武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第41回イメージライブラリー映像講座
震災の後に 311×トーキョードリフター」の記録


講師安岡卓治(映画プロデューサー)、松江哲明(ドキュメンタリー監督)
開催日:2014年12月6日

 

この講座について

「震災をその目で確認する」ために東日本大震災直後の被災地を取材した『311』(2011、監督/森達也綿井健陽松林要樹、安岡卓治)と、松江哲明監督が前作『ライブテープ』の手法を踏襲しながら震災後の東京を写した『トーキョードリフター』(2011、監督/松江哲明)。本講座では、全く違う立ち位置から震災後の日本を写し取ったこの2本のドキュメンタリーを取り上げ、安岡卓治監督、松江哲明監督に制作者としての視点や制作姿勢について対談していただきました。

『311』 震災の現実を前に

スタッフ 今回は「震災の後に 311×トーキョードリフター」と題しまして、『311』の共同監督のお一人である安岡卓治監督と『トーキョードリフター』の松江哲明監督にお話を伺います。それでは安岡さん、松江さん、よろしくお願いします。

安岡 今、「共同監督」という風におっしゃいましたけれども、作品の最後のクレジットには4人の名前がスタッフとして並んでいるだけなんですね。この作品で監督と呼ばれることには非常に忸怩たる思いがあります。本来は映画として作品を仕上げる時に、ある一人の監督がその問題意識や視点や表現方法など、その人の個性をベースに、その監督ならではのプロセスを経て作り上げていくのが映画作品と呼ばれるものだと僕はずっと認識してきて、その思いは今も変わらないです。実は「この映画は作品なのか?」と問われると、おそらく4人のうち誰もが「これは違うよ」と答えてしまわざるを得ないんですね。それはこの映画の成り立ちをご説明しないとお分かり頂けないかもしれません。4人が揃ったのは本当に偶然なんです。どういう偶然かと言うと、一番先に被災地に入ったのはジャーナリストの綿井健陽です。綿井はフリーのジャーナリストですけれど、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会、JVJAというグループに所属しています。JVJAの創設者であり中核になっている広河隆一さんは「DAYS JAPAN」というフォトジャーナリズムの雑誌を編集されていて、ご自身もフォトジャーナリストです。その広河さんのもとに、様々な問題意識を持ったフォトジャーナリストやビデオジャーナリストたちが集まってJVJAというグループができたのです。震災が起きたのは3月11日の午後2時40分ぐらいですけれど、このみなさんは即座に取材態勢をとって、早いチームはその日のうちにもう東北への移動を開始している。ジャーナリストたちの用語で「ファーストウェーブ」と言うらしいです。一刻も早く現場に足を運んでその様子をつぶさに伝えなければいけないという問題意識、ジャーナリストとしての一つのポリシーですね。JVJAのみなさんは車2台か3台かに便乗して、あの交通の寸断された困難な被災地への道のりを、新潟の方に迂回したり様々なルートを探しながら、翌12日には現地に辿り着いてつぶさに取材しています。テレビなどでもその映像は報道されましたが、「DAYS JAPAN」のその時の特別号は、取材密度が高く、原発事故の脅威を一番早く訴えたと思います。綿井健陽はそのJVJAのグループで現地に行って一度引き揚げ、第二波をどういう編成でいこうかと考えた。綿井は今年公開されました『イラク チグリスに浮かぶ平和』(2014)という作品で評価されましたけれども、彼は日本の震災だけではなく、海外でも災害があれば、もちろん戦争があればその戦場に行ってその様子を記録している。単独行動は基本的にしないみたいですね。それは危機管理だと思います。つまり、一人一人はインディペンデントのフリー・ジャーナリストなんだけれども、何人かでチームを組んで共同取材をしていくというのが彼らの取材の方法になっているみたいです。パレスチナのインティファーダの時もアチェの地震の時もそうですし、当然イラク戦争の時もアフガンの時も彼らは何人かでチームを組んで一緒に車をチャーターして、場合によってはボディガードを雇ってチームの安全を図りながら取材に行くというのが、一つの方法だと聞きました。
 綿井は第二波をどう行くか、誰と行くかといった時に、まず森達也に連絡をした。でも最初、森さんは行かないという話だったんです。森は震災報道のテレビを見ていたら鬱状態になって、外に出る気もない、人に会う気もない。一日中じーっとテレビを見つめる時間が延々過ぎて、時々泣き出したり、そういう状態になって最初は行かないと言っていたんですけど、綿井にはなんとか森を連れて行きたいという意識があったんでしょうね。僕のところに相談に来たので、「森さんは行くべきだと安岡が言っていたって、言っていいよ」なんて話をした。そうしたら森さんが「じゃあ行こう」ってなったんです。そこに今回の映画に関わった人間の中では一番若い松林要樹が加わった。彼も即座に被災地に行って取材をしたかったけれども、なかなかルートがない、交通手段がない。それで綿井に相談してたんですね。「第二波で上手く同行できるんだったら」みたいな話をしていたので、たまたまこの4人が揃ったわけです。フリーのジャーナリストが集まって一緒に車をチャーターして被災地取材に行くのと同様に、それぞれが実際に自分たちの目で現地を見て、それをどういう風にそれぞれの表現活動に発展させていくか、そういった意味での共同取材行とでも言うんですかね、そういったことでこれは始まりました。
 どういう状況だったかというのは作品をご覧になるとお分かり頂けるかと思うんですけれども、やっぱり僕ら自身が震災の現実を上手く咀嚼できなくて、4人が4人ともある種の不安定な精神状態になりながら、何かを見つけようとそれぞれのカメラを回していたんですね。もちろん4人が顔を揃えて4台のカメラを並べて回すなんて馬鹿なことはしません。例えば陸前高田で車を降りたらそれぞれがそれぞれで被写体を探して、そこに被災者の方がいらっしゃればお話を聞いたり、そういうかたちだったんですね。松林は最初から「これから震災でドキュメンタリーを一本作ります」と明言していましたし、綿井さんは写真とルポを書くつもりでいた。森さんは実際に行くことになってからは、いくつか出版社と話をまとめて雑誌の記事の仕事に繋いでいった。気が付いたら僕がコーディネーターみたいになっていたんですね。綿井が何で僕に声をかけたかと言うと、僕はミニバンを持っているんですね。ずっと現場で働いてきた習い性でね、動く時に8人乗りの車でないと不安になる。助監督時代にいつもハイエースか4ナンバーの箱バンを運転していたせいもあって、自分の車も現場に出る時にあるといいミニバンで、綿井さんは実は僕のミニバンを当てにしてたんですね。じゃあいいよと、みんなを僕の車に乗せることにしたんです。松林は何を考えているのかよく分からない人で、「自転車を積んでいいですか?」って言うんです。「自転車でどうするの?」と聞いたら、「現地に着いたら僕は単独行動します」「まぁいいけど、道路だってまともな状態じゃないのに、チャリンコで何とかなるなんて現状認識が甘過ぎるんじゃないか?」って話をしながら、それぞれの荷物を入れたらミニバンがいっぱいになっちゃって、上にキャリアも付いてないから、「自転車は諦めなよ」って言ったんです。僕は結局、車の運転と宿の手配をして、映画でいうと制作進行ですかね。助監督時代から散々やってきました。そして僕もやっぱりあの現実は見ておかないといけない。それが自分の作品や創作にどう関わるのか分からないけれど、とにかく見ておかなきゃいけないと切羽詰まっていた。
 実はね、森さんと『A』(1998)をやった時もそうなんですよ。あの時も僕は日本映画学校(現・日本映画大学)で講師をやっていまして、オウムの報道が飽和状態に流れてくる時、ものすごく違和感を感じたんですね。報道の在り方にすごく違和感を感じた。僕もドキュメンタリー作りを助監督時代からやってきているので、これはもっと多様な視点でドキュメンタリー映画が作られないとおかしいんじゃないかと思ったんですね。NHKから民放まで全部、横並びのオウム報道に莫大な時間をかけている。個性的な視点があるかというと馬鹿げた視点しかないんですね。例えば麻原彰晃が食べていた料理を再現するとか。「なんかおかしいぞ」って思った時に、森達也に会った。森は「オウムの施設に入って、若い信者たちを実際に自分の目で見ながら、彼らと付き合いながら撮っていくという方法をとるんだ」という話をしていた。3.11の時のテレビでも、それこそ自衛隊の主観があり、各社各局の報道の映像がありました。ただ、『A』『A 2』(2001)の時にも実感したんですけど、マスメディアのカメラって結局見えていないところがいっぱいあるんですね。批判的な意味合いじゃなくて自戒を込めて言うんですけど。災害とか事件が起きると一番被害のひどいところに行くんですよ。「こんなにひどいんですよ」ってところを撮る。ところがカメラを逆に向けると、実は普通の家が並んでいたりするんですよね。戦争でも爆撃されているところはもちろん凄まじい破壊で、なおかつたくさんの方が亡くなられているんだけれど、それを免れたところはそれまでと変わらない。もちろんライフラインとか生活必需品の入手が困難になるとかそういったトラブルはあっても、基本的な営みはそんなに大きく変わらずにそこにあるんですよね。言うならば、「震災だ、災害だ、ひどいぞ」というと、そこをまず撮る。いろんな局が同じところを同じように撮って、同じような論調で伝える。絶対見落としているポイントがあるはずだと思うんですね。それは『A』の時もそうだった。3.11の時もすごい量の映像がテレビから放送されながら、「一体これはどうなっているのか。とにかく一回行かないと駄目だ」って、切羽詰まった思いもあったことは事実です。そういう僕の在り方、つまり、作品にするとか原稿を書くとか具体的な媒体を持たずに、今申し上げたような思いで4人のチームの制作進行的な役割で旅をすることになったんです。
