武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第36回イメージライブラリー映像講座
対談 かわなかのぶひろ×萩原朔美  —映像の時代、個人で表現するということ—」の記録


講師かわなかのぶひろ(映像作家)、萩原朔美(映像作家、多摩美術大学教授)
開催日:2010年12月13日

 

この講座について

日本における映像表現史を研究する上で、1960〜1970年代を中心に隆盛した実験映画の役割は非常に重要です。この頃、草月アートセンターを発信源としてヨーロッパの前衛映画や最新のアメリカン・アンダーグラウンド映画が次々と紹介され、美術家や音楽家、学生達がこぞって実験映画を制作し、当時の前衛芸術と深く関わり合いながら、映像表現の可能性が一気に押し広げられた時代でした。
その最前線で様々なアーティストと活発に交流しながら、数々の実験的な映像作品を発表し、同時にオーガナイザーとして実験映画の拠点づくり、情報発信を積極的に行ってきた2人の映像作家、かわなかのぶひろ氏と萩原朔美氏をお招きし、1960〜1970年代の実験映画とアートシーン、またご自身の作品制作について対談していただきました。

『KIRI』『SWITCHBACK』について

萩原 最初にぼくの作品を紹介して、次にかわなかさんの作品を紹介します。ぼくのは退屈です。何故退屈かというと、同じものしか映っていないからなんです。ワンシーン・ワンショットで、山に霧がかかる状態を撮っているだけです。ワンシーン・ワンショットというのはカメラの切り替えをやらない。カメラを三脚に据えて、撮りっぱなしという状態ですね。16mmフィルムのカメラは400フィートのマガジンをくっつけると10分間撮影できるので、10分間回しただけのフィルムです。どうしてそういう作品を撮ったかというと、ひとつには、じーっと眺めていて、ものがじわっと変容していくのを撮りたかったんですね。
 これを撮る前に、リンゴを自分の部屋に1年間置いて、毎日写真を撮っていたんです。1日1枚ずつ、365枚のフィルムを16mmで再撮して、それを6、7分の作品にまとめたんです。リンゴがじわーっと腐っていく、その1年間が6、7分の映像に凝縮されていて、人間の姿を見ているようだなという気がしたので、定点観測の様なものをもう一本作りたいと思っていたんですね。それで、たまたま山に行ったら突然霧がかかってきて、お互いの姿も全然見えなくなるくらい濃い霧になってきた。これじゃあ撮れないから撮影を止めようかってカメラマンに言ったら、これを担当したのは映画のカメラマンだったんですけれど、劇映画の世界では「3時のバカッ晴れ」って言うんだそうです。だから3時になるまで待ちましょうよ、って言われて、待っていたんですね。そしたら本当に3時近くなったら晴れてきて、これはいいやと思って撮影を始めたんですね。それで10分くらい経ったらじわっと本当にうまく霧が晴れてきて、向こう側の山も見えてきたんです。それを撮って『KIRI』っていう作品にしたんですね。

かわなか 実はそこにぼくもいたんだけれど。那須の別荘へ行って、それでとにかく山を撮ると。あの頃萩原さんはイメージを消去することに憑かれていたのかな。ワンショットで微細な動きみたいなものを憑かれたように撮っていたね。例えば庭の石をじっと観察して、最後に石がゴウと舞い上がるとか、部屋の中で1年間キャメラを据えて、埃が積もるのを撮る、なんてこともあったよね。

萩原 思い出した。部屋の上にカメラを据えて、ぼくら夫婦が飯を食っている途中で喧嘩して出て行くっていうシチュエーションでやったんですよ。ちょっとずつ撮り始めてたけれど、夏を越せなかったんです。何故かというと、ご飯が凄いんですよ。腐って、黄色とかブルーのカビが生えてきちゃって。サラダは2ヶ月目になると水になるんですよ、本当にビチョビチョに。悪臭がひどくて、部屋に居られないんです。2ヶ月目くらいまで我慢していたんだけど、どうしても他のお家に引っ越さなきゃいけないという話になった。それで彼女怒っちゃって。離婚しました。それが原因というわけじゃないんだけど。それで断念して、挫折ですね。

かわなか あはは、なんともユニークな別れかたですね。見えない時間を視覚化するというテーマで忘れられないのは、ある時、撮影で萩原さんの家に泊って、朝、新聞を取りに行ったら毎日玄関に配達される牛乳の紙パックがあって、冷たいから汗をかいているわけね。これ冷蔵庫に入れなきゃと思って冷蔵庫を開けたら、中にびっしり同じ牛乳が日付順に置いてあった。そういうことに憑かれているというか。
『KIRI』の時は、霧が晴れてから撮り始めたら意味がないから、晴れるという予測のもとにゆっくりと400フィートを回し始めた。そうしたら見事に晴れてきて作品になったんです。これがニューヨークで上映されて、その時に、ニューヨークの実験映画専門の劇場「ミレニアム」でこれを見たダリル・チンというMoMAのキュレーターをやっていた人が、初めて日本人の実験映画に関する非常に優れた論文を書いてくれたんですね。それまで様々な人が日本の実験映画を外国に持って行ったけど、ジャポニズムというか、「日本、日本」みたいなものを売りにしたり、エロチックなものとか、そういうものが中心だったんです。その時、初めて日本の普通の実験映画がアンソロジーされて、その劇場で出している「ミレニアム・フィルム・ジャーナル」という雑誌に掲載されたんですね。ぼくの『SWITCHBACK』も一緒でした。とにかく日本の実験映画が上映され、それがきちんと評価されたという最初のものだったんですね。
 当時は実験映画といっても、ほとんど見る人がいなかったわけです。ぼくが渋谷にあった天井桟敷の地下劇場でシネマテークをやっていた時は、最初の頃は一人の作家が1ヵ月上映していたかな。それから後に1週間上映になった。4年数ヵ月、足掛け5年間そこでずっと上映活動を続けていたわけですね。この地下劇場は、天井桟敷のスケールが大きくなって自分のところの劇場で上演できなくなっていて、じゃあそこをシネマテークに貸して欲しいといったら寺山修司さんが非常に安い値段で貸してくれたんです。

萩原 ニューヨークで上映した時、お客は勿論満員。実験的な映像は毎日色んなプログラムがあるんだけれど、ともかくその劇場は普通に満員で、それで実験映画とかいうお題目もないわけ。

かわなか 日本で「実験映画」と名乗った理由は、映画っていうと、寅さんの映画や小津さんの映画も映画だし、そういうものを求めて見に来た人が怒り出すので、あえて実験映画と頭に付けたわけですね。

萩原 これから上映する『SWITCHBACK』をちょっと説明して下さい。

かわなか 『SWITCHBACK』は、アニメーション作家の相原信洋君が「かわなかさん、こういうの興味ある?」って35mmのニュース映画を持って来てくれたのを見て、これで映画が出来るんじゃないかと思って作ったんです。フィルムを全部スチールに起こして、1コマを段階的に8コマ、12コマという風に再撮影して、モノクロのニュース映画の中に、カラーの指が入るという風なことを考えたんですね。いわばファウンド・フッテージなんですけれど、この種の映画の型通りにしたくなかったんですね。
 当時そういうことをやるのに、イマジカ(現像所:IMAGICA)に出すと1ヶ所につき1万円くらいかかって、膨大な経費になるんだけど、スチールに起こせば、動きの中に別の要素を入れることが出来るので、そうやって作りました。今はパソコンで簡単にモノクロとカラーは合成できるんだけれど、当時は大変だったんですね。インキャメラでそういうことをやる。キャメラ内でフィルムを巻き戻して、様々な工夫を加えるというね。画面を見て分かるかどうか分からないですけれど、向こう側に建物があって下に群衆がいるところに、ゆっくりと赤い色が浮かび上がってくる。これなんか一度撮影したフィルムを巻き戻して、赤いセロハンをつけたペンライトをキャメラのレンズに段々近づけていって、ゆっくりゆっくり露出を上げてゆくということやった。いわゆるオプティカルワーク、現像処理というようなことをしないで作った作品ですね。
 当時は記憶ということに非常にこだわっていて、例えば人工着色の古い絵葉書。哈爾浜(ハルピン)の駅や六甲のケーブルカー、浅間山が遠望できる絵葉書などを使ったんです。自分はそこへ行ったことがないんだけど、非常になにか惹かれるものを感じるんですね。デジャ・ビュというのかなぁ、何故か非常に惹かれる感覚。懐かしいような、不思議な感覚が起こるんです。自分の親が行ったわけでもなければ、周囲の人が行ったわけでもない。とにかく偶然出会ったそういう絵葉書にとても惹かれるものがあるので、もしかしたら人間には、自分が経験したことじゃない記憶もインプットされているんじゃないかと思って、そういうものをニュース映画の間に入れて作った作品なんです。

