武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第37回イメージライブラリー映像講座
「時代と世界を照らし出す ドキュメンタリー映画祭の現場から」の記録

この講座について

1989年に小川紳介監督の協力のもとスタートした山形国際ドキュメンタリー映画祭。ドキュメンタリーに焦点をあてたアジア初の映画祭として、現在では世界三大ドキュメンタリー映画祭の一つと呼ばれるまでに成長し、世界中から先鋭の作品や映画監督が集い映画表現の新たな地平を提示し続けています。
本講座では、同映画祭東京事務局ディレクターの藤岡朝子氏をお招きし、2011年のインターナショナル・コンペティションで審査員を務めたアマル・カンワル監督による『犯罪の現場』の上映を交えながら、作家と映画祭の関係、現代においてドキュメンタリーで表現すること、そういった作品を映画祭で紹介し続けること、などをお話ししていただきました。

はじめに

藤岡 みなさん、こんにちは。寒い中集まっていただきましてありがとうございます。
 山形国際ドキュメンタリー映画祭というのは、二年に一回山形県の山形市で開催されている映画祭です。私は普段東京にいまして、打合せのために山形に行ったりすると、この時期はもう雪が降っていて、「わーいわーい」なんてやるんですけど、地元の方は雪下ろしがすごく大変です。ヤマガタ映画祭はいつも10月に開催しているんですが、釜山映画祭と重なるので時期をずらしたらいいかなという話があったときに、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭が開催される夕張は雪の深い所なのでお客さんが喜ぶということで、とても盛り上がっている、という話を聞いて、ヤマガタ映画祭も雪の季節がいいんじゃないか、というアイデアが出たんですが、地元の人が猛反対をしまして、雪がどれだけ大変かみなさんは知らないだろう、と東京の私たちは怒られてしまいました。
 そんなわけで、山形市で1989年から隔年で開催されている映画祭で仕事をしてきた私の話を今日させていただくことになります。最初に少し映画祭のお話をして、山形国際ドキュメンタリー映画祭がどういう風に開催されてきたかということ、始まった経緯とかもお話して、そして今年のインターナショナル・コンペティションの審査員で来てくださったインドの映像作家アマル・カンワルさんの最新作で『犯罪の現場』という映画を上映して、カンワルさんの話を少しして、映画作家と映画祭の関係についてお話ができればいいかなと思っています。
 私は1993年からずっとヤマガタ映画祭の仕事をしてきて、もう18年になります。自分の人生と比較してみたら、半分近い位の年数をヤマガタ映画祭と関わっていたということで、ちょっと驚いたんですけど、初期の頃にはアジア千波万波というアジアの若手の作家やドキュメンタリストを紹介するプログラムのコーディネーターをしていました。アジア各地に出かけていって、作品を探したり、話題の作家に会ってみたり、そういう交友関係を作っていきながら、日本に監督を招いて、作品に日本語字幕を付け、ヤマガタ映画祭という二年に一回の祝祭の場に一堂に集まって、日本の観客と交流してもらう、ということをしてきました。映画祭は山形市が一番大きな予算負担をしていますが、東京事務局の私たちをフルで雇用するような形態になっていませんので、私はフリーランスで通訳とか翻訳の仕事をしながら、ヤマガタ映画祭の仕事を担っているということになります。

 今日、実は会場に村山匡一郎さん*1という、ヤマガタ映画祭のコンペティション部門で1991年の第二回からずっと選考委員をやっていただいている方が来ていらっしゃるので、私が1989年のスタートの頃の話をするのはちょっとおこがましいですが…。1989年というのがどういう年だったかというと、冷戦時代の終結の時期です。丁度ベルリンの壁が落ちたことで良く知られています。その後、ソ連が崩壊して東欧圏の社会主義体制が解体していって、そして、世界中が市場経済化していったりとか、グローバリゼーションが広がっていきました。アジアでは天安門事件、中国では非常に大きな民主主義の運動に対する弾圧があって、この1989年から今までの20年近くの間には、世界中でものすごくいろんなことがありました。振り返ってみると映像の文化も変わってきたと思いますし、インターネットの普及などから、私たちコーディネーターなど映画祭をやっている人間にとって、作品を探し出す行為や、映画祭という映画が集まってくる場としての役割もいろいろ変わってきています。コミュニケーションの時代が加速化してきているような気がします。また映像素材としても、1989年にはフィルム作品が中心で、コンペティションはフィルムしか上映しませんでしたが、今はビデオのデータで投影するような時代になっていますが、映像制作の作り方もすごく多様化してきたのは、この20年間位だと思います。

 ヤマガタ映画祭の特徴としては、コンペティション部門とアジア千波万波というアジアの若手の作家たちの招待部門で選ばれた作品には必ず日本語字幕を付けて、映画祭の後フィルムライブラリーに収蔵する、という活動があります。人が集まって盛り上がって交流していくということも重要なんですが、山形まで足を運んで映画を見ることができる人というのは限られていますので、セレクションには私たち自負がありますし、選ばれた作品を保存して、借り出したいという方、全国の大学やミニシアターとか美術館とか、上映したいというところにはどんどん貸し出ししていくという、非営利上映ですが配給のネットワークを作り出そうとしたんですね。その歴史とともにヤマガタ映画祭があって、この資料(イメージライブラリー・ニュース 第29号)にも村山さんの文章でありましたけれども、20年前にはドキュメンタリーが映画館でかかるなんて考えられなかった時代でした。今はアート系のミニシアターで一番のドル箱というか、興行収入がとても高い、評判が高い映画がドキュメンタリーだということが多い時代に移ってきていると思います。
 今、過去のヤマガタ映画祭のカタログを3冊位回覧していますので、どんな感じの構成でやっているかご覧いただけると思うんですが、おおよそ一週間の間に200本位の映画を上映します。コンペティション部門の他には、いろいろな趣向を凝らした特集、ヤマガタ映画祭に来ないと見られないような、そういう特集を組んで上映をしています。ヤマガタ映画祭にいらしたことのある方、どの位いますか? 3人位ですね。やっぱり、山形まで足を運ぶのは大変なことなんですね。今年の映画祭は8日間で、2万3千人位の人が来てくれましたが、それは結構多い人数でした。今年は3月11日に大変な災害があって、東北がダメージを受けた年でした。あと、東京から山形に行くのに福島を通るということもあって、お客さんは減るんじゃないかと予測していました。地域の方や国内のお客さんはすごく増えたんですが、一方海外から来る人がすごく減るというような状況でした。
 メインの会場が9スクリーン位あって、地元の山形大学とか、東北芸術工科大学とも協力関係の中でプログラムをやってます。特集ですと、今年はテレビドキュメンタリー特集というのをやりました。60年代、70年代の、始まって10年位のテレビっていうのはすごく実験的で、ちょっと驚いてしまうような番組を一杯作っていました。民放もNHKも含めてそういう番組を発掘してきて、まとめて上映しました。あとはキューバという、革命の国として知られていますけども、実際キューバからフィルムを借りてきて日本で見ることは難しいものですから、貴重な企画だったと思いますが、キューバからゲストをお迎えして特集上映もやりました。あと、作品の応募総数は1800 本ぐらいで、その中からコンペティション15本と、アジア千波万波プログラムに20 本位の作品を選んで上映しました。概要としてはそんな感じです。とりあえず映画祭がどんな感じか見ていただこうかと思います。