 旅が始まってみると、僕らが経験したことのない現実に放り出されるんですね。それは作品の中にある通りです。多分4人が4人とも何をしていいか分からない。撮っても撮っても撮れたという達成感はない。何故かと言うと、さっきの話のように「こっちはひどいけど振り返ると普通」じゃないんですね。行くと全部ぶっ壊れてる。生活が全部破壊されている。もちろん、津波の際のところへ行くと段差があって、その段差の上には普通の家並みがあるとかそういった光景はあるにせよ、とにかくその被害の巨大さの中で、僕らは思考停止というよりもかなり不安定な精神状態になっていったことは間違いないですね。そういうある種の僕らの戸惑いとか煩悶は、それを外に出すとか見せるとかということとは関係なく、いつの間にか写っていた。実は僕らはお互いが何を撮っているかなんて全然関心がなかったんですね。唯一、森さんとほとんどペアで行動していた綿井さんが、いつの間にか森さん越しに被災地を撮るというスタンスになっていったんですね。今日ご覧になった映像のかなりの部分は、実は綿井さんが撮られたんです。先陣を切って行動するのは森さんですから、森さんが単独で撮ったものと綿井さんのものと、基本はその二人の映像が軸なんですね。
 ただ現地ではお互いがどんな画を撮っているかということは全然分からず、6日間の旅を終えて帰りの車の中で「僕がいったんみんなのやつをまとめてみるよ」と言って、それぞれの映像素材を預かったんですね。編集用のハードディスクにデータを全部入れてから「とにかくまとめておく」とみんなに返して、みんなも「いいよ」って、そんな軽い気持ちでやりとりをした。というのも、僕は3人が監督したドキュメンタリー映画でプロデューサーをしたり編集をしたりしてある種の信頼関係もあったので預からせてもらった。映像素材は60時間弱、テレビの仕事をやっていた頃を思えば2週間あれば編集できるだろうと思っていたんですけど、これが1ヶ月ちょっとかかったんですね。というのは、僕自身の中で、被災地でカメラを回しながら後半ぐらいからとめどない自問自答が始まったんですね。「俺は一体何なんだ」「俺がやってきたことは一体何なんだ」「ドキュメンタリーって何なんだ」。すぐそこで答えが出ないような根源的な問いみたいなものを、自分がどこかで引き受けていたんですね。何故かと言うと、大川小学校のところで本当に回せなくなったんです。ランドセルの画を撮った後から涙が溢れてきて、震えて、嗚咽して、ほとんどフリーズしちゃったんですね。「俺は何だ」「俺が今までやってきたことって何だ」という煩悶みたいなものが始まって。僕は3人がどんな画を撮ったのか見たいなと痛切に思ったんです。そのことは彼らに言ったし、僕のことも信頼してもらえたので編集をすることになりました。23歳で助監督になった時からずーっと編集をやっているので、映像素材があると「切らないといけない」みたいな、そういう生理になっちゃうんですね。「ここはこの長さで、次はこれで、トップカットはこれで」みたいな感じで映像を見ちゃうんです。それがいいかどうかは別として、それでも1ヶ月ちょっとかかってみんなに見せた。
 その時に僕らだけで見ても何だからって、僕の友だちで山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア部門のディレクターをずっとやっていた藤岡朝子さん——こちらの大学でも講義(第37回イメージライブラリー映像講座)をされたことがあるんですけれど——彼女と、僕がずいぶんお世話になったBOX東中野の元支配人の山崎陽一さん——『A』とか『A2』を封切ってくれた映画館ですね。今はポレポレ東中野って名前に変えていますけれども。そのお二人を招いて、試写室でみんなで見たんですね。僕らの中にはまだ、「こんな旅だったね」というような実感しかなくて、松林は「こんなのクソですよ」ってすごく怒りに燃えて、森達也がキレて争いになる、みたいな。そしたら藤岡さんと山崎が「これ、映画になってるよ」って言うんですよね。「嘘だ、映画になってるわけないだろう。でもまぁ、そう言うんだったら考えようかなぁ。どうしようかなぁ」なんてね。このへん、まさに作家不在ですよ。作家がそこに存在すれば、こういう風に見せていきたい、こう伝えていきたいというビジョンがあるはずですよね。そういうのを持たないで周りが言ってくる。藤岡さんが「釜山映画祭でドキュメンタリーをサポートしてくれるファンドがあるから、そこに申し込みなさい」と言われてね。そうすると採算を取るとか取らないとか考えてないわけではないんですけど、そういうことは現実的じゃないなとか思いながら、取材経費があがなえるならと釜山に応募してみたら通っちゃって。藤岡さんが山形国際ドキュメンタリー映画祭のスタッフということもあるんですけれども、山形からも正式招待したいという話になってきた。僕らの中では、4人がたまたま行った記録がこれだよって、そういうつもりで展開してた。ところが僕の知り合いの東風という配給会社の代表の木下君に見てもらったら、「これは劇場でかけるしかないでしょ。僕がユーロスペースでかけます」と、周りがどんどん動き出した。岩波書店の編集者の渡辺勝之さんもその試写に来ていて、「これは本(『311を撮る』2012、岩波書店)にしましょう」って始まったんですね。山形でお客さんのリアクションを見るまでは、映画祭のエキシビションとしてこういう4人がこういう記録を撮ったということでいいけれども、作品として発表するとか一般の映画館で上映するとかといったら、最初は全員ネガティブだったんですね。森もネガティブだった。
 ところが山形でいろいろな意見をもらうわけですよ。松江君からはむちゃくちゃ叱られてね。「何やってんですか、何でこんなもの作ったんですか!?」って言われてね。実は僕は日本映画学校で松江君の担任だったことがあって、「学校で言ってたことと、やってることが全然違うじゃないですか!」とか言われて「あー、ごめんごめん」って。散々学生に「音はちゃんと録れよ。音は大切だぞ」とか「画はフィックスで撮ろうね」とか言っているくせに、何だこの映像は、って話ですよね。他の監督さんたちからも結構いろいろ言われたり、一番辛いのはシカトですね。「うわー、これ、ドキュメンタリー界のいじめか?」と思うくらい。いつもは「よぉ!」と言う場面でスーッと通り過ぎる人とかね。まぁいろいろありました。そういうことは当然起こるだろうなと僕もどこかで予想してたところはあるんですよね。作り手たちや批評家たちもとても厳しい指摘をして、それがネットニュースにあがると即炎上しちゃう。ところが劇場でご覧になった方々の感想とか意見とか聞きたいなと思って、ロビーでお客さんのリアクションを聞いてみると、山形市民の方々がほとんどですけど、「この映画を上映して下さい。とても大切な映画です」って言われて、これが一人だったらそういう人もいるんだって思えるんですけれども、山形にいる間に街角でも声をかけられて。山形の映画祭に行かれた方は分かると思うんですけれど、市内にいくつかの映画館が点在していて、そこで200~300本のドキュメンタリーが上映されるんです。いろんな映画を見るために映画館と映画館の間を移動していると、街角で声をかけられるんですね。「市民ホールで観ました。いつ公開するんですか?」「いや、まだ決めてないんですよ」「ぜひ公開して下さい」というやりとりが、一回や二回じゃないんです。それと地方局の方々とか報道機関のみなさんが、ここで描かれている煩悶と言うんですかね、そういったものに非常に共感されて評価をして下さって、「作ってくれてありがとうございます」と言って頂いたりした。それは僕だけではなくて、森さんも松林も綿井も体験して、「山形でこれは映画として歩き始めちゃったね」って。つまり、観客と出会ってネガティブな批判もいっぱい頂いたし、逆に励ましや上映の勧めも受けた。これはもう僕らの手を離れつつある。一人歩きを始めているんじゃないか。そこで以前やりたいと言って下さった配給会社に任せて劇場公開することになって、特にセールスしたわけじゃないんですがDVDの会社からもリリースされた。そういう経緯の作品なんです。ところが宣伝会社が「共同監督」って書いちゃったんですね。それからずっと「監督」って呼ばれながら、でもそれは4人が4人とも本意ではない。そんな風にご理解頂けたらと思います。ちょっと長い説明になってしまいましたね。そういう僕の『311』の経緯があって、今度は松江さんに『トーキョードリフター』の経緯を——。