萩原 補足なんだけれど、オプティカル処理というのは現像所に出して、オーバーラップなんかをしたりすることです。かわなかさんが言った「インキャメラでやる」というのは、キャメラのなかでオーバーラップだろうが何だろうが全部やってしまうということね。だからフィルムはすごい手間がかかるんだけど、そうやってキャメラの中で全部やった。言ってみればブラックボックスが現像所になっているようなもので、全部自分で手作りでやるという、そういうことだよね。

かわなか 現像所では、オーバーラップ、フェードイン、フェードアウトが1ヶ所につき1万円ですから、大変な値段がつくんですね。ぼくの作品に『LONG-SHOT』という、タージマハル旅行団が海岸で演奏するのを日の出から日の入りまでずーっと5分間隔で撮影して、それを全部オーバーラップで繋いだものがあるんですね。そういう風にして撮ると、太陽の光が左から出てきて右へ抜けてゆく時間が鮮やかに見えてくるんですけれど、それだけオーバーラップを重ねると、物凄くお金がかかるわけです。だから当時の映像作家はみんなキャメラ内でやっていく。今、この会場にいますが、山崎博さん*1なんかはキャメラ内で様々な多重撮影をしています。(会場の山崎博教授に向かって)多重撮影は何回やった?

山崎 『ヘリオグラフィー』では、36回です。

かわなか 36回(!)同じフィルムを巻き戻して、また撮影してという、すごい作品を作った。

山崎 36回やったらフィルムが切れたんです。

かわなか 外国では普通オプティカルワークでそういうことをやる。ところがぼくらはそれが予算的に出来ないから、スクリーンに映して再撮影するという方法を使う。それが結果的に良かったのは、そうすることによって微かな明滅が画面に現われて、それがいかにも記憶中枢を刺激する効果となる。外国では現像所のオプティカル作業で正確にやるから、この味は出せない。日本のような再撮影という方法は思いもしないわけですね。マイナスのカードを集めるとプラスになるトランプゲームのように、再撮影は持たない国の苦肉の策といえるでしょう。特にアメリカでは、JKオプチカル・プリンターという個人の作家でも買える機械があって、それを使えばイメージの拡大をしたり、縮小をしたり、様々なオプティカルワークができるんです。ぼくらはお金が無いから工夫したんだけれど、それが表現上に非常に大きな意味を持ってきた。アメリカの影響からスタートした実験映画の日本的方法の始まりじゃないかと思います。

萩原 今の記憶の問題なんだけれど、見ず知らずの写真を見て、懐かしいと思ったりする、あるいは見知らぬ風景や、映画のあるシーンを見ていて、懐かしいと感じることがあるじゃない。自分の頭の中で記憶している、かつて見た風景ともう一回出会うからじゃなく、全く目新しい風景を見た時にも懐かしいという感情が湧き出てくる。それは、自分が元々持っていたもの(記憶の中の風景)が表に現れるから懐かしいんじゃなく、外側にあるもの(風景)に対して、自分が経験したことがないのに懐かしいという感情が沸き起こる。それがなんだろうかっていうのが面白いと思うんだよね。もしかすると、ぼくらは映画で見た風景以外は、極論すれば風景として感じないんじゃないか、そういうことも時々思う。目新しい風景は無い。映画の中の方がリアリティがあって、現実に対してはそんなに自分の心は震えない。昔に見た映画のワンシーンともう一度出会う時、それが自分の最もリアリティのある思い出じゃないかと思うことは度々あるね。
 同じようなことで、文章を書いている人は自分の中に言葉があると思っている。自分がこういうことを表したいので、自分の中に持っている言葉を書くのだと思うじゃない。それは大間違い。ぼくらの中に言葉なんか何も無い。外側にある言葉、印刷された言葉や出会った言葉に、「あ、これだ!」って言う風に思うわけ。だから言葉というのは外側にあって内側には無い。一番簡単な例で、自分が全く書いたことも見たこともない漢字を見るじゃない。そうすると「あぁ、これだ」と思うことないですか? それはね、内側に言葉があるからじゃない。外側に言葉があって、それに対して自分の思いや感情なりがぴったりその言葉に合わさっているからだと思うのね。文章を書いているとそんなことがいっぱいある。だから一番良いのは辞書をバーンとめくってある字に出会う。そうすると、もうこの字に出会う為にいるんだっていうぐらいに感動する字があるのね。そうやって文章を書いた方がいい。自分の中に何も無くて、辞書も無くて、それで原稿用紙に書いたってね、つまらないものしか書けないよ。自分の中にたっぷり言葉があるというのは幻想だと思いますね。映画もそう思うけど。

かわなか 映画の言葉っていうのは、マルセル・マルタンの『映画言語』が非常に有名ですけれど、映像を一度言語に翻訳して、そこに意味を付与するというのが映画の言葉と言われてきたんですね。例えば上からこう見下ろしている、これは為政者の視点である。逆に見上げるような視点、これはカリスマを仰ぎ見る視点を表現するとか。いわゆるぼくらの言語の中に一度映画を引き入れて、言語としての意味作用を解釈するというのが映画言語と言われていたわけです。実験映画の場合にはそういう風に捉えない。例えば、あるグリーン(自然)の中をキャメラがゆっくりと進んでいく。そうするとなんだか眠くなりますよね。そういう映像って妙に睡眠効果があるんだけれど、そういうものは一体なんだろうと。あるいは草が揺らいでいたり、雨が降っていたり、風が吹いていたり、そういうものに非常に感応するっていうところ。これは人間っていう種に生まれた限り、誰もが必ず持っている感覚じゃないだろうか。極言すると、例えばアメーバ状態から進化してやがて海から陸へ上がって来た人間が、最初に見たものというのはグリーンじゃないかと思う。それが既に潜在的に埋め込まれているから、人間というものはグリーンに非常に感応するのではないかと。そういう感覚を繋いでいくと、真の意味での映像の言葉というのができるんじゃないかな。それを一番上手く使っているのが黒澤明だと思うんだけれど、彼は火とか水とか風とか、人間の根源にある映像を非常に上手く映像に取り入れているんですね。だから物語もさることながら、映像が見ている人間の心に非常に深く入り込んでくる、ということがあると思いますね。

萩原 グリーンというのはそうかもしれないけど、もうひとつは映画がチラチラすることが問題だと思うね。映画は何故チラチラするかというと、もとが静止画像だからであって写真を見るのと映画を見るのとは全く変わりない。映画と写真が別のものだと思うのは大間違いで、映画も写真も同じ。何故なら映画は静止画像が連続しているだけだから。映画がチラチラするのは、1コマずつ真っ黒の画面と真っ白の画面が連続しているからじゃないですか。それをチラチラしないようにする技術を一生懸命開発したわけだけれど、そのチラチラがあるから映画を見ていられると思うのよ。それは何故かというと、白、黒、白、黒の連続って、なんかこう見ちゃうんだよね。パトカーのランプ、信号の変わり目、ストロボの連続って、見ちゃうじゃないですか。それは何故か知らないけれど、そういう素早い白黒の反転というのは、お葬式の幕や紅白の幕というように、全部、日常のあらざる世界の時に出てくるんだよね。あれは注意を引くためだと思う。白黒の幕なんて、横を歩くと白黒が反転してチラチラするじゃない。その光の明滅が、最も根源的な生存の欲望を刺激するんじゃないかというのが私の仮説なんだ。だから物語はどうでもいい、物語や映像美はどうでもいい。光がチラチラするだけでどうしても見てしまう。生存ということで言えば、生きることの欲望が喚起されるから映画を見るんじゃないかと思うね。