<「山形国際ドキュメンタリー映画祭プロモーション」上映>

 このプロモーションビデオは2003年位に作ったものですが、それ以降作っていないので、結構古い映像がたくさんありますね。今は亡くなってしまわれた方もたくさん登場しているので、そういう意味で良い記録でもあり、私たちにとっては大事な映像なのでなかなか新しいものが作れないでいるんですけども。でも、映画祭なのにプロモーションビデオとして結構問題だなって思うのは、映画を見ているシーンが一つしかない。しかもそのシーンでは寝てしまうという…。殆どがそうではないと思いますけれども、映画祭の間は夜も結構遅くて、みんな酒を飲んだりもするので朝は眠い、という毎日だと思います。それから、なんでボウリングとかラジオ体操とかしてるのかと不思議に思うかもしれません。メインではないんですが、すごく大事な交流の部分のツマということで、毎年こんな感じでいろいろな趣向を凝らしたイベントを考えています。

小川紳介とヤマガタ

 もう少し映画祭の話をしましょう。国際映画祭にいらしたことのある方はどれ位いますか? はい、少しですね。東京以外の国際映画祭に行ったことのある人いますか? なるほど。世界には今、国際映画祭というのが本当に増えていて、年々新しいのが生まれては、消えていくものも多いんですけれども、映画を巡って人が集うということは非常に増えているような気がします。ですが、1989年にヤマガタ映画祭が始まった当時は、山形でやるということはすごく大変でした。1989年は新幹線も通っていませんでした。今は片道3時間位で行けますが、当時は仙台経由でゆったりゆったり行くので、6時間も7時間もかかったんです。山形市は山形県の中でも内陸にある盆地の町で人口が25万人位の地方都市です。当時はおそらく、東京からとても遠い僻地であるという印象があったと思うんですね。NHKの「おしん」の舞台が山形ということで、今の山形とまたさらにイメージが違ったと思います。農業を重視していて、山に囲まれていて、温泉はあるけれど、なかなか観光地として行く所でもなかったと思います。そこに、1989年当時、小川紳介という監督が山形市のすぐ隣の上山というところに住んでいました。小川紳介さんはドキュメンタリーの監督なんですが、70年代に成田空港が建設されるときに、反対運動があったんですね。国が強制的に土地を接収して追い出そうとしていた流れの中で、地域の住民、お百姓さんが立ち上がって抵抗していくという運動に、当時は丁度学生運動が花盛りの時期でしたので、全国の学生たちも支援に集まって、すごく大きな社会問題になった闘争でした。その時に小川紳介という人が、スタッフを引き連れて成田の三里塚という地域のお百姓さんたちの支援側の映像を撮るということを徹底してやったんですね。16ミリのカメラで現場に入っていって、スタッフと一緒に「三里塚」シリーズという映画を作って、それを全国に上映するという運動をしたんです。
 80年代の後半では、建設反対運動というのが終盤に入って終着していくような時期で、日本全国の社会の空気も、政治の季節というのが終わっていく、収まっていく、静かになっていく時代の中で、小川紳介と小川プロダクションが引き続き三里塚の農民たちと一緒に闘っていきながら、自分たちが何に興味があるのかと考えていったら、農業の共同体だったり、農業についてお百姓さんたちが知っている知識や、コミュニティの成り立ちのようなことだったんですね。それを本当に知るためには、外からではなくて自分たちもやっぱり農業をやってみなければいけない、ということで、山形県の上山に移り住んで、農村共同体の一部になろうとしながら、映画作りと稲作を何年にも渡ってずっと続けていきました。その中で何本も映画を作っていくのですが、農村共同体が持っている歴史とか、代々培われているけれど教科書や本に反映されないような知恵や、手先の農業技術ではなくて、例えばお百姓さんは土について知り尽くしている、自分の田んぼの性質を全部知り尽くしているわけです。それに加えて、山に暮らす人々の精神世界のようなもの、例えば山を歩いていたら、化け物が出て…というような話が自分たちの現実の世界の中に反映して語られていったりという、そういうことを題材に映画を作っていきます。また、小川さんはすごくカリスマ性のある人で、山形やその周辺の映画好きの若者たちが小川さんを慕って集まってきました。小川さんが求心力になって、映画を巡るコミュニティがどんどん膨らんで、なんかやっていきたいといった若者のパワーがそこで盛り上がっていったと聞いています。しかも、山形市というのは東北圏内の中でも映画館の数が多い所で、映画が好きな人たちが元々すごく多かったんですね。丁度80年代後半当時は、おそらく全国的だと思うんですが、映画サークルとかシネクラブがとても盛んで、ミニシアターのようなものができる前でしたから、例えば東京でゴダールの映画をやっている、トリュフォーの映画をやっているって聞いたら、フィルムを借り出して市内で自主上映するという、そういうサークルも盛んに活動していました。そんな時期に、市の100周年記念事業というのでお金があるから山形市で何かやろうじゃないかと、いろんな条件が合わさって映画祭が始まったわけなんですね。当時の山形市の状況で、いきなり国際的な映画祭をやろうというのは、とんでもないことだったと思うんです。しかもドキュメンタリーに特化したというのは。始めた人たちにはとても先見の明があったと思います。