『トーキョードリフター』 被災地から離れた東京で

松江 震災の時、僕は韓国の映画祭に行っていて、もともと3月12日とか13日に帰国する予定だったんですけれど、とて もそういう状況じゃないな、と。僕が帰国しなかった大きな理由は、もう結婚したんですけどその時ちょうどドイツ人の彼女と一緒に行っていて、とにかくリアクションが全然違うんですね。彼女のご両親はチェルノブイリを経験しているので、ご両親に「絶対に東京に入れないでくれ」と言われて、僕も韓国で聞く報道とか日本のネットのニュースとか、あの時はツイッターでいろんな意見が飛び交っている状況だったので、帰国するのは延ばすことにしたんですね。結局3月23日に一日だけ彼女が日本に戻って、荷物をまとめてドイツに帰りました。僕が帰国した時はちょうど外国人の人たちが東京から出ていって、羽田空港はすごく閑散としていました。山手線に乗っても人がいない状況で、お昼を食べている時にちょうど東京の水道水の放射線の基準値が高くなったというニュースを見て、薬局に行くとおばさんたちが水を買い溜めしていた。その状況をすごく覚えています。僕が震災で一番印象に残っていたのは、やっぱり東京が暗かったということなんですね。多分東京にずっと住んでいた人は震災の後から徐々に暗くなっていく過程や計画停電を見ていたと思うんですけど、僕はそれを全く見ないで、帰国したらいきなり街が真っ暗で、そんなことは34歳まで生きてきて初めてのことだったので。でも僕はそれがすごくいいなぁと思った。これからこういう風に電気の使い方が変わったり、生き方が変わるきっかけになるのかなって思ったんです。けれど4月11日に高円寺で原発反対のデモがあって、それを見に行ったんですね。僕の友達もデモをやっていて、そのデモを見て家に帰ったら、8時のニュースで東京都知事選で石原慎太郎さんが決まったのを知って、また元に戻るんじゃないかなという気持ちになりましたね。
 もちろん僕は安岡さんが森さんたちと被災地に行ったのも知っていましたし、いろんな人から「そういうところに行かないんですか?」と言われたりしてたんですけど、僕はやっぱり躊躇しました。先ほど安岡さんがおっしゃっていた「みんなとは違う視点のカメラを撮ろう」とはちょっと違って、「これ以上カメラが行っても、撮る映像があるのかな?」と。例えば津波が来ている時に高いところからiPhoneとかのカメラで撮っているのをYouTubeで見たり、テレビでもたくさん映像があって、僕は「行かなくても想像することができる」という風に思って。僕が行っても多分みんなと同じようなところを撮ってしまうだろうし、自分が躁状態になってしまうのが分かっていたんですね。多分テンションが上がって瓦礫の上だろうが登って行って、撮りたい画があったら撮るだろうし、そういう躁状態になってその後に自分が落ち込むということも分かっていたので、それは行きたくないなって風に思いました。だけど4月11日に石原さんが都知事に決まったのと原発反対のデモを見て、一人一人の声と世の中の流れが、僕がこうなって欲しいと思うものと多分全然違うなと思った。でも確実なのは、多分東京は明るくなっちゃうから今のうちに記録しておかないといけないなと思ったんですね。
 僕は2009年の1月1日に『ライブテープ』という映画を撮ったんです。父を亡くしてすごく落ち込んでいる時に、ミュージシャンの前野健太さんとカメラマンの近藤龍斗と録音の山本タカアキとスタッフみんなで映画を作った。ワンシーンワンカットで吉祥寺の街を歩くってだけの映画なんですけど、それを作ったことが自分にとってすごくポジティブな、いいエネルギーになって元気になれたんですね。それでまたその仲間たちと一緒に映画を作りたいなと思って、『トーキョードリフター』を作りました。さっき見て頂いて分かるように、ハンディカムで全てオートフォーカスで、おもちゃみたいな2万円弱のカメラで撮っているんですけど、綺麗に撮ろうとかいい映画を作ろうとか、そういうつもりはなかったですね。高いところから津波を撮ったハンディカムの映像はすごく印象に残ってたし、手元にあるものだけで今のこの東京に向き合う方が自分にはしっくりくる表現というか、そういうのを残しておきたかったというのが強いです。『トーキョードリフター』は2011年の5月に撮影して、その年の東京国際映画祭に出品して2011年の年末にユーロスペースという劇場で公開したんですけど、僕の作った映画の中で一番、賛否の中でほとんどが「否」だったような気がします。キネマ旬報の星取りでもみんな「2」とかそんな感じで。僕の映画の中で一番いいと強烈に褒めて下さる方とか、あの時の気分を撮っておいたということに関してはすごく良かったと言って下さる方もいたんですけど、みんな、ちょっと何か喉に引っかかるような言葉が多かったなというのは覚えています。それまでに作った『童貞。をプロデュース』(2007)とか、その後に撮った『フラッシュバックメモリーズ』(2012)とかはあまり喉につまった感じではなく「圧倒されました」とか「面白かった」とかそういう言葉が多いんですけど、『トーキョードリフター』に関してはちょっと間がある感じというか、そういうリアクションが多いなと思いました。自分ではあんまりよく分からないんですけど、発表した時期がやっぱり早かったなとは思いましたね。でも僕はどうしてもこの作品は2011年中に公開したいと思っていたし、作った時のモチベーションが「いい映画を作ろう」ということではなかった。早くやることが大事なんだと思いますね。来週も名古屋でこの作品を上映してもらうんですけど、時間が経ってから見たりすると、2011年5月の時の気持ちに戻れるということが、すごく僕は良かったなって思います。ドキュメンタリーは現実の時間を撮るものだから、フィクションと明らかに違うのは、その時起きた現実しか撮ることができない。それが僕がドキュメンタリーを好きな理由なので、『トーキョードリフター』は2011年の震災以後の作品、今作っている作品も含めて、すごく大きな自分の軸になっているような気がします。

安岡 ……なんか「松江」って呼び捨てにするの、呼びにくいね。

松江 「松江」でいいですよ。(観客に向かって)安岡さんは僕の恩師なんです。僕は18歳で高校を卒業してすぐ映画学校に入学して、最初に教わった先生が安岡さんで、僕は安岡さんに会ってなかったらドキュメンタリーをやってないので。「松江」でいいです。

安岡 そういう話は置いておいて−−。監督としての作家の視点が明確にあるということが、今のお話でお分かりになったと思います。つまり、極めて作家的な自分の視点でもって現実を捉えて、その現実の中で自分が一体どういう表現を選択するかということを非常に短い時間に、つまり震災が起こって、そのときに海外に居たこと、奥さんの事情とかもありながら、その間に何を為すべきかということを考えたんだと思うんですね。その結果、非常にオリジナルな方法論をとった。僕はこの『トーキョードリフター』という作品は極めて作家性の強い映画だと思っています。どこか観客が取り残されていくような展開がある。でもその展開の中に実は一番作家的な視点が散りばめられている。全編をご覧になった方はお分かりだと思うんですけど、やっぱりフォーカスが合わない街を俯瞰したトップシーンがすごいですよね。しかも今説明があったように、業務用のガッツリしたカメラで撮るのではなく、解像度の低いピントのぼけた街の映像の中に、作品の意図が明瞭に敷かれているんですね。ラストの夜明けの美しさも含めて、その時の東京をどう切り取るか、極めて作家的な−−もちろん監督一人ではなく、カメラマンであったり、前野さんであったり、録音のクルーであったり、それぞれのクリエイティブな意識を凝縮させた作品だと思います。ただ逆に言うと作家性が強い分だけ、例えば『フラッシュバックメモリーズ』のような音楽エンターテインメント的な完成度の高さや3Dというマテリアルを非常に上手く使った作品の在り方とはおそらく違っていて、決して口当たりのいい作品ではないのは間違いない。ただ、そこに僕らが経験した震災という現実、それ抜きには僕は考えられないんじゃないかと思うんですね。

松江 そうですね。でも僕は『トーキョードリフター』を撮った時にチラシのコメントでも使ったんですけど、映画って作った時点で絶対ポジティブなものになってしまうものだと思っているんです。映画って共同作業じゃないですか。いろんなスタッフがいて、やっぱりネガティブなものは表現として成立しないんじゃないか。憎しみであっても形になった時点でそれはポジティブなものだし、ネガティブなものだけだったら形にならないんじゃないかと僕は思っているんですね。ましてや共同作業で人と一緒に作る時は絶対ポジティブなものが優先される。自分一人で抱えているものとか何かを表現しなきゃと思っている時にモヤモヤすることがあっても、一回集団作業で映画を作ったことのある仲間たちだったので、震災の後の東京を撮ったとしても、そこは信じている部分がありましたね。安岡さんの話を聞いていても、『311』の4人はそれぞれ仕事や思惑があって「形になるのかな?」という風な決してポジティブなものではないけど、上映から発生するものや「動かそう」「見たい」というエネルギーは、映画という表現の一つの希望、魅力だと思いますね。

