武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

第43回イメージライブラリー映像講座
映画⇆世界のサーキュレーション

この講座について

いたるところにカメラと映像が氾濫し、渡邉大輔氏曰く「世界そのものが映画になりうる」かのような世界。ビッグバジェットの大作映画が話題を集める一方、小規模な自主映画や動画が乱立する二極化状況の中で、両者を貫く重要な概念として「ドキュメンタリー」を挙げることができるでしょう。歴史的な事件・事故の現場やかけがえのない個の生に立ち会わんとするドキュメンタリストの活躍はもちろんのこと、劇映画の現場でも、ドキュメンタリー・タッチやフェイクドキュメンタリーと呼ばれる手法が多用されるようになりました。また一方で、酒井耕・濱口竜介監督の『なみのおと』やジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』など、劇映画の方法論をドキュメンタリーに持ち込む試みが注目を浴びたのも記憶に新しいところです。ではこのように、映画⇆世界、劇映画⇆ドキュメンタリー、フィクション⇆ノンフィクションといった循環(サーキュレーション)を通じて生まれる芸術表現にはいかなる可能性があるのか。その第一人者である濱口氏と渡邉氏に、実作と理論の両面から語っていただきました。

『不気味なものの肌に触れる』について

司会 それではこれより第43回イメージライブラリー映像講座「映画⇆世界のサーキュレーション」を開催します。まずは渡邉大輔さんに、先ほど上映した映画『不気味なものの肌に触れる』のご感想から伺いたいと思います。それではよろしくお願いいたします。

渡邉 渡邉大輔です。今日はお越しいただきありがとうございます。僕は『不気味なものの肌に触れる』をスクリーンで見るのはこれが二回目でしたが、濱口監督の映画の中でも好きな作品です。というのも、濱口監督のフィルモグラフィーには独特のモチーフがたくさん出てきますが、それをぎゅっと集約させたような作品という印象を持っています。濱口監督の映画には各作品に共通する演出やモチーフがいくつか認められますが、例えば会話劇というポイントがあります。脚本があるとすれば役者さんは大変だろうなと思うような台詞がたくさん出てくる。人物がテーブルを挟んで向かい合っている構図もたくさん出てきますね。あとは、この映画のまさに中心的なモチーフであり、来月公開される新作『ハッピーアワー』にも出てくる身体的なパフォーマンス。話も本当に素晴らしいのですが、そのエクササイズを通じて今まさに立ち現れてくる現実。俳優たちの身体が、生き生きと、ゆるやかに立ち上がっていくシークエンスがありますね。このように、その他の濱口作品を見ている時にもいろんなところに出てくるモチーフがぎゅっと詰まっている。その意味で個人的には濱口作品のイントロダクションというか入門書的な作品だなと思いながら今日は拝見しました。
  ここで早速質問をしたいのですが、『不気味なものの肌に触れる』の概要文には、本作は今後制作が予定されている長編の予告編だと書かれていて、濱口さんのキャリアの中でも独特な位置にある作品だと思うのですが、ご自身ではこの作品はどういう位置づけなのでしょうか。

濱口 監督の濱口と申します。『不気味なものの肌に触れる』がなぜつくられたかと言いますと、僕は今神戸に住んでいるのですが、2年くらい前からずっと神戸で制作をしております。演技経験のない人たちや市民の人たちを対象とした演技のワークショップを開いて、そこから映画をつくるということだったんですけど、その参加者を集めるためのある種の宣伝として、関西で自作の特集上映をやったんですね。ただその前年に東京でも特集上映をやっていて、関西で東京の縮小再生産的な特集上映をするのはあまり好ましくないと思ったので、何か目玉が欲しいとプロデューサーの岡本英之さんと話していたんです。それで、もともと『FLOODS』という長編企画があったんですよ。洪水が起こるとか、激怒するとか、そういう意味合いがあるタイトルなんですけど、制作にはお金がかかるだろうねと漠然と話していた企画だったんですが、ここでパイロット版みたいなものをつくってみたらどうだろうという提案があって、それは良いんじゃないかと思いました。もともと3人の男性が中心人物になることや、それぞれ染谷将太さん、渋川清彦さん、石田法嗣さんが演じることを自分の頭の中で決めていたので、その3人にお願いしてつくり始めました。最初は15分くらいになる予定だったんですけど、54分になっちゃいました。そういう経過です。

