武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第40回イメージライブラリー映像講座
幻燈及活動寫眞大上映會-日本Animeのルーツを体験する-

この講座について

日本には影絵、幻燈、おもちゃ映画フィルムなど、映画産業が制度化する以前から連綿と続いた映像文化史が存在しています。本講座では、その文化史に精通し、初期映画機器とフィルムの収集・研究を続ける松本夏樹氏にご登壇いただき、手回し活動写真の上演を交えながら日本独自の映像文化の変遷について語っていただきました。

はじめに

司会 それでは時間になりましたので、第40回イメージライブラリー映像講座「幻燈及活動寫眞大上映曾」を開始したいと思います。
 本日ご講演いただく松本夏樹先生は、芸術における視覚表現と精神史領域についてご研究されております。その一端として、映像前史の幻燈や光学機器の収集、その背景にある映像文化史の研究をなさっています。また、収集された幻燈やフィルムの再現上映、講演など幅広い活動を展開されており、本日上映するフィルムや映写機も先生の貴重なコレクションの一部です。では松本先生、お願いします。

松本 いまご紹介いただきました松本夏樹です。どうぞよろしくお願いいたします。これから上映いたしますのは――お手元にお配りしておりますイメージライブラリー・ニュース第30号「幻燈の歴史をめぐって」でも草原真知子先生が詳しくお書きになっておられますが――まず明治の幻燈、それから大正期のアニメーション、そして戦前・昭和初期の玩具映画・玩具フィルムです。私はこれらのものをただコレクションとして集めるだけではなく、本講座のようなかたちでできるだけ上映をして、当時どのようにこれらの映像コンテンツが享受されたかを体験・体感していただくというのを専らにしております。
 ただ、仕掛け種板(ガラススライド)というものは江戸時代から明治時代に移りかわる途中につくられたものでございまして、ガラスなんか大変薄うございます。当時はまだ板ガラスができておらず、吹きガラスに手書きというふうにつくられております。薄いものですと0.3mmほどしかなく、ちょっと強く持つと割れてしまうようなものもあるので、なかなか遠方まで持っていくことはできません。それでも今日はなんとか、明治初めの頃につくられた仕掛け種板を1枚持ってきております。
 つくられた年代毎に順番に見ていただきますが、途中で幻燈からフィルム映画の上映に切り替える際、幻燈機にヘッドマシーン(フィルムの駆動装置)を取り付けるために一度だけ明かりをつけさせていただきます。それ以外のときはなるべく完全暗転で上映いたします。そうしませんと目が慣れませんのでね。明治時代、真っ暗のなかで行われた幻燈会がどんな感じだったかというのをご覧いただきたいと思っております。

日本における幻燈の歴史

松本 草原先生のご文章にもありますように、18世紀後半、おそらく1760年代くらいにはオランダ貿易を通じて日本に幻燈機が入ってきております。その頃入ってきたのはおそらく金属製の西洋幻燈でしょうけれども、日本ではすぐに木製の影絵目鑑(かげえめがね)と呼ばれる幻燈がつくられました。ガラスに絵をかいて燈明明かりで映すという芸能が、記録によれば1770年代にはもうあったらしいということですね。そしてその頃から、家庭の座敷でも幻燈で遊ぶようになり、座敷影絵という名前で呼ばれたようでございます。
 芸能として大掛かりな芝居小屋でやるような幻燈芝居では、金属製の幻燈は熱くて手に持つことができません。西洋の幻燈機がどんどん大型化し、金属製の精密なものになっていったのに対して、日本の場合はごく単純な木箱に燈明皿を入れて映すものでしたので、手に持つことができました。そこでそれを活かして、複数の演者が和紙のスクリーンの背後から木製の幻燈を持って、文楽のように幻燈ショーというか幻燈芝居のようなことをやったようでございます。こうした幻燈芝居は、18世紀末から19世紀初頭にかけては「写し絵」という名前で呼ばれておりまして、1803年には三笑亭都楽というひとが江戸で写し絵の興行を行ったという記録が残っております。
 このようにして、長崎に入った西洋の幻燈が家庭内で楽しまれたり、芸能として幻燈芝居が発達していったわけでございます。幕末から明治にかけて、それが非常に広く楽しまれていた。絵が動く仕掛けは単純で、手を上げ下げするとか首を左右に振るといったものでしたけれども、そういうものを組み合わせることによって、かなり複雑なお芝居のストーリーを映したそうでございます。
 明治時代の初めになりまして、西洋の幻燈機がもう一度日本に入ってまいります。そのときに明治政府が、これは文明開化、国策に沿った教育用のツールとして大変有用であると見込んで、文部省が写真師の鶴淵初蔵と中島待乳の二人に幻燈をつくれという命令を出すわけです。そしてこれを全国の師範学校に配布しようとしたのですけども、いざやってみると大変高くついた。それで文部省は配布ではなく貸出に変えて、あとはよろしくといった感じで引いてしまいました。困ったのは製造を引き受けたほうでございまして、これはなんとかしなきゃいけないということで、幻燈会を無料で催したりして、こんな面白いものがあるよと全国に伝えていきました。
 その結果、明治20年代の特に日清戦争あたりの時期には、幻燈が非常に広く普及していきました。ニュース性があるということですね。当時はまだ映画はございませんし、新聞でも写真は載せられません。浮世絵師が描いたものを印刷に載せるというようなかたちでしかニュースでビジュアルな情報を伝えることができなかったのです。その点幻燈は、全国津々浦々、幻燈師が幻燈機を持ち運んで見せることができたので広まっていったのです。やがてそれが大型幻燈機ではなくもっと小型の家庭用幻燈機になって、家庭で子どもが遊ぶようになったこともあり、明治20年代から30年代には大小様々な幻燈機が楽しまれていました。