安岡 すごく面白いことでもあるし、恐ろしいことでもあるなって僕は実感したし、帰りの車の中でみんなからデータをもらった時に、僕の中に「どうにかこれを繋がなきゃ駄目だぞ。全部見て、4人が見たものは一体何だったのかってことを凝縮させて形にしないと、もう俺はこの先、前に行けないんじゃないか」という切羽詰まったものがあったんです。だから「内的必然性」という言葉がその後キーワードとして出てきた。内的必然性という言葉は、実は学生諸君がドキュメンタリーを作る時に、「何故お前はそれを作るのか?」ということと関わって必ず僕が教室で言っていた言葉だったんですね。ところが気が付いたらその言葉がそのまま自分に返ってきた。返ってきてみると自分でもそれが何だかよく分からない。とにかく全部見なきゃ駄目だ、繋がなきゃ駄目だって、そういったことだけがものすごく大きくあったんです。それがやっぱり現実ですよ。あの震災を経験したことによって僕に課せられた何かだったという気がする。

松江 内的必然性って、学校を卒業してから15年経つんですけど、映画学校以外では言われなかったですね。プロの現場というか、もの作りで。

安岡 すいませんね。

松江 だけど、例えばテレビとかでは「売りは何ですか? テーマは?」という言葉には変わるんですけど、内的必然性を映画学校で叩き込まれたので、今回の3.11の話でいうと、やっぱり自分の中から出てくることでしかできないんだなと僕は思ったんですね。震災に関する映画とかドキュメンタリーってたくさん作られましたけど、僕は正直に言うと、それが映画である以上、テレビだったら番組である以上、「映画としてどういう風に撮っているんだろう?」とか「技術としてどうなんだろう?」とか、やっぱりそれってすごく大事だと思うんですよね。ただ今回の内的必然性については、必然性がないのに撮りに行ってしまったというものと、内的必然性を震災という現実から突き付けられたというもの、それは大きな違いだなと思いましたね。

安岡 そうだね。ベクトル逆だもんね。

松江 そうなんですよね。でも、なかなか「これを作らなきゃ」って突きつけられることはないと思うんですよ。人から「何故ドキュメンタリーを作っているのに被災地に行かないんですか?」と言われたときにすごく嫌だったのは、内的必然性を人から言われているような感じというか、いずれにせよ、強制されて何かをやるのがすごく僕は嫌なんですよね。でも、暗い東京が明るくなっていくというときに、初めて自分の中で内的必然性が見つかった。

安岡 極めてポジティブな内的必然性のアクションだと僕は思うよね。ここは美術の学校だから、おそらく芸術家のみなさんも同じように、自分の中にある衝動が作品に向かっていくんじゃないかと思ったりするんですね。これはすごく見当外れかもしれないですけど、いきなりすごい値段で売れる絵が描ける人っていないわけで、それまでどうやって描くか、作家としての思いとか方法論とか、そういったいろんなものがその人を駆り立てていって、僕らが編集室に籠って寝食を忘れて編集するのと同じように、絵を描く方々も彫刻をやる方々もデザインをやる方々もおそらく一心不乱にやってらっしゃると思うんですよね。それを支えているのは、その先に自分の何かがある、自分はそれを追求せざるを得ない、そういうエモーションをきっと持っていらっしゃるからだと思うんですよね。

松江 今年の2月に座・高円寺という場所でドキュメンタリーフェスティバルをやっていて、そこで震災に関する映画や番組が何本作られてきたのかデータ化されて数字が出たんですけど、ものすごく膨大な数なんですよね。テレビとかを入れると多分1,000近くの作品があったんですけど、それを一人が全部見ることは不可能だし、それを全部検証するのも全く無理なことです。でもやっぱり残っていくものというのは、震災に必然性を突きつけられて、それに対して必然性が見つかっている作品だと思います。そういう作品もあれば、そうでない作品もある。ちょっと変な言い方になるんですけど、そういう風に突きつけられる時は、正直言うと僕は不快でしたね。ものすごく、それは嫌な感じでした。

安岡 逆にへそを曲げてそっちの方には絶対行くか、ってね。そんな感じだよね。

松江 そうですね。『トーキョードリフター』は自分の中で折り合いというか、それができるギリギリだったんですよね。編集している時に「東京のこの風景だったら自分は見ていたい」というのがあったので。 園子温さんからは「お前、ただ逃げているだけだよ」っていう風に言われたりしました。園さんは『希望の国』(2012)というフィクションの形で作ったじゃないですか。僕はその映画に圧倒されたし、『ヒミズ』(2011)もものすごく感動したので、園さんの突きつけに対してはどっちが正しいとかではなくて、それぞれがそれぞれのことをして後はできたものだけなんだっていうのが、表現の一つの残酷なところだなとも思うし、僕はそれはすごく健全なことだなと思いますね。

安岡 園子温という映画監督は震災の直後、製作中だった『ヒミズ』という劇映画のロケ地を急遽被災地に変えて、その後『希望の国』という福島の酪農家の一家を主人公にした劇映画を撮っています。やっぱり彼の中にはそれを作らざるを得ないというものすごく強いエモーションがあるのと、要するに「何でみんなすぐにやらないんだ」という苛立ちがあったんですね。ご覧になった方はお分かりだと思うんですけど、彼の映画ってかなり突拍子のない映画ですね。突拍子もない映画を面白がる人にとっては非常に面白いんですが、そういう映画が苦手な人には「何だ、これ?」っていうふうな映画が多い。実は僕は1990年代前半に彼の初期の作品をプロデュースしていまして、その時、それまでの映画としての表現のかたちに常に異議申し立てをしていく、つまり「違う方法を探していくぞ」という意識を持った監督だと感じました。ちょうど先月久しぶりに彼と会っていろいろ話をして、「破壊衝動だろ」って言っちゃったんですね。つまり「既成の映画とか、こういう映画はこうなるんだというルーティーンを、とにかく破壊したいと思って映画を作ってるんじゃないの?」って言ったら、すごく嬉しそうな顔をして「でもなかなか破壊できないんですよね」って言ってました。やっぱり監督として「今までのものは破壊するぞ」って言いながらも、どこか自分の作品として着地してしまう。今すごく本数を撮っている監督の一人なんですけれども、そういう煩悶がある。それは彼がずっと持っていたものでもあるんだけど、やはり3.11を経験したことによって彼の中にもたらされたエネルギーってのは、おそらくものすごく大きかったのではないかな。僕が会ったのは先々週ですけど、もう映画は撮らない、タレントをやって絵を描くんだって言ってました。彼のアトリエに行ったんですけど、絵を描いてるんですよ。行ったことある?

松江 いや、僕は行ったことないです。

安岡 もうなんか絵の具まみれになっていてね。「あぁそうか、この人、それでも作らざるを得ないんだ。作ることをやめられないんだなぁ」と思いました。在るものを一回壊した後に、新たにものを作っていく、そういう意識が彼を動かしてるし、そのことはもちろん彼の本質でもあるんだけれども、震災という巨大な破壊の現実からドラマはどう生まれるのか、もう一回そこを彼は再構築しているんじゃないかな。そんな気がしますね。

質疑応答

質問者1 松江さんに質問なんですけれども、3月11日にソウルではなく東京にいたとすれば、どんな動きをしていたと思いますか? 奥さんの問題は別として。

松江 初めて聞かれたなぁ。……3月11日に僕が東京にいたら、どうしていたんだろう? 森さんみたいにテレビを見ているかもしれないですね。……いや、でもこれは分からないな……。あの時は古い映画を見たいと思っていました。帰国したら『愛のコリーダ』とか 大島渚監督の映画を見たいって思っていたんですよ。みんなが「絆」とか「未来」という言葉を使っていたけれど、僕はこれから先のことを考えたりするのは難しいと思っていたんですよね。僕が映画の好きなところ、映像のすごいところは、過去の先人たち先輩方が作られてきたものって、「人間の歴史ってそんなに変わらないよ」ということを描いているところだと思っているんです。僕は大島渚監督が大好きなんですけど、彼の作品は社会がすごくうねっている時に人はどういうふうに生きるのかということを描いている。『愛のコリーダ』は二・二六事件で社会がきな臭い時に、安部定さんと藤竜也さん(安部定の愛人役)が密室の中で二人の世界に籠っていたという作品で、あの映画をソウルにいた時に見たいなと思っていた。あの頃、古い映画ばかり見ていましたね。もしかしたら3月11日にはそういうのばかり見てたかもしれないと思います。あんまり答えになってないな。でも僕は自転車に乗っているので、自転車は便利だなって思っていると思いますね。通勤で帰れない人や、車やタクシーの行列を見た時、僕だったら自転車に乗るのにって、まず思いましたね。

安岡 被災地に行こうとは思わなかったのだろうか、やっぱり?

