武蔵野美術大学 美術館・図書館イメージライブラリー

第30回イメージライブラリー映像講座
「チェコ・アニメーション作家 イジー・バルタの世界 闇に描くユーモア・アイロニー・ファンタジー」の記録


講師イジー・バルタ(アニメーション作家)、ミロスラフ・シュミットマイエル(プロデューサー)
開催日:2009年3月22日
通訳:ペトル・ホリー(チェコセンター所長)
司会:西本企良(武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科教授、造形研究センター研究員)
主催:造形研究センター 企画・運営:イメージライブラリー
協力:株式会社アットアームズ、チェスキー・ケー、チェコセンター

 

この講座について

ヨーロッパの中央に位置するチェコでは、歴史的な背景により母国語の使用が禁止された時代、人形劇が母国語を守る手段でした。現代では人形劇の造形を取り入れた映像表現として人形アニメーションが数多く制作され、その独特な作風は世界の注目を集めています。本講座では、チェコ・アニメーションの第一人者であるイジー・バルタ氏とプロデューサーのミロスラフ・シュミットマイエル氏をお招きし、その作品世界について語っていただきました。


はじめに

司会 どうもみなさんこんにちは。こんなに風の強い荒れた天候にも関わらず、今日は大勢のみなさんにお集まり頂きまして本当にありがとうございます。これからいよいよ、イジー・バルタさんとシュミットマイエルさんをお迎えして、色々お話を伺いたいと思います。みなさん、拍手でお迎えください。

(バルタ氏、シュミットマイエル氏ご登壇)

司会 世界的なアニメーターで、現在も新しいアニメーションの分野を切り拓き続けているイジー・バルタさんです。次に、今回『屋根裏のポムネンカ』でプロデューサーを務められましたミロスラフ・シュミットマイエルさんです。プロデューサーとして、作家と違った視点からお話を伺えるのではないかと思います。ではまず、バルタさんとシュミットマイエルさんから会場のみなさんに一言ご挨拶を頂ければと思います。よろしくお願いします。

バルタ氏 みなさまこんにちは。こんなにも多くの方々にお集まり頂いて誠に光栄でございます。これだけお集まり頂くということは、チェコのアニメが日本で広く受け入れられている証拠のひとつかと思いますので本当に嬉しく思っております。日曜日だというのに、強風の中おみ足をお運び頂きましてありがとうございます。
 チェコのアニメの歴史は大変長く、語るには多分明日までここにいなければなりませんが…。まず、ご存知のイジー・トルンカは、1940年代以前から既に制作に関わっていましたが、突然トルンカが出てきたわけではなく、チェコには何百年も前から人形劇という伝統がありました。その生みの親といってもいいマチェイ・コペツキーという人をここで挙げたいと思います。コペツキーは小さな人形劇団を作って色々な国を回り、人形劇の伝統を築いたひとりとしてチェコでは非常に尊敬されています。人形劇と言えばもちろん、日本でも古の時代から非常に強く根付いている芸能ですので、チェコ独特のものではない、ということをみなさんに知って頂きたいわけであります。
 今日は本当に私の講演のためにこの場所、それからお時間を提供して頂いた武蔵野美術大学、スタッフの方々、先生方にもお礼を申し上げたいと思います。そしてもちろん、お越し頂いた方に改めて御礼申し上げます。ありがとうございます。

