武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第35回イメージライブラリー映像講座
「ドキュメンタリー:カメラアイの冒険」 の記録

この講座について

映画の始まりから現在に至るまで、映像作家達は様々な現実にカメラを向けてきました。その対象は多様であり、作家達はそれらに独自の姿勢で向き合うことで様々な映像表現を生み出しました。本講座では、映画評論家の村山匡一郎氏をお招きし、作品の解説をしていただくと共に、さらに多様化し方向性を広げていくドキュメンタリー映画というジャンルについて読み解いていきます。
なお、本講座に先駆けてドキュメンタリー作品「カメラを持った男」(ジガ・ヴェルトフ)、「四季」(アルタヴァスト・ペレシャン)、「ゲルニカ」(アラン・レネ)、「チチカット・フォーリーズ」(フレデリック・ワイズマン)、「かつて、ノルマンディーで」(ニコラ・フィリベール)の参考上映を行いました。

はじめに

 こんにちは。村山匡一郎です。今日はドキュメンタリーの講座ということで、参考上映ではいくつかドキュメンタリー作品を観てもらいましたが、さらに今日の講座の中でも少し観ていただこうと思っています。
 実を言うと僕はムサビで、もう10年近く教えています。最初の頃はドキュメンタリー講座もやってくれと言われたんですよね。ただ学生がほとんど授業を取らなかった。それで講座自体がつぶれちゃったということがあったんですが、ドキュメンタリーがちょっとしたブームになって、若い人達もドキュメンタリーって面白いんじゃない? と言い出したのがここ10年以内のことで、それまではドキュメンタリーは暗くて重たくてつまんない、の三拍子揃っていると言われていました。ドキュメンタリーの魅力みたいなものを、ようやく皆さんが分かってくるようになったのは本当にこの10年ですね。現在はビデオカメラで自分の身の回りを撮ったりする一種の個人映画がドキュメンタリーの境界と重なっていますので、そうするとドキュメンタリーとは何かみたいなことに関心を持ってくる。いい傾向だなとは思っていますけれども。

 僕が最初にちょっと言いたいのは、ドキュメンタリーというのは、要するにジャンルなのか、それとも種類なのか、一体何なんだということです。皆さんが映画を観ていて、「これがドキュメンタリーだ」と思う根拠は何なのでしょう。「これから上映するのがドキュメンタリーです」と言われてドキュメンタリーだと思うのか、それとも、俳優さんが出ていない、ストーリーがあるようでないような、ということで「これは劇映画とは違うのかな」というように自分の感覚でそれが分かるのか。一体どういうところでドキュメンタリーと判断するのかということを、僕はいつも疑問に思っているわけです。確かに劇映画と違ってドキュメンタリーは現実にカメラを向けているわけですよね。でも、あくまでもそれは、例えばこのスクリーン上に見えるわけです。また、劇映画でもロケ撮影や何かで普通の街の中を写したりするわけです。それとドキュメンタリーの違いは一体何なんだと。まぁ、決定的な違いはあるんですけれども、僕はそういう疑問を絶えず持ってドキュメンタリーとは何か、ということをずっとやっていて、その面白さに気が付いてそういうところに入っていったというのが正直なところなんです。したがって、皆さんもドキュメンタリーが一体なぜドキュメンタリーなのかという根拠を、自分なりの感覚で持って欲しいという気がするわけです。そして、それは当然、劇映画、つまりフィクションと対になっていますから、劇映画とは何かということを問いかけるのともまったく同じことなわけです。例えば、劇映画にはストーリーがあって、俳優さんが出ていて、セットで世界を組んでそれを写しているといった色んなことがあると思います。だから、ドキュメンタリーはそれの対極にあるんだろうな、という漠然とした思いはあるんだけれども、さっき言ったように、俳優さんのドキュメンタリーというものもあるし、劇映画には普通の街中で撮ったシーンというのも入っている。だから、そこのところですよね。劇映画の中で、セットとロケとの画面での差は、おそらく皆さんふっと分かるんだろうと思うんですよ。その違いのところにドキュメンタリーの最大の魅力があるのではないかなという気がしているんです。それをちょっと頭に置きながら、今日のお話を進めていきたいという風に思っています。

『カメラを持った男』について

 まず、参考上映で上映した作品について、紹介がてら少しお話しします。ドキュメンタリーって、素材というか題材というか、それはいわゆる劇映画以上に多くのものを持っているわけですよね。「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、現実には様々なものがある。その幅は劇映画よりさらに広いわけです。
 参考上映で観てもらった作品で一番古いものから言うと、ジガ・ヴェルトフ監督の『カメラを持った男』ですね。これは、1929年の作品ですけれども、撮影されたのは1928年で、当時の旧ソ連の人々の生活や風景を撮っているので、現在観ると資料的な価値がありますね。ちょうどロシア革命の10年後の世界ですけれども、実際撮られたのはモスクワではなくてキエフ、今のウクライナの首都が中心になっています。この映画は、昭和7年、1932年に『これがロシヤだ』というタイトルで日本で公開されています。当然、例えばホームレスの子供達とか、そういうところは残して、当時のソ連の良い面はかなりカットされて公開されたようです。この作品はドキュメンタリーの歴史に確かに出てくるんですけれども、むしろアヴァンギャルド、つまり実験映像の歴史に出てくることの方が多いんですよね。それはなぜかというと、実はこれ、世界の映画の中では割と先駆的なメタフィルムの一種なんです。つまり映画を撮っているところをまた撮っているという、そういう作品なわけです。だから、この作品にはカメラマンが出てくるんですよね。このカメラマンはジガ・ヴェルトフの弟のミハイル・カウフマンです。ミハイル・カウフマンはこの後、お兄さんと仲違いしたのかどうか、自分で映画監督になって『モスクワ』という長編ドキュメンタリーを撮っています。ジガ・ヴェルトフは三人兄弟で、末っ子はボリス・カウフマン。この人はフランスでジャン・ヴィゴのカメラマンとして活躍した人で、要するに映画人の一家なんですね。ジガ・ヴェルトフはロシアで活躍していますけれども、元々はポーランドの人で、たまたまその当時ポーランドが旧ソ連に占領されてしまいモスクワに学びに行ったという、そういうようなところがある作品です。これは、メタフィルムの一種なんですけれども、基本的にはロシア革命10年後のロシアの人々の姿をそのままカメラに収めた作品です。