映画祭の役割

 それから、山形国際ドキュメンタリー映画祭の“国際”という部分なんですが、80年代というのは国際化の時代と言われていた頃でした。多分、日本企業が海外進出していく時期と関係あったと思います。助成金とかいろんなお金がつきやすいという“国際”という部分。それに当時は英会話を学ぶ人たちがたくさん増えたり、英語ができるのがかっこいいとか、そんな雰囲気がありました。
 それから、“ドキュメンタリー”ということでは、もちろん小川さんのアドバイスがあって、表現としてのドキュメンタリー、芸術としてのドキュメンタリーというものの幅の広さをもっと日本に紹介すべきではないかという声がありました。映画の方法としていろいろな表現の自由があって、非常に多様性があるということが、海外の映画祭で発見されていったり、評判を呼んだり、丁度そんな時期でもありました。その前の時代、ドキュメンタリーは、例えばプロパガンダであったり、教育映画であったり、ためになるけれどもあまり面白くない、というイメージでした。権力者の宣伝マシンとしての映画ではなくて、学校で見ろと言われて見るものでもなくて、作り手の顔が見える、個人的な表現としてのドキュメンタリーというものがいろいろ出始めたり、見る人たちが発見し始めていた時期でした。
 それから、“映画祭”という部分ですね。今のプロモーションビデオで一番見て欲しかったのは、お祭りの部分です。映画の上映っていうのは、そこでしか出会えないライブのようなものですよね。ごく最近まで、欧米以外の多くの国では、映画を見る機会が限られている国が多かったと思います。特にドキュメンタリーをまとめて見ることができるというのは、国際映画祭という限られた場所でしかなかったので、監督たちが集まってきて、いろんな国の映画を見られるような“学校”としての映画祭。今はDVDとかネット上でも映画は見ることができるかもしれませんけれど、昔は、例えば中国ではアンダーグラウンドでVHSが回覧されているのを前に見せてもらいましたけど、酷い画質でした。やっぱり大きな画面で、暗い部屋でたくさんの人と一緒に見る映画という体験が映画祭ではできるんじゃないかと思います。ただ、新作映画の情報が、私たちコーディネーターにどんどん入ってくるようになっているのと同じように、今は一般の人も映画の情報をネットワークの中で知る機会が多いじゃないですか。情報ではないライブっていうもの、予測のできない出会いというものを映画祭が提供しているのではないかと思います。もちろん、監督が観客と出会って、そして成長していく場としての映画祭でもありますし。
 ヤマガタ映画祭ではここ20年の間にいろんなことがありましたけれども、監督がプロデューサーと出会ったという話もあります。何年か前に岩淵弘樹くんという監督が『遭難フリーター』という自主映画を作りましたが、そのプロデューサーとはヤマガタ映画祭で出会いました。あるいは、河瀨直美さんが初めて体験した国際映画祭としてよくヤマガタ映画祭が言われていますけれども、その河瀨さんが『追憶のダンス』という映画の中で、癌で亡くなっていく写真評論家の方を撮っているんですが、その方と出会ったのもヤマガタ映画祭でした。または、ヤマガタ映画祭で上映されたことによって映画館で一般公開される機会を得たとか、NHKの人がやって来て作品を選んで帰っていったり、一番大きな出会いは、世界中の映画祭の人たちがヤマガタ映画祭に行けば、アジアの最新の一番面白いドキュメンタリーを見られるということで、作品を探しに日本にやって来るんですね。そこから作品のキャリアが始まって世界中にどんどん紹介されていくっていう流れ、そういう経験をした日本の監督たちがたくさんいます。映画祭はやっぱり説明するよりも体験していただくほうがいいですね。

『犯罪の現場』について

 今日は、この後アマル・カンワル監督の『犯罪の現場』という映画を見ていただきます。今年のコンペティションの審査員でも来ていただきましたが、実はカンワルさんは山形で4回作品を上映しているんです。アジア千波万波とインターナショナル・コンペティションで上映していて、今回は5回目だったんですね。こんな監督はなかなかいないです。私は20年近く映画祭をやってきて、途中でいろいろ迷うことの一つが、映画を作っている人たちはたくさんいて、その中から上映したいと思うものを選び出して上映していくという、何て言うんでしょうか、上映しては終わり、上映しては終わり、というような、新作ばかりを紹介していくだけでいいのだろうか、咲いた花を切っていくような空しさも感じたりしている中で、一人の作家が作り続けていくその変遷をずっと見つめ続けていく、そして紹介し続けるというのは映画祭の一つの喜びだったり、ミッションだと思うんですが、そういうことをアマル・カンワルさんとの交流の中でやってこれたんじゃないかなと思います。私たちがその作家を必要としているということもありますし、その一方で、果たして作家は映画祭から何かを得ているんだろうかというのが、映画祭に突きつけられている大きな命題だと思います。
 2年前の2009年にカンワルさんが来てくれたとき、公式な場面で「ヤマガタ映画祭は本当に素晴らしく愛していて、ヤマガタ以外の映画祭に応募するのはやめた。映画祭というものには失望してうんざりしているが、ヤマガタだけはちょっと違うんだ」と、そういう風に発言しています。これはどういうことなのかと、今日は作品を見ながら考えてみたいと思います。一方で、アマル・カンワルさんは現代アート界において非常に成功している方なんです。もちろんこういうシングルチャンネルの映画を作っていますが、2002年位から美術館からの依頼を受けて、あるいはギャラリーとかアートフェスティバルの依頼を受けて制作したインスタレーションなんかも好評を得ていて、今、欧米で現代アーティストとしてとても成功しています。もう一方では、ドキュメンタリー映画の世界というのが非常にテレビ化してきているということを彼は語っていまして、そんなことも含めて上映の後にお話をしていきたいと思います。映画祭に何ができるのかということと、作家が映画祭を必要としているのかということについてちょっと考えていきたいと思います。これは『犯罪の現場』といいまして、インドの南東部のオリッサ州というところで撮影されています。