シュミットマイエル氏 みなさんこんにちは。先程監督が申し上げましたように、チェコのアニメをこれだけの方が好きでいて下さることは私にとってもこの上ない喜びであります。残念なことではありますが、チェコのアニメは名だたる国際映画祭で色々な賞を獲ってきたにも関わらず、自国であるチェコにおきましてはファンが非常に少ない。おそらく日本より少ないのではないかと思います。
 ご存知のようにちょうど今から20年前、ヨーロッパでは民主化運動が起こり、チェコの場合は1989年11月にビロード革命がありました。40年近く辿らざるを得なかった赤い道——共産主義というのが崩壊を迎えると共に、チェコのアニメの世界にとってどういうことがあったかと申しますと、国からの援助が一切なくなり、アニメにとってはかえって大変な90年代と言われております。今は少しずつ直ってきていますが、アニメ制作においては1989年まで、シリーズ作品や子ども向け、大人向けの長編もありました。大人向けの場合はご存知のヤン・シュヴァンクマイエル、それから、今日ここにいますイジー・バルタ監督が非常に高い地位を占めているのでないかと思います。
 1989年——当時はまだチェコスロバキアでしたが——チェコが民主化され、私たちはようやく好きな本を読み、好きな映画を見ることができるようになりました。それから、国境を越えて西側に行けるようにもなりました。それは1948年から89年にかけてはなかなか難しいことでした。
 ただ、先程も申しましたようにアニメにとっては国の援助が一切なくなり、大変だったということを強調したいと思います。国営テレビのチェコ・テレビ局が何らかの助成金を出していて、それで子ども向けのシリーズの制作は割と簡単だったのですが、その時にやはり、国からの援助はなくなったのです。 やっと映画制作基金というのが設立され、実写でもアニメでも映画制作に助成金が流れるようになりました。そのおかげで今から5年程前には『フィムファーレム』というオムニバスの長編アニメ映画が作られ、そして私とバルタ監督は『屋根裏のポムネンカ』という長編を撮ることが許されたのです。
 長々と喋ってしまいまして申し訳ありません。また、後程ご質問を承りたいと思います。ご静聴ありがとうございます。

司会 『見捨てられたクラブ』は確かビロード革命の年に作られたと思いますが、それからはるか20年経って、今、『屋根裏のポムネンカ』という形で我々がまたバルタさんの長編を楽しむことができるというのはとても感慨深いものがあります。今のお話でチェコのアニメーション事情のかなり深い話まで伺えましたが、この後の質疑応答の時間でまた詳しく伺いたいと思います。それでは今から『ゴーレム』のパイロット版と『屋根裏のポムネンカ』の予告編の2本を見てきたいと思います。

<『ゴーレム』パイロット版、『屋根裏のポムネンカ』予告編上映>

『ゴーレム』『屋根裏のポムネンカ』について

司会 はい、何と言うんでしょう——圧倒されるような映像の魅力で、ぐいぐい引き込まれてしまいますね。『ゴーレム』は完成が待たれますし、『屋根裏のポムネンカ』は今年の夏に劇場公開ということでとても楽しみです。それでは今の2作品について、お二方に解説をして頂きたいと思います。よろしくお願いします。

