武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第34回イメージライブラリー映像講座
映像の極み」の記録

講師水由章(映画作家)、黒坂圭太(アニメーション作家、本学映像学科教授)
開講日:2009年12月17日

 

この講座について

デジタル映像が氾濫している現在、フィルム映写機で映画を見る機会は少なくなりました。本講座では「映画を見る行為」を今一度考える・体験することをテーマに、構造映画の代表作『The Flicker』や、その系譜を引き継ぎながらも従来のアニメーションの常識を覆す作品などをフィルム上映するとともに、自らフィルムというメディアによる表現を追求する作家活動を続けながら、実験・個人映画などのプロデュース・上映を手がける水由章氏、本学映像学科の黒坂圭太教授に解説を行って頂きました。

『T,O,U,C,H,I,N,G』(1968、ポール・シャリッツ)/『Mothlight』(1963、スタン・ブラッケージ)


黒坂 私は映像学科でアニメーションの授業を担当しております。今回の企画ではアニメーションという視点から皆さんに作品を見て頂きたいと、こちらの水由章さんと9月ごろから準備していました。アニメーションは今はテレビやゲームなどで一般的に普及していますけれども、本来は「命のないものに命を吹き込む」という意味の「アニミズム」という言葉が原点になっています。今のアニメーションはキャラクターやストーリーや絵の美しさ、そういうところに重点が置かれ、動かないものに命が宿る瞬間という本来の一番の魅力が遠くへ行ってしまっている気がするんですよね。こういう時期にもう1回原点に立ち帰って、「動かないものが動くアニメーション」というものを楽しんで頂けたらと思います。
 通常は一般の映画の場合でも、一枚のスチール写真を見ただけでは作品の全貌は分かりません。今回は自分の好きなアイドルが出ているから面白いかなと思っても、実際に見るとハズレだったということがありますよね。でも一枚のスチール写真を見れば、とりあえず出演者とかお話の雰囲気とか多少は伝わってきます。ところが今日見て頂く映画はどれも、一枚のスチール写真の状態で見ても全く意味がないものです。つまり個々の画に意味があるのではなくて、何万枚という数で映画という連続運動を起こした時に初めてそこに意味が出てくる。強いて言えば、一枚一枚の絵画作品が動くのがアニメーションなのではなくて、むしろ一枚では意味のないように見えるものが、全部連続してひとつの残像の中に残った時に初めてそこに何か意味が出てくる。つまりそれ自体がひとつの絵画にも匹敵するんじゃないだろうか。
 今日参加されている方の中には、絵画、彫刻、グラフィックデザインというように、主に一枚絵の、あるいは一枚のかたちで見れば魅力が分かるような作品を創作していらっしゃる方が多いと思うんですけれども、今回は一枚一枚では成立しない、連続した時に初めてそこに生まれる、つまり時間というキャンバスの中に描かれる絵画の魅力を是非堪能して頂ければと思います。

水由 今、黒坂先生から今回の講座の位置づけ的なご意見がありました。私の方から言いますと、最近は大体DVDで授業中に参考資料や作品を見ることが多いと思います。とにかく映画フィルムで上映する機会が本当に少なくなってきている。ここは映像学科がありますけれども、映画の授業では今はフィルムを使っていないんですよね?