かわなか そこで『KIRI』なんですよ。「山を撮って霧が晴れるまで」と言ってしまうと、なんのことはない。「どこが面白いの?」という感じだけれど、これは10分間の体験みたいなもので、現実の霧が晴れる瞬間を見てもさして感動は無いけど、暗くした部屋の中で映されると、そこでは様々なことを考える。あるいは目にはあまり感知しないけれども、フィルムで映されているフリッカーみたいなものも作用しているかもしれない。これは外国で上映しても、意味としては退屈なんだけれども体験としては非常に高く評価されると思うんですね。商業映画ではまずそういうことは出来ないと思う。スクリーンで見ると、現実で見ている風景とはまた別の、見ている側の何か気持ちみたいなものがそこに投影されていくのかな。

<『KIRI』『SWITCHBACK』上映>

萩原 (『SWITCHBACK』のラストの部分で)なんであの後ろのガラス窓が落ちるんだろう?

かわなか オリジナルを後で見直したんですけれど、キャメラマンがあそこでパンしているんですね。だからキャメラマンも気付いていなかった。偶然のアクシデントなんだけれど、拡大して見ているとそこが非常に不思議で、あれがラストシーンに決まったんです。

萩原 あれ、天皇だよね。

かわなか 現人神だった天皇が戦後に人間宣言をして、それで初めて関西に巡幸した時のニュース映画ですね。

萩原 ぼくも子どもの時に北海道で御巡幸に出会ったことがあるんだけど、あぁこれだったなあ、と思って。

かわなか さっき言い忘れたんですけれど、何度も何度も同じシーンを繰り返すということは、頭で考えると意味としては非常に退屈なんだけれども、反復するものには人間の原形質膜のどこかが非常に惹かれる。例えば波が寄せては返すというのは、かなり長い間見ていても飽きないということがあると思う。

萩原 差異と反復だね。要するに反復というのは、波も当然そうだけどひとつとして同じ波は無い。だから差異と反復を楽しむんだよね。定点観測も完璧にそうだね。何度も何度も同じことの繰り返しだけど、反復することによってものすごく小さな差異が目立つ。それからもうひとつ、懐かしいという感じなんだけど、映画でも写真でも何でもいいけれど、見ている方が懐かしいと思ったり、メランコリックな気持ちになったら、その感情の原因は全て、我々は全員限定的な人生で、出会った人とは必ず別れるということを思い出すからだよね。人は限定的な時間の中に生きているんだっていうことを思い出すから、懐かしかったり、メランコリックな気持ちになる。それ以外に原因はないんだから。失恋を思い出すからじゃない、母親や父親の死を思い出すからじゃない。自分が生物として、そういう限定的な時間の中に生きているんだということを思い起こすからだと強く思うね。「あー、なんだか寂しいな」と思ったりするんだけれど。

かわなか アメリカの小説家がこういう言葉を書いているんです。人間というのは生まれた時から、既にゴールに向かってまっしぐらに走っている。「死」というゴールに向かって行かざるを得ない運命にあるんだけれど、その過程で報奨が貰える。それは何かと言うと「記憶」という報奨だ、と言うんです。「あぁ、なるほど。そういう風に考えると死ぬということが少しも苦痛ではなくなるな」と、非常に感じ入ったことがあるんですけれども。
 ビル・ヴィオラという、ナムジュン・パイクなんかと並び称されるビデオアーティストがいるんですが、彼がまだ日本に来始めた頃、ぼくらはアメリカン・センターで彼の作品を見たんだけれど、これが非常に面白くて。ビデオといってもフィルム的な作りなんだよね。それがとても面白くて彼と話すようになった。それで彼がイメージフォーラムに来た時に、ぼくの『SWITCHBACK』を見る機会があって、見終わった後に、「これは言葉ではうまく説明出来ないんだよね」って言ったら、彼が、「うん、分かる。記憶だろ」って言ったんです。自分もアメリカの田舎へ帰った時、家が近くなると独特の、あの鼻の奥がツンとなる様な気持に襲われる、そういうものがこの作品の中にはあると言うんですね。
 ぼくは手探りで自分の記憶みたいなものを映像で探っていくということに傾斜していて、このことは後に『映像書簡2』の時に、お互いに自分の持っている記憶みたいなものを、映像でやりとりするという作品に展開して行ったんだけれど。とにかく人類という種の記憶みたいなものに非常に傾斜していた時期だったんじゃないかなと思うのね。

萩原 映画は全てそうかもしれないけど、いわば記憶というものを作り出す作業だよね。本当の記憶というのは、3歳の時の記憶と20歳の時の記憶と同じかと思っていると全部違うわけだよね。ぼくが今、子どもの頃を思い出した場合、60代の今のぼくが子どもの頃の記憶を作っているわけで、同じ記憶というのはあり得ない。私の5年前はまるで他人かもしれない。全然違う考え方をしているし、ぼくは明らかに他人だと思っているんだけれど。ずっと同じ自分を継承して60年生きているという幻想に侵されるけれど、本当は他人なわけだね。そういう意味では記憶というのは、その時点で作り出す記憶なんだよね。人と話をする時に圧倒的にそう思うんだけど、お互いに全然違うことを記憶しているわけだよ。記憶は日々作り替えているから、現実はどうだったのかと言われても分からない。映像を作るってその感じに似ているんだよね。自分の中で記憶を作っているみたいな。ぼくなんか昔の映画を見ていて、昔見た時と全く違う印象を受けるもんね。

かわなか 『映像書簡2』の中で、あなたはこういうこと言っているんだよね。「思い出なんてない、思い出すという行為があるだけだ」と。あの言葉が非常に印象に残っているね。自分の今の記憶という話と、非常に繋がると思ったんだけれど。

萩原 みんな思い出というものがあると思っているんだよね。思い出すということはあるんだよ、思い出は自分が作り出すわけだから。固定した思い出というものがあって、自分がそれをずっと保存しているような幻想があるんだけど、それは全く幻想。
 ぼく、写真はすべて遺影だと思うんだよね。映画もだけれど、もうそれは芸術写真であろうが何であろうが、すべて死んだ時に飾る遺影だと思うんだよね。それはこういうことなんだ。ロラン・バルトが『明るい部屋』の中で、「写真は記録だ」と言っている。当たり前だよね、記録以外何ものでもない。それは思い出を探る為の契機ではなく、そこにかつて在った、という存在証明だと。昔の作品を見ていても、そういうことを考えていた自分がいたんだなっていう存在証明なんだよね。だから、こんなことを考えていたなんてみっともないという気恥ずかしさがある。違う? 俺の解釈ずれているかな。言葉で書かれているもの、例えばロラン・バルトの映画論を読むじゃない。全員がロラン・バルト読んでも同じように思わないと思う。だってあらゆる解釈があるんだから。俺の読んだロラン・バルトは俺の勝手だよ、みたいなさ。それは解釈の網目が広すぎるから。だってニーチェ読んだって訳が分からないじゃない。あれは分からないよ。だって詩のようなものじゃない、それはそれで良いわけ。良いというのは、それは言葉だから。でも映像は違う。映像はそういう風に解釈の網目が広くない。これは天皇の巡幸、これは山に霧がかかって晴れていく、それ以外は何も無い。『SWITCHBACK』は、時間をテーマにしているのかなと思ったり、『KIRI』では、我々は霧の動いている状態を見ているのではなく、あきらかに時間というものを見ているんだな、ということは後で解釈するわけ。そう思うのは勝手だけど、事実としてはもう「山」、「巡幸」、それしかない。だからさ、ニーチェを読むのとはかなり違う。