バルタ氏 いかがでしたでしょうか。最初に見て頂いたのは企画中の映画で、是非いつか撮らせて頂ければと思っております『ゴーレム』という有名なプラハの伝説の映画です。これはあくまでも大人向けの映画で、90分という長編を予定しています。今のところはご覧頂いた7分しか完成させておりません。
 もうひとつの『屋根裏のポムネンカ』は、2年前…1年半前ですか、まだ撮影中の映像で、あくまでもワーキングコピーです。音楽も全く違います。実はこの映画はもう既に完成しプラハでは3月5日からリリースされています。ご覧頂いたのと180度違いますので、お楽しみ頂きたいと思います。
 『ゴーレム』については、実はこの映画は25年程前から既に考えておりますが、未だに撮影するために必要な経費を集めることができず、先程申し上げましたように現在は7分のパイロット版しか作っておりません。なかなか集金できない原因と申しますのが、実写とアニメーションとのコンビネーションだけだったら良いのですが、この映画の中では実写を撮ってそれを粘土のリリーフに映し、それをさらにアニメートする非常に複雑な技法を使っていますので、莫大な費用がかかる見込みなのです。
 ご存知の方もいらっしゃるかと思いますので簡単に説明させて頂きますと、『ゴーレム』というのは、15世紀には既にあったと言われている、大変有名なプラハの伝説のひとつです。プラハのユダヤ人が作ったいわゆる人造人間の伝説で、こういう伝説はヨーロッパに色々あるのですが、プラハのゴーレムはその中でも有名です。ゴーレムという題材はもちろん映画でも早くから取り上げられています。映画の勉強をされている方ならご存知だと思いますが、20世紀初頭にはゴーレムを取り扱った映画がいくつかあります。例えばデュヴィヴィエ監督による『巨人ゴーレム』や、『プラーグの大学生』という映画で非常に有名なヴェゲナー監督による『ゴーレム』。1950年代にはチェコでもゴーレムを題材にした『皇帝のパン屋』という映画が非常に有名になりました。また、チェコで長年活躍しましたグスタフ・マイリンクの『ゴーレム』という非常に有名な本があります。それはもちろん日本語訳も出ています。私がインスピレーションを受けたのは、マイリンクが書いた『ゴーレム』です。現状を申し上げますと、この映画の絵コンテとパイロット版ができています。無いのは製作費だけですので、お金が工面でき次第、撮影に入りたいと思います。
 それから『屋根裏のポムネンカ』ですけれども、これは実は『ゴーレム』と切っても切れない関係にある作品です。ちょうど今から7年前、「もう『ゴーレム』は撮れないのではないか」と考えていた時に、「子どものために映画を撮れば、その利益を『ゴーレム』に流すことができるのではないか」ということで脚本家に相談し、『屋根裏のポムネンカ』を撮ることになったのです。テーマはもちろん、子どもならではのファンタジーの世界を題材にしました。
 みなさんも覚えていらっしゃると思いますが、子どもの頃はおもちゃが色々あっても、足りない物は代替品を使ってゲームや遊びをしたものです。例えばチェスの駒を取って「これは王様だ」と言ったら、子どもはそれを王様だと信じ込むわけです。そういうごく普通の物、ガラクタや見捨てられた物を使って映画を撮りました。そしてその空間には、非常に摩訶不思議ともいえるチェコの家屋の屋根裏という異世界を使ったのです。人形を主人公とした冒険物語とも言えますね。
 今、私の前にちょうど並んでいるのが、先程も申しましたガラクタ、それから操り人形、テディベアです(壇上に展示された人形を紹介するバルタ氏)。彼らが大好きなのが、こちらのポムネンカです。ポムネンカは非常に美しいキャラクターで、悪の帝王に囚われてしまうのです。彼女を救うために仲間が力を合わせて悪の帝国へ出発する、というお話です。
 もちろん屋根裏には山や川、空を流れる雲なんてないのですが、あくまでも子どもならではのファンタジーの世界ですので、子どもの眼で見ればタンスが山であったり、タンスから流れ出るシャツや服が川であったり、空気を入れた枕カバーが雲に見えたりするのです。また、屋根裏に捨てられた古いストーブを倒して、機関車に見立てたりもしました。要するに私が作ってみようと思ったファンタジーの映画というのは、見立ての映画——見立ての世界だというふうに了解して頂ければと思います。
 制作段階で一番気持ちのいい時期というのは、やはり台本を書く時です。何週間も脚本家と面と向かい、二人で子どもになったつもりで書きました。そして脚本が完成してから実際の準備の段階に入るのですが、チェコでは長編のアニメをプロデュースしたいという人がなかなか見つかりませんでした。しかし運良く、私の隣にいるシュミットマイエル・プロデューサーに会うことができ、撮影に入ることができました。撮影のための準備やポストプロダクションも入りますので、この映画の制作期間は2年から3年と考えて頂ければと思います。
 それからもちろん、この映画を完成させるには色々な方の力を戴きました。まず国営のチェコ・テレビ局、それからスロバキアテレビ基金。そして色々お力を尽くして頂いておりますアットアームズの真部さんにこの場を借りて御礼を述べたいと思います。
 やはり、映画を作るということは大変なことなのです。才能がいくらあっても、できないものはできないのです。では、プロデューサーのシュミットマイエルさんにもそのことについてお話し頂ければと思います。