『ゲルニカ』について

 次に、1950年の『ゲルニカ』。これはアラン・レネ監督の作品ですけれども、ピカソの映画なわけです。「ゲルニカ」を中心としてピカソの絵画をいくつか写し、ポール・エリュアールの詩がナレーションで付くというものです。短編で短いんですけれども、当時は衝撃的な映像作品でした。アラン・レネはこの前に『ヴァン・ゴッホ』を撮っていて、その後『ゴーギャン』、それから『ゲルニカ』という、昔でいういわゆる美術映画の範疇でやってきた人で、1959年に『Hiroshima mon amour(二十四時間の情事)』でヌーヴェル・ヴァーグと一緒に長編劇映画にデビューしていくんですけれども、それ以前は短編ものを撮っていたわけですね。この『ゲルニカ』が何で当時話題を呼んだかというと、絵画をカメラで写すのに、どうやって写すかっていうことなんですよ。当然、カメラを固定して回せばそのまま写るわけですよね。ところがレネの場合は、自分の解釈、あるいはメッセージを込めるために、ものすごいモンタージュをやるわけです。そのモンタージュの力みたいなものが当時、話題を呼んだわけです。ここでは絵画を写していますけれども、50年代になると『夜と霧』のようにナチスのアウシュビッツの強制収容所を同じような形で撮ったりしているわけですね。「ゲルニカ」の原画をご覧になった方いるかな? 結構大きいですよね。その大きさは全然この映画の中では感じられない。今はバルセロナのピカソ美術館にありますけれども、その前に立つと、絵画が大きいから視点がさ迷うっていうんですか、そういう形で見ていくことになるわけです。それをカメラでやっていて、その見方は一般の見方ではなくて、あくまでもアラン・レネの視線という、そういう見方で作られた作品なわけです。

『チチカット・フォーリーズ』について

 その次が1967年の『チチカット・フォーリーズ』。フレデリック・ワイズマン監督のデビュー作ですね。これはアメリカの、精神異常犯罪者のための刑務所の実態を撮った作品です。当時、これはアメリカだけではなくて世界みんなそうなんですが、精神疾患の患者さんを収容するところって、割と差別的なんですよね。政治権力から一般の人まで割と差別的なところがあって、この『チチカット・フォーリーズ』に描かれたものが政治的な検閲にかかって、翌年、1968年から1991年まで上映禁止になってしまったわけです。アメリカというのはよく自由の国の代表だとも言いますけれども、そのアメリカでさえ、僕らからすると普通のドキュメンタリーなんですけれども、それを人に見せるのは良くないという政治的な判断が働いてしまうというような作品です。ワイズマンという人は、現在は日本ではもの凄く人気の高いドキュメンタリー作家ですよね。特に、アメリカ文化、アメリカ社会を勉強する人にとっては、とにかくワイズマンを観ないと研究もできないような、そんなちょっと異常なところもあるんですけれど。ワイズマンは、非常にコンスタントに作品を作っていまして、毎年1本は必ず撮っているんですよね。ほとんど撮影は1か月、その代わり編集にかける時間は長くて、短くても3か月、長いと1年くらいかけるんですけれども、そういう場合は次の作品とだぶって作っているということです。日本でワイズマンが評価の高いドキュメンタリー作家になったのは、山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されて、それ以降なんですね。1993年にこの映画祭で『動物園』という作品が上映されたんですけれども、実をいうとそれ以前にも、ワイズマンは毎回応募してきていたんですね。ところが全部落ちたんです。なぜ落ちたのか。単純な話なんです。ナレーションも音楽もついていない、要するにそれが分かりにくいということで、全部落とされちゃった。僕はその時は映画祭に関わっていなくて、僕が関わるようになったのが1993年からなんですが、その時、僕は『動物園』は絶対に入れなくちゃいけない、と言ったんですけれども、選考委員の8割はダメだって。僕と事務局長だけが絶対入れたいって主張したんです。賛否両論があった方が面白いっていうことで強引に押して上映されたんですけれども、やっぱり観た人からは賛否両論が起こりました。それ以降、ワイズマンは必ず出品作に入るようになったんです。ただ、全ての作品がいいのかというと、どうなのかいう問題が起こってきたことも確かなんです。ある意味で、ワイズマンは遅れてきたダイレクト・シネマの作家なんですよね。だからダイレクト・シネマを知らない人達にとっては、まったくよく分からない。ナレーションも何もない。ただ映像だけが、淡々と続いていくと。現に、ある有名なアメリカ文学者でさえも、ダイレクト・シネマのことはまったく知らなかったですね。だから、ワイズマンを観て、「あぁ、こういう映画がアメリカにあったんだ」と。その人はアメリカの専門家なんですけどね。日本はそういう状況だったわけです。ただ、ワイズマンは、毎年作品を出品してくるんですよ。なんで出してくるかと言うと、賞金狙いなんです。ワイズマンは賞金稼ぎですから。とにかく、次作の制作費を得るために世界中を駆け回っている。だから、日本だけでなくてヨーロッパもアメリカも、とにかく資金集めのために映画祭には必ず出品する。それで、ファウンドがあると必ず一番最初に駆けつけると。これは本人が言っていました。特にドキュメンタリー映画というのは往々にして資金回収に苦しみますからそれは当然なことだと思いますが。

『アスペン』
フレデリック・ワイズマン/1991年/アメリカ
かつては有名な銀鉱山であったコロラド州アスペン。現在は高級スキーリゾート地として生まれ変わり、観光客が集まる風光明媚な街として知られている。しかし、そこには地元民によって営まれる普通の暮らしもある。映画はこの街がもつ対照的な側面を捉える。