1960年代、実験映像について

かわなか こういう様々な映像が出来始めたのは、1960年代の半ばぐらいからです。ぼくらも1960年代の前半あたりから作り始めたんだけれど、商業映画を作るような撮影方法でスタートした。まずレフ板を作って、どういう風に光を主人公の顔に反射させるかとか、商業映画でやっている方法をそのまま踏襲するような形で8mmの映画を作っていたのだけれど、そういう映画の捉え方を根本から打ち砕いたのが、1966年6月に草月会館で開催された「アンダーグラウンド・シネマ/日本—アメリカ」だったんです。その時に初めてアンダーグラウンド映画というものが日本に紹介されました。これはあらすじも何もない、スイカをめぐって延々とドタバタごっこをやっているだけの映画とか、あるいは最初から最後までピントがぼけている映画とか、あるいは画面にゴミがチラッチラッと閃光のように写る映画とか。「これ何だ?」と思ったね。当時はいわゆる撮影所での作り方しかなかったので、非常に腹立たしかった。
 ゴミみたいなものがパッパッと映っていくのは、実はスタン・ブラッケージの『モスライト』という、蛾の羽をフィルムに貼り付けてプリントした作品だったんです。写真の世界でマン・レイのレイヨグラフをはじめ物をそのまま置いてプリントしていく方法*2というのは以前からあったんだけれど、ブラッケージはそれをフィルムでやった。当時は情報が日本に入ってこなかったし、時々「美術手帖」や「芸術新潮」に向こうの新しい映画の傾向というものは書かれていたけれど、それらの意味が分かってくるまではとにかく見ていて腹立たしい映像だった。しかし、何故か見終わってからその作品のイメージが頭から離れなかった。そのうち段々情報が伝わってきて、「ああブラッケージはこういう意味で作っていたんだ」ということが分かってくるわけです。そういう映画へのアプローチはそれまでなかった。商業映画にはヌーヴェル・ヴァーグが起こって、シナリオに伏線を編み込んでドラマを作っていくのではなく、あらゆるエピソードがお団子串刺し方式で並んでいるだけとか、ゴダールの映画なんてまさにその典型なんだけれど、そういったいわゆるスタジオで作られる映画とは違ったアプローチが試みられた。だけどそれは映画の語尾変化にすぎなかった。実際にピクチャーすらない映画なんていうのは誰も考えなかったことなんです。ところがトニー・コンラッドの『フリッカー』という作品は、光と闇だけ。真っ黒なフィルムと、素抜けの透明なフィルムが繋がれているだけで、それが画面に投影されると非常に激しいフリッカーを起こすわけです。いつかポケモンのテレビ番組で激しいフリッカーで倒れた人が出て社会問題になった*3。今はテレビをつけると、光の点滅が激しいところは「激しいフラッシュにご注意ください」といった断りが入るんですけれど、そういう激しい光と闇だけの映像というのがあるんです。それは何も映っていないんだけれど、見る人によって様々なイメージがそこに浮かびあがったりするし、モノクロではあるんだけど、ぼくにはバイオレットの色がふわっとのってきたりするような気がする。光の後に闇が来る、闇の後に光が来る、そうすると非常に激しいフリッカーが起こる。それは映画のそもそもの原理であるわけです。止まっている写真が1秒間24コマ、昔は16コマだったわけですが、それが流されると動きを再現するという映画の原理を、ピクチャーではなしに光で行っている。暗闇の残像があるところへ光が急激に射してくる、その光の残像がある間に暗闇に急激に戻される。そういう風な人間の視覚の特性に基づいて作品を作ることで、意味ではなくダイレクトに脳に届く。そういう知覚映画というものが作られていたわけですね。スタアやストーリーという枠組みから離れて、いわば映画というメディアの原理を映画にする試み。だから1966年の「アンダーグラウンド・シネマ/日本—アメリカ」の催しというのが、その後の日本の実験映画にとって非常に重要なきっかけになったんじゃないだろうかと思います。

萩原 俺は実験映画から、どう作ってもいいんだっていう、映画をあるシステムとして考えないで、どういうアプローチの仕方をしてもいいじゃないか、自由に作っていいじゃないか、というメッセージを受け取ったね。それともうひとつは、映画というものは何なのか? という映画を作るということ。どうして映画というのは、16mmのフィルムがあって、白黒のフリッカーが起こるのか。そのようなシステムというのをテーマに、いわばちょっとメタメディア的に映画の成り立ちというのを映画にするっていうことじゃないかなと思ったんだよね。いいじゃない、自分でフィルムとカメラを買って撮ろうよっていう。普通はなかなかそうはいかない。じゃあ松竹に就職しましょうかという話になるけど、そういうことを一切抜きに、明日カメラ屋へ行ってカメラを買っちゃおうという、そういう自由さ。本来は物作りってそうなんだよね。美術大学に来てこんな話をするのもおかしいんだけど、絵だろうが彫刻だろうが何でもいいんだけれど、物を作るっていうことは、「もうどうぞご自由に」っていうリアリティがあるじゃない。映画ではそういうのがなかった。それを実験映画やアンダーグラウンド映画が自由にしてくれたということはあるよね。

かわなか そうだね。アンダーグラウンド映画が日本に入って来た時に、ぼくらが考えていた映画と違うんだ、何でもありなんだ、という衝撃はあったね。例えば、フィルムの頭に付いている、カラー調整の為にコダックのお姉ちゃんがカラーバーを持って写っているテストフィルムを使って作った作品。これは本来映画として映されない部分なんだけれど、それを何度も何度もループで繰り返して、コダックのフィルムの横に付いてる数字とかパーフォレーションとかゴミとか、そういうものまで映ってくる映画なんていうのがあった*4。「これが映画なのかよ」と思う反面、映画というフィルムで作られているもの、フィルムというマテリアル自体を映し出す映画、いわゆる構造的な映画であることを組み込んでしまう、そういうことが非常に面白かったわけです。そして草月文化会館で飯村隆彦さんが上映した時かな、萩原さんが来ていて、そこで何か上映しようかということになったんだよね。

萩原 自分でもやれると思って、かわなかさんもその時作っていたから、それじゃあ教わろうと思って16mmカメラを買いに行ったと思うんだけれど。

かわなか あなたは形から入る人で…。

萩原 うん。ぼくはマラソンする時もスタイルから。靴を買ってからじゃないとやらないから。カメラが無いと撮らない、だからカメラを買いに行ったの。

かわなか あの当時、萩原さんたちは代官山に共同の事務所を持っていて、安藤絋平さん、榎本了壱さん、渋川育由さん、山崎博さんといった人たちが出入りしてた。そこへ映写機を持ち込んで、大使館から借り出したフィルム、当時カナダ大使館にはノーマン・マクラレンが全部あったし、ドイツ大使館には表現派の作品があり、日仏会館にはアラン・レネをはじめとする実験的な短編が揃っていた。そういうのを毎週上映したんです。

萩原 今では考えられないよね、ビデオ化されているから。当時はフィルムを借りてこなきゃいけない。

かわなか そうしているうちに、そこにいた皆が実際に作り始めた。山崎さんは16mmのフィルムで、サイコロを振って露出を決めるという風な作品を作っていたんだね。しかも、撮影を夜中にやる。そうするとバルブというシャッターを開けっぱなしにした状態にして露出を決めるから、くっきりと真夜中の街の光が写ったり、真っ暗になったりして、非常に激しい明滅が起る。