シュミットマイエル氏 私はチェコで長編の実写映画やドキュメンタリーのプロデュースをしております。ある時、エドガル・ドゥトカというアニメ作家と一緒に仕事したことがありまして、彼から初めて『屋根裏のポムネンカ』の話を聞き、台本を読ませてもらったのですが、「面白い」という風に感じたことを覚えています。プロデューサーというのは、脚本の何かに惹かれないと、なかなかその脚本を当てにしないという変な癖があります。しかしこの場合は、脚本を開いた途端に、「アイディア溢れる作品だな」という印象を受け、非常に感動しました。しかしチェコではアニメ作品の市場は非常に狭い。チェコには1千万人しかいませんので、映画市場として非常に小さな国なのです。色々なスポンサーのお力を拝借しなければならないということは最初に分かりました。
 映画を作っていらっしゃる方も多いと思いますので、アドバイスをひとつ。やはり映画を作るには、まず忍耐力、運、それからもちろん才能。この3つがないと諦めた方がいいです。それからもちろん、製作費も必要です。助成金などもありますが、スポンサーを探してまわるということも非常に大事です。この作品ではチェコ・テレビの映画制作基金に申請をして助成金を頂きました。その他にも、先程監督が申し上げましたスポンサーの方々にもお世話になりました。
 しかし、やはり何といってもイジー・バルタ監督の名前は世界中で知られていますので、例えばカナダ、フランス、スペイン、ドイツに話を持ちかけたところ、「是非その脚本を送ってください」という返事が返ってきました。しかし脚本を読んでからの各所からの返事は、「内容は素晴らしい。けれどもハリウッド風ではないので…」というものだったのです。
 しかし、とうとうアットアームズの真部さんにお会いすることができまして、「ありきたりなアニメとは違う、素晴らしい世界ではないか。今のアニメの多くはCGを使って、戦争や暴力ばかりが取り上げられているけれど、あなたたちの映画は、一度見捨てられてしまった物への愛を教える作品ではないか。やってみましょう」という非常に嬉しいお返事を頂きました。
 もちろん、バルタ監督の想像力というのは計り知れず、もし予算がもっと大きかったら、この映画をもっともっと豊かにさせることができたのではないかと思います。ただ今の世の中では、頂いた予算の範囲で制作せざるを得ませんでした。それでも非常に興味深い仕事だったと思います。それからもちろん、私たち二人だけではなく、スタッフ一同、ヨーロッパだけではなく、アジア、日本でも映画を公開させて頂けることに非常に喜んでおります。
 非常に嬉しいことがもうひとつありました。昔からプラハにあるイジー・トルンカ・スタジオで、バルタ監督やその他のアニメ作家たちは制作をスタートしました。しかし90年代になってイジー・トルンカ・スタジオはほとんど使われることがなくなり、まるで屋根裏のように埃だらけになってしまったのです。しかし私たちスタッフがスタジオに入り、トルンカ・スタジオは再生されたのです。

技法について

司会 どうもありがとうございます。日本にも百鬼夜行図という捨てられた物に魂が宿るというとてもユニークな話があります。
 それから、シュミットマイエルさんが「作品を作るには作家の才能と忍耐力、運が必要」とおっしゃいましたが、その運の中には、シュミットマイエルさんのような優秀なプロデューサーに巡り合うということが、とても重要なこととしてある。それは日本でも普遍的なことではないかという気がします。
 これから質疑応答の時間に入りますが、まずは事前に送って頂いた質問から始めさせて頂きます。先程、『ゴーレム』で粘土に映像をプロジェクションして撮影するというお話がありまして、技法についてひとつは解決しましたが、「あの不思議な世界を描き出している技法を教えてください。それから作品によって技法を使い分けていますがなぜですか?」という質問がきています。まず、これについてお話し頂けますか。

バルタ氏 私のフィルモグラフィをご覧頂くと、ひとりではなくて15人の人物が作ったのではないかという感じが致しますけれども、実はそうではありません。私はテーマによって別の世界があるかのように、違う技法を使わないと気が済まないのです。また、アニメーション技法やシナリオも非常に大事ですが、造形美術、美術そのものもテーマに合わせます。
 私の映画は基本的に人形アニメですが、実写も特撮もあり、それらすべてを合わせる「コラージュ」と個人的には呼んでいます。なぜ私がアニメ映画の中で実写を使うのかというと、もちろんアニメを抑えるためではなく、アニメを強調するためです。何かの対比——音楽的に言えば対位法、コントラプンクトを作るためなのです。
 それからもうひとつ欠かせないのは、雰囲気ですね。映画全体に良い雰囲気を作ることによって、とても洗練されたストーリーにすることができるので、雰囲気というのもなかなか大事です。例えば先程ご覧頂きました『ゴーレム』は、単なるアニメーションの技法の実験映画ではありません。粘土が出てきますが、粘土の神髄とは何なのか、人間と粘土との関わり、そのすべてが入っているのです。粘土は生きていない無機物と考えられていますが、ゴーレムの伝説を申し上げますと、昔むかし、ユダヤ人は魔法によって粘土を蘇らせることができると信じていたのです。つまり粘土の再生です。ですから、こんな理由で私は粘土を使ったのです。粘土は雰囲気を完璧に作ってくれたのではないかと思います。
 『屋根裏のポムネンカ』の場合は、やはり陰影ですね、影と明るいところ。陰影礼讃ではないですが、冒頭でも申しましたように、やはり屋根裏というのは摩訶不思議な空間です。その光と影は、私の中で非常に大きな位置を占めているのです。それからもうひとつ、屋根裏という空間の扱い方。その空間の中に実はこのような人形たち、ガラクタ、色々な調度品が共存しているわけです。これは実際に使われた人形ですが、彼らのサイズは非常に小さいんですね。それが天井の高さが4、5mもある屋根裏に見捨てられているわけですので、その対比を強調したかったのです。