 作品的に言うと、ワイズマンの場合、これまでのほとんどの作品がアメリカの施設とか、組織とか、制度を対象にしているわけです。例えば警察とか工場といった、閉じられた、制限された空間だと、割と面白いんです。ところが、例えば『アスペン』とか『モデル』という作品。『モデル』は大分前の作品で、草刈正雄が出ていましたけどね。これはニューヨークのモデル紹介所みたいなところが中心なんですけれども、そこで働いているモデルさんとか、現場とか、ある意味で空間が拡散するんですよね。そうすると、あんまりピンとこないところがあるんです。『アスペン』というのは、スキー場なんです。スキー場の空間というのは、山の方に行ったりとか、ホテルがあったりとか、割と色んなものがあって一つの塊としてあるわけではないので、そうするとやっぱり映像はどうしても拡散する。ワイズマンの場合は基本的には、制限された空間、施設、そういうものをやるとスタイルがもの凄く輝いていくんですね。僕がたまたまワイズマンに山形映画祭で会った時、「日本では撮らないのか」と聞いたことがあるんです。そうしたら「いや、私は日本の文化を全然知らないから。私はアメリカ以外では撮りません」って。そう言いながら、フランスに行ってパリのコメディ・フランセーズを撮ったんですけれども*1。ワイズマンという人は戦争中にフランスに駐留していたんですね。フランス文学が大好きみたいで、除隊してからフランスに留学しました。だから唯一彼はフィクション映画を撮っているんですけれども、その原作はバルザックです。まぁ、金銭的にも、作品をプロモーションする上でも、したたかな人です。

『四季』について

そして、1972年の『四季』ですね。アルタヴァスト・ペレシャンというアルメニアの作家の30分位の短い作品です。実は、僕はペレシャンに山形映画祭で会っているんです。彼はかなりいい性格の作り手です。『四季』はアルメニアの情景を映し出しながら、かなり批判的に描き出しているというものです。おそらく、参考上映作品の中でペレシャンの作品が一番分かりづらい作品だと思います。どうして分かりづらいかというと、これはまた後でも触れたいと思いますが、彼自身の編集方法が人に分かり易くするためのものではないんですよね。簡単に言うと、編集を壊していく。基本的にはこの人、モンタージュの人なんです。フランス語でいうデ・モンタージュ、つまりデコンストラクション、要するに編集を破壊していくという編集法をとっています。例えば、映画の最初に男と羊が濁流を落っこちて来るシーンがあるんですが、30分後のラストのところにそのシーンがまた出てくる。普通は落っこちて来たその結果を次のカットに見せるんだけれど、それがある意味では編集の王道なんだけれど、それを引き離すんですよね。そして、その間に別のシーンを入れていくわけです。だから僕らは見ていて混乱するわけです。感覚的にも、意味としても。それをあえてやっているわけです。だからペレシャンを絶賛したのがジャン=リュック・ゴダールなんです。ゴダールもまったく同じ事をやっていますから。そういった意味で、ペレシャンは現代の中では非常に優れた作家の一人と言えると思います。ただ、彼の作品を全部見ても記憶に残らないんですよね。『四季』ってどういう作品だったかなと思って内容を聞くと、「あぁ、あの作品」ってなるんだけれど、ただ個別的なイメージが全然浮かばないんです。一つか二つくらいシーンがポンと浮かぶくらいで、あとは分からない。他のものとごっちゃになってしまっているという、そんな感じの映画です。

『かつて、ノルマンディーで』について

 最後の作品が2007年に作られた『かつて、ノルマンディーで』という作品で、ニコラ・フィリベール監督の作品。これは、参考上映した中で唯一過去を扱っているドキュメンタリーでもあるんです。僕はこれを傑作だと思っています。1976年にルネ・アリオ監督が、『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という映画を撮ったんです。これはミシェル・フーコーのテクストをもとにして作られた映画なんですけれども、フィリベールは、その助監督をやっているんですね。『かつて、ノルマンディーで』は、それを撮影した土地を再び訪れるという作品で、かなり彼の個人的な思いが入っているものなんです。だからある意味ではもの凄く個人映画に近い作品なわけです。日本では聾唖の世界を撮った『音のない世界で』がユーロスペースで配給されてヒットしましたが、フィリベールはその時初めて日本に来て、僕はその時彼に会ったんですけれども、僕はそれまでの彼についてまったく知らなかったんですね。その時に彼からそれ以前に撮った短編を渡されて色々見たんです。そうすると、割と社会的なテーマで撮っている作品が多いんですね。例えば『指導者の声』では、フランスの企業の社長やなんかをインタビューしたりとか、そういうような作品ですね。彼の作品はナレーションを一切付けないんですよ。音楽は付けるんですが、ナレーションは付けないんです。だから、ある意味ではワイズマンなんかにちょっと近いスタイルを持っている人です。僕は割と彼の作品が好きで、これは彼にも言ったんですけれども、4~5年前に北京で彼と再会した時、ちょうど彼は奥さんと来ていて、奥さんがいたからかもしれないけれども、シンパシーを感じさせる温厚な好青年、青年って言ったら悪いな、中年男になっていて。初期の作品からはちょっと予測できないような『音のない世界で』とか、『ぼくの好きな先生』とか、子供達を相手に制作してきたその過程で、かなり柔らかい面が出てきたのかなというような感じでは見ていたんですけれども。その最終的な結晶が、『かつて、ノルマンディーで』という作品になったのかなと思います。この作品では、彼のお父さんがちらっと出てきてインタビューされたりしています。そういった意味では、彼のある一つの転換になるような作品なのではないかなという感じがします。

多様なドキュメンタリー

参考上映では以上の5本を観てもらったんだけれど、全て題材も違えば、スタイルもまったくバラバラなわけですよ。それは当たり前と言ったら当たり前なんですけれども。でもこれは、ドキュメンタリーの中のほんの一部なわけです。ドキュメンタリーというのは、あまりにも幅が広すぎるところがあって、素材もそうなんですけれども、制作目的にも色々あるんです。例えば、劇映画の場合は自分の表現したい世界があったり、あるいは注文があったり、そういう条件の中で制作していく。その注文という形を一つ取っても、ドキュメンタリーの場合は結構バラエティに富んでいるんですよね。例えば、教育映画、ニュース映画、科学映画、それから宣伝映画、あるいは産業映画。そういう呼び名がいっぱいあるわけです。それらは全部、言ってみればドキュメンタリーなわけです。それから特殊な領域として、映画が始まった時から民族誌という領域があります。これはカメラによる人類学のフィールドワークで、現在は映像人類学という形で立ち上がっているんだけれども、これ自体はドキュメンタリーそのものです。学者がフィールドワークして現実にカメラを向けて調査するという特殊な領域で、そういったものもあります。
 さらに厄介なのは記録映画や文化映画という言葉があって、その他にも本当に様々なものがあるんですが、そのほとんどが目的や対象を指しているわけです。例えば、科学映画は大概科学的なものを対象としているわけです。そして、科学映画の目的は基本的に教育。だから科学映画と教育映画は、その領域が重なるわけですよね。これが劇映画の場合だと、これは元々が映画の機能に近いところがあって、教育的な劇映画というのもたくさんあるわけです。でも、そのほとんどがエンターテイメントと重なって、いわば商業的に作られていくわけです。やはり、制作意図からするとドキュメンタリーの分野の方が多様な目的を有しているというのはありますね。特に宣伝映画には、政治宣伝、いわゆるプロパガンダ映画から、いわゆるコマーシャリズムまで、これ自体ものすごい幅が広い分野でもあるわけです。