萩原 カメラがここにあって、カメラで何が出来るかという話になってくるんだね。要するに内容というか、こういう物語をやろうということじゃないわけだから。物語を作ってもいいんだけれど、一体映画というシステムはどうなっているんだということになる。すると、普通は1コマ1コマをザーッて流して撮影するんだけれど、それをあたかも写真のようにコマ撮りして、1コマの撮影に3時間くらいかける。そしてまた次の1コマに3時間くらいかける、するとどういう映像が出来るんだろうってことをイメージしちゃうんだよね。
 それでさっきトニー・コンラッドのことで言い忘れたんだけど、ポケモン・ショックの時に新聞に記事が出てたじゃない。でもトニー・コンラッドの「ト」の字も出ないんだよね。『フリッカー』を上映した当時、生まれて初めて『フリッカー』を見た子供が、全国で何人も倒れたんだけど、1万人に1人だったかな、癲癇が起こるんだよね。実験映画やアンダーグラウンド映画の世界ではそんなこととっくに分かっていたの。トニー・コンラッドという『フリッカー』を作った人も、もともと学者だったからあんな風にシステマチックに作るんだけれど、あの人はもうすでにそのデータを持っていて、しかもそれは日本に伝わっているんだけど、事件当時の新聞記事に一度も出ないというのはおかしいんだよね。

かわなか 『フリッカー』は上映の時に、本編の前に長々と注意書きが出るんですね。その中に「場合によっては癲癇を起こす」と書いてある。

萩原 テレビアニメーションの世界では「パカパカ」と言うんだっけ、人が変身する時にパカパカする。あれが事件以降禁止になって、NHKと民放で会議をして何コマ以上パカパカやってはいけませんということになった。その後、『バベル』という映画でまた問題になったでしょう。あれは光過敏症というもので、人は真っ白と真っ黒を連続で浴びていると、中には癲癇を起こす人が出てくる。
 これは実験映画の世界だけの手法ではなく、黒澤明も映画の中で1コマまったくの素抜けの画面を作っている。それは何かというと、シェイクスピアのマクベスを翻案した『蜘蛛巣城』という映画で、幽霊が出てくるところで三船敏郎が馬に乗って出てくるシーンがあるんだけど、パカパカって何回か雷が光るんだよ。知らない人は家に帰ってビデオで見てみて。普通、劇映画の監督は、稲妻のシーンはライトでチカチカやる。コマ送りしてビデオで見てもらうと分かるけど、ピカピカって何回か光って、3回目のピカピカでいきなり画面全部が真っ白になってしまう。その画面だけ1コマ、完全に素抜けの画面を入れているわけ。ということは劇場中の観客全員の眼の中に映写機のライトがそのまんまドーンと入ってくる、そんな変なことやっているわけ。これは実験映画的な発想なんだよね。黒澤明は他にもそういうことをやっていて、映画を上映する時、録音された音というのは、(フィルムの端の)黒白のギザギザの絵のようなところで読み取るんだけれど、彼はそこに絵を描いていたんだよ。自分でこういう絵を描くとこういう音が出るだろうとやっていた人なんだ。発想が実験映画的なんだよね。

かわなか アニメーション用のバイオレットのペイントでフィルムの音声部分に薄く描くとサーッて音になって、濃くやるとドン、ドン、という音になる。『映像書簡』でも最初の時に、そのようにして音を付けたことがあるけどね。とにかく映画の音っていうのは、フィルムに焼きつけられた光のモジュレーションを音に翻訳するわけだから、それを実際に描いてしまうことが可能なわけです。ノーマン・マクラレンの作品にもそうやって作ったものがありますけれど、とにかくそういう映画の様々なことをもう一度やり直してみようという試みが、アメリカの実験映画であったわけです。ただアメリカが創始かというとそうではなくて、日本でも個人で8mmや16mmなどのフィルムを作ることが出来るようになった1930年代くらいから随分様々な作品が作られている。例えば色だけで映像を作ろうと考えた人がいたんですね。これはカラーフィルムが出来たばかりの頃で、当時色でどういう演出をするかということが真剣に考えられていた。それで音楽に合わせて色だけを交差させていって、その音楽の情感みたいなものを伝えようとした試みとか、あるいは美学者の中井正一さん。彼は様々な実験的な作品を手掛けているんですね。コマ撮りによって物の持つ時間、例えば植物の芽が出てくるまでを知覚化するとか、映画でなければ出来ないような様々な仕掛けを使っていろいろな作品を作られているんです。そういった作品は残念ながら戦災や震災で皆無くなってしまって、しかも、当時は作った人達の研究室でしか公開されなかったので、戦後のぼくらの世代には繋がっていかなかったんですね。そういう意味では非常にスタートが遅かったというか、戦前のそうした歴史が伝わっていれば、我々は自分で作るという方法をもっと早くから発見したんじゃないかと思います。今はビデオとパソコンがあれば十分に作れるんだけれど、便利になってしまうと、みんな商業映画のマネみたいなものを作るというところへ固まってしまう。「霧だけ撮る」なんて誰も考えない時代になってしまいました。こうしたことをいろいろ試してみると、そこにまた映画の新しい未来というものがあると思うんですけれどね。

萩原 先人はそうやって個人で作った映画を発表する場を持たなかった。これが演劇だと、個人でやろうが何人でやろうがお客さんを呼ぶわけだから必ず公開システムを考えるのね。ただフィルムをやっている人は、どっちかというとオタクっぽい人が多いからか分からないけれど、作品を公開するシステムを作らない。かわなかさんは日本で公開というシステムを考えた初めての人なんだけど、そういう意味では、演劇と映画が決定的に違うのはそこなんだ。演劇は劇場がないと演劇にならないから。だから、お風呂屋であろうがどこであろうが、出発点から公開するシステムを持っている。映画の人は持たなかったってことだよね。

かわなか そうか…そういう考え方ってぼく初めてだな。ぼくはとにかく映画は映画館でしか上映出来ないという一般的な常識、あるいは8mmで作ったものは映画じゃないと言われたことに逆らって、とにかく8mmは立派な映画である、ということで上映会場を見つけ、そこで上映することを始めたわけです。でも時期が悪くてね。昔、新宿のスタジオアルタの隣にあったビルの上の方に、サンヨー・ショールームという三洋電気のショールームがあって、そこには映写室付きの小さい劇場があったんです。当時三洋は「ジャングル大帝」のアニメーションのスポンサーだったので、それを見せるために作られた劇場だったんですが、1969年にそこで実験映画の上映を始めたわけです。そうすると、当時若い世代は皆ロングヘアーにしていたんですけれど、それが山ほど集まる。それがどうも三洋電気のイメージと合わないということで、始めてから10回目くらいで追い出されたわけです。
 その当時は学生運動が盛んで、新宿でも火炎瓶が投げられたりした時期なので、とにかく若者を街から追い出そうという動きがあったんです。それで若者が集まる拠点がどんどん潰されていった。次の上映場所を探すのに、都電やバスを借りてその中で上映出来ないだろうかと交渉に行ったり、あるいはゴーゴーホール、当時盛んだったんですけれど、そういうところに交渉したり、地下の駐車場で上映出来るだろうと思って駐車場を交渉したりしたんだけど、どこも貸してくれない。途方にくれて歩いている時にピンポン台の音が聞こえてきて、ピンポン場だったら台を片付ければ映写が出来るだろうというんで、そこへ頼み込んだら、「いいよ」ってそこの大家さんが言ってくれたわけですね。そこは値段も非常に安くて、ピンポン台を一台借りる権利で全部を借りられたわけです。そこはまだ都電が通っていたところで、上映している時も都電が通るとガタガタガタッてうるさくて音が聞こえなくなるということはあったんですけれど、いつまでも使っていいということで、そこでシネマテークの定期上映会をやっていたんです。そうしたら、10・21(国際反戦デー)以前かな、ちょうど表で火炎瓶闘争が始まったんです。それでまた若者が集まる拠点だということで公安から絶えず脅されて、ついにピンポン場の大家さんもいつまでも使っていいといったけど勘弁して欲しいということになった。とにかく退却宣言だけは出させてくれと言って、そこに赤い紙に白いペイントで「退却宣言」と書いて「筆に尽くせぬ理由により退却します」なんてかっこいい文章をバンと貼ったんです。大家さんは半年くらい貼り続けてくれたのかな。今はもうそこはビルになっていますけれど、なかなかいい大家さんだったんです。そうやって拠点を探し、71年くらいからようやく定期的に上映するということが出来たわけです。