松江 思わないです。それはないと思います。

質問者1 全くないですか?

松江 全くないと思います。あ、そうだ、僕は韓国にいた時、前野さんとスカイプでよく連絡をとっていたんですよ。前野さんは「東京を離れようと思う」みたいなことを言っていたので、僕もあの時東京を離れていたかもしれないですね。ちょっと西の方に避難するとか。もし東京にいたらその可能性はあったかもしれないですね。被災地に行くというのはないと思います。多分、安岡さんと森さんから電話が来ても断っていたと思いますね(笑)。

質問者1 ドキュメンタリーを作る上でのスタンスがそもそも違うというか、そういう感じがしますね。

松江 そうですね。「ドキュメンタリー=報道」ではないので。前野さんと話していて僕が「合うな」って思ったのが、震災の後で歌を変えたり、当時の状況を歌うミュージシャンの方がいっぱいいらっしゃったじゃないですか。でも前野さんは「昔から俺はそういうのを歌ってきた」って。「歌い方は変わるけれども、歌詞を変えたりそういうことはしなくても、日常の感じていることを歌ってきたから変えない」って言ってましたね。僕もそれはすごく共感しますね。

質問者1 ドキュメンタリーの世界はとてもジャーナリスティックな視線と重なっている部分がありますけども、そういうのは少ないのでしょうか?

松江 そうですね。ただ影響は受けますね。『トーキョードリフター』がこういう作品になったのもそうですし、『フラッシュバックメモリーズ』は3Dで撮ったんですけど、実はこの映画は『トーキョードリフター』より前に企画が決まっていたんですよ。2011年3月28日にGOMAさんというディジュリドゥを演奏する方の復帰ライブを見て、僕はすぐ3Dで撮りたいって2011年の4月の段階で企画を進めていたので。だから震災の後で決めたのは『フラッシュバックメモリーズ』の方が先だったので、あの映画は震災の後の自分の気持ちというか、GOMAさんを通して3.11というか2011年の状況はすごく入っていますね。正直に言うと、その作品は絶対ポジティブになるなって分かっていたんですよ。GOMAさんの演奏がすごくいいエネルギーを出しているし、GOMAさん自体がポジティブな方だから。震災の後の作品としたら多分『フラッシュバックメモリーズ』はすごく明確な、面白い、気持ちいい作品になるから、そうじゃない作品もやっぱり出したいなというのがあったんですよ。だから『トーキョードリフター』は『フラッシュバックメモリーズ』と対になっている。それがあるから『トーキョードリフター』を先に公開したかったし、作っておきたいというのはありましたね。だから直接的に、というのは元からないですね、僕は。

質問者1 『311』を撮った松林要樹監督は『相馬看花』(2011)を撮りますよね。その冒頭、彼の3畳間のアパートのシーン——要するに彼はたまたま自分の部屋にいて、揺れ出したところをとりあえず傍にあったカメラで撮るというところから始めていますよね。そういう発想はないですか?

松江 僕、ああいうことができないんですよ。まずバッテリーが充電されているカメラが僕の手元にないです。僕は映画を作る時は必ず「これを撮るぞ」って決めてからカメラを回すので。日常的にカメラは使わないんですね。iPhoneになってからです、写真をいっぱい撮るようになったのは。でも動画を撮ったことはない。映像は撮るって決めないとできないし、森さんがよく言うんですけど、やっぱりカメラって怖い。記録に残っちゃうものってすごく怖いと思うので。だから松林君がすぐカメラを回して、「あっ、充電してるんだ! テープも入ってるんだ!」って思って、あれがすごいなって思いました。

安岡 あの人はね、機材の入ったリュックを自分から2メートル離すことはないね。トークとかで舞台に上がる時も、大きなバックパックを持って必ず脇に置いてから話す。シャッターチャンスを逃さないぞっていう意識がすごくあるんですよ。実は彼も僕のゼミの学生なんですが、最初の出会いはゼミが始まる前の春休みに、いきなり僕のところに訪ねてきて、「これからパレスチナに行くので、カメラは何がいいですか?」「まだカメラの扱い方は教えてないでしょ?」「今、インティファーダなんです!」「じゃあ、とりあえず命が大切だから、ヨドバシカメラで一番安い、壊しても捨ててもいいようなの、何でもいいから買って行きな」と言ったら、結局新学期が始まっても出てこない。どういう青年だろうなと思っていたら、パレスチナの歴史の中で非常に大きな節目になった第二次インティファーダに本当に行っていたんですね。ただ映像がひどくて見られたものじゃない。ほとんど写ってないに等しいんですね。そのあたりから彼はちゃんと社会情勢のことも歴史のことも学びつつ、何をどう伝えるかということを考えるようになった。どちらかと言うとジャーナリストの資質を非常に濃厚に持っている、そういう作り手ですね。だから彼が扱ってきた題材は作品歴を見れば分かるように、いきなり日本軍の戦争(『花と兵隊』2009)から始まって、福島(『相馬看花』、『祭の馬』2013)、そして今はブラジル。これらにはある種の繋がりがあって、全部符合しているのがブラジルだったんですね。彼が劇場デビューしたのが『花と兵隊』という映画です。これはミャンマー国境にあるタイの少数民族の集落で暮らす元日本兵、日本に帰らなかった80歳代後半とか90歳代のみなさんのお話で、彼らの生活も丁寧に撮っています。彼には「戦争とは何か」という深い興味がある。あれだけ戦争の歴史を具体的なディテールまで調べて作品を作る人は、僕らの世代も含めてちょっとお目にかかってないぐらい、きっちり裏付けをとって作っていく。映画という軸足はもちろんあるんですけれども、彼の問題意識は歴史や現実に起こることなんですね。話がちょっとずれたんですが、『花と兵隊』の主人公である坂井さんは、ブラジルに移民してブラジルから出征した方だったんです。そして『相馬看花』では福島県南相馬を取材したんですけど、そこも実はブラジル移民を数多く送り出していた。それで今年の春からずっとブラジルから帰ってこないですね。そういった問題を発掘しているんだと思います。それぞれのスタンスが違うんですよ。当然『311』の他の3人もスタンスが違うし、今お聞きになってお分かりのように、松江監督はやはり地震の中で作品のイメージをどう引き出していくか、捻り出していくか、そういう在り方だなと思いますね。

松江 映画を作る時、松林君はジャーナリスティックな視線がすごくあると思うんですけど、僕は「映画としてどうなのか?」ということが大きいんですよね。どんな題材を扱っても考え方がちょっとシネフィル的というか、「映画としてどうなんだろう?」ということばかり。例えば「ゴダールだったらどうやるのかな?」とか「ゴダールはこんなことやらないかな?」とか「フリードキンだったらどうかな?」とか。先輩で言うとカンパニー松尾さんという僕が好きな方がいるんだけど、「松尾さんだったらどうするんだろう?」とか。そういう考え方をすると報道的なものや社会問題は二の次ですね。だけど怖いのは、撮っているものは現実なんだということ。フィクションの監督がやってきたことやドキュメンタリーの監督もいろいろ意識はするんですけど、やっぱり今起きている現実を撮るということは、すごく怖いですよね。報道をやっている人や「何よりもこれを伝える」という力が強い人と自分が全くスタンスが違うなと思うのはそういうところですね。でも僕はカメラがみんな同じ方向を向いて一つのものを撮っている状況を見るとちょっと笑ってしまうというか、変だよなって思うところがあって、そういう感覚はあんまり無くしたくないなっていうのはありますね。プロっぽくいたくないというか。

質問者1 ありがとうございます。すごくクリアに見えました。

松江 ありがとうございます。

質問者2 自分の中で難しい質問なので上手く喋れるか分からないのですが、ドキュメンタリーが持っているというか、持ってしまう機能についてお話を伺いたいです。今のお話にも関連するかと思うのですが、先ほど松江さんがドキュメンタリーと報道は違うと言われていましたが、でもドキュメンタリーって事実を撮っているので勝手に機能を纏ってしまうことがあると思うんですね。『311』の映画の中でも、森さんが大川小学校を撮られている時に、亡くなった子供たちのお母さんたちが「重機を呼んで欲しい」と報道の人たちに言うんだけれども、「それはできません」と言われていました。実際にそういうことができる機能を持っていると思うのですが、そういうことはドキュメンタリー作品にとってどういう位置付けになるのでしょうか? 例えば監督の表現したいものからすると邪魔なものというか、本当は排除しないといけないものなのか、その辺をお二人にお伺いしたいです。