黒坂 はい。

水由 私もある学校で教えているんですが、そこはデジタル一辺倒です。映像を学ぶ学科の方、その他の学科の方もいると思いますけれど、映画フィルムはまだまだ現役のメディアですから映像を学ぶ上で重要です。映画フィルムで撮影して作品を作るというのはなかなかハードルが高いですけれど、まず物質としての映画フィルムを見て頂きたい。今日は教室の後ろに映写機をセッティングしています。あそこに何十メートル、何百メートル巻きのフィルムがありまして、今日はそれをリアルタイムで上映するわけです。皆さんはインターネットやYouTubeで映像を見たり、DVDを借りてきて見たり、映画館に行ったと言っても大体シネコン的な映画館で見る機会が多いんじゃないかと思います。最近の若い方々は映写機がむきだしの状態で見る上映会というのをほとんど経験していないので、とにかく映画フィルムで見る体験をしてもらうために、車に映写機を積んで児童館や大学などあちこち16ミリフィルムの上映に回っています。今週も今日で3回目です。映写が仕事ではないのですが最近はそういうことをやっていて、是非ムサビでも映画フィルムで作品を見てもらいたいと考えていました。映像学科の特別講義で年に1回くらい作品を上映することはあるんですけれども、今日はいろんな学科の方が参加する講座の機会を作って頂いてありがたいと思います。
 今日の講座は「映像の極み」というタイトルなので、とにかく映画でしか体験できない作品、映画でしか表現できない作品をセレクトしました。黒坂さんの作品も1本ありますが、事情があってビデオ上映になります。その他は16ミリフィルムで、僕が映写機を操作します。とにかくパソコン上とかDVDの再現性とは違います。昔は活動写真と言いましたが、ロール状になっている連続写真を映写機が1秒間に24コマの速度で投影します。1コマ1コマ、映写機の羽根の掻き落としでほんの一瞬羽根の黒みが入って、次の画が出るというのを繰り返すんですね。そこで人間の目の残像効果で画が繋がって見える、続いて見えるという仕組みです。DVDの信号に置き換えたものとは当然再現性が違うわけですね。とにかく今日はその体験をしてもらいたいと思っています。ドラマや物語性のあるものを映写してもDVDとあまり違いがないと思う方が多いと思うので、フィルムで上映するからこそDVDやパソコンとはかなり違うという作品にしてみました。今日上映するのは、物語を拒否している、映画を拒否している、そういうような5作品ですからかなりしんどいです。それは覚悟してもらいたい。だけど「体験映画」ですから、途中で嫌になったら目を瞑ってもいいし、先ほどスタッフから説明もありましたが(※光の明滅によりてんかん発作を誘発する可能性のある作品があるため、事前にスタッフが注意喚起をおこなった)、具合が悪くなったら外に出て行ってもいいです。だけど、自分で見るのをやめたりシャットアウトはしないで下さい。辛くなったら目を瞑ったりして頂ければと思います。なんとか映写された映像と格闘して、辛くてもできるだけ我慢して見てもらうと、その先に快楽が訪れるかもしれません。今日はライブで映像を作るわけではないですけれど、でき上がった作品を映写しているというライブ性を体験してもらいたいと思います。まず、『T,O,U,C,H,I,N,G』『Mothlight』を2本続けてやります。『T,O,U,C,H,I,N,G』は何の音がしているか皆さんよく聞いてみてください。では上映に移りましょうか。


 <『T,O,U,C,H,I,N,G』『Mothlight』上映>


黒坂 いかがでしたでしょうか。多分こういうもの自体をご覧になる機会というのはほとんどなかったのではないでしょうか。

水由 『T,O,U,C,H,I,N,G』については今日の配布資料に「赤・青を基調とした色彩の明滅」というように解説を書いたんですけど、上映したのが40年前くらい前にプリントされたフィルムなので、褪色して真っ赤になっちゃっているんですね。本来なら解説にあるような色が出ているんですけど、申し訳ないのですがちょっとプリントが古くて分かりづらかったのではないかと思います。
 『T,O,U,C,H,I,N,G』は何コマも同じ画ばかり繰り返しているので画の枚数は本当に少ないですね。それで12分間明滅を繰り返して知覚的にメッセージが出てくる。見る人を嫌な感じにさせますね。見ていくと視覚的な興味からだんだん聴覚的興味に変わっていくと思います。解説には「『デストロイ』と言っている」と書いていますけれど、いろんな音に聞こえたんじゃないかなと思います。黒坂さんは何て聞こえました?