 現在、日本の行政ではドキュメンタリーという言葉を使いません。今、文化庁なんかがやっている、いわゆるドキュメンタリー分野の映画は文化記録映画と言われています。もちろんドキュメンタリーという言葉は英語ですから、英語圏では初めからあるんですが、最初にドキュメンタリーという言葉を使ったのは、イギリス・ドキュメンタリー運動を主催したジョン・グリアスンで、1926年にアメリカのロバート・フラハティの『モアナ』の映画評の中で、これをドキュメンタリー映画と呼ぼうということを言ったんです。これは非常に有名なんですけれども。そこからいわゆるアングロサクソン、米英系は現実を記録したものをドキュメンタリーと呼ぶようになったんです。ただ、フランス語圏がまたちょっと違うんです。フランス語圏ではそのもっと前からドキュマンテールという言葉があるんです。それが何かというと、観光映画。ドキュメンタリーという言葉は基本的にdocumentumというラテン語からきていて、典拠とか証拠という意味です。そのラテン語から派生して、それぞれフランス語だったり、英語だったり、その中で意味が少しずつ少しずつ変化していって、参考とか、資料とか、そういう意味合いが付いてくるわけですね。だから、簡単に言ってしまえば、ヨーロッパやアメリカではドキュメンタリーという言葉は1920年代からずーっと使われているっていうのは事実なんですが、その起源は各国でバラバラなわけです。ドキュメンタリーという言葉をグリアスンが使ったのと同じ1920年代の日本では何という言葉を使っていたかというと、教育映画。それと、もう一つはニュース映画です。教育映画と呼んだのは、文部省を中心にした官庁です。ニュース映画と呼んだのは新聞社。つまり言語ではなく映像でニュースを知らしめるということで新聞社各社がニュース映画部を作ったんですよね。その二つが大体大きな流れになっていくんです。そして1930年代、ヨーロッパやアメリカではドキュメンタリーという言葉が定着して使われている頃、日本ではまだドキュメンタリーという言葉がなくて、記録映画と文化映画という二つの言葉だったんです。これらはどちらもドキュメンタリーを指していて、文化映画と記録映画はほとんど重なっているんです。ただ、1938年に日本では当時の内閣が最初で最後の“映画法”という文化立法を国会に提案するんですね。そして翌年の1939年に施行されるんだけれども、その中で、記録映画、短編、教育映画、科学映画全て含めて、これを文化映画と呼びますということを決めちゃったんです。だから現在までイメージが残っています。それで日本の行政ではまだドキュメンタリーという横文字を使わないで文化記録映画という言葉を使っているわけです。その映画法が成立する前に、イギリス・ドキュメンタリーが世界的に影響を及ぼして、それは日本にも及びました。その時にイギリス・ドキュメンタリーの監督のポール・ローサという人が、“Documentary Film”という本を書いて、それがすぐ日本で訳されます。ところが、ドキュメンタリーという言葉が日本語にないですから、これを訳す時に「文化映画」にしちゃったんです。なぜ文化映画にしたかというと、1930年代の日本のドキュメンタリーが影響を受けていたのは、一つはイギリスのドキュメンタリーなんだけれど、同時にドイツからも影響を受けているんです。ドイツでは、ウーファがKulturfilm(クルトゥールフィルム)というのを作っていて、これは文字通り教材映画です。科学映画だったり、教育映画だったりね。Kulturfilmを直訳すると文化映画なんです。それでそれらがくっついちゃったわけです。映画法のモデルはナチスの映画法ですから。だから、全部文化映画と呼びましょうっていうことになった。1945年8月15日までは全部とにかく文化映画という呼び名に統一されていたんですね。やがて戦争が終わって世の中が180度転換しても、言葉はそう簡単に改められるわけじゃなくて、ドキュメンタリー映画という横文字はまだ出てこないんですよ。だから文化映画製作連盟とかね。教育映画、ニュース映画という言葉は再び使われるようになったんですけれども。その後、何でドキュメンタリーという言葉が出てきたかというと、1960年代に小川紳介さんや土本典昭さんが作った映画を何と呼べばいいのか、ということになったわけです。長編記録映画と言うべきなのか、長編文化映画と言うべきなのか分からなくなっちゃったわけですね。そこで、それだったらいっその事、ドキュメンタリー映画という言葉を使いましょうということになった。それで、日本でようやく60年代からドキュメンタリー映画という言葉が定着するようになったわけです。現在は文化映画と呼んでいい作品まで、作り手はドキュメンタリー映画だと名乗ります。それだけの市民権を得たということになりますけどね。だから、言葉一つ取ってもかなり違う形になってしまっているんですね。

科学映画について

これからもう一つの本題に入る前に…。科学映画というのは、僕は割と好きなんですけれども、おそらくほとんど観られていないんですよね。今、ちょっとしたブームになって、科学映画の特集やなんかを組むような小さな劇場とか、若い人達のグループがいますけれども。そこで、これから科学映画の短編を何本か観てもらいたいと思います。『タツノオトシゴ』、『吸血コウモリ』、それから『雪の結晶―戦後版―』ですね。みんな短いですから、全部で30分くらいだと思います。