活動写真がやってきた

松本 ところが明治30年に、活動写真、すなわち映画が入ってくる。その2年前の1895年に、リュミエール兄弟がパリでシネマトグラフを初めて一般公開で上映いたします。そこで、リュミエールの知り合いであった稲畑勝太郎というひとがシネマトグラフの機械と映写技師とフィルムを持ち帰って、映画を日本にもたらすわけですね。それが、初めのうちは自動幻画とか自動幻燈とかそういう呼び方をされておりましたが、後に活動写真と呼ばれるようになりまして、どんどん盛んになっていきます。
 その頃はまだ映画館というものはございませんので、興行として、巡業して見せるわけですけれども、フィルム自体も高うございますから、長尺モノではなく短いものをループさせてエンドレスで見せる。フィルムの初めと終わりをつないで、同じ映像を何度も繰り返して見せるというようなこともやったようでございます。そうすることを「たすき」と言っていたそうです。
 活動写真が入ってきた頃は、関西では錦影絵と呼ばれていた江戸以来の写し絵のような古いタイプの幻燈の芸能と、明治になってから再度入ってきた金属製の西洋幻燈による幻燈大会、そして活動写真が入り乱れておりました。ですから、日本の映像史を語る場合に、普通はリュミエールが発明したシネマトグラフが日本にやってきたというところから語られるわけでありますけれども、実際には映像は18世紀から日本にある。しかもそれは止まった映像ではなくて仕掛けによって動くもので、しかも登場人物もスクリーン上を上下左右に動くというようなものとして日本では享受されていた。そういう基盤がすでにあり、そしてその基盤のうえに、再度やって来た西洋幻燈や、新たに入ってきた活動写真といったものが合わせ技のように重なってつながってきたというのが、日本の映像の歴史でございます。
 今日最初にお見せするループフィルムはおそらく明治末ぐらいに出来たものです。日本で最初の、というか現存するなかで一番古いアニメーション・フィルムを1本上映いたします。1周50コマ、わずか3秒ぐらいですのであっという間に終わります。まあループしてありますけどね。
 リュミエールが初めて映画を公開した2年後くらいには、ヨーロッパではすでに家庭用のループフィルムが高価ではありますが販売されていました。セルロイドフィルムにリトグラフで印刷した、多色刷りによる、カラーのアニメーション・フィルムです。今日も、後でお見せしますけども1900年ごろにつくられたドイツ製のカラーアニメーションを1本持ってきています。これがヨーロッパでもアメリカでもずいぶん広がっていくのですが、おそらくその影響でしょうか、日本でも活動写真が入ってしばらくして家庭用の……まあ家庭用と言っても高いものですから、そうみんなが買えるというものではありませんけれども、家庭内で楽しまれるためのフィルムがつくられました。ただ、リトグラフではございません。日本ではリトグラフ、つまり石版の印刷機は高うございますので、セルロイドフィルムに型紙を用いたステンシル、いわゆる「合羽刷り」(かっぱずり)という技法で、2色刷りでつくってございます。
 この合羽刷りの技法は、実は明治30年ごろから広がっていく家庭用の幻燈機向けの安いガラスのスライド、これを種板(たねいた)と申しますけども、その種板に刷ったのと同じ方法です。種板は、江戸時代末期から明治初めには手描きだったのですが、西洋幻燈が入ってしばらくすると手描きから写真焼き付けに変わる。もちろんモノクロですけれど、モノクロの版をガラスにポジ転写して、それに手で色をつけたものが多かった。けれど、写真を転写したり手で色を付けたものだと子どもが遊ぶ家庭用のものとしては高価ですから、もっと安いものを大量に供給したいというときには合羽刷りです。小さいガラスに型紙刷りをした、非常に素朴な種板がたくさんつくられました。
 そして、家庭内で映画・活動写真を上映したいとなったときにも、かつては幻燈の技法であった合羽刷りでフィルムのうえに印刷したわけです。実写でやろうとすればカメラが要りますし、大変高価なものになりますが、ただセルロイドのフィルムに型紙で刷れば安いですからね。そういうふうにして子ども向けのアニメーションができたんだと考えられます。このように、西洋ですとカラーリトグラフ、日本では型紙刷りというような印刷の違いもありました。