黒坂 僕は「ディスカバー」って聞こえました。

水由 僕は何回か見ているから「イッツトライ」とか「リストラ」「ニシカワ」「イシカワ」「イチカワ」って聞こえます。「トラビス」「ビスコ」「イッツゴー」とか。昨日韓国人に見せたら、韓国語で「馬鹿野郎」とかって聞こえると言っていました。聴覚的に音響に興味がいくと自由に楽しく見られるんですけれど、なかなかきつかったかもしれないですね。あと『Mothlight』は大きい画面で見ると抜群にいいですね。オリジナルは蛾の羽とか葉っぱとか花びらとかを直接フィルムに貼り付けていますが、映写したものはプリントしたものなので葉っぱは貼り付いてないです。アニメーションという意味で『Mothlight』はどんな感じでしょう。黒坂さんはどう思いますか?

黒坂 スタン・ブラッケージさんは数年前に亡くなったんですけれど、最晩年にはフィルムに直に絵を描いていました。完全な描きアニメーションと言える『Love Song』という作品に代表される一連のフィルムペインティング・シリーズですね。その最晩年の作品と初期の『Mothlight』との接近性をすごく感じましたね。通常、アニメーションは平たく言うと分解画像なんですね。ひとつの一連の動きを分解した画像を作って、それらの連続した画像をコマ撮りして一挙に見せると動いて見えるんです。『Mothlight』は単に形を動かすというのではない。映画フィルムには1秒間に24の情報が入っているんですけれども、あるひとつのテーマで括られた近い素材を使いながら、それぞれが動画像になっていない。全く無関係のものが配置されているんですね。1秒間に24種類の異なった映像が発信されているんだけれども、人間の視覚だとそれを全部は把握できない。映画の場合は残像があるので、それがきれいに混ざり合って絵の具の混色にも似た効果を出しているなという気がしました。
 ちょっとここで皆さんにひとつ実験してみたいと思います。上の蛍光灯を僕がいいと言うまで見続けてもらえますか。はい、1、2、3、4、5。はい、そのまま目を閉じてください。はい、目を開けて下さい。どうでしょう? 目を閉じている間、この蛍光灯の光がいきなり真っ暗に完全に消えました? 消えないですよね。目を閉じても暫く残っていますよね。これが映写機の原理なんです。実は映画ってフィルムの1コマ1コマが止まっています。そのフィルムがシャッターで覆われて、その間に次のコマが準備されているんですね。言ってみればスライドのプロジェクターをすごく高速でやっているようなものです。シャッターが閉じている間、実は今の実験と同じ原理で、目に像が焼きつかれたまま残像で補完して見ているわけです。だから劇場で約2時間の映画を見たとしたら、その半分の1時間は何も映っていない真っ暗のスクリーンを見ているという計算になります。全部が完全に像として出てしまうDVDやビデオではこういうことは起こりません。そこにフィルムを見た時の心理的マジックというか、さっき言ったように色が混じってそこに別のイメージが出てくるということがある気がするんですよ。
 さっき水由さんがいろんな言葉に聞こえてくるという話をしましたけれど、まさに画像についても同様で、今日の最後に上映する『The Flicker』は極め付けです。今日見て頂く作品にふたつの特色があるとすれば、ひとつはじっと体感していると画像の中に物理的には映されていない何かが見えたりしてくる。それとあともうひとつはYouTubeでは見られない、YouTubeで見ても何の意味もない、そういう映像だと思います。

水由 2時間のうち1時間は黒みを見ているというのは、実際そうなんですね。1コマ1コマの間に必ずシャッターの回転羽根が入って次の画にいくので、必ずほんの一瞬黒みを見ているんですよ。だけど黒みは前に見た映像の残像で補完されるというか、ほとんど黒は認識されないんですね。だから『Mothlight』も1コマずつシャッターの羽根が入って次の画に行く、そういう要素が入ることによってあのように見える。それが映画なんですね。ですから映画フィルムは映写機にかけてなんぼのものである。これをテレシネしたビデオで見ると再現性は同じではないです。それこそまさに体験映画と言われる由縁の作品ですね。

『変形作品第2番』(1984、黒坂圭太)/『流れるように 紡ぐように』(2009、水由章)