渡邉 なるほど。そうするとまだプロジェクトは続いているわけですね。

濱口 そうですね。脚本を早く書かなきゃと思いながら、もう2年くらい経ったという感じなんです。

渡邉 この54分を完成版のどの位置に入れるかはすでに決まっているのでしょうか。

濱口 映画の最後に直也役の石田法嗣君が「僕が殺しました」と言いますけれど、完成版として想像している長編は、彼が何年か後に出所してくるところから始まるんです。

渡邉 それは見たいですね。

濱口 なので、そもそも何年か先に撮りたいなという気持ちはあったんですね。何年か時間が経って、石田君の顔もある程度変わった時に撮ることが出来たら贅沢だなと思っていました。

渡邉 なるほど。もしかしたら今日のテーマにもつながるかもしれないですけれど、石田さんの成熟と共にと言いますか、リチャード・リンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』のように10数年後に完成されるような作品なのかもしれないですね。

蝶番の外れた時間

渡邉 濱口さんに限らず、最近の映画、とりわけ若い世代の映画作家がインディペンデントでつくる作品に共通する問題として、先ほどのお話にもあった経済的な事情や、物理的事実の問題がありますね。僕が最近思っているのは、かつてのアナログ時代の映画作品や小説は「作品がつくられました」と完全にパッケージングされた上で上映されたり刊行されたりするのが普通だったと思うんですけど、最近の作品は潜在的に終わりがない。それは今日の『不気味なものの肌に触れる』を見ていてもすごく感じることで、一応完結しないといけないので、ある程度のパッケージングで上映されたり公開されたりはあるかもしれないですけど、作品のモチーフ的にも物語的にも、あるいは形式的にも、続けようと思えばいくらでもつくり続けられるというような傾向があるように思うんですね。このことは、現在の映像は媒体自体が物ではなくデジタルになっているとか、情報環境の中に溶かし込まれているといったこととリンクしていると思っています。『不気味なものの肌に触れる』もそうですし、あるいは『親密さ』や『ハッピーアワー』もそうだと思うのですけれど、何か潜在的なノンリニア性というか、とりあえずのパッケージングという感覚がすごくするんです。
 それに絡めてもう一つ言うと、僕がこの作品で素晴らしいなと思うのは、何と言っても石田さんと染谷将太さんが上半身裸になって触れるか触れないかのダンスをしているシーンですね。普通の映画の脚本や起承転結のあるストーリー構成で言うと、ある意味冗長というか、どこでカットしても良いというところもある。それをずっと見せているわけですよね。そこがこの作品の中ですごく観客の目を引く場面だと思っていて、これも批評でよく使われるフレーズですけれど、シェイクスピアの『ハムレット』に「蝶番が外れた時間」というキーワードが出てきます。濱口監督の映画の中にはまさに蝶番が外れた時間があって、こうなったからこうなりましたというリニアな時間からぽんと外れてしまった宙吊りの時間が鮮烈に浮かび上がってくる瞬間がいくつもある。この作品の中では、それがやっぱりダンスのシーンだと思うんですよね。ハリウッド映画のように、観客がスムーズに物語の筋を理解するのが良いというものではなくて、まさに今ここで映画という出来事が生起しているというか、生々しい現実、今ここで世界が動いているという感じがあって、それはまさに蝶番が外れてしまった過剰な時間という気がしました。

濱口 蝶番が外れた時間。つまり物語に属さない、物語の因果関係から脱臼しているような時間ということですよね。これをなぜ入れるのかについては前段の説明が必要だと思うんですけど、先ほどハリウッド映画ということが言われましたね。古典的なハリウッド映画はどのようなものと言われているかというと、因果関係の連鎖によって成り立っていると言われているんですよね。ある出来事Aを原因としてBが起こり、その結果Bがまた原因となって事態Cが起こるということが繰り返されて最後まで辿り着く。いわゆるリニアな因果関係のラインが出来上がり、観客はそれに淀みなくスムーズに付いていくという体験をするのが古典的なハリウッドの体系となっています。これが映画になると間違いなく面白い。うまく巻き込んでくれればとても興奮するような時間になるわけですけど、なぜそういう単線的な因果関係を採用せずに蝶番が外れた時間を入れ込んでしまうかというと、やっぱり単純に現在の我々にとっては実際のところより信じることができるのはそういう時間だからではないでしょうか。それ自体が単に物語でしかなく、観客と関わりのない世界のように見えてしまうことを恐れているんだと思います。蝶番が外れた時間が差し挟まれることによって、いったい何が原因で何が結果であるのかが分からないような時間が出来上がるのではないかと期待している。それは私たちの現実と実は似ている。そのことによって観客が、この映画がただ単に物語の時間ではなく、自分たちが生きている時間そのものに近いものとして受け止めてくれはしないかと期待しているということが第一にあると思います。