松江 その答えに合うか分からないんですけれど、実は僕は「監督」っていう風にクレジットしたのは『ライブテープ』が初めてなんですね。僕はドキュメンタリーを作っていて「監督」というクレジットにすごく違和感があったんですよ。やっぱり自分のイメージや自分の作りたいものを撮っているんじゃないんですよ。ちょっと変な言い方なんですけど、ドキュメンタリーって「撮らされているな」って感じる時があるというか、「こういう状況が撮りたい」という明確な意図ではなくて何となく興味があって、撮影が終わって編集して初めて気付くということがすごくたくさんあるんですよね。僕はそこがすごく面白いし魅力的だなと思うので、ずっとクレジットを「監督」ではなく「演出・構成」っていう風に入れていたんですよ。だけど『ライブテープ』をやった時にスタッフさんが20人ぐらいいて、その時に初めて「用意、スタート」、終わる時に「カット」って言ったんですね。スタッフが劇映画をやっている人たちで、「松江さん、これが監督の仕事なんですよ。劇映画と変わらないんですよ」と言われて、「ああ、『用意、スタート』『カット』と言うのが監督の仕事なんだ」と思って。『トーキョードリフター』も「監督」なんですけど、『ライブテープ』をやってからはほとんどの作品に「監督」って付けていますね。ただ、一人で回したものは「演出・構成」なんですね。「用意、スタート」とか「カット」って言ってないから。だから僕は、ドキュメンタリーは「自分が意図しないもの」というか、「撮らされている」っていう時の方が面白いですね。
 それと一つ、全然答えにならないんですけど、先週初めて石巻に行ったんです。俳優の斎藤工さんが移動映画館をやりたいという企画で、僕の『フラッシュバックメモリーズ』を選んでくれて一緒に行ったんですね。震災の後に作られた公民館のような小さい場所でやったんですけど、さっき話した「自分が意図しないものを撮らされている」、そんな風に作ったものに対して、見て下さった方の感想や感じるものがすごく大きかったんですよ。すごく喜んで下さった。やっぱりそれがあるから上映するんですね。作っている時のエネルギーと、上映してお客さんと向き合う時のエネルギーは全く別のもので、僕が映画学校の卒業制作でデビューしてから15年経つんですけど、それは毎回違いますね。それはすごく面白いですね。撮っている時は怖いけど、上映する時には「この作品は必ず観客に届くはずだ」と回せてしまう。でもたまに「あ、今すごく危ないことをしている」と自覚する時もあります。でも上映の時は「これはいい作品だ」というエネルギーの方が勝っちゃうから、ついつい危ないことをしてしまう。というか逆に「そういうことをしないといけないだろ」と思う時もあったり。でも、それはリンクしないです。だからできると思うんですけど。それはやっぱりドキュメンタリーならではですね。フィクションでは僕はそれは味わえない。ドキュメンタリーは現実を撮っているから、変な話、『トーキョードリフター』も「誰もこの暗い東京を撮ってないから、何十年後かに絶対価値があるはずだ」って信じていましたね。でも、だからといってお客さんに向けて作るということは僕はしたことがないんですよ。自分の作品ってまず出演した人のために作っているんですね。『フラッシュバックメモリーズ』はGOMAさんのためだし、『ライブテープ』もどこかで前野さんのため。被写体が気に入らない作品は作りたくない。昔は「被写体を傷つけてでも作るんだ」という気持ちの時もあったんですけど、やっぱりドキュメンタリーって現実を撮ってしまうし、人の生きている時間を記録してしまうから、それは映画が終わった後も付き合いが続くんですよ。だから僕は最近は第一に被写体が納得しないものは作らないと決めていますね。昔は違いました。正直に言うと『童貞。をプロデュース』とかをやっている時は、「彼らの人生を壊してでもいい」みたいなひどいことを考えていた時もあったし、「映画が面白ければどうなってもいいんだ」みたいな時もありました。今は違いますね。それが現実を撮る怖さかな。だからできるだけ作っている間は傷つけたくない。上映も含めて。

安岡 今の話を聞きながら僕の中で整理ができたんですけれども、要は創作物としての映画、その表現方法の一つであるドキュメンタリーという手法、つまり、あくまでもその作家が自身の個性を作品で発揮していくという一つの在り方と、ドキュメンタリーが歴史的に背負っている社会情報伝達のためのツールとしてのある種の位置付け、それが常にいろいろな作品の中で揺れ動いているんだと思うんですね。単純に事実を取材者の視点でもって的確に伝える、それは情報としては有意義で貴重なものではあるが、果たしてそれは映画としてどれだけの品位を持つのだろうか? 時代的なことを今考えていたんですが、戦後の日本のドキュメンタリーは、まずは日本の戦争をどう総括するかということから始まったと言っても過言ではないですよね。日本の在り方を自己批判しながらどういう未来があるか模索するところから始まって、急速に産業が成長する中、その作り手たちが実は産業映画、PR映画、文化映画と呼ばれる大企業からの制作費支援のもとに極めて潤沢な予算で作る、そういうドキュメンタリーのフィールドに変わり、それが1960年代になってから小川紳介土本典昭に代表されるような社会矛盾をきっちり告発していく問題提起のツールになっていった。その時に世界も同じような状況を共有していて、アメリカではニューズリールが編集を施さないプリントをどんどん各地に送って闘争の現実を伝えていった。そういう時代とも相まって小川紳介さんの三里塚の問題提起は時代の中で大きく状況を左右していくわけですよね。けれどそこで生まれた一つの新しい潮流は——様々な闘争が敗北したと言いきれるかどうかは微妙ですけど——結果的に潮が引くように静まっていった。じゃあ、あの映画たちは一体、何を、どこまで責任を果たせたのだろうか? 
 僕が非常に記憶に残っているのは、水俣をずっと追い続けていた土本典昭さんが1990年代にご自身でビデオでお撮りになった『回想・川本輝夫』(1999)という作品があるんですけれども、その川本輝夫さんはまさに1960年代後半から1970年代の水俣闘争の先頭に立った活動家で、土本さんが作った映画の主人公の中では最も人気の高い人物を演じた人でもあるんですね。ところが結果的にその後川本輝夫さんがどうなっていったか? 結局孤独になり、運動体からも疎外されるという「その後」も、土本さんは撮られているんですね。これを僕は山形で土本さんがいる場で見たんですけど、土本さんに声をかけられなかったですね。彼の代表作だと言われた水俣シリーズが、一体何をどう伝えてきたのか? 非常に素晴らしい作品群ではあるんだけれども、川本輝夫という観客が最も愛し、おそらく土本さんも愛した主人公が、その後非常に不遇な境遇に遭うということを、土本さん自身がものすごく深く胸に刻んでいるんですね。だから上映会場の一番後ろでずっと俯いているんですよ。これは辛い仕事だな、と思いながらね。
 そういう変革の時代、革命の時代を押し上げ支えていたドキュメンタリーが、実は本来のその役割をちゃんと果たしたのかどうか。僕は世代的にはポスト全共闘というか、1970年に高校に入ったのでちょうど目の前で終わっていったんですね。僕がドキュメンタリーを見始めた時に、基地返還闘争をやっている沖縄で自分の彼女のことをずっと撮り続けている人がいた。当時の沖縄は政治的な闘争課題の一つですよ。もちろん闘争のシーンが背景にはあるんだけれども、そこで自分が恋した女性たちを描く。そこにある種の人間の在り方の本質が見えるんですね。その作品に出会った時に、これがこれからのドキュメンタリーのかたちとして最も重要なんじゃないかなという風に僕は思いました。この監督は原一男といいまして、僕が見たその映画というのは、『極私的エロス』(1974)という彼の代表作の一つです。政治の時代の中で人間がそれとどうコミットするか。その状況の中で彼は自分の妻を愛し、元妻に罵倒されながらも何か思いを残し、そして子供たちが生まれてくる。そういう根源の部分をこだわって表現した作品です。僕はその後、彼の作品の助監督をやるようになったんですけれども。そこでもって社会情報を的確に伝えていくというドキュメンタリーの役割と、映画として人間を描く上での一つの方法論としてのドキュメンタリー、これは必ずしも分化しているわけではないですけども、そういうドキュメンタリーの広がりというものがものすごく明確になってきたんじゃないかなと思いますね。
 僕もこの3、4年の間で震災と戦争のドキュメンタリーしか作ってないんですよ。イラク戦争、震災関係、原発を題材にした作品、大槌の防潮堤問題、そういうものしかやってないんですけど、今猛烈に劇映画を作りたいんですね。何故かと言うと、現場に行って実在の人たちと人間関係を作りながらそこで描くというドキュメンタリーの方法だけでは、自分の中にあるものが形にならないんじゃないか? そういう思いがあって、今猛烈に劇映画を作りたいですね。いろいろな状況があるので来年公開ですなんて到底言えないんですが。つまり、みんなそれぞれが描くモチーフを持っていて、それぞれの作り方があり、それぞれの対象との距離といったものもある。歴史的、社会的な現実も決して等距離ではないと思うんですね。逆にそれが僕はすごく面白いと思うんですよ。一つの視点からだけで物事の全てを見るということは絶対に無理なんですね。現実の周りにはいろんな視点、いろんな主体、いろんな個性があって、それをどこかで視覚の中に入れながら、それぞれがそれぞれのものを作っていく。そうすると多分、作品群が豊かになった時にその現実がすごく立体的に見えてくると思うんです。僕が森達也と『A』を撮った時、マスメディアは同じものを同じように撮って同じようなナレーションを付けていましたけど、そういうものではなく、それぞれの視点を持った作り手、撮り手、伝え手が、一つの現象をいろんな角度から見て、いろんな形で発表する。劇場公開という方法だけではないですよね。映像作品って今はいろんな方法ができてきているから。そうしてもっと豊かに展開していった時に、人間をどう見ていくかという一番本質的なことについても当然進化が生まれていくだろうし、この社会をどう見ていくかということについても、おそらく認識が少しずつ進化していくんじゃないかなというふうに僕は楽観的に考えているんですけどね。

質問者2 ありがとうございました。

質問者3 松江さんにお聞きしたいんですが、内的必然性という言葉をさっき聞いたんですが、何かの作品を作ろうという時には意志や自分なりの意図があると思うんですけど、さっきもあったように、周りに流されているのか本当に自分がやりたいことなのか、その判断基準みたいなものはありますか?