制作に対する姿勢について

司会 次に制作の視点について質問があります。「『屋根裏のポムネンカ』で初めて子ども向けの作品を制作したと伺いましたが、子ども向けに作品を作る時とそれ以外の時と、制作姿勢、心にどのような違いがありますか? バルタさんは先程もおっしゃったように色々な作品を作っていらっしゃいます。例えば『見捨てられたクラブ』はその背景に政治や歴史を感じますし、『笛吹き男』には寓話世界を感じます。異なる背景を持った作品に取り組む際にどのような違いがあるのでしょうか?」。こういったような制作に取り組む際の姿勢についての質問があります。

バルタ氏 もちろん1989年以前のことですが、私が作った映画のほとんどは大人向けでした。やはり大人のために撮れば、それを国際映画祭に出してもらえるかもしれない、ということを前提に私は制作をしていました。つまり、観客が必ず観にやってくるということが保障されていたとも言えます。しかし、残念ながら90年代、2000年代になって、——それはチェコだけではなく、ヨーロッパ各国もそうだと思うのですが——大人がわざわざ映画館までアニメ長編を観に行くことが少なくなり、なかなか動員数がとれない現状となったのです。そこで子どものために撮ってみようと思いました。
 しかし『屋根裏のポムネンカ』は、私が子ども向けに撮った初めての作品ではないですね。最初に撮ったのは1978年の『謎かけと飴玉』です。それから、これもあまり知られていない話かもしれませんが、1995年に私はアフリカのブルキナファソ出身の脚本家の題材で、おとぎ話を撮ったことがあります。こちらはウェールズのS4Cというテレビ局に依頼された企画でした。それも子ども向けでした。

影響を受けた人物・作品について

司会 それからですね、これは随分たくさん同じような質問が来ているのですが、バルタさんが影響を受けた作品、人物、あるいは環境、そういったものに対しての質問がきています。

バルタ氏 実写、文学、アニメ、映画、色々なものから影響を受けていると思います。実写ではフェデリコ・フェリーニルイス・ブニュエル。文学では先程申し上げましたマイリンク、それからもちろんカフカです。アニメ作家では、旧ソ連のノルシュテイン、ポーランドのドゥマウァ、チェコではシュヴァンクマイエル。シュヴァンクマイエルに本当に感銘を受けました。それからエストニアのプリート・パルンという作家を非常に愛しています。

共同作業について

司会 今度はシュミットマイエルさんとバルタさんへの質問です。「多くの人たちとの共同作業で作品を制作するという環境の中、仕事の際にイメージの共有や異なる立場からの意見の出し合いといった話し合いの時間はとても重要になってくると思います。お二人はそのような場面で今までどのような経験をされてきましたか? また、多くの人が集まってひとつのものを作る時の理想的な環境というものはありますか?」

シュミットマイエル氏 逸話をひとつ。最初の打ち合わせの時、バルタ監督に絵コンテを見せてもらったんです。絵コンテには腐ったじゃがいもが描かれていました。長く置くと芽が出るものですが、そのじゃがいもからは芽の代わりに女性の美脚が出ていました。申し遅れましたが、そのじゃがいもは魔女のキャラクターだったんですね。それから撮影に入る前に、バルタ監督が「実は考え直しました」と、もうひとつの絵コンテを見せてくれました。しかし魔女のキャラクターがあまりにも違うので、製作側としてどうかな、と思い「とても良いアイディアですので見捨てないでください」と何度も何度も彼にお願いしたのです。すると彼は映画にそれを登場させてくれました。
 もうひとつ、スタッフの間で「今の子どもの眼から見れば、主人公のポムネンカがそんなに美しくも可愛くもない」という意見が多くありました。女の子が昔遊んでいたであろう、せっかくの人形ですから、「もっと美しくしてもらえないか」と彼に頼んだら、彼は僕を不思議な眼で見て、「え、だって美しいでしょう?」と…。その一言で私は何も言えなくなってしまい、「あ、今のは忘れてください」と言いました。私は閃いたんです、この映画を成功させるために一番大事なのは、自分の意見を言わないということだと。とても良い教訓になりました。
 ですから、バルタ監督のような芸術家と協力する時には、出来るだけその人物を自由にさせないと良いものは生まれないのだと、私は思います。それはプロデューサーの一番大きな仕事です。ですから、彼のスケッチに対し私は一切何も言わなくなりました。打ち合わせの時に、もっと日常的なこと——映画の運搬や経費については相談しましたが、彼が描いたキャラクター、または映画そのものについて私が触れることはありませんでした。ですからあまり大げんかをしたことはないですね。