玩具フィルムと日本製アニメーション

松本 やがて大正になりますと、明治45年にそれまで幻燈や活動写真の興行や制作を行ってきた4つの会社が合併いたしまして、日本活動写真株式会社、日活という大きな会社ができます。それから映画館が徐々に広がっていくわけですが、フィルムのあつかいはやはり興行ですから、ルーズなんですね。映画館で何回か掛けた映画は飽きられますから、それを切って売ったんです。1コマずつ切ってブロマイド代わりに売ったりとか、長いものを切って売ったりしていました。
 そして、これは使える、劇場公開用の映画を家庭内でも上映できるということで、映画館でもらった切れ端と映写機とを抱き合わせで玩具屋さんが売り始める。ただしでかい巻を買うことはできませんし、映画館からもらえるのはほんとうに短い切れ端ですから、それに合わせたブリキ製の小型映写機なんかができてきます。これが玩具(おもちゃ)フィルム、あるいは玩具映画と呼ばれるものでございます。子ども用の玩具の宣伝なんかを見ますと大正6、7年頃から、それまでの短いループフィルムから、やはり断片ではありますが3、4分ぐらいのわりと長めの映画フィルムをかけるような機械、玩具の映写機が売られるようになってきます。
 大正6年が、日本人によるアニメーション映画の最初の年とされています。この年の1月から6月にかけて、3人のアニメーターが一気に純然たる日本製のアニメーション作品をつくりました。今日は、その年の6月に浅草帝国館という映画館で上映され、後に玩具フィルムとして売られた『塙凹内名刀之巻』(はなわへこないめいとうのまき)、通称「なまくら刀」という、アニメーター幸内純一が制作したものをひとつ上映いたします。これは2007年に私が骨董市でたまたま何本かのフィルムと一緒に見つけたものでして、現存する劇場公開された日本製のアニメーション映画としては一番古いものでございます。今日はこれと、型刷りで3秒しかありませんけど明治末に日本人のつくった最初のアニメーションの二つをご覧頂きたいということでございます。日本のアニメーション史のなかでは、今のところ、この二つが一番古いものであります。
 昭和になりますと今度は、玩具会社がほとんど独自に、劇場で公開したフィルムの良いところだけを再編集してそれを売るということが行われます。劇場で公開するのはポジフィルムですから、それをポジで密着焼きすると映像が荒くなるんですけど、そういう荒いフィルムを独自にたくさん制作して、適当にタイトルをつけて売るというふうなことが行われました。またアニメーションの場合は、劇場で公開されたアニメーションというのはそんなに本数が無いわけなんですね。そこでおもちゃ屋さん自身がアニメーターに発注をして、2分なら2分で完結するような、コマも1秒間10コマ有るか無いかという感じの荒いフィルムをつくりました。おもちゃの映写機用のアニメーションですね。そういうものも今日は入れてございますし、劇場公開されたアニメーションの断片をつないで編集したものも入れてございます。それからやはりチャンバラですね。やっぱり子どもはチャンバラが見たい。おもちゃ屋さんがチャンバラ映画を編集して再プリントして売ったフィルム、そういうものもお見せします。

教育幻燈の上映

松本 そろそろこの辺で上映に移りたいと思います。映画の上映になりましたら、両サイドに分かれて前の方へ来ていただいても良いかと思います。幻燈のときはまだ画角がいっぱいに映りますから良いのですが、映画になりますと画角が非常に小さくなりますので。それから、映写機から後ろにちょっと光が漏れますので、後ろに居ますと目が光でやられて前の画面がほんとうに見づらくなります。同じ光源ですと、当然動画のほうが静止画よりも光量が落ちますから、映画になりましたらなるべく前のほうに来て見ていただけたらと思います。それでは始めさせていただきます、ごゆっくりご覧いただきたいと思います。

(暗転・幻燈上映開始)

松本 これはですね、明治期、西洋幻燈が入ってきてほんとうにすぐの頃のものでして、全部手描きでございます。先ほど言いました江戸時代の錦影絵、写し絵と同じ方法を使っております。電気の傘が2色有りますね。そして下に蓄電瓶がございます。

(松本氏が種板をスライドさせると、画が変化して傘の明かりが燈る)