黒坂 『変形作品第2番』は僕が皆さんと変わらないくらい若い時に作った、処女作ではないんですけど2本目に作った作品で、ある映画の学校の課題で作ったものです。僕の映像業界のデビュー作にもなった作品です。これは8ミリフィルムで撮られていますので今日はフィルムでかけたかったんですけれども、パーフォレーションというフィルムをひっかける穴の部分がダメになってしまっていて、修復しないとフィルムの状態で上映するのが大変難しい状態になっていました。フィルムからビデオ信号に変換した作業も80年代におこなったものしか残っていなかったので、今日は残念なんですけれども画質的にはかなり落ちると思います。あと明滅の部分に関して、フィルムは1秒間に24枚の画を変えます。これに対してビデオは30枚なんですね。本来1秒間24コマのものを30コマ(※ビデオ信号の単位では「30フレーム」)には当然置き換えられないです。その誤差の6コマをどうしているかというと、テレシネといってビデオ信号に変換する時に1コマを2回出したり3回出したりしてずらし込んでいるんですね(※ビデオ信号の1フレームは、2回のフィールド走査によって作り出されている)。そういう中途半端なことをやっていますので、フリッカーの部分で変なノイズが入ったりしてフィルムのような美しい明滅にはなりません。ですから今から見て頂く僕の作品は、ビデオで見るとこんなふうになっちゃうんだよという、言ってみれば反面教師ですね。だからフィルムの素晴らしさをお伝えするのに今回は逆に役に立っちゃうかな。そんな意味でさっき見て頂いた作品との画質的な違いを見て頂ければと思います。微妙な部分なんですけれど、チカチカッとする時にそれがてきめんにきます。さっきのふたつの作品は僕が映画を始めた時の教科書のような作品でしたので、それらに刺激を受けながら僕は次に見て頂く作品を作ったわけです。今はもちろん年齢も違うし、時代の目的というものも違うので、このようにストイックにラジカルにやることはもうできません。やっぱり自分が生きている時代の中で、当時20歳代の自分に考えられることを埋め込んで、自分の体験を交えて自分の感性で処理して制作した作品です。


水由 黒坂さんのビデオのあとに、私の『流れるように 紡ぐように』というサイレントの作品をフィルムで上映します。これは今年作った新しい作品なんですが、『Mothlight』と同じくカメラなしで作った映画ですね。撮影したものも入っていますけど、フォトグラムと言って、映写フィルムの上に撮影フィルムを密着させてペンライトで光を当てて感光させた部分がほとんどです。何が写っているのかほとんど分からない画が続きます。これもフィルムでしかできない、ビデオではできない試みの作品です。


<『変形作品第2番』『流れるように 紡ぐように』上映>


『The Flicker』(1965、トニー・コンラッド)


黒坂 我々ふたりが前座を務めさせて頂きましたが、これらいよいよ真打ち、今日の最大のイベントの幕開けとなります。トニー・コンラッド作品『The Flicker』。先ほど「一枚絵では成立しない、動いてこそなんぼのアニメーション」という話をしましたけれど、この『The Flicker』ほど「映像の極み」という今日のイベント名にふさわしい作品は映画史的に見ても他にないのではないでしょうか。ある意味、こういう方向性の作品を無理やり終わらせたと言ってもいい、極点に行く作品だと思います。さっき2時間の映画のうちの半分は暗闇を見ているという話をしたんですけれども、それが映画の基本的な原理、つまり闇と光、このふたつで成り立つのが映画です。これは演劇でも同じことが言えるんですけども、さっきから話していたライブ性、体感性はまさにそこにあると思います。家でわざわざ電気を消してテレビを見る人は少ないのではないかと思います。現に最近ではテレビを見る時は部屋を明るくするようにという指示まで出ますから、テレビは明るい中で見る、覚醒した状態で見るというのが当たり前になっている。そんな中、映画というのはまさに暗闇の中で、ある時間を共有するというところにこそある気がします。暗闇とは何もない、ゼロ、つまり無を意味するわけですね。これに対して光は有。つまり片方が闇だとしたら片方は天に昇っていくイメージとでもいいましょうか。そして映画には闇から光までのグラデーション、濃淡があり、それが時には人の形であったり、物の形であったり、時にはそれが何かのストーリーを作ったり、そこにラブロマンスが起こったりするわけです。けれど『The Flicker』はまさに原点に帰った、一切のグラデーション、つまり中間色がない映画です。コントラストが極限にまでいった白と黒しかありません。形もありません。だからそこには光と闇という映画を構成する二大要素がもっともピュアな状態であるだけです。