<『犯罪の現場』上映>

藤岡 村山さん、字幕入りで初めて文字が読めましたね。

村山 文字が小さいんだよね。始めDVDで見たから、殆ど読めなかった。

藤岡 そうなんですよね。選考会でみんなで見たのは日本語字幕が入っていないもので、英語の文字だけで見るにはこの巨大な画面でもあんなに小さいので、目を凝らしても見えなくて、っていう感じだったんですけど、逆に今は日本語字幕がすごく大きくて明るくて、これもちょっと問題あるなと思いました。監督はもっと明るさを落として欲しいって言ってまして、映像全体のバランスを監督は計算しているわけです。文字の出方のフェードイン、フェードアウトもそうですし、文字の大きさと明るさもすごく計算しているところに、日本で上映するにあたって日本語字幕がバンバンって結構暴力的に出てくる感じだったので、そのへんはちょっと謝らなくてはいけなかったなと思います。
 ちょっと不思議な映画でして、ヤマガタ映画祭でこういうのばかりやっているわけではないですが、非常に実験性のある作品でもあり、面白いですよね。オリッサ州のカリンガという場所で鉱山の開発が進められていて、今までは漁をしたりあるいは羊とかヤギ、牛を飼ったりと人々が普通に暮らしていたんですが、そこにいきなり政府と開発業者がやって来て、一方的にその土地を接収していこうとするプロセスが90年代の後半から続いているそうなんですね。ここに映っているのは風景だけなんですが、近い内にこの風景が一切なくなっていくという、破壊を予測させるような風景を撮っています。それから、反対運動、抵抗運動をしている地元の住民たちと運動家の人たちが撮っていた、抵抗運動の様子が一部だけ挿入されていました。そこに、事実に基づいたラブストーリーが文字で出てきます。ある一人の女性が蛍の光る森で逢い引きをしていた、かつての活動家であった自分の恋人が殺される。その後の裁判は公正なものではなくて、殺されたという事実も認めてくれないような裁判を経て、彼女が活動家の仲間の家に行ってみたら、そこにはたくさんの写真と地図があった、という話です。そこで初めて彼女が立ち上がって、失った恋人のために闘おうと思う。そして、風景の中にある木々やマンゴーとか、花の塔とか、自然の石とか、そういったものが恋人の殺された瞬間を見ていたに違いない、証言者としての自然物という想定で、こういうことこそが公正な裁判ではないか、ということを言っているのではないかと思います。「主権の森対インド連邦の裁判」という言い方をしていましたけれども、この映画自体が「sovereign forest(=主権の森)」という大きなアート・プロジェクトの中の一つの作品です。
 ちょっとアマル・カンワルさんのことを知っていただきたいんですが、配った資料(プロフィール)で写真を見ていただくと分かりますが、多分彼は46、7、8歳位ですかね。それでこういう風に髭をたくわえていまして、穏やかな優しい佇まいをもっていて、この後見ていただく映像にも声が出てくるんですけれども、すごく良い声をしています。彼は学生時代に丁度インディラ・ガンディという首相が暗殺されて、その後戒厳令が出されて大学が全部封鎖になったりとか、インド社会が全体的に暴力に満ち溢れていて、非常事態にあった時代に学生として暮らしていたわけです。大学が閉鎖になっていた間に何をしていたかっていうと、被害にあった人たちや、例えばその後もヒンドゥーとイスラムの暴動が起きて殺されていく人がたくさんいるわけなんですが、被害にあった弱い人たちのそばに寄り添って話を聞く。それはジャーナリストとして発表するということではなくて、一つの精神療法としてそういうことをしていたという風に聞いています。私とはもう10年近く前から知り合いで、今もニューデリーに住んでいます。
 この『犯罪の現場』の作品についてちょっと話を聞いたところ、すごく印象的な話が二つありました。一つはどうやってこの映画を作ったんですか? 何が一番大変でしたか? と聞いたときに、まず一年間かけて頭をからっぽにしていく作業が必要だったと言っているんですね。一日普通に日常生活を送りながら、例えば、呼吸の一つ一つを意識していく作業とか、あるいは、呼吸のスピードとかリズムをなるべく変えないで自分の身体を認識していく。呼吸というのは日常的に無意識にやっていることだと思うので、そういう動作を正確に自覚して意識していくことで、自分の体と、あるいは自己というのが何なのかということの認識を深めたいと思い、それには一年間かかったんだと言っていました。多分ヨガとかメディテーションにも関係があるんじゃないかなと思うんですが、でも瞑想というのとはちょっと違っていて、自分の感覚を研ぎすませていくために行なう作業であって、それがある感覚の変わり目に来たときに、自分が接触する匂いとか、触覚とか、周囲の人間関係とか、世界の把握の仕方が全く変わっていくとか、直感力を高めるために、時間が非常にかかったと言っているんですね。この映画を見て思うのは、彼は10 年以上前の90 年代の後半からオリッサ州に通って抵抗運動のことをよく知っていたし、活動家の仲間もたくさんいたと思うので、目に入ってくるイメージというものが自分の頭の中でいろいろな意味と結びついてしまっていて、意味から切り離すという作業をしたかったんじゃないかと思うんですね。ある意味で手垢にまみれたような記号とか意味性みたいなものを消し去る作業を、この映画を作る前に、自分に課していったんじゃないかと思います。どうしてかというと、こういう風にも言っています。「私たちは実際にものを見ているけれども、実は見ていないのではないか。長い間オリッサの活動を見てきたけれども、見て解釈して理解するスピードが、私たちみんな早くなりすぎていた。何かを見て認識して分かったっていう風に納得するまでのプロセスが非常に自動化されていて、スムーズになりすぎているのではないかという思いがあって、それだと理解したものがどんどん増えていくような気はするけれども、実際は心と体と頭を鈍らせていくことではないか。私たち、特にアーティストというのは、見ることを学び直す必要があるのではないか。その結果、工業開発を予定されている場所で、政府と企業が買い占めて、なくなってしまう風景というものを、一つの戦場として捉えたい」と。彼のプロフィールを見ていくと分かると思いますけれども、今までガンジーの非暴力の思想とか、移民させられていく人々とか、あるいは知覚の問題とか、いろいろな映画を作っているんですが、その中で、テーマに社会問題が多いなか、インドの政治とか社会とか、暴力とかいう問題に対して、新たなアンチテーゼをどういう風に出せるのかということでいろいろな試みをしています。例えば、インドの国境と接しているビルマの民主化運動の人たちがインドに流れ込んできていまして、そういう人たちの活動を支援する映像を作ったりしているんですが、いわゆる社会派のドキュメンタリーという、私たちが普段想像するような告発的な映画ではなくて、今見ていただいたようなタイプの映画で表現を続けているんですね。いわゆる告発調の、問題が何なのかということを情報として伝えていくというジャーナリズムの仕事というものも一方でありますが、そのことに対して敬意を表すると彼は言っているんですけれども、ただ、ジャーナリズムっていう広い、深いリサーチを私たちはなかなか容易に目にはしませんよね。どちらかと言うと私たちはマスメディアのニュースとしてジャーナリズムの結果を耳にしたり目にしたりするわけです。彼は「マスメディアのニュースというのは、まるでクローンのようにどんどん増殖していく、変異を繰り返して増えていっているんだ」と言っています。メディアで流れるニュースというのは、繰り返し浴びせられているわけですから、例えば今年の津波の映像なんか思うと、なるほどと思うんですけれども。何度も見ていくうちに、目とか心が鈍らされていく。日々、それがごまかされていくという、そういうニュース攻撃を被っている私たちは、それを覆す必要があるのではないか、あるいはそれをかき乱す必要があるのではないかというところから、おそらく彼の創作の、表現の手法が編み出されているのではないかと思います。見ることや聞くことや解釈することが、例えばニュースのように間単に消費できるようなもので浴びせられたときに、そのプロセス自体を問い返したり、あるいは揺るがせていくような、そういうようなものを、非常に本質的に反体制なものを自分は作っていく必要がある、オルタナティブなものである、ということを自分のアートで表現、回答しているんだと思います。つまり、ちょっと見ると分かったみたいな表現の作品ってあるじゃないですか、映画でも美術作品でもあると思うんですけれども。そうではない、新しい描き方、あるいは表現と伝達の新しい方法を探り出していくということがアートだと、彼は言っています。