バルタ氏 本当にありがとうございました、私を自由にして頂いて。彼が言ったことに嘘はありません。ただ、私どもは——彼も私もスタッフ一同もそうだったと思いますが、一番ストレスを感じたのが、完成の期限ですね。それだけは本当に大変だったと思います。

シュミットマイエル氏 こういう例えもあると思います。とても良い関係にある生徒と先生の所に、ある時校長先生がやってきて、「夏休みに入らないといけないので、もうそろそろ終わりにしよう」と。それと全く同じような関係だったと思います。

バルタ氏 学校でやっているテストとか作文のようなものですね。まだ完成していないのに突然ベルが鳴って、先生にその作品を取られてしまう、というような日もありました。完成させることはできましたけれど。

シュミットマイエル氏 実際の話、彼が撮った材料をポストプロダクションや特撮スタジオに持って行かなければならないのですが、なかなか間に合いませんでした。特撮スタジオの予約に間に合わないと高額なキャンセル料がかかってしまいますので、それに間に合わせるために彼を急かしたのも事実です。ですから、制作者が常に必要としているのは時間なのです。
 それからまた、バルタ監督が選んだ音響係なんですが、彼はチェコではトップ中のトップなんですね。ただ、人としてはちょっと難しいところがあるんです。効果音をつけるための期間は10日間限りでした。しかし10日後に「では、完成した音をください」と彼の所に頼みに行った時に、「足音の音しか出来てない」と言われたのです。監督と私で、その救世主を務めなければなりませんでした。彼の撮影が終わった後に、UPPというプラハにある音響スタジオで、その音響係の後ろに座り徹夜で「頑張れ、頑張れ」と言う毎日でした。本当に苛酷な作業でした。やはり映画というのは、アドレナリン溢るるスポーツのひとつのように私どもは考えております。映画の道を進まれる方は、私たちのように頑張ってください。

質疑応答

司会 良い作家と良いプロデューサーとの関係、理想的な関係というのはどうあるべきかを聞かせて頂いたような気がします。それでは会場のみなさんから直接質問をお受けして答えて頂く時間をとりたいと思います。質問のある方は手を挙げて頂けますか。それでは、そちらの方から。

質問1 今日は貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。先程シュミットマイエルさんが「民主化でようやく私たちは好きな映画を撮ることができるようになった。その代わり国からの援助がなくなった」という風におっしゃいましたが、バルタ監督ご自身は民主化以前と以後はどのような状況でしたか? それからポムネンカには実際に使われなくなったおもちゃや小道具、生活用品を活用したと聞きましたけれども、それは今の環境問題、あるいは自然や動物たちの問題、グローバル問題、そういったものへの思いも込められているのでしょうか?