水由 (『The Flicker』の上映準備を終えてから登壇。)黒坂さんの作品、久しぶりに見たら良かったね。やっぱり大きいスクリーンで見るといいね。

黒坂 ありがとうございます。前半の方で光が明滅する時に、その前のふたつの16ミリ作品との違いって分かりました? 僕のビデオは真ん中に黒い筋が動いて見えましたよね。あれが24コマのフィルムを30コマのビデオ信号に変換する時に起こる一種のノイズなんですね。今日は不可抗力ですが、映画の中でのある表現の可能性の限界、メディアの限界みたいなものを見て頂けたのはよかったかなと思います。

水由 『The Flicker』のことは、黒坂さんがグレースケールがないと言っていたんですが、でも白と黒のコマの配列の違いによってグレースケールに見えるんですね。黒いコマが何コマか続いて白いコマが続けば、白と黒だとはっきり分かります。いわゆるフリッカー効果でパパパパパッと明滅的なことをやると、白と黒なんですけど中間色が見えますね。その辺は体験してもらわないとダメなんです。トニー・コロラッドさんが考えた、いろんなパターンの白黒の配列が30分続きます。同じじゃないです。ほんのちょっとずつ変わっていきます。今いらっしゃる方は『The Flicker』を体験しようという方々だと思いますので、頑張ってできるだけ最後まで見てほしいなと思います。黒坂先生はこれがやりたかったんです。ムサビで『The Flicker』をやりたいというのが私たちふたりの企画の始まりです。

黒坂 そういう意味では、『The Flicker』の前に上映した4本の作品は画質の難を我慢すればビデオでも見られないことはないです。しかし、この『The Flicker』はビデオじゃ再生不可能な代物ですね。さっき言ったように1コマずつ白黒だったら混ざってグレーになりますけど、白が1に対して黒が2だと黒が濃く見えます。そしてその間合いが段々強くなっていくと黒の中に白が点滅するような感じになります。基本的にはその応用だけで作られているんです。そういう意味では今日見て頂く中で一番映画的であり、一番過激であり、そして一番純粋な、まさにこれが映画だと思います。

水由 30分あるので飽きてきて耐えられなくなったら、片目だけ隠したり、眼鏡を外したりかけたりすると全然違って見えます。あと目の前で手を動かして自分でフリッカーするとか、そういうライブ性を楽しんでみてもらいたいと思います。じゃあ始めましょう。


<『The Flicker』上映>

水由 どうぞ黒坂さん、久しぶりに見た感想を。

黒坂 多分フルバージョンで見たのは僕も初めてじゃないかな。正確に言うと、僕は見たんだけども途中で耐えられなくなって外に出ちゃったんじゃないかな。

水由  じゃ初めて見たの?

黒坂 フルバージョンでは。

水由 僕は昨日も見たんですけど、二日連続は疲れました(笑)。

黒坂 目の錯覚でなければ、途中は明らかに白と黒なんだけれども、最初の方とエンディングのところで、白がただの白じゃなくて水面みたいなものがじわーっと動いているのが見えたんですがあれは何なんですか?

水由 いや、何も映ってないです。白と黒だけです。私は映写技師の特権で、このコマの配列だとこうなるんだなってニヤニヤしながら見ていましたけど、何もないです。ゴミは付いていますけどね。

黒坂 あと、割合早い段階でキャラクターみたいのものがちらっと見えたり。

水由 まあ、それぞれ皆さんいろんなものが見えたと思います。

黒坂 改めて思ったんですけれども、はっきり言って厳密には白と黒じゃないんですよね。というのは、多分作られた最初の段階では完全な白と黒だったはずなんですけど、多分上映を重ねるにしたがってフィルムのノイズ、ノイズというかゴミや傷が増えていきますよね。今日も必ずいくつか増えたはずだし、それが蓄積されていく。フィルムが歳をとっていくっていうのかな。