『外部の季節』について

 この人と私は1998年に初めて会ったんですが、過去の作品を振り返りながら、少し見ていただこうかと思います。1998年に私はインドのボンベイのドキュメンタリー・アニメーション短編映画祭というところに行ったときに彼と出会って、彼の作品を発見したんですが、そのときに『外部の季節』という映画が上映されていました。私はアジアのドキュメンタリーは若手の新進の作家のものを見ていて、インドではドキュメンタリーの巨匠でアナンド・パトワルダンという非常に政治的な映画を作る、素晴らしい映画を作っている人がいるんですが、その人以外は文化紹介とか民族学映画、紛争、社会問題、カースト制度や女性の差別とか、そういう問題を伝えるようなプロモーション映像っていうんでしょうか、説明的な映像が多いなと思っていたときに、この『外部の季節』という作品を見ました。非常に新しいと思ってびっくりしたんですね。それで翌年のヤマガタ映画祭で紹介するわけです。30分位の映画ですが、頭から5分位見ていただこうかと思います。

<『外部の季節』部分上映>

 あれはインドとパキスタンの国境のワガっていうところです。国境地帯で、毎日毎日、日の入りと共にあの儀式が行われていて、雄鶏がマッチョにお互い牽制しあっている感じがすると思うんですが。映画は、国境の問題、国境と紛争の問題、それからインドとパキスタンは正式には今も戦闘状態にあるんでしょうか、1947年の分離独立のときにたくさんの人が自分の意志とは関係なくインドとかパキスタンの自分の故郷から追い出されて違うところに移り住まわされていくような時代がありました。アマル・カンワルさんの家族ももちろん同じようにパキスタンから南の方に追いやられてきた一族でした。映画の中では、ガンジーは非暴力を問うけれども、本当に人間は暴力をふるわれたときに、自分は非暴力でいられるのだろうか、暴力をもって立ち向かわなければ、あるいは背中を向けて逃げていくとか、そういうことをしないで、非暴力という立場をどうやったら守れるんだろうか、ということを哲学的に語っています。すごく驚いたのは、一つは、“私”という人称を使ったナレーションの映画っていうのはインドでは今まで見たことがなかったんですね。今、巷にあふれている、自伝的な意味での私はこう思ったとか、私小説的な意味で使う“私”とは、彼はこの映画の中ではちょっと違う使い方をしていると思います。仮に“私”という人格をおいて、いろいろな考え方を自分の中で反芻したり会話をしたり、問いを投げかけて答えを求めるようなことを自分の中でしていくっていう意味での“私”だと思います。それから、この作品の場合、映像がナレーションの紙芝居になっていない。今では当たり前のことかもしれませんけれども、当時は結構新鮮だったんです。例えば「戦争とは~」というナレーションに戦争の場面が出てきたり、ナレーションと映像が指し示す関係性にあるものが多かったものですから、映像として一人立ちしている。そして、それをさらに深めていくような哲学的なナレーションがかぶっているエッセイ映画として、すごく新鮮だなと、非常に洗練されたものとして見たわけです。
 1999年にヤマガタ映画祭でこの作品を上映しまして、このときカンワルさんは日本に来ていないんですけども、その後2001年に『夢の王』という映画が上映されて、そのときに来てくれました。『夢の王』はどういう映画かというと、男性のセクシュアリティと性欲についてがテーマで、フォード財団だったかな、どこかそういう大きな文化財団がコミッションして、委託されて作った映画だったので、自分から作りたいと思ったのとちょっと違うと思うんですが、『外部の季節』に似ている作風で、映像とナレーションがかぶっていくというような形でした。