渡邉 なるほど。完全にフィクションや物語には回収されない出来事が生起していて、それは「出来事性」などと言われますが、そういったものが引き金になって駆動している映画だなという感じがすごくするんですね。

言葉と映画

渡邉 もうひとつ、これもダンスのシーンとつながることですけれど、『不気味なものの肌に触れる』では人と人との距離にすごく迫ってくるものがありました。他の濱口作品と同じように、この映画の中でもいろんな人がたくさん喋りますよね。しかし『親密さ』にしても『ハッピーアワー』にしても、濱口作品の登場人物はある意味喋れば喋るほど孤独になっていくというか、全然つながっている感じがしない。石田さんとその彼女の関係でも、女の子がいろいろ喋るんですけど、本当に二人とも孤独に見える。あの距離感というか、コミュニケーションの不可能性と言うとまた虚構に回収されてしまって嫌なんですけれど、あの喋れば喋るほどすべての登場人物が一人になっていく感じは作者として狙っているものなのでしょうか。

濱口 そうですね。僕の映画は基本的に言葉がとても多い。役者さんが喋る台詞がとても多い。ドキュメンタリーにしても基本的にはインタビュー、人が喋る時間によって構成されています。これの一つの源流を辿ると、第一にお金がないからということに行くと思いますね。最初に映画をつくり始めた時に、自分はある種のスペクタクルをすごく低予算でやってのけるアイデアもないし、目の覚めるようなアクションを振り付けられるわけでもない。けれどもあるまとまった時間の映画をつくりたい、長編映画をつくりたいとなった時に、どういうことが出来るかというと、言葉というものがひとつの縁になるというか、そういう感覚があったわけですね。例えば エリック・ロメールジャン・ユスターシュジョン・カサヴェテスなど「言葉」を使って映画をつくる映画監督が存在していて、それが一つの支えになるというか、こういう映画のつくり方があるんだと学んでいくんです。今名前を挙げたような映画監督の作品はずっと喋っているわけですけど、まさに渡邉さんが仰ったように喋れば喋るほど孤独になっていく。喋れば喋るほどその人との隔たりが強調されていく人間関係を共通して描いていると思います。
 なぜそうしないといけないかと言うと、きっと映画において言葉を使うのはとても危険な、リスクの高い行為なんですよね。ある台詞を口にしてしまった瞬間に、大体の人は分かるわけですよね。これが我々の日常で発せられている言葉か、ホンに書かれた言葉であるかはけっこう判別がつく。その時にどうしても観客の映画に対する信頼が揺らぐところがあるんだと思います。それを避けるために、映画の中では基本的に言葉というものをある真実を語るものとして採用しない。その人物が喋ることが映画の中で応援されないというか、下支えされずにすぐ翻ってしまうような言葉として書かれるように常に配慮をしつつ映画をつくっていると、必然的に言葉を裏切ってしまう人とか、言葉どおりに行動できない人、結果的に人との信頼関係を結べない人が出てくるってことなのではないかと思います。

渡邉 それが非常に上手くいっている、という言い方はおかしいかもしれませんが、その映画的な「嘘」がかえって現実的に感じられるんですよね。先ほど会話劇をやるようになったのはお金のためだと仰りましたが、初期作品である2003年の『何食わぬ顔』の頃から濱口さんは脚本の台詞を書いていたのでしょうか。

濱口 そうですね。基本的には台詞は書いていました。

渡邉 ほとんど即興はない?

濱口 そうですね。

渡邉 でも今はけっこう変わりましたね。『ハッピーアワー』でも脚本はあるんですけど、かなり即興というかその場の言葉を入れて構成していますよね。その辺り、自分の中で演出の変化はありましたか?