松江 内的必然性は映画学校の時に叩き込まれた言葉で、それ以外では全く使われていないので、本当に特別な言葉だと思って下さい。でもその時に叩き込まれたことは、15年ドキュメンタリーを作っているんですけど残っていますね。消えないですね。流されているというか、作品作りって一回スタートするとどんどん雪だるま式に転がっていくので、その雪だるまが大きくなるのか、それとも最初の形をキープしたままにいくのか、必ずしも「自分のやりたいこと=いい」とは限らないし、やっぱりドキュメンタリーは現実を撮るものだから、雪だるまがどんどん大きくなっても僕はいいなって思うんですね。それは編集の時にどれだけ落とすかという作業にもなったりするので。ただ、流されているなと思った時点で、もうやばいですね、ドキュメンタリーは。僕はカメラで人を記録するドキュメンタリーは他害性が強い手法だと思うので、ちょっと危ないなと感じた時は企画を降りてますね。だけど自分から企画を出して自分でお金を出して撮っていくというもので途中でやめたものはほとんどないですね。でもよくあることですよ、進みながら「やばい」っていう風に感じるのは。普通に劇映画を見ていて「何でこんな映画できちゃったんだろう?」っていうのいっぱいあるじゃないですか。それはもう誰が悪いとかじゃなくて、そうなってしまうんですよね。僕も経験していて、「こういう風にしてやばい映画ってできるんだな」って思うことがよくあります。やばいなって思った時は逃げた方がいいなと思いますね。だけど、さっき言ったように映画って作る時はネガティブなものではないから、どんなものでも作ったものは責任をとらなきゃいけないし、全人類が嫌う映画ってやっぱり絶対ないんですよ、これもまた不思議なことで。これはイマイチだなって思っても、お客さんに届くと全然違う発見があったりするから、だから失敗を恐れちゃいけないというか。そういうことですね。

質問者3 ありがとうございます。

質問者4 先ほど松江さんがおっしゃったドキュメンタリーと被写体の問題について安岡さんにお聞きしたいことがあります。先ほど松江さんが「前は被写体を傷つけてでも作品が作りたいと思っていたけれど、最近は被写体を絶対傷つけたくない。被写体を大切にしたいと思っている」とおっしゃっていました。『311』が発表された時にネット上で炎上したのは、終盤でご遺体を写された時のご遺族との話し合いややりとりが映画の中で一番の問題になっているんじゃないかなと思います。ドキュメンタリーにおいて被写体は必ず存在して、今後もその被写体との関係は続いていくという時に、安岡さんが『311』で出会った方々と、その後どういう風な関係があったのかお聞きできたらうれしいです。

安岡 すれ違うようにして取材してしまった方々なので、全ての方との繋がりはないですが、最後に棒を投げられた方とはその後ずっと連絡を取っていました。最近はしばらくお会いしていないですね。あの方は奥さんとお母様を亡くされているんですね。避難所生活が非常に厳しい時期があって、その後再就職先を見つけて寮生活をした後、石巻市の山の手に一軒家を建てられてね。電話では何回も話をしていたのですが、再会できたのはその新築の家で、そこでいろいろお話することができました。彼にはこの作品を見てもらいまして、やっぱり見ると辛いって言われるんですね。何が辛いかと言うと、映画が辛いというより奥さんとお母様を思い出して辛い、というお話をされていました。ご自身が写された場面については、「自分もあの時は本当に何をしたらいいか分からなかったし、ただものすごく腹立たしかった。でも今考えると何であんなだったかなぁ」という風におっしゃっていました。いろいろお話をして、仙台に行かれている息子さんが来て飲食店をやるというお話をされたので、「それじゃあ、できたらお知らせ下さい」と言ってから、しばらくお会いしてないですけどね。僕らがしたことによって彼にもいろんな変化があったし、時間が経った時にそのことを現実として受け止めて、あの映画については「頑張って下さい」と言われてちょっと泣いちゃいましたけどね。そういう付き合い方ができました。ドキュメンタリーでは取材者と被取材者の関係はものすごく大きい。多分一生、何らかの形で背負っていくものだと僕は思いますし、今まで作品でご一緒したみなさんは、頻繁に会って話をする友人関係とは違うんですけど、やはり彼らの存在を僕らはいつもどこかで背負っていることは間違いないですね。それは『A』『A2』『311』のみなさんもそうですし、ほかの作品でもそうです。綿井健陽の『イラク チグリスに浮かぶ平和』という作品をご覧になればよくお分かりになると思うのですが、彼はイラク戦争を開戦から10年、間に少しブランクはあるんですけれども、ずっと捉え続けているんですね。主人公は2003年に最初に現地で出会った、子供さんを亡くされたお父さんなんです。そういった取材で出会った人たちを、綿井はずっと背負ってきた。綿井はスマホの待ち受けに彼の写真を入れているんですよね。「ああ、この人、一生背負うんだろうな」と思いました。そういう側面がドキュメンタリーには必ずついてまわりますね。

質問者4 ありがとうございます。

質問者5 ちょっと話がそれるかもしれないのですが、去年ポレポレ東中野で『ゆきゆきて、神軍』の原一男さんと編集者の方のトークショーがあって見に行ったんですけど——

安岡 鍋島惇さんですね。

質問者5 そうです。フィルムを回したのは原監督ですけれども、編集したのは全く別の方で、お二人のトークを聞いていたところ、原監督は奥崎さんという強烈な方を撮りながら嫌いになっていったんじゃないかと、私にはそういう風に思えました。編集した鍋島さんは撮られたものしか見ていないので、どちらかと言うと好きだった。そしてでき上がった作品は、見る者にとってはどちらかと言うと奥崎さんのことを好きになれるようなものになっていたんじゃないかと思うんですね。ただ、原監督が自分で編集されていたら全く違うものになったのかなと私は思ったんです。今回の『311』も一週間、4人の監督が撮られていて、ものすごく膨大な量の映像があって、それを編集されたのはお一人なわけで、その時にどういう意図でどういう風に選んでいったのかというのをお伺いしたいです。

安岡 意図というのは、言うならば監督や編集者としてのエゴや美意識とかいろいろあると思うんですけども、『311』に関しては映像をどういう風に繋げればそのシーンが読めるか、伝わるかという意識でしか繋いでないです。逆転しているところはあるんですけれど、時系列的なものはほぼ順繋ぎと言ってもいいような形です。僕は依頼されて編集の仕事をする時があるんですけれども、その時のスタンスとは全く違いますね。例えば綿井の作品を編集する時には、最初は同じようなことをやります。ある時ある場所で起こったことを順番にコンパクトにして、どこが見せ場かを決めて、例えば1時間だった映像素材を5分ぐらいにするという作業を繰り返しやる。その上で、綿井がどういう映画にしていきたいかというビジョンを聞いて、そのビジョンを実現するためにはそのシーンがどういう流れであればいいかということを協議して、その方向性が見えたらその通りに繋いでいく。監督はその折々の作業に立ち会って、「ここは短くするよ」というようなことをセッションしながらやっていきます。『311』の時はそういうセッションがないし、よく「監督は安岡だろ」と言う人がいるんですけど、明確にこれを見せるぞという意識でもない。ただ、ラストはこうするということだけ自分で決めていた。それだけでも監督と言えるかもしれないけど、僕はそういうつもりはないですね。だからそういう編集のスタンスが他の作品とは全然違いますね。
 鍋島さんと原さんの間では凄まじいバトルがありました。僕は助監督なのである程度は分かっているつもりです。「これを切れ」って原さんが言っても鍋島さんは切らないし、とにかく言うことを聞かない。おっかないですよね。鍋島さんは日活という撮影所時代からの編集者なので、納得しなきゃ絶対作業しないんです。監督が怒ろうが大暴れしようが泣こうが編集者としての主張はまげないプロの映画人です。だからそういう見解が出てきて当然だと思いますね。僕はすごく良かったと思いますね。僕も全てじゃないですけど現場にいまして、僕は奥崎謙三は大っ嫌いでしたからね。もう一人の助監督と二人で、「あのじじい、いつボコボコにしようか」と話しながらお酒飲むのが唯一のストレス解消でした。原さんはもっと大変でしたから、現場の人間だけではああいう形には繋げなかったと思いますね。