水由 40年くらい前のプリントを上映しているでしょ。1回ずつフィルムクリーニングはしていないので、40年前のゴミと20年前のゴミが付いているんだと思いますよ。昨日のゴミも。

黒坂 それがすごい厚みになってきている。トニー・コンラッドのスコアが残っていますよね。黒を何コマ撮って、というふうなこの作品の設計図というか、楽譜のような。例えばパソコンを使ってデジタルで同じ黒と白の配列を作ることは可能ですよね。

水由 はい、可能ですね。

黒坂 そこで作られた画像というのは多分作った時に見ても20年後に見ても寸分変わらない。けれどフィルムは、作者が当時そこまで読んでいたのかどうか分からないんだけれども、作者の思惑を超えてそれ自体が成長して老化していく。さっきドラマがないと言ったんですけど、今日見た中でとてつもなく壮大な人生のドラマを見せられているような、そういう恐ろしいものを見てしまったような気がするんですよね。

水由 フィルムは必ず上映前よりも磨耗します。ローラーで傷が付かないように動いていますけど、必ず磨り減っているんですね。ゴミは拭いたらきれいになる場合もありますけど、確実にダメージを与えるわけですよね。だから当然、昨日見た『The Flicker』と今日見た『The Flicker』で全く同じとは言えないんですよね。フィルムにはそういうライブ性もありますね。皆さんもいろんなことを感じたと思います。僕は裸眼0.1なので、眼鏡をとるとフォーカスが甘くなってフリッカーがもっときつくなるんですね。眼鏡をかけていれば30分耐えられるけれど、眼鏡をとったらきついです。あと、シャッターの羽根を加えるみたいに自分の瞬きでフリッカーを速くすると見易いんですよね。僕は何回か見ているので、毎回違った楽しみ方がありますね。

黒坂 そういう攻略法みたいなのを知った上で見ると楽しみ方が違ってきますね。映画と言っていいのか、アートと言っていいのか、観客参加型のインタラクティブな作品ですね。

水由 そうですね。今回上映したフィルムはアメリカ大使館から借りてきたんですけれども、1960年代半ばから70年代初頭のちょうどベトナム戦争の頃、アメリカはいわゆる実験映画やアヴァンギャルド映画、現代美術の助成を結構していて、世界の大使館系の文化センターでそれらを上映したり展示したりしていたんですね。多分それはベトナム戦争での反米感情をなんとか中和しようという意図があったんじゃないかなと僕は思います。アメリカはベトナム戦争に負ける前には結構お金をかけて世界中にアメリカの文化を輸出していました。これはその当時のフィルムです。ベトナム戦争に負けてからはすっかりやらなくなりましたけどね。

黒坂 ブラッケージはある意味メッセージ性については非常にピュアな造形志向の作家という感じがずっとしているんですけれど、今日トニー・コンラッドを見て、フィルムの明滅の効果というものが純粋な造形性の追求であることは間違いない。造形に関してはそうなんだけれど、逆にメッセージ性をすごく感じてしまったんです。おそらくトニー・コンラッド自身も単に「芸術のための芸術」みたいな机上論で作ったとは到底思えない。その辺のモチベーションについて本人はどういうふうに語っているんですか?