濱口 それこそ『親密さ』ですとか、その後に撮った東北でのドキュメンタリーがあります。単に脚本に書かれたものを撮るだけが映画の方法ではないのは明らかで、中にはアッバス・キアロスタミとかホウ・シャオシェンのようにとても上手く即興を使って映画をつくる人たちがいる。彼らの方法を自分の制作手法の中にも加えることが出来たら、自分がそれまでつくることのできなかった映画をつくることができるようになるのではないかと考えました。
 『親密さ』は二部構成なんですね。第二部は一つの演劇がほぼまるまる入っていて、第一部はその演劇をつくる過程を映しています。第二部で上演されている演劇自体が『親密さ』というタイトルなんですけど、この演劇を実際に上演したものを最終的に映画にしています。それで、実際に上演するためには稽古をしなくてはいけないわけですよね。僕自身は演劇に対する知識はほとんどなかったので、まずは演劇をつくる過程そのものを記録するところから始めました。最終的に、その記録したものを脚本に置き換えて演じてもらったりするんですけど、『親密さ』の中には実際の稽古期間中の記録映像もかなり入っています。

渡邉 ある意味、入れ子構造になっているわけですね。

可塑性のリアリティ

渡邉 『親密さ』にショート・バージョンとロング・バージョンがあるというのも、着脱可能って言ったらおかしいですけど、先ほども申し上げたように作品がパッケージングされてない、安定的にまとまっていないところがある。個々の映画作家の意図や狙いとはまた別に、新世代の映画作品にはそういう傾向があるように思えて、批評家としてマクロな視点で見るとそれが非常に面白いです。
 『不気味なものの肌に触れる』に関してもう一つ付け加えると、最近『文学界』の映画特集で40枚くらいの論考(「ディジタル映像と「モノ」のうごめき」、『文學界』15年11月号)を書いたのですが、そこでは今年の夏公開された『ジュラシック・ワールド』というハリウッド映画や三宅唱監督の『THE COCPIT』という作品を論じたんですよね。『THE COCPIT』は素晴らしい傑作だと思っているのですが、今日あらためて『不気味なものの肌に触れる』を見ていて、『不気味なものの肌に触れる』を取り上げたら良かったなと思いました(笑)。
  どういうことかと言うと、大前提として今の作品は情報化やデジタル化、ネットワーク化を背景にして、その昔はあったフィルムのような物質的な支持体を喪失してしまい、パッケージングされていないという傾向が強くなってきているわけですよね。フィルムの時代の映画であれば、例えばスティーブン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』という作品がある。このフィルムは20年前に見ても今見ても、20年後に見てもおそらく作品の輪郭は変わらないわけです。そのため、わたしたちも永遠に『ジュラシック・パーク』はこういう作品だという信憑を持つことができる。
 それに対して、例えば今ネットにアップされている有象無象のデジタル・コンテンツは、今このディスプレイで見ている映像が明日にはまったく違う映像に変わってしまうってことが原理的にあり得るわけですよね。わたしたちはそういう時代に生きているという前提が僕の中にあるわけです。作品がパッケージングされていなかったり、だだ漏れ状態になっているというのは、別にデジタル化だけではない。例えば美術でも、リレーショナル・アートやコミュニティ・デザインなど、あえて作品をかたちとして残さない傾向が今はすごく強くなっていますよね。
 僕が最近興味を持っているコンセプトに、「可塑性」という言葉があります。フランス語だと plasticitéと言うのでしょうか。これは何かと言うと、あるかたちに力を加えると、元あった状態が粘土のように変形していく。その変形されたかたちが保たれていくけれど、またそこに新しい力を加えるとまたかたちが変わっていくというように、力の均衡の中であるまとまりを持った個体のかたちがどんどん変化していく。そういう性質を可塑性と言うんですよね。それは今申し上げたように、デジタル時代のコンテンツや作品の一つの本質としてあるものだと思うんです。
 『不気味なものの肌に触れる』のダンスのシーンでは、石田さんと染谷さんが互いに働きかけ、絶えず触れるか触れないかのところで力が均衡していく姿がずっと描かれますよね。さらにその二人がカフェで座って話しているシーンでは、「俺が水でお前が魚なのかもしれない。いや、俺が魚でお前が水かな」みたいな話になるんですけど、僕の解釈ではこのシーンは現在の文化状況をすごく象徴しているというか、可塑的なリアリティをパフォーマンスとして表象しているシーンだと感じました。