『予言の夜』について

 その後、2002年にインドに行ったときに再会したんですが、そのときに「自分は今ナレーションに頼らない形式を探りたいと思っているんだけど何かいい例はないだろうか、どういう風にしたらいいだろうか」ということを相談されました。英語が分かるとなおさらなんですが、彼はすごくポエティックな語りではあるけれど、ナレーションってすごく力があるじゃないですか。見ている人を引っ張っていく力がとても強いと思います。映像を見ないで言葉を聞き入ってしまう。昔、政府が宣伝映画で作っていたような映画っていうのは、いわゆる“神の声”って言われるようなナレーションだったわけです。「日本は悪の国である」とか、非常に押し付けがましい、全てを知っている全能のナレーターが正しいことを伝えてくれるっていう意味でのナレーションだったわけですけども、そういう支配関係がナレーションの内容と、映像との間にあったり、それからナレーションしている人と、見ている人の間にも支配関係があるっていうところに、カンワルさんは悩んでいたわけですね。「自分はこういう風に見なさいと押し付けるわけでもなく、また、伝えたいと思う映像に映っている風景や人物よりも自分の方が偉いと思っているわけではなくて、力関係というか、支配関係みたいなものをどうしたら変えられるだろうか」と悩んでいました。それで次に作ったものが『予言の夜』という映画で、これは全くナレーションを外しています。インド全国の各地をまわっているんですが、いわゆる虐げられている人々と言ってしまうと間単すぎますが、民衆詩人とか、抵抗歌を唄ったりしているその声と、まあ声の力が一番大きいですかね、あと詩の朗読だけで、映画を作っていくことをしています。例えばカーストの上下関係の中で下の方のカーストの人たちが対抗で自己表現していたり、あるいは、ボンベイの陸橋の下に住む男が、自分の母親だった売春婦を唄う詩とかですね。インタビューとかナレーションを一切使わないで日常を見ていく。そして出演している人たちが主人公であるという、そういう映画に移っていくんですね。では、『予言の夜』を5分位見ましょうか。私、すごく好きな映画なんです。

<『予言の夜』部分上映>

 インドはものすごく多文化の国で、でも各地にはいろいろな形の抑圧があって、カーストもあれば、独立運動をしている人たちもいれば、女性が性暴力にあっていたり、あるいはさっきの映画みたいに軍隊が土地を接収しようとして、それに抵抗している人たちもいて、そういう一般の、無力であるけれどもそれを歌や詩にして表現している人々を映像と声とで記録している作品ですね。例えば、キリスト教の賛美歌を唄う人たちもいれば、子供たちが民謡を唄ったりなんかして、非常にインドの音楽文化や詩の文化の多様性みたいなものを見られてこの映画はすごく面白い、素晴らしいと思います。

ドキュメンタリーと現代アートについて

 この『予言の夜』は100分近くの映像作品として完成させていると同時に、2002年のドクメンタではマルチスクリーンのインスタレーション作品として発表されました。これがカンワルさんの初めての現代アートの世界への登場です。ドクメンタはドイツのカッセルというところで4年ごと、今は5年ごとに開催されている国際美術展で、今の国際美術展の中でもかなり規模の大きいものだと聞いています。
 2009年にヤマガタ映画祭で上映された『稲妻の証言』もやはりマルチスクリーンのインスタレーション作品と、長編のシングルチャンネルのドキュメンタリー映像と、二つの種類の発表の仕方をしていて、それが今に至るわけなんですね。インスタレーションに参入する映像作家って今とても多いと思います。ヤマガタ映画祭でもおなじみになっている監督たち、例えばペドロ・コスタ監督とか、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督とか、もっと若手のシンガポールのタン・ピンピンさんとか、才能のある若手のドキュメンタリストとして出てきた監督たちが、次々に現代アートの世界に移っていっているって言い方がいいのか分からないんですが、両方の世界に身を置きながら制作と発表を続けているということがここ6、7年位の傾向だと思います。インスタレーションについてアマル・カンワルはこういう風に言っているんですね。「一つの空間にいながらにして、同時に複数の現実と時間を経験させてくれるので、非常にリアリティに近い経験ができる。そして作品をそのような形で観賞した人には、ある種の共感のようなものが生まれて、身をもって体験したという、事実の複雑さのようなものを包括的に体験したというような経験から、そこに映っている人々やそこで提示されている問題に対する共感を覚えるものだ。それから、インドにおいて特に、社会問題や社会矛盾というものは本当に一言では語りきれなかったり、まとめあげることができないので、マルチな手法でそれぞれ組み合わさった形で体験してもらうのがいいのだ。いわゆる複雑性を複雑なままに体験してもらいたい」と。もちろんそういう部分もあるとは思うんですが、いろいろな作家の方の話を聞いていると、今アーティストとしての尊厳を保つことができるのはアートの世界なのではないか、という感じを少し覚えます。一つは経済的なことですよね。例えばギャラリーで展示されたり、美術館に招かれたりというようなことは、作品の制作費やいろんなことで経済的に違います。例えばここでは一本の映画作品として見ていただいたので、ヤマガタ映画祭からは2回上映までで3万円、という感じでお支払いしてもらって、その半分を監督にお渡しすると、上映したことで監督の手元に入るのは1万5千円なんです。その一方で、例えば美術館なんかで上映されたりインスタレーション作品として展示されたりする場合は、もうとんでもない、何百万とかそういう規模です。そういう経済的な違いが一つありますけれども、それだけでなくて、今ドキュメンタリーの世界ではアーティストとしての尊厳というか、尊重がなかなかされないんじゃないかなと世界の状況を見ていて私は思います。作家の作品というよりも、そこに映っているテーマが求められていたりとか、テレビが出資してコミッションするドキュメンタリーの場合はなおさらそうですけども、結局映像素材を買うような感覚で、作家がテレビ局とやりとりしている中では、やっぱり自分の、例えば一年間呼吸をすることを考え直すみたいなことをしている場合ではないわけですよね。
 2000年以降、いろんな理由がありますけれども、世界のドキュメンタリー界ではそういったアート系の映画の資金調達がすごく難しくなっているという風に聞きます。一つは経済危機がありました。EUなど先進国の助成金が衰退していたり、例えばアルテ(Arte)など、ドキュメンタリーを含めてアート系の映画に長い間お金を出していた公共のテレビ局が今とても衰退しているということです。映画祭はといえば、ヤマガタはやってないですが、企画マーケットといって、企画の売り買いをショーにして、求められているタイプの企画とか映画が商業化されていったりとか、すごく分かりやすい方向に向かっているような気がします。ストーリー性があったり、テーマがすごく衝撃的だったり、テレビで流れても観客が分かりやすいように一人の人物を追っかけていったものとか、そういう企画ばかりが多いようですし、今では欧米の企画プレゼンをしているマーケットの人たちは、アジアや世界の他のところにもだんだん進出してきていて、ピッチング・セッションというんですけれど、資金に困難をきたしている若手の芸術家たちの企画をもらっていこうとしている。テーマ主義で企画をもらっていこうとしているのじゃないかなという気がします。そのことに一つの抵抗というか、そっちの方向に自分は行きたくないという風にアマル・カンワルは非常にはっきり言っていて、映画祭に応募しないと言っていたのはそういうことだと思います。