萩原 今はポレポレ東中野とかああいう小さなところがある。しかも民生用の本当に安いビデオカメラで撮ってパソコンで編集したものを、そういった小さな劇場で普通の商業的な映画の後に上映したり、うちの学生なんかもあちこちで上映会をやっているけれど、すごく恵まれているよね。そしていきなり動画配信したりする。ああいうことをやると、もったいないんだけれどなあ。でも、作っている人が発表する場所を探さなくていいという素晴らしい時代だよね。だけど今の若い人は発表する場所を探さないね、何故か知らないけど。どうしてなんだろうと思うんだよね。お芝居の連中とか、彫刻や絵画の連中は、初めから自分の作品をどこで発表したらいいのかっていうのをまず考えるから、ものすごいお金を借りて、作品を作る前、1年か2年前に画廊を借りる。映画を作る連中は作る前から上映する会場を借りない、どうしてだろう。

かわなか ぼくは意地になって今だに「映像の地下水脈」という上映会をやっていて、これは通算すると30回になるんだけれど、とにかく阿佐ヶ谷の小さなギャラリーでやったり、高円寺の狭いライダーハウスでやったりしていたんですよね。その時店のマスターに聞いたら、若い世代の人が貸してくれっていうから貸したんだけど、上映しても自分のお客さんは呼ばない、関係者だけで見ていて、せっかく上映するのにもったいないと言うんです。「ああ、そういうことが普通なのか」と思ってね。ぼくらは作品を作ると自分で場所を探して、転々としながら上映して来たというのがあるから、どうも不思議なんだけど。

萩原 唐十郎さんもテント公演をやっているし、銀のテントを作って鈴木清順の映画を上映したりする荒戸源次郎なんかは、お芝居出身だからああいう発想だったんだけど。だからぼくはムサビシアターってテント作っちゃって、それでもって全国の公園でも何でも、転々とテント興行をやればいいのにと思うのよ。

かわなか ノマド上映だね。

萩原 なんかいいと思うんだけどなあ。

かわなか ぼくは運転すると危険な人間なので、ついに免許は取らなかったんだけれど、もし免許を取っていたらきっとそのノマド上映をやったと思うんだな。今だに憧れなんだ。

萩原 いいよね。以前土方巽がやっていたんだけど、ひと夏廃校に住んじゃって、最後に近所の農家の主婦たちを集めて暗黒舞踏をやるのよ。全裸でこんな風に踊っているから農家の人たちはびっくりしちゃうんだけど、それによって将来的に見方が変わるわけ。同じように全国行脚でさ、渋谷とか新宿にたむろしている若者向けに若者がやるっていうスタイルだと内輪になっちゃうから、映画の上映なんか1年に1回しかないような、そういうところに行って廃校でテント張って、それでムサビの卒業制作展を近所の主婦に向けてやる。その反応はおそらく都会の観客とは全然違うと思う。それがリアルな反応なんだよね。

かわなか 寺山修司さんの市街劇なんていうのはまさにそうで、杉並区一帯で同時多発的にいろんな芝居が行われる。銭湯へ行ったらそこでいきなり芝居が始まったりして、そこにどうっとカメラマンが行って写真を撮って、風呂屋のおじさんがカンカンに怒って大変な問題になったりした。あるいは団地を訪問して演劇を届けようといって、全身に包帯を巻いた男が団地の一室のドアをノックしたら、たまたま身重の奥さんが出てきて、「ギャッ」となって警察に通報した。これがもうたいへんな問題になって、翌日の新聞で事件として出たんだけれど。
 それから、ある人の後を一週間ずっとつけて、前日の行動を全部克明に葉書に書いて毎日その人に送るというものがあった。書簡演劇っていうんだけど、寺山さんえらい危ないことを考えたなと思った。相手は阿佐ヶ谷の住宅街にいる怪しげなオヤジなんだけど、黒い眼鏡をかけて、いつも自転車でパチンコ屋へ行っていてね。彼の生活を記録した葉書が彼の名前で毎日彼のもとへ届く。そして一日途絶えると、その翌日届いた葉書には、今日行う活動が示してある。で、後は彼がその通りに動くかどうかビデオに撮ってくれ、と頼まれた。この時は怖かったねえ。どうも自転車を分解して、それを組み立て直して売っているような生活をしている人だったみたい。ちょっとやくざっぽい顔をしていて。当時は長い望遠レンズが無いので、4倍のズームレンズで撮らなければいけない。そうすると相手から見えるところで撮らなければならない。向こうがチラチラこちらを見るんだけど、それでも撮らなきゃいけないから、劇団員に衣装を着せてそれを撮っているように見せかけながら撮っていた。でも、向こうにバレているんだよ。そんな犯罪のようなお芝居をやっていた。

萩原 寺山さんの作品は、お芝居の方が日常の方へ侵入していって、普段の生活がなんだか嘘のように感じられるという。どんなものでも、映画でもそうなんだけど、こちら側で日々私たちが感じている日常よりも、あっちの映画の方がよりリアリティを感じさせるという、逆転するようなものがある。「自分は普段夢の中で生きていて、本当なのは向こうのスクリーンだ」、みたいなね。寺山さんの映画でも観客席のへんりっくがスクリーンに飛び込んでいって、スクリーンの中の女達に丸裸にされてスクリーンから追い出されるっていう映画、というかパフォーマンスをやっていたけれど*5、あれなんかも、観客は安全圏にいて侵されない、映画から観客側へ来ることはないという常識を壊すわけじゃない。演劇の方が普通の家へ行っちゃうわけだから。ぼくは本来そうあるべきだと思うのね。人の家に行っちゃって、「すみません演劇やらせてください。ありがとうございます。5分くらいやります」とか言って、お茶飲んでだーんと始める。しかも夫婦仲の悪い話とか。それがさっと終わると、「これは何だろう、もしかして今飯を食っていた我々の方がフィクションで、あいつらが現実かも分からない」と、そういう逆転するようなことがほんとの体験だと思うのね。

かわなか 寺山さんにそれをやらされたのよ。「かわなかさん、あの家にビデオセットしてくれ」って。向こうには社会福祉事務所を装って電話をしていて、これこれこういう映画を撮りたいんで協力して下さいという話がいっている。それで向こうも「どうぞ、どうぞ」と言うのでビデオをセットして、録画にしたままぼくはいなくなる。すると劇団員の女の子がその家に行って、いきなり「ごめんください、私を子供にしてください…」と言う。向こうも初めは「いいですよいいですよ、映画の為ですね」と言っているんだけれど「私を子供にしてください…」「いいですよいいですよ」「私を子供に…」「んん?…うちには子供も孫も大勢いて大変なんです」とやがて大変険悪になる。そうすると今度はしばらくしてまた次に「ごめんください」って新しい劇団員が入って来るという、そういうのをずっと回しっぱなしで撮った。当時ポータブルに入れられるテープが30分だったからそれしか撮れなかったんだけれど、それが訪問演劇。これ犯罪だよなあと思うんだけれど。寺山さんはそんな風に、日常を逆転させていくことに非常に長けていた。そういう意味では、映画というものも絶えず物語を生成するだけじゃなく、フィルム自体を作品にしてゆく、光、闇を作品にしてゆくとか、そういうことが十分考えられるんじゃないかと思います。