フィルム/デジタル

濱口 現場にいる人間の経験を付け加えると、やっぱりデジタルになってから、作品をどう終わらせて良いか分からなくなったと仰る監督やスタッフはとても多いですね。篠崎誠さんの『SHARING』という映画が間もなく出るんですけど、Facebookを見るかぎり「ようやく編集が終了しました」ともう10回ぐらい言っている気がする。ようやく終わったと思っても、結局また触れてしまう。フィルムの場合、サウンドトラックまでフィルムそのものに焼き付いていたりするのでなかなか変えられないですけど、デジタルは変えられてしまう。しかもそれがそのままネットに上げられたりする。作品が終わることが出来なくなっているという実感は僕自身もけっこう持っていたりします。究極どこまでやったら良いのかというのは、〆切に頼っている状況ですね。

渡邉 濱口監督の場合はデジタルでもフィルムでも撮られていますけれど、フィルムとデジタルについて、ご自身の中でスタンスとかポリシーみたいなものはあるのでしょうか。

濱口 個人的には、フィルムもデジタルもまるで違いがないかのように撮るのを基本的なスタンスにしたいと思っているのですが、あるフレームの中の光を記録するカメラという装置においてはフィルムもデジタルも変わりないって言いたいけれど、やっぱり両者はまったく違っていて、フィルムだったらどうしても10分撮るごとに何万掛かるとかそういう世界なわけですよね。10分という時間を何百円というコストで撮ることができるデジタルは、やっぱり根本的に映画の撮り方を変えていると思います。

渡邉 なるほど。濱口さんも参加している『映画はどこにある――インディペンデント映画の新しい波』という本が昨年フィルムアート社から出ています。インディペンデントの若手作家を中心にしたインタビューをまとめた本ですが、皆それぞれスタンスがバラバラなのが読んでいてすごく面白いんですね。具体的にお名前を出すと、例えば富田克也監督はフィルムに対してかなりの思い入れがあって、やっぱりフィルムで撮りたいと仰っていましたし、かたや山戸結希監督という1989年生まれの今一番若くてエッジの効いている監督は、わたしにはフィルムで撮られた映像は全部回想シーンに見えますと言っていて、これは新世代が来たなという感じがある(笑)。感性が全然変わって来ちゃっているわけですよね。僕や濱口監督の世代はその中間というか、古い世代と新しい世代の間にいるなという感覚がすごく強くて。フィルム世代の慣習や感性は分かるし、一方で情報化やデジタル化に興味があって、山戸さん的な感性も分かる。まさに過渡期って感じがしていて、この状況を批評家として見る分には非常に面白い。濱口監督をはじめとしていろんな監督がそれぞれオンリーワンの活動をしているわけで、日本映画に限っても、今の若手インディペンデント映画作家の活動は数年前からかなり面白いなと思って見ているんですよね。

作品の視聴環境の変化

司会 今のお話に関連して言いますと、作品をどう撮るかということに加えて、どのように発表するかというところでも、濱口監督の発表形態はとてもユニークなものであるように思います。例えば『親密さ』はソフト化されていないので、特集上映などの機会がないと基本的には見ることができない作品ですよね。一方、『不気味なものの肌に触れる』と『何食わぬ顔』の二作は「LOADSHOW」というウェブサイトで販売がおこなわれています。しかもそこでは、同じ作品につきストリーミングとダウンロードという二種類の販売形態が用意されていて、パソコンで見るのに最適とか、モバイルで見るのに最適といったように、視聴環境に合った形態が選べるようになっている。これは結果的にそうなったということではなくて、意図的に、作品ごとに異なる発表の方法や形態を試しておられるのではないかと推測しますがいかがでしょうか。

濱口 そうですね。まさに渡邉さんが仰るように端境期と言うんでしょうか。映画は映画館で見られるものという観念はあるわけですよね。映画は映画館の画面と音響で見られた時にもっとも大きな力を発揮するのだという想いは、つくる以上は絶対にあるし、最終的な整音も基本的には劇場で見られることを大前提につくります。ただ、ドキュメンタリー制作で仙台に行った時の経験が非常に大きくて、東京だとあれだけあった映画館が仙台にはほとんどなくて、特集上映もほとんどなされない。映画というものがほとんど街に流入してこない2年間ぐらいを過ごしたんです。僕は普通に映画が好きだったので、これは単純につらいんですよね。そしてSNSというものが存在し、Twitterで東京の友人たちが「あの特集上映に行った」とか「来れないやつは可哀想だ」と言っていたりすると、本当に何なんだという気持ちになりますよね(笑)。一種の文化的暴力というか。だから、まだ態度を決めかねていますけれど、ネットで見られることも大いに肯定すべきではないかと思っています。あくまで映画館で見られた時にもっとも効力を発揮するようにつくるけれど、ネットなどの小さいモニタで見る、観たいという人に提供する選択肢は当然残すべきと思うようになりました。そういう環境でも、自分の映画は観客との関係が最低限つくることのできる映画なのではないかとも思っています。