<『タツノオトシゴ』『吸血コウモリ』『雪の結晶―戦後版―』上映>

 いかがでしたか? 科学映画の典型的な作品なんですけれども。最初の2本は、フランスの科学映画で、監督はジャン・パンルヴェという非常に有名な人です。特にこの『タツノオトシゴ』と『吸血コウモリ』、この2本は彼の代表作といわれている作品です。『タツノオトシゴ』ではバックに競馬のシーンが出て来たり、『吸血コウモリ』では、F・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』の1シーンが挿入されたりと、結構シュールなことをやる人なんですね。というのは、ジャン・パンルヴェという人は科学映画の第一人者なんですけれども、1902年生まれで、ちょうど1920年代にパリでアヴァンギャルドの作家達と交流しているんですよね。それで、科学と映画をなんとか融合させたい、ということをやっていて、単純な科学映画ではなくて、彼自身のイメージをそこに刻印していくという科学映画を作っている人です。彼は1980年代くらいまで活躍していたんですが、とにかく科学映画において先駆的な人なんです。
 3本目の『雪の結晶―戦後版―』は1958年の岩波映画です。これは、実をいうとリメイク…リメイクというとおかしいな。実は、1939年に『雪の結晶』という作品が東宝映画で作られているんです。それは、北海道大学の中谷宇吉郎博士の低温実験室で、なんとか雪の結晶を顕微鏡撮影できないかということで、吉野馨治さんというカメラマンの方が撮影したわけですね。その撮影中に、第二次世界大戦の前ですけれども、時の天皇陛下が来てそれを見て「素晴らしい」と言って、ぜひ国民に見せるように指示したという、つまり天皇が宣伝した最初の映画だったわけですね。その後、第二次大戦が終わって、中谷さんと吉野さんと岩波がくっついて岩波映画というのが誕生することになるんです。その中でもう一度『雪の結晶』を作っているということです。中谷さんは文筆家としても割と有名で、金沢出身の方なので金沢の石川近代文学館には彼の作品が入っていますし、娘さんはビデオギャラリーSCANの中谷芙二子さんですよね。彼は科学者なんですけれども、映画、あるいは映像関係にその後影響を及ぼした方です。

『1000年刻みの日時計 牧野村物語』
小川紳介/1986年/日本
山形県牧野村に移住して13年、小川紳介監督が撮り続けてきた集大成的作品。この地に何世代にもわたって伝えられてきた民話をドラマとして再現しながら、自身が行なってきた稲作の記録や自然との闘いを交錯させて描く。

 科学映画というのは、僕らが見えないものを顕微鏡とかそういうもので見せてくれるわけですね。それがレンズの魅力なんですけれども、よく見ると、僕らの肉眼では捉えきれない、物のシュールな動きというのかな、変形というか、そういうのがもの凄く面白いんですよ。こういう科学映画の伝統というのは、フランスではジャン・パンルヴェが1930年に科学映画協会を創設して盛んになっていくんですけれども、日本でも既に30年代から、例えば『黒い太陽』という、これは北海道の皆既日食を撮影した三木茂さんの作品ですけれども、戦前からそういった優れた作品が出てきていますよね。そういう伝統があるため、例えば、土本典昭さんが水俣を『医学としての水俣病』という形で、非常に科学的に撮っていたり、小川紳介さんも『1000年刻みの日時計 牧野村物語』の中で稲の成長を撮っていたりと、ドキュメンタリーという言葉が定着して長編記録映画が生まれても、日本の科学映画の伝統が受け継がれていて面白い。しかし、科学映画は当然興行なんてないですから、その領域が段々小さくなっていった。しかも、かつては小学校とか中学校にフィルムを納めていたわけですが、それがほとんどなくなってきて、観る人が段々少なくなっていった。でも、観ると面白いですし、最近では、エコロジー関係、あるいはスローライフ関係でそういった映画が作られたりしていて、それはまた面白い形になっています。こういった作品は、例えば『カメラを持った男』とはまったく違う映像なわけですよね。それでもドキュメンタリーのジャンルに入っているわけです。

“撮影”のドキュメンタリーと“編集”のドキュメンタリー

ドキュメンタリー映画は、基本的に劇映画と対立して考えられるわけで、劇映画の場合はフィクションを、ドキュメンタリーの場合は現実を写している。そういうことで分けられているというのが普通だろうと思いますが、でも、僕はこういう分け方は単純すぎるんではないかという気がしています。ドキュメンタリーが写すのは現実、とか、事実、といった言葉を使ってしまうことで、実はドキュメンタリーに対する大きな誤解が生じているんではないかなという気がしてならないんです。というのは、あくまでも事実とか現実を写しているというのは、素材のレベルでしかないんですよ。つまり、カメラの前の問題で、映画の問題ではないんですよね。あくまでも素材であって、現実を素材とするということは、フィクションのように自分で構築していくよりも、ある意味でずっと面白い部分があるんです。つまり、現実の制約がもう初めからあるわけですよね。自由に構築ができないから。現実からカメラを持った作り手の方に向かって、ある意味では表現するための圧力がかかっているわけですよ。それがドキュメンタリーとして面白いということは言えますよね。つまり、どうなるか分からない。劇映画の場合は、少なくともシナリオを書いて、セットを組んで、俳優さんを指導してやっていけば、それはそれで一つの世界が築けるんだけれど、ドキュメンタリーの場合はそれが作りながら崩れていくわけです。現実はどんどん変化していきますから。だから、監督がそれにどうやって対応していくか。劇映画を単なる―単なるって言ったらちょっとおかしいですけれど―表現とすれば、ドキュメンタリーも表現なんだけれど、それは変化する現実に対応する監督自身の生き方の問題になってしまう。そこに、一度はまってしまうと容易に抜け出せないような面白さがあります。