バルタ氏 色々と自由のなかった時代は1948年から89年まで40年続いたわけですが、ただ、先程申し上げましたように89年以前、アニメ制作は割と自由でした。その理由のひとつに、国はお金を出して私たちを輸出品として——要するに、「チェコはこれだけのアニメ映画を作れるぞ」というようなことで、国際映画祭に私たちの作品を持って行ったのです。ということは、変な言い方ですが必ずしも動員数を気にする必要はなかったのです。つまり、映画祭のために制作する、という要素が大きかったという風に感じています。
 また、1960年代からテレビアニメシリーズとして子どものための8分から10分までの短編制作が現在まで続いています。それはチェコ・テレビですね。同時に自分だけの作品、個人作家としての映画を撮らせてもらえたのは、なかなか面白いことでした。あの頃のチェコは検閲もあり不自由でしたが、どういうわけかアニメの世界だけはそのところを国が見逃していたのではないかと私は思います。
 第二次世界大戦後、チェコアニメスクール、チェコアニメ派という言い方が生まれましたが、ただ、一貫して「チェコアニメといったらこのスタイル」ということはなく、ご存知のように作家によって技法やアニメタッチは違い、複雑なアニメ作品がたくさん生まれました。でもそのバックには、やはり国というものがありました。しかし、当時は実写と違ってアニメの場合はあまり検閲がありませんでしたから——100%なかったわけではありませんが、アニメを撮ってそれで圧力をかけられたという話はあまり聞いたことがありません。ですから作品の行間を読めば、観客には私どもが伝えたいことが充分伝わったのです。それは実写にはできなかったことだと思います。
 1989年のビロード革命で変わったのは、もちろん自由です。国自体はもちろん、人間自体も自由になったものの、また別の障害が出てきました。そのひとつは、やはり経済的な面です。まず国が助成金をなかなか出してくれなくなったので、自らスポンサーを求めて走り回ることになりました。それから配給の問題。まず、どの客層のために映画を作るか、ということを考えて制作に入るようになりました。そのようなことは昔は一切ありませんでしたから、自由といっても、やはり自由ではないのと一緒です。
 その次のご質問、ポムネンカに登場するキャラクターについてのご質問ですが、やはり子どもというのはすべてをおもちゃとして考える傾向にあります。小さい頃、家の庭に東屋のような建物があり、その中に入ってドアを閉め「今は飛行機の中です」と、そういう遊びをしていました。ですから私の映画の中には、もちろん見捨てられた物もあれば、実際はそのキャラクターの顔をしていなくても、そのキャラクターであるかのように私が見せている物もあります。それから、子どもというのはファンタジーを持っていますので、ファンタジーを働かせて色々なものを登場させました。
 もうひとつ、エコロジー的な要素ももちろん見出すこともできます。色々な物に魂が宿る——要するに物を再生させる、甦らせることによって新しい存在になります。それをリサイクルとして考えて頂いても結構です。そういう解釈ももちろんあります。

質問2 私は武蔵野美術大学油絵学科の3年生です。アート・アニメーターを目指しているのですが、イジー・バルタさんが映画祭に出せるような大掛かりな作品作りをできるようになるまでにはどういった努力を、どういった道のりを歩まれたのかを教えてください。

バルタ氏 色々とアニメを勉強できる学校があるかもしれませんが、私の経験から話そうと思います。アニメ映画の世界には、もちろん油絵からも彫刻からも、それからタイポグラフィからも、色々な芸術分野から簡単に入ることができます。私自身はプラハ美術工芸大学の映画テレビグラフィック科を卒業しました。しかし、そこでは「1秒何コマ」という勉強ばかりではなく、むしろ創造的で、要するにアートをやっていました。私が当時お世話になった恩師アドルフ・ホフマイステル先生の一番良いところは、「こうやりなさい」と言わないことです。全くの自由を私どもに与えてくださいました。先生が私たちに与えたのは、ユーモア、ファンタジー、そして自由だったわけです。その雰囲気の中、私なりに映画を勉強しました。後に先生が辞められた後に私が後任で入りまして、15年間そこで教鞭をとりました。
 やはり、勉強より体験が大事だと思います。いくら勉強しても良くないものは良くならない。ですから、色々体験してください。経験してください。せっかく油絵をやっていらっしゃるのですから。絵画というのはもちろん心の中にファンタジーの世界がないとできないものだと思いますので、気が付いたらアニメ制作の世界に入っているかもしれません。自由にやってください。

質問3 チェコに奨学生として人形アニメーションを勉強しに行くか、あるいはアニメーターとして仕事を探しに行こうと思っているのですが、チェコのスタジオは外国人を受け入れてくれますか?

バルタ氏 チェコでは留学生としてアニメを勉強することができる大きな場所が2ヶ所あります。それは先程も申し上げましたプラハ美術工芸大学の映画テレビグラフィック科と、もっと古い大学で90年代になってからアニメ学科が開かれたFAMU、プラハ芸術アカデミー映画学部です。スタジオでのお仕事については、門をたたいてください。直接門をたたいて自分を売り込むのは大事です。才能が認められればもちろん可能性はあります。

質問4 もう何度も同じ質問をされているかもしれませんが、あなたにとってアニメーションとは何ですか?