渡邉 僕は2012年に『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』という本を出していて、これは2010年から書き始めた連載をまとめたものですけれど、そこから5年間で状況は本当に急激に変化しています。フィクションとドキュメンタリーのつながりで言うと、映像が至るところに遍在していて、至るところに監視カメラもあるし、ある種都市の映像化が起こっている。『イメージの進行形』ではそれを「世界がすべて映画になりうる」と表現したんですけど、そういう状況が徐々に実現しつつあるわけですよね。「自分の作品は映画館で見てほしい」とか「スマホで見ても良い」といった作家としてのポリシーや倫理的な意思とは関係なく、どんどん見られてしまう状況になっている。
 例えばここ1、2年の間に、パブリック・ドメインになった古典映画が膨大にYouTubeにアップされているんですよね。僕は溝口健二の『近松物語』が好きで、この世で一番好きってくらいの名作だと思っているんですけど、これも全部YouTubeにアップされているんですよね。だからスマホで見れるわけですよ。これについて僕はけっこう怒っていて(笑)、『近松物語』をスマホで見たくない、やっぱりスクリーンで見るべきだろうと思うのですが、原理的には見れてしまう。実は今回も、この講座のために濱口さんの過去作をVimeoで見させていただいたんですけど、すいません、なかなか時間が取れなくて東北記録映画三部作の一篇は半分くらいスマホで見たんです(笑)。この辺については、つくる側からもいろんな葛藤があると思いますが、それはもうある程度仕方がないというかたちで受け入れざるを得ないところもあると思うんですよね。

濱口 Apple Musicってあるじゃないですか。月々980円でJ-POPにジャズ、ロックにクラシックとあの曲もこの曲も聴けてしまうというものです。それまでは一応、デジタル上とは言えiTunesというものがあって、そのライブラリに入っているのは俺の音楽だ、自分自身のアイデンティティを何かしら表現しているという感じがありました。つまり本棚みたいなものですよね。Apple Musicであらゆる曲が聴けるのは、最初のうちはけっこう良いなと思うんですけど、音楽と自分自身の間にあったすごく個人的なつながりが失われてしまったような気がしてしまったんです。そんな体験をした時に、例えばHuluやNetflixによって自分の映画もこうなってしまうのだろうかという危惧を覚えました。もしかしたら自分の人生を変えてくれているかもしれない個人的なつながりをアーカイブ化されてしまうというか、いくらでも見て良いよって状態になった時に、何かしらのつながりが絶たれてしまうのではないかという個人的な思いがありました。あくまで現状ですので、Apple Musicをこれから1年、2年と聴いていけば、また考え方も変わってくるかもしれませんが。

「物」中心の世界観

渡邉 それに対して僕なりにお答えすると、いろんなところで情報化やソーシャル化が進んで、確実に変わってきている部分もあるのだけど、一方でかつてあった慣習が続いている部分もある。そういう連続性と非連続性の中で、残っている慣習を継承しつつ新しい状況にも対応していくことがまさに僕らぐらいの世代に求められているのではないかと感じています。その一つの兆候が、フィクションとドキュメンタリーの溶解であったり、リアリティの多層化といったものに表れているというのが僕の理解です。
 二つ見方があって、一つは過去からの連続性の問題ですね。例えば、機械的なものやシステム的なものが自分の主体的な意思とは違って勝手に動いていくこと。自分の意思をぼやかしていくというのは、20世紀のモダニズムの時代からあったことで、まさにそれが映画だったわけですよね。『映画芸術453号』に掲載された濱口さんのインタビューでは、わたしたちが本当に恐れなくてはいけないのはカメラの力だと仰っていましたが、カメラは無情にも目の前の現実をオートマティックに記録してしまう。それが20世紀に登場した映画の脅威というか、過酷なまでの凶暴さだったわけで、言ってみればApple Music的なものもその連続性の上に位置づけられると思っています。
 ちなみに最近話題の哲学者でスタンリー・カヴェルという人がいて、彼が映画の独自性として見出したのが「自動性」という概念だったわけですね。前回のイメージライブラリー映像講座に出演された三浦哲哉さんが『映画とは何か――フランス映画思想史』という素晴らしい本で論じていることですけど、映画は自動的にわたしたちの生きている現実の風景を記録してしまう。人の手からまったく離れたところで、機械の力でオートマティックに記録してしまうということですよね。
 このように、現在の状況もある程度は映画というメディアとの連続性の上で考えることができると思うのですが、僕が今注目しているのはやっぱり非連続性のほうで、先ほど濱口さんが仰ったように、それがますます過剰な状況になってきていると思うんですよね。わたしたちの文化は、今までは「人」中心で動いてきた部分があったんですけれども、これからは言ってみれば映画のような機械やシステム、抽象的に言えば「物」と言って良いかもしれませんが、人と物がハイブリッドに共存していく。あるいは相互に干渉していく。もっと言えば「物」中心の世界観と言い得るような文化や社会の仕組みが出来つつあるのかもしれないということが言われているんです。映画を見ていても、最近は例えば人工知能(AI)を描いた映画がすごく増えている。言ってみればイメージのAI化が進んでいる気がしています。だからApple Musicにしても、今までのレコードやiTunesまでなら、これが俺の音楽だという主体思考で、人が自分の文化や意思を世界の中で囲い込むことがぎりぎり可能だったんですけど、これからは物のほうが人を動かしてしまう状況になっているということなのではないかと思います。