現代社会の中での作品の在り方、映画祭の在り方

 私が一つ思うのは、世界の把握の仕方ということです。振り返ってみると、映像とか情報とかをあちこち集めて、その集積の中から都合のいいパーツをつなぎ合わせてストーリーを作る、ということをしていないだろうか、ということです。それは、わかりやすくてつじつまのあう映画が求められているからではないでしょうか。アマル・カンワルは、ランダムに映像を撮って、それを集めてきたデータベースの中からこれとこれを取ってこういう風に作品にしようと作っているわけじゃないですよね。一年間呼吸について考えて実践してみて、そして現場に行って、そしてある考えのもとで撮ってきた映像を組み合わせて映画を作っているわけです。自分の生活やテレビ局的な映像の制作の仕方をみると、現場に行ったらとにかくたくさんの映像を集めて、集めれば何かになるだろう、後で編集をすればどうにかなるだろう、という発想がすごく強いような気がします。それは今の情報化社会というか、ものすごい洪水の中で生きていく中で、どうやって選び抜いたらいいんだろうと途方に暮れていること、溺れそうになっていることにもすごく関係があると思います。この情報の海の中で生き残っていくためには、ひょっとしたら立ち止まって、アマル・カンワルさんがしているように一年間呼吸について考えて、それで自分が何を考えているのか、頭をまっさらにしていくという作業が必要なんじゃないかなと思います。羊の群れのようにあっち行ったりこっち行ったりしているのが、今の私たちの消費社会じゃないかと思います。
 最初の話に戻れば、ヤマガタ映画祭という映画祭が、はたしてそういう流されない生き方のために何か提示できるのだろうかということが、私が最近考えていることでして、そのためにも作家の作品が第一に大事であって、最近はラジオ体操とかボウリングとかやりすぎたかなとか思いながら、やっぱり作家、作品に立ち戻っていく映画祭の運営を続けていきたいと思っています。
 最後に、カンワルさんはニューヨーク、ロンドン、パリ、ポンピドゥーとかMoMAとかすごいところでやっている作家なのにも関わらず、日本では愛知トリエンナーレで紹介されている位で、日本では美術展としてはどこもまだ企画していないので、私は映画側の人なんですが、どうしてかな? と思ったりもして、これら5本位ある作品も併せて美術展みたいなことが日本で開催できれば素晴らしいなと思うので、もしそういうことを協力してくださる方がいればぜひご紹介いただきたいと思います。またカンワルさんに日本に来て欲しいと思っていますので、これからも応援してあげてください。どうもありがとうございました。

質疑応答

スタッフ ありがとうございました。それでは質問を受け付けたいと思います。

質問者1 今日初めてこの方の作品を見てびっくりしました。割と僕はドキュメンタリーを見ることはなくて、映像作品はフィクションで見て面白ければいいという、面白さ第一主義なんですけど、ドキュメンタリーというのはジャーナリズムに近い位置にある表現でもありますよね。何かを告発するとか、そういったものに行きがちで、そういったものがある意味をもって、表現として力を持つってことはあり得る。ところが、そういったものよりもう少し“私”に引きつけて、私がどうやって世界を見ているのか、ということに自分の内部に入ってもう一回世界を見直すというような表現だと思ったんですよ。そういう意味でいうと、センセーショナルな表現から退却して、非常に美しい表現となり得ることもあると思うんです。例えば表現が詩的になると、政治とか現実の社会から表現が若干引いてきて、表現の有効性であるとか、昔サルトルが、飢えて死ぬ子供たちの前で文学というのは果たして有効か、というようなテーゼをしたんですが、例えばですね『犯罪の現場』で恋人を殺されてしまった女の人がこの映画を見て、「こんな手ぬるい」って思わなくもないなって感じがするんですよ。自分の表現としてこういう美しい映画が撮れて良かったと満足しているかもしれないけども、表現から一歩出た現実というのはどんどん続いている。作品というのは必ずエンドマークが出るじゃないですか。だけどそれに対する有効性というのをこの作品は持ち得るのかっていうような疑念も生じるのではないのかと思ったりもするんですね。
 これと反対なのが、マイケル・ムーアっていう人で、なるべくドキュメンタリーを面白くして、どんどん世界を単純化していって、悪者は誰だってポインティングして、エンターテインメントに仕上げるというようなものもあって、そっちに対して僕は何となく嫌な気もするんですが、『犯罪の現場』のようにここまで極端に振られると、感心と同時に何となくためらいもあって、これは多分少数派だと思うんですが、ドキュメンタリー全体がアートの方に流れていくっていうお話を聞いて、こういう表現方法がドキュメンタリーにおいて主流になってくると、何となく恐ろしいなっていう気もちょっとするんですね。例えばゴダールみたいな表現ばかりがメインストリームみたいになってしまうと、それもなんかちょっとどうなんだろう? という気がしたんですが、その辺はいかがでしょうか?