萩原 寺山さんも随分実験映画を撮っているしね。それから普通の劇場用の映画でも、いきなり上映中の映画が途中で遮断されて終わっちゃって、「どうしちゃったんだろう?」と観客が思っているところへ、今まで映画の中にいた主人公が実際に劇場に登場して、「あんた達の暗闇に電気をつけてくれ」って言うという、ようするに今まで暗澹と見ていた映画が、あれ?って中断して違うところに行ってしまうというのがあった。あれ面白いよね。
 どんな作品でもそうなんだけれど、表現されたものには、こちら側が安心して見ていられないものもある。自分の実人生と作品とは関係ないと思っているかもしれないけれど、自分の実人生にまで押し寄せてしまうようなフィクションや作品、考え方というのはあるよっていうことも教えてくれるんだよね。教えてくれないとつまんないじゃない。講義もさあ、1時間半知ったような顔をしてべらベら話していて、何にもこっちに響いて来ないという講義もあるじゃないですか。大学の授業でも、あらゆる授業でも。聞いていて何も心に来ない講義が90パーセントだとしても、その中の一人の教師が変なことを言う。「あれ? こいつだけは違うな」っていうのが欲しいんだよね。「普通の教師はただ喋る、ちょっと良い教師は自分からやってみせる、偉大な教師は心に火をつける」という文章を読んで、そうだよなあ、人の心に火をつけられたらどんなに素晴らしいだろうなあって思うのよ。それはあらゆる教師や講義もそうだけど、あらゆる作品も、心に火つけられちゃったらその良し悪しっていうのを超えちゃうんだよね。何とか賞を取った作品は素晴らしいかもしれないけれど、その一方で何の賞も取っていなくても自分の人生まで響いちゃう、考え方まで響いちゃう作品がある。
 これを実験映画の世界に戻すと、昔、『セントラル・リージョン』をニューヨークでを見たんだけれど、つまんないの。3時間も何にも映らないんだから。カメラがガラガラガラガラと3時間動いているだけだよ。最後には360度動いちゃって。観客の大半は寝ている。一緒に行った日本人も5分で寝てしまったんだけれど、ぼくは眠れないんだよね。なんだか知らないけれど。これはマイケル・スノウっていう監督の作品なんだけれど、単にカメラがゆっくりとぐるぐる回るだけなの。でも感動しちゃってさあ。自分がなんで感動したか分かんないのよ。だけど素晴らしい。ああ、これも映画って呼べるんだ、3時間一睡もせずに見ちゃったよっていう、その時に自分でも何か作品を作りたくなった、ものすごく。それで、日本で唯一そういう作品を作って上映しているのが、かわなかさんしかいなかったもんだから、頼みに行ったの。
 何故そういうことを話すかというと、大学に来ているとどうしても大学人だと思われちゃうからさ。かわなかさんは造形大で教えている、ぼくは多摩美で教えている、山崎博はムサビで教えている。昔ヒッピーだった連中が皆大学教師になっちゃったもんだから、大学教授のような面しちゃって申し訳ないんだけれど、教育ってものには顕教(けんぎょう)と密教とがあるんだよね。顕教っていうのはべらべら喋るの。教育には顕教も必要でしょう、でもやっぱり大事なのは密教なんだよね。密教というのは選ばれた数人に師が直接に話して、秘術を教えるんだよ。物を創る学校の授業というのは、全部密教であるべきだと思うんだ。俺は正直言って物は教えられないと思うんだよ。だってみんな才能無いもん。当たり前じゃん、100人いたら1人しかないよ。もちろん俺も才能は無いけれど、とりあえずこういうテーマでやってみようかってやって、つまらなかったら、つまらない、面白かったら、ちくしょう俺より才能あるなあって酒飲みながら話す。それが授業だと思うんだよね。講義室ではおそらく授業にならないんだよね。映画だってそうなんだよ。大きな劇場でやる映画は密教じゃないわけ。やっぱりそれは顕教なんだよね。『セントラル・リージョン』のように、個人で作ったのは密教なんだよ。100人が「何ですかこの映画、さっぱりわかりません」って言う中で、一人だけ「ああそういうことをやっているのか、俺もそういうことがやってみたい」って思う人がいるわけ。実験映画なんて100本見たってその中の2本くらいしか面白くないよ。大半はつまんないと思う。でもその2本が面白いんだ。何故なら自分が面白いと思っていることそのものをやっているから。それが密教的な伝授なんだよね。そのことを発見した時に、多分世界が変わるのよ。寺山さんが人のアパートへ演劇を持って行くように、ずけずけと人の心に入ってくる作品があるんだ。全然信じてないでしょう? でもあるんだよ本当に。何年かに一回絶対にある。その時に自分がいかに非力かと思うわけよ。それで初めて物を創ることのスタートに立ったなあって思うんです。

『映像書簡』について

かわなか 映画というのは見ているよりも作る方がよっぽど面白いです。みなさん作る人だから、みんなそれぞれが自分の映画を作って欲しいですね。
 では、最後に今年の新作を上映します。萩原さんとは1979年から『映像書簡』というシリーズをやっているんですが、これで11本目なんです。間に中断期が10年くらいあったのかな。でもずっと続けていて、去年いきなり萩原さんから連絡があって、今オーストラリアに来ていると。ぼくはかつてオーストラリアのシドニーで『映像書簡2』という作品を上映したことがあった。あれからちょうど四半世紀経っている。そのショーべル・シネマという劇場はどうなっているだろうか、その後を見てみたいし、それを題材に作品を作れないだろうかと思った。当時ぼくのコーディネーターをやってくれた担当者、アレッシオ・カヴァレロ(Alessio Cavallaro)は今メルボルンの映像専門の大きな美術館*6のキュレーターをしていて、とても意欲的なことをやっている。それも見てみたいしということで、いきなりシドニーに行くわけです。とにかくシドニーで1日2万歩を歩いて作った作品です。

萩原 その前の『映像書簡10』からずっと作っていなかったんだけども、『映像書簡10』はかわなかさんが胃癌になって、彼は胃癌だろうがなんだろうがどうせカメラを病室に持ち込むだろうから、それを映像書簡にしたらいいんじゃないかなと思って始めたんです。今回はその作品はやらないんだけれど、それに比べると今回のはとても淡々としていて、本当は『映像書簡10』を見てもらったら良かったと今は思う。人ってこういう現場に行っても、生死をさまようって状況でもカメラで撮っているんだという、ぼくはああいう状態では絶対撮らないと思うんだけど、彼は平気なんだよね。

かわなか 商業映画の監督だと、企画が通り、俳優が決まって、用意スタートしないと撮れないけど、ぼくら映像作家はいつでも撮っていることが出来るんです。ある形を撮るのではなしに、撮りながら探しているというところがあるわけです。例えば胃カメラを飲んでいく腹の中を自分で撮ったりしているんだけれど、それはショッキングだし、別にそんなものを見せるのが目的じゃないと思っていたので、日記のようにただずっと撮っていたんですね。ところが、その時萩原さんはお母さんの体の調子が悪くなって自宅へ帰り、それで母親を撮るということになった。それで、映像書簡をやろうといってね。でもぼくが、それではだいたい反応は読めるし、すごいですねって言われるのは決まっているから、それはどうかなって言ったらね、(萩原さんが)「自分で自分の身体の中を撮影した映画監督って、どこにもいないよ」って。それに押されて作ったのが『映像書簡10』という作品です。この作品では、生きるとか死ぬとかそういうことにまつわる、非常にいいコメントが萩原さんから出ていて、誰に見せても感心してもらえるわけなんだけど。ただ、そういうアクチュアルな題材じゃないことで何かを作りたいというのが絶えずあるわけです。
 ドキュメンタリーはテーマ主義でしょ。ニューヨークへ行った時に、今、人が入るのはポリティクス、バイオレンス、あるいはジェンダー、そういうものじゃないと観客が来ないからドキュメンタリーはそれらを扱っていると言われたことがある。監督自身と何も関係のないテーマを扱っているんだ。癩病の施設に行ってそこの人たちを撮って、そこに社会的ないろいろな問題があるという。でもそれを撮る監督というものは一体何なんだと思うわけね。むしろ自分と関わりのあることにキャメラを向けるっていうことじゃないと、ぼくらの映画というのは成立しない。少なくともぼくの映画は成立しないということで、絶えず自分で自分に関わりのあるものを撮り続けているというわけですね。

<『映像書簡11』上映>

萩原 映像を見ていて一個だけ思い出したんだけど、黒い木があったじゃないですか。あれは山火事なんだよね。そのユーカリの木は、山火事が起こると自分の種を飛ばせるから、山火事を待っているんですって。そういう生態になっているのが可笑しくてね。タンポポは風を待っている、ユーカリは山火事の火を待っているんだ、というのを今思い出しました。
 映像に出てくる、あの人形は何だったんですか?