バルタ氏 その質問はここに夜までいなければならないということですよね。簡単には答えられません。
 しかし、先程も少し申し上げたと思いますが、絵描きやグラフィックデザイナーのように、私たちアニメ作家は何かを表現したいがためにアニメという技法をとっているのです。アニメは私にとって非常にマジック溢るる摩訶不思議な世界で、なかなか私を眠らせてくれません。『屋根裏のポムネンカ』や私の他の作品でもそうですが、元々自ら動くことができない物に命を吹き込むアニメーションは、――魂を宿らせるという表現は変かもしれませんが――やはり何かこう、不思議でならない世界だ、と私は思っています。
 ですからこれからももちろんこの仕事を続けていきたいと思います。必ずしもお金のためではなく、やはり、喜んで何かをやらなければお金にもならない、という風に私は考えています。アニメーションは自分の器を大きくさせてくれる、何とも言えない不思議な世界です。

質問5 想像力を刺激させるような作品を作りたいということですが、立体のアニメーションと2Dのアニメーションでは、「動く」という部分において大きな違いがあるような気がします。想像力を刺激させるためには、人形の動きというものをどういう意味で使われていますか?

バルタ氏 先程も申し上げましたが、テーマによって技法が異なってくるのです。要するに私は想像力を活かすために技法を選んでいるのです。先程ご覧頂きました『見捨てられたクラブ』のマネキンでは、敢えて普通の人形アニメーションにしました。もっとスムーズな動きにすることもできましたが、マネキンですからゴタゴタした感じにしたくて、敢えてああいう風に作り上げました。解釈はもちろん、観客それぞれに依りますので、ひとつしかないわけではありません。ですからやはり、想像力を働かせるつもりで常にやっております。
 それから『屋根裏のポムネンカ』に登場するシュブルトというキャラクターは、紙粘土でできているため非常に大変でしたが、良いショットを撮るために念入りにアニメートしました。
 また、3DやCGそのもののアニメーションについても、私は新しい技法を提供してくれるものとして考えています。『屋根裏のポムネンカ』を撮る前に3Dのアニメーションを撮らせて頂いた時は、やはりコンピューターの可能性はすごいな、と思いました。普通のアニメにはない繊密さを3Dアニメーションに感じました。しかしもちろん、それだけでは物足りない、と私は思います。

司会 どうもありがとうございます。最後に、本学の映像学科の板屋緑教授にご挨拶を頂きたいと思います。

板屋 まずイジー・バルタさんに、本当にこの企画を実現させて頂きまして本当にどうもありがとうございました。みなさんからも、もう一度だけ大きな拍手をお願いします。
 今日のお話を伺って、私から一言だけ言いたいことがあります。まず、『ゴーレム』のパイロット版を観たということと、それから、好きな映画監督の中にフェデリコ・フェリーニとルイス・ブニュエルがいたというのは、ちょっと私にはショックでした。映画監督はたくさんおりますが、フェリーニとブニュエルは、「フェリーニ映画」「ブニュエル映画」という独自のジャンルと言っていいようなものを確立した人です。イジー・バルタさんに似ている点があるとしたら、その都度ファンが失望するくらい作風が変わっていく、毎回裏切っていくということ。それで分かったのが、バルタさんが目指されているものが、「イジー・バルタ映画」であるということですね。
 もうひとつ、90年以後の自由と不自由の問題に触れましたが、一番得た自由は、アニメーションでないことも含む自由なんですね。これは次の可能性として『ゴーレム』に予感されることで、粘土アニメーションというのは技術的には既に確立されている技法ですが、これは現象といったようなものを捉えるようなレベル、次元にまでいっていると思います。ですから、2、3年後のイジー・バルタさんの作品は、アニメーションということではなく、「イジー・バルタ映画」の確立に向かわれていくような気がします。
 イジー・バルタさんを繋ぎとめているのは、ただひとつ、その雰囲気の質の置き方なのです。なぜこれだけの人が集まるのかというと、シュミットマイエルさんがもしかしたら日本の方がファンが多いのではないかということを言われましたが、日本人は大分細かいものを見分ける力がなくなってきましたが、まだまだ、バルタさんが作る細やかな光や闇、素材の中の微妙な凹凸、そういった質の問題を非常にきちっと見る目がある人たちがこれだけいるわけです。ですから、僕はイジー・バルタさんの後継者は今日の集まりの中から生まれてくるのではないかなと――チェコではなく、日本にイジー・バルタさんの血が移っていくんではないかなと、そういう勝手なことを言わせていただきまして、今日の会を終えたいと思います。
 本当にみなさん遠くから、北海道、沖縄からいらして頂きありがとうございました。それから、もう一度イジー・バルタさん、シュミットマイエルさんに拍手をお願いします。

(2009年3月22日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)
写真撮影:三本松淳