松本 明かりがついた、という。これだけです。まあ電気、エレキというものがどれほどのものかということを伝えるものですね。それでは次に参ります。

(暗転・幻燈2本目上映開始、「幻燈開曾」という文字)

松本 これは幻燈会とか教育幻燈会とか、いろんな名前で呼ばれておりました上映会のオープニング用です。まず「幻燈開曾」という文字が映し出されていますが、仰々しいですね。明治の文明開化を知らせるビジュアルツールとして、非常に堂々と見せたということでございます。

(画が変化。巨大な口を開けた人力車を引く女性)

松本 はい。分かりますでしょうか。これはなんでしょう? 教育幻燈会ですからね、教育的な内容でございます。どなたか分かる方いらっしゃいますか?

学生1 「口車に乗る」!(笑)

松本 そうです。「女の口車に乗るひと」。教育的ですね。料亭の傍で、すぐに女の口車に乗っているわけですね。鼻の下を伸ばした紳士であります。

(画が変化。地べたに座り込んだ女性。背後に石をまとめた重りのようなもの)

松本 「百貫目」と書いてあります。これは分かりますか? 「長っ尻」ですね、尻の重いひと。つまりなかなか帰ろうとしない人です。分かりやすいですね。

(画が変化。酒席で頭から血を流しているふたりの男と、斧を振りかざす男)

松本 大惨劇ですね。これは宴会をしている最中に、斧で頭を割っています。「宴会は頭割り」、つまり割り勘という(笑) それだけのことなんですけど、ものすごい絵でございます。宴会は頭割りにしましょうと、公徳心を教える教育効果ですね。

(画が変化。首に三本の棒を突きつけられた男)

学生2 「首がまわらない」。

松本 はい、そうです。これは分かりやすいですね。「米代」に「酒代」、「家賃」で「首がまわらない」。その通りです。大変分かりやすうございます。だからこうならないように、倹約して貯蓄致しましょうということですね。明治の教育幻燈の「教育」という言葉自体が、教育勅語以降は大変な流行言葉でございました。これもそういう教育効果を期待したものです。

(画が変化。白い山を前にして、両手で紙を持っている男)

松本 これはどうでしょうか。分かる方、どなたか大きな声で。どうですか? 何か座敷で富士山を……経師屋さんか屏風屋さんでしょうか、そこで紙を貼っておりますね。これは「山を張るひと」、一発屋ですね。山を張って一発儲けることはいけませんよ、勤勉実直に暮らしなさいよということです。質実剛健に暮しなさいと。こういう山を張るようなことはしてはいけませんということです。非常に分かりやすい。

(画が変化。ラッパなどを持った楽隊と指揮者、「休會」の文字)

松本 はい、「しばらく休曾」というのが出ました。ここでほんとうは楽隊の演奏が入るんですが、今日は予算の都合で(笑)、とりあえず幻燈会だけ見ていただくということでございます。まあ、頭のなかで想像していただければ良いことですね。休会もひととき。次に参ります。

(画が変化。尻の上に膳を乗せた女、その両側で食事する男女)

松本 これはちょっと分かりにくいですね。今のご時世ですと宜しくないということもございましょうが。振り返っているのが娘です。それで、お父っつぁんとおっ母さんが娘のお尻のうえにお膳を乗っけて食べる。題して「娘の尻で喰う」と。つまり玉の輿とか、あるいは芸妓屋に娘を売ろうとかいうことでございますね。そういうことをしてはいけませんよということで、「娘の尻で喰う」という言葉があったんですね。そういうことが種板に書いてございます。ずいぶんダイレクトな話ですね。

(画が変化。米俵に追いかけられる男)

松本 これはもうともかく米代に追いかけられるという、その日暮らしをするんじゃないよということですね。五斗俵に追いかけられてですね、絶えずその日暮らしで貯蓄しないとこうなりますよということでございます。さて、こうした教育的な効果がある映像の後、だいたい幻燈会と申しますとこういうお化けもの。

(画が変わる。白い着物を着た不気味な女性)

松本 暗闇のなかで映像が浮かび上がるということで、やはり日本に初めてオランダから幻燈が入ってきたときも、こういうお化けものが出し物として多かったようでございます。

(画が変わる。おどろおどろしい炎のようなものと、人の姿)