質問者5 結果的に撮っている方の意図とは違うものができたかもしれないけれど、名作と呼ばれていますよね。

安岡 そう思います。僕も編集者として作品に関わる時は、監督が「こういう方針で」と言った時に、その方針が自分の中で上手く呑み込めない時は必ず全部聞き返します。「どうしたいの?」って、かなり突っ込んで話をします。森達也と最初にやった編集の前半の時は、ほとんど喧嘩でしたね。まぁ結果的に一緒に『311』をやっちゃうんだから、しょうがないなって思うけど(苦笑)。森さんのカメラってすごくブレるんですよ。僕は最初それを全部外したの。辛うじてフィックスがあったら、次のフィックスが出てくるところまで切る、そういう切り方をしていたんです。でも交代交代で編集してたら、森さんがまた全部付けてくるんです。そうするとビューン、パッみたいな画になるんです。それで大喧嘩でしたね。「森さんのカメラはうちの学生のよりひどい」って言ったら、森さんが激怒して2週間ぐらい編集が止まりましたね。結果的に彼は「自分の主観だ」と言ったんです。「これは俺が見たんだ。俺があっちを見て、こっちを見て、こう見ているんだ。そういう意図なんだ」って。「あ、そうか」って、何となく合点がいって、逆にブレてる画とブレてる画を繋ぐとか、僕自身が方針を変えて繋いだんですね。やっぱりコミュニケーションからそういったものが見えてくるんですね。だからそれまでやらなかったような編集の仕方をしました。これは森さんの意図なんだ、と。……森さんのカメラ、手がくたびれてくると画面がだんだん傾いてくるんですよ。カメラって重いから、手首をちゃんと鍛えておかなきゃいけないんだけど、あの人は集中力がないからだんだんカメラが傾いてくるんです。でも「これが狙いだ」って言われれば、どうモノにしようかと。モノにできない時もありますけどね。
 そういうセッションの中から作品の固有性、オリジナリティが出てくる。編集者だけでそれができるかと言ったらそうじゃないんですよね。監督ももちろんそうです。そういうセッションの面白さはドキュメンタリーならではですね。劇映画の場合は脚本があって、それを監督が撮って、それを編集者に渡す。それは一つのセッションとしての役割をしているんだけれども、やっぱり設計図がある分だけ根本的にそんなに大きなバトルが起こる可能性はないじゃないですか。だけどドキュメンタリーの場合は設計図つまり台本が存在しないだけに、順列・組合せが無限大になるわけですよ。しかもビデオになってからは当たり前のように100時間、200時間と回るようになった。そうすると作品をどう方向付けるのか、どう案内するか、そこがものすごく難しくなってきたというのは事実ですね。今、編集・構成・監督の負担がすごく大きいことは間違いないですね。だから監督が最初に明確なシーンをバーンと出してくれれば多分それで一つの方向が決まるんだろうけれども、例えばそこでなかなか結論が出せない、あれも撮ろうこれも撮ろうと迷っちゃうと、仕上げは本当に地獄ですね。

質問者5 ありがとうございました。

スタッフ 私からも伺いたいのですが、今『311』のラストシーンについてお話があがりましたが、とても演出意図を感じるラストシーンだったと思うんですけれど、どの時点であそこをラストにしようと思ったのでしょうか? 撮影の時点で考えていらっしゃったのですか?

安岡 撮影時点って、あれは松林が撮ったので、編集室に入るまであの画は見ていません。時間系列を考えた時に、「結局、僕らは帰っちゃう連中じゃん」って。つまり、そこに生き続けなきゃいけない、そこで暮らしを続けなきゃいけない、そういう立場じゃないんだよなって。そういうことを考えた時に、松林がやたらキメて綺麗に撮って、嘘くさいじゃないですか、あれ。その嘘くささみたいなものが僕らそのものでもあるな。カラスも鳴いていて、これだよねって。あのラストに関しては他の面々からも異議はなかったですね。

スタッフ 本当に綺麗なラストだったので、撮影している時点で「これを撮るか」という打ち合わせがあったのかなと考えてしまいました。

安岡 いや、そんなことないです。松林はあの時はほぼ全部フィックスでしたね。手持ちで撮った映像もありましたけど、それは使い物にならなくて、その代わり要所要所で三脚を立ててフィックスで、という撮り方を彼はやっています。

質問者6 安岡さんに質問なんですけども、一番最近だといつごろ被災地へ行かれましたか?

安岡 僕は一年半ぐらい行ってないですね。ずっと編集の仕事が重なっていまして、特に今年の3月に公開した『遺言 原発さえなければ』(2014、監督/豊田直巳、野田雅也)という映画の仕上がりが3時間45分なんですね。これがきつかったですね。一昨年から始めているんですけど、とにかく時間があれば編集室にいました。それまでは行けてたんですよ。この資料(イメージライブラリー・ニュース第31号)に原稿を書きましたけれども、南三陸の波伝谷という集落でずっと撮り続けている我妻和樹君のプロデュースをするつもりでいたんですけど、彼が自分一人でやりますと言うので僕は単なる応援に終わったんです。でも彼の編集の様子を見に行くために南三陸に結構行っていたんですね。そういう時期があったんですけど、『遺言』の作業を始めてからは本当に身動きがとれなかったですね。そんな状況なのでしばらく行けてないで

質問者6 一年半前に最後に行かれた時と3.11の直後に行かれた時と比べて、町や人々の印象はどのように変わりましたか?

安岡 町の印象というか、何もなくなった風景の、何とも言えない恐さですよね。瓦礫がある時は瓦礫の恐さがあるんだけど、それが全部撤去された時に結局何も残らないんですよね。我妻君の『波伝谷に生きる人びと』(2014)は、実は震災後の映像はほとんどないんですよ。2分ぐらいしかない。あとは何を描いているかと言うと、震災が起こる前に一体そこにどんな暮らしがあったかということをものすごく丁寧に撮っているんです。僕がこの作品を支持したのは、それまで連綿として生きてきた人間の痕跡というものがまるごと全部拭い去られた。無というか、荒野というか。やはりそのことの意味は、単に震災がどうこうということだけじゃなくて、人間という存在は一体何だろうかという大きな命題に繋がるという気がしているからです。
 それともう一つ、まだ公開が決まっていないんですけども、岩手県の大槌町の赤浜という地域を舞台にしたドキュメンタリー作品(『赤浜ロックンロール』2015、監督/小西晴子)もずっと繋いで(編集して)いましてね。これは何もなくなったところに高さ14.5メートルという巨大な建造物、つまり防潮堤を作ろうとする行政と、絶対そんなものは要らないと言っている漁師たちの話です。これを見ると日本がどんな国なのかがすごくよく分かる。今もまだ仮設住宅で暮らしていらっしゃるみなさんは大変だと思うんですよ。仮設って、しっかりしたところもあるにはありますけど、あれから3年、相当傷んでますよ。元々急作りで粗末な建材で作っているわけで、それを3年余りほったらかし。それだけじゃなくて、新しく宅地造成するからそれを買えと言っているんですよね。意味分かりますか? 津波の来ない山の中腹に新しく宅地を作るというのでみんな良かったと思っていたら、一区画が何千万という話なんです。分かりやすいなー、この国は、と思いました。つまり、荒野が広がっていく。どんどん広がっていく。そして意味のない巨大建造物だけがどんどん作られていく。あの恵み豊かな三陸——昆布が美味いですよ。わかめも美味い。わかめがなくなると僕は赤浜から送ってもらうんですよ。だけど巨大建造物ができると水系が変わるんですね。そうすると今までの豊かな三陸の幸が継続できるか分からない。「建てるぞ」「要らない」「建てるぞ」「要らない」みたいな戦いが各地で進んでいます。もう笑っちゃいますよ。だって「防潮堤はやめました」って言うんですよ。どうするのかなと思ったら、「道路を作ります。道路の高さは11メートルです」って。11メートルって何階建てだと思います? そんな高いところにある道路ってあるのかな? 首都高なら分かるけどね。そんなことがずっと繰り広げられている。荒野は荒野のままで、仮設は仮設のままで。みなさん気持ちがだんだん荒んでいくんですよね。我妻君も言っていましたよ。彼は震災の前から6年間ずっと通っているんですけど、最近は行き辛くなったって。やっぱりどうしても仮暮らしが続けば非常にストレスが溜まる。だから風景の荒廃とそこに暮らしている人たちの心の荒廃みたいなものは本当に深刻だと思いますね。

質問者6 ありがとうございました。



(2014年12月6日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)