藤岡 正直に言えば、メインストリームになることはないと思います。見る人数でいったら、マイケル・ムーアの方が多いですし、あるいは社会問題を知った気になれるという意味では、例えばNHK特集のようなものの方が主流であり続けるんじゃないかなと思います。こういうものがあればもう一方もあるのでその全てを“ドキュメンタリー”という一つの言葉で括るのも非常に無理があると思うんですけれども…。

質問者1 「情報かアートか?」というものすごく極端な、間単な言い方をすると、ヤマガタ映画祭は「ドキュメンタリーはアートである」という立場なんですか?

藤岡 そうですね。世界中にはいろんな映画祭があるので、その中でいえばヤマガタ映画祭はどちらかといえばテーマ主義ではなくて、作家の芸術的な手法ということに注目して選んでいるとは思います。でも、一つの公共的な映画祭の役割として、こういう作品を上映し続ける必要があるということだと思うんです。だからむしろメジャーというか、テレビをつければ映っているもの、今劇場公開でお客さんが一杯入るようなものというのは、今の流れの中で上映の機会を獲得しているので、そうではないものに目配せをしてサポートしていく、私たちが素晴らしいと思うものはサポートしていくという役割が映画祭にはあると思いますね。

質問者1 ありがとうございました。

質問者2 質問じゃないんですが、今のお話を聞いて、「マイケル・ムーアかカンワルか?」ということでいうと全く話は成立しないと思います。私も今日初めて拝見した、というより出会ったという感じがした作家さんでしたが、表現としてものすごく研ぎすまされていて、テーマ性とかエッジの効いた表現である、とかそういうことでは全然ないにも関わらず、ものすごく体に入り込んできて、感銘を受けました。マイケル・ムーアみたいな表現ではないけれども、彼は彼にとって一番最適だと思う表現の仕方を極めているんじゃないか、で、全く違う形でカンワルさんはそういうことを実現しているんじゃないかと。表層的なところでいうと全く異質なものに見えるかもしれないけれども、私からすると、その研ぎすまされ方の純度の高さでいうと、結構似たようなところがあるという気がする位です。
 今日、私はすごく良い出会いができて、とてもありがたく思いました。それぞれの作家一人一人が多分自分の人生をかけて表現ということをしている人たちの、一番純度の高いものが、きっと集まっている場なんじゃないかなという気がすごくして、映画祭に今年行きたいと思って行けなかった経緯もあって、すごく残念な感じがしてしまいました。

藤岡 ありがとうございます。2年後、2013年の秋にまたやりますので。来年秋に東京でもヤマガタでやった作品の巡回上映をポレポレ東中野でできると思います。

質問者2 ありがとうございました。

藤岡 なんで映画を作るのかとか、あるいはなんで上映するのかと聞かれた場合に、やっぱり見た人を動かしたいからじゃないかなと思うんですね。その動かし方がそれぞれ違うけれども、例えばアクティビズム的な映画としては、見終わった後に高揚して何かしなければという気持ちにさせたいと思って映画を作るでしょうし、アマル・カンワルが望んでいる、というか期待している映画の力というものは、おそらくみなさんの体に入っていくようなものであって、頭だけではなくて体で経験してもらいたいものだったんじゃないかなと思うけども、何らかの形で人が変わっていったり、何か変えられていくっていうことがコミュニケーションだと思うんですよね。伝えたいこと、メッセージがあるっていうことではなくて、見た人がこれを受けたことによって変わっていくっていうことを期待して作り手はみんな作っていると思いますし、そういう作り手の思いを120%再現できる場所を作ってあげるのが、映画祭とか映画館を担っている人たちの役割かなと思っています。


【上映作品】
「犯罪の現場」The Scene of Crime
インド/2011年/42分/カラー
監督、脚本:アマル・カンワル

草原、川、風にそよぐ葦、自転車に乗る男、樹木、木の枝、草を食む馬、空を飛び交う鳥たち、夜の光、墓、牛、山羊たち、魚たち等々…。ダイアローグなく、インド、オリッサ州の映像が綴られていく傍らに随時挿入される字幕には、政府と企業の土地の接収に抗して行方不明になった男と、彼を探し求める女の物語が語られる。美しく力強い映像と簡潔な言葉による、あくまでもシンプルな構成により、作者の思いが色濃く浮かび上がってくる。

アマル・カンワル
1964年生まれ。居住地であるニューデリーで活動中。エドヴァルド・ムンク現代芸術賞(ノルウェー)受賞者であるカンワルは、インド亜大陸の政治・社会・経済・環境状況を、その詩的かつ思索的な映画で探究している。インド・パキスタン国境における暴力と非暴力の問題を検討した『外部の季節』(1997、YIDFF1999)は、ムンバイ国際映画祭でゴールデン・コンチ賞を、サンフランシスコ国際映画祭でゴールデン・ゲート賞を受賞。『予言の夜』(2002、YIDFF 2003)は現代インドの詩歌を、『Torn First Pages』(2003-08)は現代ビルマ状況を探究。これまでに数々の映画祭で受賞してきた。またその映画作品は、アムステルダムのステデライク美術館、ニューヨーク近代美術館、オスロ国立美術館などで特別展示もされ、ドクメンタ11(2002)とドクメンタ12(2007)にも参加。『稲妻の証言』(2007)はYIDFF 2009で上映された。

(「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011 公式カタログ」より)


*1 映画評論家、本学非常勤講師、造形研究センター研究員。

(2011年12月1日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)