松本 地獄の姿ですね。こういう種板は、お寺さんなんかで仏教講話というようなことをするときに使ったようです。いまでも、古い幻燈機やガラスの種板といったものが地方のお寺の軒下で見つかるなんてことがあるんです。それはどういうことかというと、大勢のひとが娯楽も兼ねて見に来る場所、夜に集まってくる場所という公共センターとしての役割をお寺が担っていたということですね。講堂とかご本堂とか、そういう広い場所があったもんですから。そういうところで幻燈師が来て興行をして、置いて行ったのか、あるいはお寺のほうで欲しいと言ったのかはよく分かりませんけれど、とにかくお寺さんで見つかったりすることが多い。このように幻燈は宗教的な目的でもよく使われました。そもそもヨーロッパでも、17世紀に幻燈ができて以降、18世紀から19世紀ぐらいには、教会の宣教のときに幻燈がよく使われていました。ですから宗教的な題材、キリスト教を題材にしたガラスのスライドは、いまでも見かけられるものなんですね。日本でも同じように、明治になってから仏教のほうで使ったということです。

(画が変化。日章旗を掲げて白馬にまたがる男)

松本 これは戦争ですね。日清戦争の画面であります。こういうふうに幻燈にはニュース性もあって、日本が戦争で勝っていく様子を勇ましく見せようとしたということですね。

(画が変化。「今晩是で閉會」の文字)

松本 はい、これでいよいよ閉会。「今晩是で閉曾。忘れ物ございませんように懐中物ご用心」というように、親切ですね。「お履き物は間違えないように」とか「提燈はお忘れなく」とか、教育幻燈は言ってることが細かいです。と、いうことでございまして、これでとりあえず幻燈は終わったわけでございますが、幻燈会はまだ終わったわけではない。

(暗転)

松本 先ほど「お忘れ物無いように」とか「閉曾」といった文字が出ていましたが、幻燈曾では最後に必ずあるものを見せました。それは、こういうものです。

(万華鏡のような画が浮き上がり、種板の回転に応じて模様が変化していく)

松本 これは花輪車(かりんしゃ、はなわぐるま)と申します。ヨーロッパではクロマトロープと呼ばれるものですね。これを最後に必ず見せたそうです。そして皆がワイワイ言いながら帰っていくと。カレイドスコープ効果って言うんでしょうか、仕掛けは単純なんですが大画面でどんどん色が動いて見える。モアレ効果が綺麗ですね。逆さにも回せるんですよ。
 ……これで大団円ということで、幻燈会はこれを最後にお開きでございます。

映画フィルムの上映

松本 それではちょっと明かりをいただきまして、次はフィルムに行きたいと思います。見ていただければ分かると思いますが、この映写機は幻燈と映画と共用です。両方使えるわけですね。
 今日は200Wの白熱電球を使っておりますが、当時はおそらくアーク燈かガス燈か、そういう光源でやっておりました。明治時代はそう簡単に電気が来なかったわけで、興行をやるにしても、最初に日本に映画が入ってきたときにはガスランプなどを使っていました。電気は発電機を使わないといけませんので大変でした。
 日本に初めてシネマトグラフを持ってきた稲畑勝太郎という方は京都の名士でして、繊維業界とか染色の企業家でありました。彼は最初、京都で上映をやろうとしたんですが、発電機がうまくいかなかったんですね。それで次が大阪でございます。彼は映画を明治29年に持ってきたんですが、結局公開して上映ができたのは明治30年のことになります。
 では最初に、1900年頃におそらくドイツでつくられたカラーリトグラフ・アニメーションフィルムをお見せします。メーカーはちょっと分かりません。ドイツでは特にニュールンベルグを中心に様々なメーカーが競って小型シネマトグラフを販売したのですが、このフィルムはまだどこ製かということまで調べがついてないんです。それでは明かりを消してください。

(1本目上映。つい立てを挟んで男女が追いかけっこをする短い動画がループする)

松本 ま、ずっと見ていても一緒なんですけどね(笑)。昔は動くだけでもびっくりすることでしたから、ましてやカラーでアニメーションで映るというのは大変なことだったと思います。
 当時はリュミエール、あるいはその後すぐにゴーモンやパテなどの映画会社が実写の短いフィルムをいっぱいつくっていたのですが、これはおそらくその実写のループフィルムから画を起こしたのではないかという、そういう動き方です。画が単純なわりに、アニメとしては妙にリアルな動き方とリズムをしていますので、実写からトレースしたのではないかという感じを受けます。もちろんその実写フィルムは見つかっていないわけですから、ほんとうのところは分からないですけど。
 最初期の映画として有名な「バタフライの踊り」、あるいは「スネークダンス」というものがありますね。3年ほど前に着色したフィルムも見つかっています。これはもちろん実写のダンスで、服を翻して踊ることの繰り返しなんですが、そのフィルムからトレースしたカラーリトグラフのアニメーション版が見つかりました。ですので、おそらく先ほどのフィルムも同じように5秒くらいの短い実写のフィルムからトレースして、リトグラフ・アニメーションにしたのではないかと思います。

(2本目上映。「活動写真」という文字を書いたあと、正面を向いておじぎをする少年)