 実を言うと、今回参考上映した作品は、僕から見ると二つの系列に大別できると感じるんですね。それが何かというと、「撮影のドキュメンタリー」と「編集のドキュメンタリー」ということです。今言いましたように、現実というのはあくまでも素材でしかないので、結局それをカメラに写してスクリーン上に映し出されたものが作品になるわけですよね。ということは結局、映画ってことです。映画というのは、劇映画もドキュメンタリー映画も全部そうなんですけれども、基本的に二つの表現の磁場があるわけです。磁力と言ったらいいかな。それは撮影する、いわゆるプロダクションという部分と、それから編集というポストプロダクションの部分があるわけですね。ここに表現が加わってくるわけで、当然ドキュメンタリーの場合も本質的に映画ですから、その二つが関わりを持っているということになるんです。
 『カメラを持った男』。これはジガ・ヴェルトフの映画理論では、キノ・キの理論に基づいた―“キノ”というのは“映画”、“キ”というのは“眼”ということですけれども、ロシア・モンタージュ派の中に収まっている作品なんですね。ヴェルトフの考え方というのは、ある意味で非常に単純です。彼はマニフェストしか残していないんですけれども、要するにカメラのレンズは肉眼と違うと。だから、例えば今観た科学映画みたいなものをイメージしてもらえばいいんですけれども、肉眼では見られないものを撮っている、肉眼が見落とすところを撮っているということなんです。そこを見せることによって、ロシア革命以降の新しい文化、つまりソビエト文化の中で新しい人間の視覚を得ようという、考え方自体は非常にオプティミスティックなんですよ。ヴェルトフ自身は、元々学生時代にイタリア未来派に憧れて、アヴァンギャルドを実践してきた人ですから、新しい感覚とその表現を夢みて映画を作り始めた人なわけです。ところが、彼が映画をやった時には既に生フィルムが途絶えていました。ロシア革命以降、資本主義国に周りを囲まれて、日本がシベリア出兵して、革命が波及しないように全部閉じ込めちゃったわけですよ。そうすると生産が低下するわけです。特に生フィルム、ネガフィルムは国内ではもう生産できない。その時に彼がやったのは、かつて撮られた映画をもう一度編集し直すということでした。編集次第で白黒がついてしまうという、いわば編集の妙技ですけれども。それからキノ・キの理論というのを生み出していくことになる。だから、『カメラを持った男』というタイトルからはヴェルトフは撮影が主体の人みたいに感じられるんですけれども、実は編集が主体の人であり、映画だということですね。
 『ゲルニカ』については、編集のドキュメンタリーに大別できます。前に言いましたようにアラン・レネという人は基本的にモンタージュで映画を作っていく人です。『ゲルニカ』は絵画を対象にしていますから、絵画の世界をどうやって自分の視線として表現していくかといった時に、絵画の内部をずうっと見ていく自分の視線を中心にして描いていくため、重要になるのはやっぱりモンタージュの磁場なわけです。事実、彼のデビュー作の『ヴァン・ゴッホ』から『ゴーギャン』、『ゲルニカ』、その次の作品くらいまでは、編集は全部彼自身がやっています。長編劇映画になるとアンリ・コルピという人に任せるようになりますが、短編作品は、ほとんど彼が自分で編集を担当しています。
 それから、『四季』。これも編集の映画です。先ほど言ったように、ペレシャンは、編集を、つまりモンタージュを解体するというモンタージュ理論を生み出しました。例えばA、B、Cという形で編集すれば、アクションなりストーリーなりがちゃんとつながっていくんだけれども、それをせずに、AとBの間にX、Y、Zを入れてみたりとか、B、Cの間にM、O、Pという違うカットを入れてみたりして、カットとカットを引き離しているわけですね。セルゲイ・エイゼンシュテインとかヴェルトフの場合は、カットとカットを近づけるという形になるんだけれど、ペレシャンはそれを引き離すという逆の方向で、モンタージュを解体するモンタージュということをやり始めた。だから、そこが難解なんです。
 モンタージュというのは、映画史上ではいくつかの基準があるんです。一つはアクションなんです。この典型がアクションつなぎと言われていますよね。人が座っていて、立ち上がった時にカットを割って、座っているカットと、その次に立ち上がったカットをつなぐというものです。そしてもう一つが、物語でつないでいくというものです。まあ、ある種の基準ですね。これがD・W・グリフィスが完成させたものなんです。現在はそのバリエーションの中で劇映画が作られているんです。ただ、この物語でつないでいくというのも、ちょっと厄介なところがあって、三人称で記述的に語られる物語と、一人称の語り手がいて語られる物語とで違うんですよね。アラン・レネという人は、その一人称の方なんですよ。だから、彼が劇映画にデビューした時に、マルグリット・デュラス、あるいはアラン・ロブ=グリエ等ヌーヴォー・ロマンと言わる一人称文学、彼とか彼女を主人公にした言語表現ではなくて、私という視点で語っていくヌーヴォー・ロマンとくっ付くわけです。だから、物語の編集の仕方においても語り手をどこに置くのかということでかなり違ってくる。それともう一つ。それは作り手の、言ってみれば言説、ディスクールと言うんですけれど、監督が描きたいと思っている視点で編集していくこと。ペレシャンの場合がこれです。これと同じことをやったのがゴダールなんです。これとこれをつなげば物語やアクションとしてはつながるんだけど、それをやらないで自分が思っている通りのところで違うカットを入れちゃうんです。それによって、自分の思いを伝える。これはものすごい難しいんですけどね。伝わらない場合が多いから。非常に分かりにくくなる。つまり、映像って、観念は絶対に提示できないわけですよ。それを暗示することしかできない。だから、そこに賭けるんだけども、観客という相手がいますから、観客がうまくそれを受け取ってくれないと成り立たないということなんです。しかし、現在は割とこういう言説的なモンタージュのやり方も増えてきています。特に、1920年代のアヴァンギャルド映画以降の、ある種実験的な素質を持った作品にはそういうものがもの凄く多いです。だから、観客として、そこにのめり込める人はのめり込むし、それが分からない人はどうでもいいやということになってしまう。そこが非常に微妙で難しいところなんですけれども。従ってモンタージュをどの基準でやっているかによって、同じく編集を重視するドキュメンタリーの中でも若干違ってくるんですね。そのように、「編集のドキュメンタリー」と言っても色々あるんです。
 「撮影のドキュメンタリー」に大別できるものは『チチカット・フォーリーズ』ですね。ワイズマンはカメラで撮って、もちろん編集しますけれども、観客が時間なり、対象なり、状況なりを理解するためにつないでいく。それは、観客にとってもの凄く分かり易いわけです。ある意味、それは劇映画と手法が似ているため、ナレーションや言葉なんかを付けなくても、基本的にワイズマンの作品は理解可能です。何が描かれて、何が起こっているのかが我々に伝わってくるわけですね。彼は、先程言ったように遅れてきたダイレクト・シネマの人なんですけれど、ダイレクト・シネマ自体が基本的には時間軸でつないでいくんですね。物事が起こった通りにつないでいく。面白いのは、ダイレクト・シネマというのは今日ではもう歴史的な概念になってしまっているんですけれども、実はアメリカで1950年代後半に起こってきたドキュメンタリーの動きなんです。その始まりは、ロバート・ドリューという人がタイム社っていう―『タイム』っていう雑誌がありますよね、そこでドキュメンタリー班を作って、その時初めて16ミリカメラと同時録音を原則として使い始めていくわけです。ただ、当時はまだ録音機も悪くて、ちょうど1960年前後からナグラ社等から小型の性能の良い録音機が出てきて、だんだん良くなってくるんだけれども。それより前にドリューがタイム社でドキュメンタリー映画を作ろうと思ったきっかけは、スナップ写真。彼が一番影響受けたのは写真なんです。それを映画にできないかって思ったんです。だからその場に行って何も考えず、テーマとかそんなんじゃなくて、その場にいて何か起こったら撮る。だからダイレクト・シネマの大きな特徴は、始めにカメラ有りきなんです。テーマから考えて素材を集めようっていうんじゃないんです。とにかくその場に行って起こった事を撮るというのが大きな特徴で、その点で代表作と言われているのが1960年に作られたリチャード・リーコックの『プライマリー』という作品です。プライマリーは、日本語に訳すと大統領予備選挙ですね。この作品は日本で公開されたことはないんですけれども、暗殺されたケネディ大統領のウィスコンシン州での予備選挙で、とにかくカメラで密着していくっていうやり方なんです。もう演壇に登ろうが、飯を食おうが、トイレに入ろうがカメラで追いかけて行くという。同録ですから、同時に音も拾っていく。だから当然、画面がブレたりするわけですよ。でも、それもどんどん入れてっちゃうんです。ちょっと例が悪いかなと思うんだけれど、岩波映画なんかはブレる所がないわけですよ。例えば、『雪の結晶』とかね。ああいう作品でブレたら撮り直すんです。ところが、ダイレクト・シネマは撮り直しはやらないんです。一回性だけなんです。そこに勝負を賭けるんです。これに似た動きは、フランスではシネマ・ヴェリテと呼ばれています。方法が若干違うんだけれど、要するにインタビュー中心というやり方。一番有名なのは『ある夏の記録』という1961年の作品です。これは映像人類学者で、アフリカでフィールドワークをしていたジャン・ルーシュと、社会学者のエドガール・モランという二人の作品なんだけれども、彼らは画面の中に入っていき、自分達でインタビューしている。当然、被写体となる人々はカメラを向ければ演技をするわけなんですね。でもジャン・ルーシュは、それでも構わないっていうんです。つまり、被写体となる人々がカメラを意識しようが意識しまいが、その人の現実だっていうんです。そういう方法でシネマ・ヴェリテは対象を捉えていくわけです。その特徴が一番よく出ているのが『ある夏の記録』という作品なんです。この影響を、日本の寺山修司さんなんかが受けています。寺山さんのテレビ・ドキュメンタリーとかね*2。そうしたドキュメンタリー番組が一つのきっかけとなって、亡くなられた演出家の萩元晴彦さん達はTBS闘争*3などで配転になって、最終的にTBSを辞めて、それでテレビマンユニオンっていう会社を立ち上げていくわけです。まぁ、それは余談ですけれども。面白いのは、カナダで1962年に『世界の存続のために』というクジラ漁のドキュメンタリーが作られているんです。カナダのある島で伝統的にクジラ漁が行われていて、それは1920年代に止めちゃったんですけれども、それを村人達に再現してもらったのを撮っているんです。監督はピエール・ペローミシェル・ブローというフランス語圏のケベック州出身の監督。ミシェル・ブローは、実をいうと『ある夏の記録』のカメラマンをやっているんです。そして、おそらく、ジャン・ルーシュとエドガール・モランにシネマ・ヴェリテの方法を教えたのが、どうもミシェル・ブローらしいんです。そういうちょっと面白い逸話なんかがあります。いずれにしても、各国で1960年前後して、始めにカメラがあって、とにかくカメラで撮っていくことを意識する、それがブレようがボケようがそれを使ってしまうという動きがありました。出来事は一回しか起こらない、繰り返さない。だから、2テイクは一切ない。そういう撮影重視の方法を行ってきた。これは日本では小川紳介さん、土本典昭さんに、ちょっとこの辺は時代がずれますけれども、受け継がれていくわけですね。小川紳介さんの「三里塚」シリーズの場合は三里塚闘争を撮っていますから、当然一回しか起こらないわけです。農民と機動隊が闘っているシーンなのに、「すいません、ちょっとカメラに失敗したんでもう一回やってください」なんて言えないわけですよ。そういう作品が1960年代ぐらいから出てきている。それらは基本的に撮影中心のドキュメンタリーですね。