かわなか 陶製の小さな人形ですね。後に分かったけど、人形が持っている人形なんだって。イギリスから入植した人たちが連れて来たもので、あのシドニーの博物館にいつもあるんだけれど、今回道に迷って偶然に辿り着いたお店にヴィクトリア時代のものが置いてあって、その中にあった。非常に不思議な骨董屋さんだった。若い女性がやっているんですけれど。

萩原 女の子が2人でやっていて…不思議な骨董屋さんだったね。新聞を刷るのに使う木の活字があったり。

かわなか とにかく、かつて四半世紀前に上映した劇場を見るというテーマだけでスタートして、萩原さんは別に付き合わなくていいよと言ったんだけれど、責任感から毎日2万歩一緒に歩いてくれた。歩くと必ず道に迷う一角があって、そこは今でも真っ直ぐ辿れないんですけれど、そこにあった不思議な骨董店なんです。そこにかつてシドニーの美術館で見付けて、またついこの間新宿のフリーマーケットで買った陶製の人形を売っていたんだよね。あ、これでなんとか辻褄があったなと思った次第です。

萩原 時間が来てしまったみたいです。どうしましょうか?

スタッフ では私からひとつ質問させて下さい。映像書簡は70年代から今までずっと続けられて今年で11回目ですけれど、お二人で作ることになった最初のきっかけみたいなものはあったんでしょうか?

かわなか カナダから来たビデオ作家でドン・ ヅルーイックという人がいるんですが、彼が東京に来た時、窓からずーっと街を見ているんです。彼は芸術家なのであくせく動かない。1時間でも2時間でもそうやっているので、どこか浅草でも連れていこうか? と言うと、いや、これでいいんだ、って言う。我々は横断歩道の信号が明滅するのを見て走り出したりするような環境に生きていて、彼はカナダでのんびりと暮らしていた。リズムが違うんですね。
 彼はぼくの『PLAYBACK』という作品を紀伊國屋ホールで見て、その後向こうに帰ってから手紙をくれたんです。大きなボードにスライドが一枚はめてあり、当時のカナダのクイーン・ヴィクトリアの記念切手が貼ってあって、ただそれだけなんです。そのスライドの画像を見たら、このボードを写真に貼ったものがそのままスライドになっている。彼はプレイバックしたわけですね。「あ、これ面白いな」と思って、彼に返事を出した。それは銀座の絵葉書で、ほぼ同じ図柄だけど7種類くらい出ているもので、それを一日ずつ日にちをずらして向こうに送った。そしたら向こうからその絵葉書がカナダの牧場に立て掛けてあったり、木の枝に下がっていたりするのを撮った写真のスライドが送られてきた。今度はぼくがそのスライドを持って電車に乗って、絵葉書のオリジナルの風景は数寄屋橋の上から撮っている風景なので、ぼくは下からその風景にオーバーラップして撮った8ミリフィルムを送った。すると向こうから中野—新宿間をぼくが彼のスライドを持ってずーっと電車で移動しているところが何度も何度もリピートされるようなビデオテープが返ってきた。これは当時開催された国際的なビデオアート・フェスティバルの出品作として送られたものなんだけど、終わった後ぼくがキープしていいという手紙が付いていたんですね。ところが事務局がそのビデオテープをどこかへやってしまって、その言葉を使わないやりとりというのはそこで終わったんですけれど、これは面白いなと。日本でも出来ないかなと思って、ぼくと全く正反対の性格をしている萩原さんにこういうことやらない? って声をかけたんですね。

萩原 ぼくはそのイメージ、映像の往復が面白いと思ってね。以前ニューヨークの大学で、ビデオで発表するという授業を見ていた時に、ある女の子の課題が面白かった。彼女はあちこち引っ越しをしていて、そのかつて住んだところ全てに自分で自分宛てに手紙を出していく。やがて手紙が全部返ってきて、封筒の彼女の名前のところにはすべて「不在通知」と書かれている。どこへ行っても彼女は全部不在なんだ。ああ、こういう往復のやりとりっていうのが出来ないかなと思っていてね、それでちょっと共感を持って。  あともう一つだけ。『映像書簡』を見て寺山修司がすごく嫉妬して、まああの人は人のやることを全部嫉妬するんだけれど、俺もやりたいと言って、それで寺山さんと谷川俊太郎さんが『ビデオレター』という作品を作った。ただ残念なことに寺山さんが亡くなってしまったので、最後が谷川さんが寺山さんの亡くなってしまった、あれは…病室?

かわなか 心電図。心電図をずーっと辿るという。人の死というのをああいう風に知覚化したのにはちょっと驚いたね。かなり乱れた波形が最後にすーっと一本の線になっていく。その後に風でびゅううっと心電図の紙が揺れていて、非常に印象に残る作品。
 アサヒカメラでビデオに関する別冊を作る際、ぼくが編集長をやらなきゃいけなくなって、アサヒカメラの本社がある築地へ行って一部屋もらい、そこでさまざまな企画をディスカッションしたんです。例えば荒木経惟だと、彼がビデオ撮るのは普通だから、荒木陽子さんに天才アラーキーを撮ってもらおうとか、寺山さんと谷川さんにしても、二人は性格が全く違うわけです。彼らは若い頃からずっと友達で、谷川さんは寺山さんがデビューするのに随分力を貸したりしたんですけれど、このふたりに撮ってもらったら面白いだろうと。多分断るだろうと思っていたんですね。ところが、「かわなかさんは萩原さんと映像書簡やっているから勝ったと思っているんでしょう、だけどやる。」って。これは亡くなるまでずっと撮っていたから、寺山さんの最後の作品ですね。雑誌に掲載されたのは前半の何回かの往復なので、実際にはシーンと言葉で(誌面を)埋めたんだけれど、その後もずーっと作り続けていたんですね。そのやりとりが非常に面白くてね。

萩原 最期寺山さんは薬を相当飲んでいるから肌がすごく荒れて、その背中を平気でビデオの前に晒している。あの人は本当にそういうことをやらない人だから、ああビデオっていうのはそういう力があるのか、とすごく思ったね。

かわなか あの人は自分がまず映画に出ないからね。一本だけ、寺山さんがディレクターチェアに座って、最後に立ち上がって去っていくという作品はあるけれど、舞台でもカーテンコールをやらなかった人なんですって。そういう人が薬でただれた自分の背中を撮っているんですね。それに対して谷川さんからは言葉もなく「ピーピースースー」というラジオのノイズを流して草花や犬を撮っている映像が返ってくる。お互いにスリリングな展開というか、言葉を非常に効果的に使った作品であると思う。イメージライブラリーにもビデオがあると思うので是非見てください。

萩原 言葉で語り合っているんだけど、言葉以上に映像が語っているというのが面白い、そういう作品です。それではそろそろ。

かわなか どうもありがとうございました。

萩原 ありがとうございました。 


*1 本学映像学科の山崎博教授。写真家、映像作家。

*2 フォトグラム…印画紙の上に直接物を置いて感光させる写真技法

*3 1997年に放映されたテレビアニメ「ポケットモンスター」の一部に激しい明滅シーンが使用されており、視聴者が光過敏症発作などを引き起こした。

*4 『スプロケットホール、エッジレター、汚い粒子などの出てくる映画』(Film in which there appear sproket holes,edge lettering,dirt particles,etc.)ジョージ・ランドウ/1966年

*5 『ローラ』。観客を演じているのは、死後寺山修司の弟として戸籍に入った俳優の森崎偏陸(へんりっく)。

*6 Australian Centre for the Moving Image(ACMI)


(2010年12月13日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)