水由 トニー・コンラッドはもう70歳代ですけど、現代音楽をやっていて数年前に来日しましたね。現代美術を含めていろいろな表現をしていて、映画だけの人ではないんですね。トニー・コンラッド自身が語るということはあんまりないのですが、構造映画についてはいろいろな人が評論を書いています。構造映画というのは、1960年代半ばから70年代頭くらいに流行った、映画の原理やシステムやテクノロジー、そういう映画の本質そのものを追求した実験的作品です。『T,O,U,C,H,I,N,G』、『The Flicker』のように物語性を排除して構造原理そのものを追求して究極的にしたのを全般的に構造映画と言うんですね。お客さんが入らないからすぐ廃れたんですけど。
 今日僕は映写もしましたけれど、映画には違った意味でのライブ性もあると思うんですね。さっき黒坂先生が言ったように、映画は成長して磨耗して衰退していく。『The Flicker』では40年前の古いプリントを上映したが故に、そこに数十年の壮大なドラマが見えた。今日は何かのパフォーマンスをしたわけではないですが、フィルムで映写するというのは、実はその時その時が真剣勝負なんです。撮影でもビデオと違って長尺で回せませんので、どこでシャッターを押すかが重要なんですね。ビデオは1時間回してもそんなにお金がかからないけれど、フィルムは違う。それにフィルムだと8ミリでも16ミリでも3分くらいでマガジンをチェンジしなくてはならない。長く回せないからどこで回すかが重要になってくる。映画というのは撮影にも映写にも常に緊張感があるんです。ビデオが緊張感がないとは言わないんですけど、フィルムのように「ここの1コマで」ということはしないんですね。編集の段階できちっと作るという部分がある。フィルムは編集の時もどこでハサミを入れるかというのが真剣勝負ですね。どこで撮るか、どう編集するか、どう映写するか、常にフィルムは緊張感があると思っています。今、映写技師が不足していますので、興味のある方は是非。黒坂さん、最後に皆さんへのアドバイスなどがあれば。

黒坂 本当に長丁場でしたが、ありがとうございました。今日最後まで見て頂いた方には、少なからず何らかの興味を持って頂けたと思います。今日感動したのは、上映作品の制作者の中で水由さんが最年長なんですよね。

水由 作った時の歳では私が一番年寄りですね。この中で私が一番若いんですけどね。

黒坂 そういった不思議な矛盾も感じてしまったんですけれども、水由さんの作品は大人の視点で捉えた大人の作品だなと感じました。

水由 歳をとってもまだこんなことやってんのって感じでしょ?

黒坂 いや、いい意味でですよ。そういうことも含めて、今日上映した作品自体にどこまで共感したか? 皆さんスタンスが違うので、共感したりしなかったりだと思います。僕もできたら最新作を上映したいところだったんですけれど、今回の企画には向かなかったので今日はこういうかたちになりました。なぜこんな話をするかと言うと、作るということが情報化されてしまって、見なくても見た気になってしまったり、情報がひとり歩きしてそれを鵜呑みにしちゃったりすることがあると思うんです。今日上映した作品は作者自身が既に故人になっていたり現在も同じことをしていたりするんですが、作品を見て少なくともそこに蓄積されているリアリティというものを感じて頂けたんじゃないかなと思います。今、世の中が結果主義になってしまっています。自然科学の分野でも何年もかからないと完成しないもの、すぐに結果が出ないものはどんどん予算が減らされているらしいです。何かを掘り下げていくということに関して、社会状況自体が非協力的な方向に向かっているのは確かだと思うんです。逆にこういう無謀さというか、こういうことができるということは、まだまだ人生の期限がいっぱいある若者ならではの特権でもあるんですよね。だから是非皆さんが今持っている若さをフルに活用してください。一見無駄に思えることの中に、もしかしたらすごいことがあるかもしれないということを、今日の先輩方の作品で伝えることができたら嬉しく思います。