 歴史的には、いわゆるモンタージュ、編集を中心としたドキュメンタリーから、撮影を中心としたドキュメンタリーに移行していっている。だけど、映画の表現には必ず撮影と編集があるわけです。これはビデオの時代になって、長回しができるようになっても同じなんです。どちらを重視するかというのは、やっぱりそれぞれの演出家、あるいは作家のキャラクター次第なんですね。両方やる人もいれば、素材によって今回は編集中心とか、対象によっては撮影を中心とかね。それは条件次第だと思うけれども、作家が現実から受けた印象というか、衝撃というか、それを表現した結果であると思います。こういうことは、実は劇映画にもあるんです。劇映画でも撮影中心の、ロングテイク中心の時代と、細かい編集をしていく時代と。つまり、結局、映画って編集と撮影のその二つに大きく分けられる。ただし、言っておきますけれど、実際の制作の場ではポストプロダクションの音編集もあるし、映像と音との編集もあるわけですね。だから、今言ったのは映像についてだけの話なので、それに加えて映像と音の対比的な組み合わせがありますから、本当はさらにもっと複雑になっているわけです。

ドキュメンタリーとは何か

そこで最初の問題に戻りたいと思います。つまり、ドキュメンタリーって何なのか、何をもってドキュメンタリーと言ったらいいのかということなわけです。実際には素材も多様だし、作家の視点も多様だし、方法も多様だから、ヴァリエーションにはもの凄く富んでいますよね。だから、一概に言っても仕方ないと僕は本当は思います。作家論とかであれば別ですけれども。ただ、僕が観客として一番面白いと思うのは、ダイレクト・シネマに象徴されるように、作り手が現実と対応しながら、そこで生きていることが見える映像が一番面白いんです。つまり、監督が現実に裏切られる瞬間もあるわけです。不意打ちをくらう場合もあるわけですよ。それがドキュメンタリーの緊張感なんですね。「編集のドキュメンタリー」というのは、往々にしてテーマでくくる部分があるんですよ。だから、観客にとって、自分に合わないと、もういいや、という風になってしまうんです。もちろん編集で見せていくという方法は、それはそれで認めますけれどもね。