松本 これが明治末。なぜ明治末だと言えるのかというと、まず技法がそうですね。合羽刷りの技法である。そして次に、この映写機(本講座の上映に使用している映写機)と一緒に発見されました。この映写機が明治末のものであることははっきりしているので、そこから明治末だろうと推測しているわけでありますね。
 見ていただきますと、黒の墨版と赤版がちょっとずれていますね。型刷りで荒くつくっているものですから、ちょっと赤がずれているんですけど。
 少年が出てきて、「活」と書いてにっこり笑うんですね。それから「動写真」と書いて、一礼して終わり。で、また出てきて「活」と書いてにっこりして「動写真」で礼をする。礼儀正しいですね。自分で自分の紹介をしてるわけです。「私は活動写真である」ということですね。おそらく家庭で見たお金持ちはびっくりしたでしょうね。なにせ活動写真そのものが活動写真ですと言ってあいさつに来たようなものです。
 明治にはただこういうふうに動くだけでもみんな喜んだわけですが、先ほど言いましたように、映画館で上映したフィルムの切れ端を映画館で売るということが出てきます。いま、戦前の日本でつくられたフィルムの9割9分は存在しません。それはなぜかというと、映画史や映画会社の説明では「戦争があったからだ」とか「燃えやすいセルロイドフィルムが関東大震災の火災で消失したからだ」と言っていますが、本当のことを言うと、興行ですからネタが飽きられると要らなくなるんですね。だからそのフィルムは売られるか、さもなければタワシで擦って水で洗ったんです。セルロイドフィルムは高いですから、それにまた感光材を塗って新しいフィルムとして使い回した。さらにそこで使った洗い水ですが、これを蒸発させますと銀が取れます。感光剤は硝化銀、銀塩ですから、洗い水から銀も取れるしフィルムも新しくなると。使いまわしができるということで、多くのフィルムがそうやって洗われたり、切って売られたというのが実状です。映画をつくるほうはそういうことを言いたくないものだから「戦争で焼けてなくなりました」とか言っていますけど、私は玩具フィルムの断片を300本以上集めることができました。それは、こうやって切って売られていたからですよね。

(3本目上映。座敷に座ってじっとしている男)

松本 これは当時の子どもが手に入れた大正時代のフィルムなんですが、切って売られるものだから、楽しいところが当たることもあるけれど、全然アクションのないところが当たることもあるんですよね。これは子どもが親にねだったかなんかして買ってもらったんでしょうけど、残念なことに、つまんなかったんですよ。選べりゃ良いんですが選べないもんですから。気の毒に、子どもはせっかく楽しみにしていたのに、おやじが座敷に座ってるだけなんですね(笑)。全然動かないですね、このおやじ。こんなつまんないフィルムを買っちゃったわけです。よりにもよって映画館もこんなひどいフィルムを売ったもんですね。

(再び映写機をゆっくり回す。画面上に引かれた黒い線が移動したり回転したりする)

松本 それで、この子どもがどうしたかというと、フィルムに墨を塗って自分でアニメーションをつくっちゃった。「この野郎、おやじ動け」ってことですね。薄れてしまっているところもありますが、墨はセルロイドによく乗るんですね、結構保つんです。こういうふうにして子どもはうっぷん晴らしをしたということでございますね。
 よく見ますと、この子どもはアニメーションというものをよく知ってるんです。原理が分かっているわけですね。大したもんだと思います。ただタイトルをつけるのが非常に……「化物」(ばけもの)と1コマに書くだけじゃその文字は一瞬しか映らないんですけど、そこまでは考えられなかったんですね。
 これは、映画館で掛けたフィルムが切って売られていたということの動かぬ証拠でありますし、また子どもがアニメーションの原理を非常によく分かっていたということもここから窺えますね。
 それでは次に、玩具会社が売るためにつくったフィルムを掛けます。劇場公開したフィルムを映画館が切って売ったり、あるいはそれを仕入れて玩具会社が自分のところで編集したりしたものは、玩具映写機で写すとどうしても暗くなります。玩具会社でポジ転写したフィルムはハーフトーンが飛びますから、白黒はっきりしてて良いんですけども。でもどうしても全体的に黒うございます。ですから、いま後ろのほうにいらっしゃる方はどうぞ前のほうへ来ていただいて、立ち見っぽくなりますけど移動していただいたほうが見やすいと思います。
 それでは参ります、『なまくら刀』。これは大正6年に公開されたときには『塙凹内名刀之巻』(はなわへこないめいとうのまき)という題でございました。もともと作者の幸内純一は『なまくら刀』という題にしていたらしいんですが、公開のときに『塙凹内名刀之巻』という題になりました。これはおそらく、当時の時代劇の人気俳優、チャンバラの一番のスターといえば尾上松之助(おのえまつのすけ)、通称「目玉の松ちゃん」というひとですけれども、このひとの鼻がちょっと低かった。それに掛けて「塙凹内」(はなわへこない)という題を付けたのかというふうに思っています。顔もちょっと尾上松之助の似顔絵っぽいものでございます。それでは「なまくら刀」。