水由 僕の方からも。映画っていうのは暗い空間に皆さんを閉じ込めて、同じ時間を共有させるんですね。『変形作品第2番』は23分、『The Flicker』は30分もありますね。その間、閉じ込めて苦しませるというのは作家の独善的な表現です。他の芸術だと見る人の任意。展示されている前をすっと通りすぎる人もいれば、繰り返し見る人もいれば、じっくり何分も見る人もいる。でも映画っていうのは作家が30分と決めたら30分閉じ込めるというかなり独善的な表現なんですね。ですから耐えられない人は苦しい。あとは「分かる」という自己満足。映画というのはそういう面で見られるので、こういう実験的な作品は一般からは疎外されているところはあります。でも、こういう表現もいいかなと思って僕は映画で表現している。映像学科でない方々はどこかに閉じ込めて見せるということはあんまりないと思うんですね。映画は見せ方が違うので、作家はかなりわがままだと思います。劇映画はみんなに楽しい時間を共有させるんですけど、この手の表現は楽しませることを意図していませんので、裏切りの連続ですから苦しいとか嫌だという人が出てくる。だから皆さん、よく最後まで見てもらったと思います。皆さんはいろんな学科でいろんなかたちで表現されていると思います。昔は現代美術においてもこういう映画フィルムで表現していました。今はギャラリーに作家が顔を出さなくても同じDVDが延々回っている感じですが、昔はフィルムしかなかったので現代美術もフィルムでやっていました。フィルムというのはライブ性。フィルムというロールに巻いた物質を映写機という機械にかけてレンズを通して投影している。そういう昔の幻燈的な要素もあります。そういうおもしろいメディアですので、映像学科以外の方も何かしら作品作りに使ってもらえればいいなと思っています。

黒坂 水由さんがそういう話になってきたので、ちょっと僕も言いたいんですけど。簡単に映像の歴史をおさらいすると、今から20年くらい前から、映像は映画館の中で納まっていちゃいけない、映像作家はどんどん外へ出ていくべきだ、映画なんて方式は古い、これからはインスタレーションだ、映像っていうのは周囲の空間や都市環境、そういったものとの関係性で見ていかなくちゃいけない、と言われるようになった。街に出て行こう、というかたちで映像は解放されていきました。そして美術館、映画館からさえも出て、シティアートとして生活の中に浸透していくべきだ、と。確かにそこには閉鎖された空間からの解放という20年前のある種のリアリティがありました。ところが今、1980年から30年が経過してどうなっているかというと、逆に解放されすぎて映像の大安売りですよね。もう街に出る必要もなくなってきた。自宅にいてパソコン、または携帯のスイッチを入れれば簡単にキャッチできて、それでもう見たことになってしまう。そこまで行ってしまったわけですよね。僕は歴史に良いも悪いもないと思うので、今の在り方が間違っているとか正しいとか言う資格は僕にはないと思っています。ただ、インスタレーションのように外の空間とコミュニケーションを持って繋がるということだけが映像の全てだとは思えないのです。むしろこういう時代だからこそ、先ほど水由さんが言われたように、このように場を共有して、なかば強制的にある種の痛みを伴いながら見る。今回は学校でしたけど、外に見に行くとしたら往復の時間も入場料もかかるんです。それだけの犠牲を払ってある時間を共有していく。全員で真っ暗闇の中で、座ったまま一点の四角四面の空間を凝視し続けるという、この感覚——

水由 傍から見れば異常ですよ。スケルトンの空間で外から見えるとしたら、「なんでこの人たち、こんな映像を30分も見ているんだよ」って、異常な集団だと思われると思うよ。

黒坂 確かに変ですよね。傍から見て「こいつらおかしいんじゃないか」って、それくらいのことはあってもいいんじゃないですか。僕はこの大学で宗教を開いたり啓蒙活動する気は全然ないので誤解しないでもらいたいのですが、ただ、映画の復建という意味で外に拡張していくことだけが映画ではないと言いたいのです。もう1回映画館にお客さんを引き戻せるような映画を僕も目指して作りたいと思うし、皆さんも一緒にそんなものを目指しませんか?

水由 宗教がかってますね。

黒坂 ごめんなさい、啓蒙するつもりはないです。

水由 だから作り手が観客を閉じ込めちゃえばいいんだよ。映画の復建で来てくれなんて、一般の人は山田洋次さんみたいな映画を作らなきゃ来ないよ。この手の映画はだまし討ちで観客を入れて、出さない。作家は閉じ込めるくらいの強制力があってもいいと思うよ。だからそういうような表現を映像学科じゃない方もやっていいんじゃないの。「展示している写真や絵画を絶対に30分見なさい」と、入り口を閉めて閉じ込めちゃうとか。そういう発表会があってもいいと思います。
 話が脱線して終わりそうもないのでこの辺でやめましょう。どうも長い時間ありがとうございました。




(2009年12月17日収録。掲載にあたって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)