 今ちょうど東京フィルメックスが開催されていますね。『選挙』とか『精神』の監督の想田和弘さんから僕のところにメールが来て、彼の『Peace』という作品がそこで上映されるので見てくれって言われて見に行ったんですけれども、その時、ちょうど壇上で想田さんがトークをしていたんです。そこで僕も初めて知ったんだけれど、韓国に「非武装地帯ドキュメンタリー映画祭」っていうのがあるんですって。要するに平和をテーマにするような映画祭があって、そこで想田さんを始め4人のアジアの監督にオムニバス映画を作ってくれという依頼があったんです。そういう形で資金だけ出すというのは、韓国では多いんですよね。ところが想田さんはテーマを与えられるのは、嫌なんですって。だから最初は断ろうかなと思っていた。そんな中、たまたま奥さんの実家に行った時に、お義父さんが野良猫の世話をしていて、その野良猫を何にも気にしないでとにかく淡々と撮っていたんです。野良猫って5~6匹の共同体をつくるわけですよ。ところがそこに、よそから別の猫がやって来たんですね。そうすると、想田監督のお義父さんが餌を与えると、こっちのみんなは食べるんだけど、よそからきた野良猫は食べたくても来られないんですよね。それがだんだん近づいてくるっていうのを彼は撮っていて、「あ、これだったらいわば平和とか、非武装とかそういうテーマに見合うものができるんではないか」と思って引き受けた。それで、引き受けたらどんどん、カメラでとにかく色んな人を撮っていく。特にNPO法人をやっている義理のご両親を追っていく。だから『Peace』は『精神』の番外編になっているんです。『精神』ではその後景でしか見られなかった介護の問題を中心にしちゃったわけですね。そうしたら色んな問題が出てくるわけですよ。だから番外編っていう形でやっている。長編になっちゃって、結局、オムニバスにはならなくて、今世界の各国の映画祭をまわっているみたいです。彼自身はワイズマンの影響を受けて映画を撮っていて、基本的にはナレーションも音楽も一切付けない。しかもテーマも決めない。だからカメラを外の現実に向けて、そこで興味を持ったものをちょっと追っていって、何かが出てくる。作品になるかどうかは別個なんです。この『Peace』も作品になるなんて全然思わなかったんですって。何か短編ができたらいいなとは思ったらしいけれども。それで、色んなものを撮っていって、これが「作品になる」と思ったのは、お義母さんがNPOの活動で介護している90歳くらいの独居老人がいるんです。その人のところにお義母さんが毎日「元気ですか?」って行くわけですよ。ご飯持って行ったりとかね。想田監督はお義母さんを撮っているから、その人の所へも行って撮るわけですね。そうしたら、今日でもう撮影が最後だっていう時に、その老人が思わず自分の戦争体験を語り始めたんです。まったく唐突に。それを撮った時に、「あっ、作品だ」という具合に思ったそうです。それがあるんですね。作品の核になるっていうね。日常をだらだら撮っていても、絶対作品にならないですよ。だって、皆あるんだもん、日常って。だから、それが作品になるスイッチが入る瞬間があって、それが見えた時に「あっ、これでまとまっていく」っていう形になったみたいです。これはもう好みになっちゃうんですよね。ダイレクト・シネマみたいにカメラが入って行って、それでどんどんどんどん監督自身が裏切られたり、考えたり、うまくいったりとか、そういうものが見えるのが、一番ドキュメンタリーとしては面白い。それはなぜかというと、最初の問題に戻るけれども、何がドキュメンタリーなのかって言った時に、簡単に言っちゃうと、僕にとっては監督の生き方が見える作品がドキュメンタリーとして面白い。劇映画というのは、一回限りなんですよね。セットを組んで、チームを組んで、スタッフ、キャスト全部決めて、それで終わりなんです。だから、ある種、小説やなんかと同じだと思うんだけれど、想像力の中に収まっちゃう。それを楽しんだりするのが観客。だけど、ダイレクト・シネマの場合は大概カメラを自分で握っていくわけですよ。編集も自分でやる。そうすると、そこにその撮り手の生き方が見えてくる。僕はそこが一番、「あっ、ドキュメンタリーだ」と思うんです。だから、逆に言うと、途中フィクションが入っていても僕は全然構わないんです。つまり、監督が現実を撮って、こういうことをやって、こう考えている時に、その監督がここの部分はフィクションでやっちゃった方がいいかなと思ったら、それはその人の表現方法だと思っていますから、全然構わないというような世界なんですね。そのフィクションの部分がダーっと大きくなって、例えば原一男さんがやったようにフィクションが作品を大きく占めていったりする。簡単な答えなんだけど、観る方としては、面白ければいいです。ただ、往々にしてつまらないです。なぜかなと思うと、やはり誰かが演じて、誰かが演出してこういう形になっているけれど、カメラの前で実際は現実に何も関わってないという、それがやっぱり効いちゃうんですね。だから、僕なんかは基本的にそこの部分が一番大事です。ただ、一般的に言って、「あっ、これがドキュメンタリーだ」っていうのはあります。一番分かり易いのは、撮っている現場を見せることです。カメラで撮っている時に、例えばマイクやなんかが画面に入ったりすれば、「今写しているんだ、撮っているんだ」って分かるわけです。「フィクションじゃないんだ」って分かるわけです。現に、例えば松江哲明監督とか、そういう若手のほとんどの作家は自分が画面に入って行くんですよね。撮ったのは上映される時より過去ですけれども、少なくともその場で撮っているっていうのが分かるし、その場で監督が生きてるっていうのが分かる。僕はそれが一番面白い。緊張感を与えるところかなと思っています。


*1 『コメディ・フランセーズ 演じられた愛』(1996年)。長い歴史を持つフランスの国立劇団“コメディ・フランセーズ”のリハーサル風景と本公演の模様を中心に、劇団経営の舞台裏など多角的な視点でその全貌に迫った作品。

*2 『現代の主役「日の丸」』 (1967年)。性別も年代も様々な人にマイクを向け、日本人の日の丸に対する意識、国家観、愛国心などを探ったテレビ・ドキュメンタリー。

*3 萩元晴彦、村木良彦が番組の内容が政治的に偏向しているという理由で部署を配転された問題、成田空港建設反対集会の現場でTBSの記者が反対派農民を取材用のマイクロバスに乗せたことに対する自民党の抗議により8人が処分を受けた「成田事件」、ニュースキャスター田英夫の降板問題という三つの事件を巡ってTBS労組が立ち上がった。この闘争後、萩元、村木、今野勉など25名がTBSを退職し、「テレビマンユニオン」を創設した。


2010年11月25日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。