(『なまくら刀』上映。松本氏が弁士として語る)

松本 それでは続きまして。いまのは大正6年の作でございますが、次は飛びまして昭和3年。

(『血煙高田馬場』上映。松本氏が弁士として語る)

松本 ちょっとストーリーがよく分かりませんが、短い玩具用につくっておりますからご勘弁いただきたいと思います。

(『漫画 火星飛行』上映。松本氏が弁士として語る)

松本 キングフィルム。愛和商店と言うと、このブランドでありまして。いまは講談社、昔は大日本雄弁会講談社という会社がありますが、この大日本雄弁会講談社と愛和商店がタイアップして短い玩具フィルムをつくっておりました。大日本雄弁会講談社は「キング」という雑誌を出しておりましたから、それで「キングフィルム」と言うんだと思います。
 『漫画 火星飛行』は、実は劇場公開したアニメーションでございます。いまお見せしたのはそれを短くしたバージョンですね。「火星飛行」と題しておりますが、火星と月に行く短編のもののアニメーションから、火星に行く部分だけを抜き出したということですね。

(『護国の鬼 古賀連隊長』上映。松本氏が弁士として語る)

松本 ちょっと画面が暗うございます。『護国の鬼 古賀連隊長』、高見貞衛監督、松本泰輔主演、朝日フィルム。朝日製作所というのは、玩具のフィルムと映写機をつくっていた大阪の会社です。この会社は、大正末頃から営業していたことが分かっております。なぜ分かったかと言いますと、わたしが大阪で上映会をしておりましたときに、朝日製作所をやっておられた方の娘さんが――もう80歳を越えておられますが――来られてですね、「これは実はうちの父がこういう次第でつくっておりました」ということを伺いました。それで分かった次第です。

(『唯野凡児・東京見物』上映。松本氏が弁士として語る)

松本 最後もまた愛和商店、キングフィルムでございます。以上でフィルムはすべて終了ということでございます。

質疑応答

司会 先生、上映ありがとうございました。

松本 ありがとうございました。

司会 せっかくの機会ですので質疑応答の時間をとりたいと思います。質問のある方、挙手をお願いいたします。

質問者1 さきほど先生が弁士をなさっていましたが、当時、徳川夢声さん(大正から昭和にかけて活躍した日本の弁士、後にラジオの朗読家)のような活動弁士はいたのでしょうか。

松本 徳川夢声さんはかなり後ですね。明治30年にシネマトグラフを稲畑が持ち帰った前年の末に、神戸にエジソンのキネトスコープが入ってきていました。しかしこれを日本で初めての映画とはしません、これはひとりで覗くものですから。エジソンも映画の発明者とはされていないですね。そのキネトスコープが入ってきたときに、ただ黙って覗くだけですから、そこで最初に説明者がついたということでございます。その後、明治30年に稲畑がシネマトグラフを公開したときにも、説明者はすでについております。ただ短いフィルムですから、たとえばいま伝えられているところでは、ナポレオンが登場してまた去っていくループのフィルムに対して、当時の映画説明者は「これはナポレオンである、ナポレオンはナポレオンである…」と言っただけだそうです(笑)。

