たことがあるものと同じものは見たくないわけで、似たものはいらないんですよ。絶対似てないもの、それが次に来る時というのは絶対すごい。その時は新しい映画を発見した喜びというものがありますね。
 黒沢清さんの映画も見ていて感心したことは何十回もあるんですけど、号泣したことはないんですよ。でも『トウキョウソナタ』を初号で見た時、「いやー、黒沢さんが人を泣かせるのかねぇ」みたいな、今まで黒沢さんになかった要素があって、やっぱり驚いて「これはすごいな」って思いました。
 だから感心するものはあんまり面白くない。感動するのがいいんだけれど、その感動も、今まで味わったことがないレベルの感動じゃないと面白くないんですね。例えばグルメ評論家だったら食べたことのないものを食べたいじゃないですか。それと同じですよ。焼き鳥食べて、「あ、これは京橋の伊勢廣のと似てるね」というんじゃ、まあまあ美味しいけど、伊勢廣には敵わないでしょ。「この焼き鳥、食ったことねえ!」というのがすごいんじゃないかな、と思うわけです。

質問者3 ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、たくさんの映画を見て批評をしたり、自分たちの視点でハリウッド映画に作家性というものを見つけたりして、そこから作品を作っていきました。ビデオが出来て過去の作品をいっぱい発掘できるようになった70年代以降に現れてきた監督、もしくは新しい作品のテーマは、ヌーヴェル・ヴァーグの時とどう違うんでしょうか?

梅本 ぼくが大学で授業をやる時は、ほとんど授業中はビデオなどの映像は使わないです。映画館で上映している作品を素材にして、「映画館に見に行ってほしい」と言ってるんですね。レポートを書いてもらうことがあるんですが、そうすると、DVDで見たか映画館で見たかわかります。なぜかはわからないんですけど、わかるんですよ。
 ゴダールはこう言ってます、「映画は息を吸い込むように見ようよ」。息を吸い込むって、つまり、小さい画面を凝視するんじゃなくて、映画館に行って――途中眠くなってもいいんです――すぅーっと、こうやって見るのが映画だ、というんですね。
 映画を研究する人にとってDVDはいいです。例えば20年前、「あの映画見た?」と聞いて「見てない」と言われたら、映画を見てない人に画面を全部言葉で説明しなくちゃいけない。そんなことをやってたら疲れちゃうじゃないですか。だから見てもらうためにはDVDはいいと思うんですけれど、やっぱり理想的には、全部見るんだったら最初は映画館で見た方がいいと思うんですね。映画を作ってる人でも、DVDで何度も巻き戻して細かく見る人がいます。そうすると、やたら細かい所にこだわる映像、いわばオタクっぽいのが出来てしまう。もっとおおらかに映画を作っていいんじゃないかな、と思いますね。DVDも良し悪しです。『ビフォア・サンセット』を見たいと思っても、映画館でやってないわけですからDVDで見るしかないですよね。DVDだとチャプターがあって、探している映像を見たい時にはものすごく便利なところもあります。
 ただ、最初はやっぱりスクリーンで見た方がいい。絵を見たり彫刻を見たりするのと同じ。画家はちゃんとキャンバスの上に描いて、ぼくたちはそれを見てるわけですから。DVDで見るのは画集で見るのと同じです。だから、その差異なんですよね。画集で見ればいろんなことを覚えられるし、いろんな知識も得られるけど、本物を見た方がいいじゃないですか。映画監督もみんな映画館で上映されるために撮ってます。だからやっぱり、それができるんだったらそうしようぜ、ということです。
 映画を撮っている人でも、本当に映画館で見ている人と、DVDとかビデオでしか見ていない人とはわかります。フレームの作り方が違うんですよ。DVDとかビデオで見ていると、フレームってせいぜいこの大きさでしょ。フレームの内側をどうやって作るかということで映画を撮っていて、フレームの外側のことを考えない。しかし映画館で見てる人たちにとって世界は360度あって、その中でフレームをどうやって切り取るかというところから彼らは画面を作り始める。この差は大きいと思いますね。
 さっき言ったとおり、ヌーヴェル・ヴァーグの人たちは映画を見ることで世界の見方を学びました。映画を見ることで映画の作り方を学ぶんだったらDVDで充分です。けれど映画というのは世界をどうやって切り取るか、いわば世界観を表出しているわけですから、そうするためには映画館に行った方がいい、と強く思いますね。DVDやビデオが出来て「もう映画館はいらないよ」ってみんな言ってたけど、事実、映画館って数が増えてるんですね。やっぱり映画館でみんな見たいんでしょうね、そう思います。
 そういうことで、今日はそろそろお時間なので終了します。どうもご清聴ありがとうございました。

(2008年9月25日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)