質問者1 回り燈篭というものがありますが、そういうものも今日のお話と関係があるでしょうか。それとも全く違う分野でしょうか。

松本 いや、全く関係がないということはないでしょうね。映像前史について言いますと、フェナキスティスコープだとかゾーエトロープだとか、プラキシノスコープだとか、そういう回転させることによって連続して画を見せるものはずっと前からありますから。なにが最初か、あるいは直接関係があるかといったことは分からないですが。ただ、シネマトグラフはやはり幻燈機の影響でしょうね。コンデンサーレンズを入れるとか、ヘリコイドの位置だとか、どれくらいの間隔で見せるかというようなことに関して、幻燈機の技術は非常に完成されておりましたので。それと、ヘッドマシンをつけることですね。リュミエール兄弟のときには、駆動装置はカメラ兼用になっていました。カメラにもなるし映写機にもなるかたちだったんですね。
 ちなみに西洋にも弁士・説明者がいましたが、すぐに消えました。なぜかというと、母国語でインタータイトルが入りますので、誰でも読めるわけですね。ですから音楽は付けますけれども、説明者は要らなかった。ところが日本の場合、入ってくるフィルムはフランス語や英語やドイツ語ですから。それじゃあ字幕があったって読めませんから、最初から映画説明者、いわゆる活動弁士という職業があったようでございます。
 先ほど『なまくら刀』を上映したときに、インタータイトルがたった1コマしかありませんでしたね。「ここで一番試し切り」という。あれはどういうことかと言いますと、大正中頃につくられたものですから、まだ玩具として売る場合にどう字幕を入れたら良いかということに慣れていなかったんです。当時はまだ専らループフィルムでしたから、ある程度の長さがないと字幕は映らないということがおそらく分かってなかったんだろうと思いますね。だから玩具会社が入れたのは1コマしかなかった。
 また、文字が横向きになっておりました。右から左、横に倒して「ここで一番試し切り」と、おそらく映画館で上映したときは――だいたい1秒間16コマですから――5秒としても80コマぐらい、あの横向きの字幕があったのだと思います。なぜそうなったかというと、日本の活動写真の上映では、スクリーンの下手(しもて)に活動弁士が立ちます。ですから、活動弁士の位置から画面を眺めるときには、横倒しの台詞がいちばん見やすいわけです。実は縦だと読みにくい。弁士の都合で、お客さんのためではないわけですね。つまりそれは、アニメーションであれ実写であれ、当時は弁士が非常に力を持っていたということですし、実際に大正から昭和の初めにかけて、トーキーができるまでは、人気の活動弁士に合わせて映画をつくったと言われております。大スターですね。弁士の芸を聞きに行くということです。そこに弁士のいろんなしゃべり方の特徴とかがあって、おそらく家庭で玩具フィルムを楽しむ子どもたちも、そういう弁士の名調子、「花の都はパリーかロンドンか、月が鳴いたかホトトギス。文明開化はエレキの大発明によりましたるこの機械の回転につれまして不肖弁士も大車輪、あとは言わぬが花の吉野山……」とかね、そういう名調子をやったわけです。弁士、それは芸能ですね。映画史というと、そういうところは切り捨てて映像としてだけ考えがちですけれども、やはり芸能、興行ですから。
 また映写技師は、手回しの映写機の場合、弁士のテンポに合わせて映写機の回転速度を変えたそうです。たとえば「口説き」と言いまして、悲しい場面でいろいろと長台詞をやる弁士の場合ですと映写機もゆっくり回すとか、あるいはチャンバラが得意でスピーディーにやりたいという弁士のときには、映写技師も心得たもんで速めに回したという。だから、いまの映画は1時間36分何秒と上映時間が決まってますけど、昔はだいたいです。1時間20分のときもあれば1時間40分のときもあるわけです。ゆっくり回すとか速くするということは、映写技師の裁量とイメージとの兼ね合いですね。ただ、最悪なのは映写技師と主任弁士の仲が悪いとき。ゆっくり聞きたいところを速く回す、チャンバラはスローになるということだったそうでございます。もう最悪ですね、お客さんにとっては。

質問者2 初期の頃のアニメーターは、職業として確立していたのですか。それともほかの絵描きが描いていたのでしょうか。

松本 絵描きさんから出発したひとが多いですね。大正6年の場合はいずれもそうです。たとえば下川凹天さんという方が大正6年1月にアニメーションをつくりましたが、その方は漫画家です。さっきの『なまくら刀』の幸内純一さんも漫画家ですし、北山清太郎さんは絵描きさんだった。いずれも天活や日活、小林商店のような映画会社にやってくれ、つくってくれと言われて見よう見まねでアニメーションをつくったそうです。その後は、幸内さんや北山さんのお弟子さんから、次々と専門のアニメーターの方が出てきました。ただ、アニメーターがつくった劇場公開用のアニメーションはそんなに本数がありません。彼らは食べるため、生計を立てるために、玩具会社からの発注を受けて『ミッキーとのらくろ』みたいな短いものを描いて凌いだということらしいですね。ただ、そこで名前は出していません。

質問者3 先ほどの教育幻燈も弁士付きなのでしょうか。教育の場であっても……。

松本 はい、付きます。最初は燕尾服とか着て堂々とやったようです。そのための台本も発売されております。

質問者3 写し絵からの流れを見ていますと、視覚的なものと語りのドッキングというものなのでしょうか。音楽なんかも付いたりするのでしょうか。

松本 上方と江戸では違うのですが、江戸では説教節とかそういうものに幻燈をつけてやるものが多うございます。これはおそらく農閑期、お庄屋さんなどが自分の屋敷を大広間にして、呼んできた写し絵師に幻燈会をやらせて皆を慰労するとか、そういった地方芸能とのつながりが多いように思います。もちろん音楽も付きます。ただし上方のほうは、残ってるもので言えば、幕末から明治にかけてはわりと落語のネタが多いですね。

司会 では、先生ありがとうございました。それでは、この会は終了させていただきます。

松本 どうもありがとうございました。


(2012年10月18日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)