サイボーグの視線

渡邉 今お話ししたことは、イメージライブラリー・ニュース33号に書いた論考「現代映画と「モノ=イメージとの同盟」――濱口竜介小論」にもつながっています。
 いろんな人が論じていることですけれど、濱口さんの作品の中で非常に特徴的な演出方法として独特の切り返しショットがありますね。例えば東北記録映画三部作のようにドキュメンタリーとして撮られた作品群がありますが、そこには二人の人物が向かい合ってずっと会話しているというシークエンスが繰り返し登場する。ドキュメンタリーであれば脚本もないわけですから、二人の脇にカメラを置いて撮るのが普通なんですけど、濱口さんのドキュメンタリーでは向かい合って対話する人物を小津安二郎の映画みたいに真正面から映して切り返していく奇妙なシークエンスがあるんです。これは普通に考えてちょっとおかしいわけですよ。つまり、フィクション映画で人物の真正面にカメラを置いて、交互に台詞の部分を撮っていくことは普通にあるのだけど、ドキュメンタリーで二人の人物が話している顔が真正面から撮られているのはおかしいわけですよね。

濱口 その撮影の方法は、一つには、人と人が向かい合って喋るところを肩越しのカメラで押さえています。肩越しであることによって、二人が向かい合っている位置関係が示される。
 そしてもう一つは、僕たちは基本2〜3時間インタビューをさせてもらうんですけど、60分テープを使っているので1時間経つと強制的にここで休みましょうとなるんですね。その時にカメラ・ポジションを横にちょっとずらして、二人にはそれぞれ正面にあるカメラを見ながら会話をしてもらう。それを後で組み合わせると、まるで真正面に向かい合って話をしているように見えるけれど、カメラはどこにも映っていないという映像が出来るんです

渡邉 これが本当に面白いんですよね。狐につままれたような、きょとんとした感じになる。ぶっ飛んだことを言うようですけれど、ある意味これはサイボーグの視線なわけです。『うたうひと』を見ていると、そこに出てくるおばあちゃんがだんだんシネコンの上映前に流れる「映画泥棒」のカメラ人間になっていくような感覚を覚える(笑)。向かい合っている人間とカメラが自然な距離で融合していることに、くらくらっとするような感じがあるわけですよね。この感覚はかなり独特ですけど、すごく現代的と言いますか、面白さを感じたポイントです。
 またすごくぶっ飛んだことを言うと、今年『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』が公開されましたが、スパイがカメラ内蔵式のコンタクトレンズを付けるシーンがあるんですね。だから役者のPOVショット(見た目ショット)が出るんですけど、人間の見た目とコンタクトレンズのデータ映像がぴったり一致している。これもPOVショット的にはサイボーグ化というか、人間と機械の融合だと言えると思うんですけど、その意味で『うたうひと』のあのショットは『ミッション:インポッシブル』だなと思って見てしまいました(笑)。これは批評家の牽強付会ですけれど、そうやって見るといろんな映画の中で描かれているリアリティがネットワーク的につながっていく感じがするわけですよ。『うたうひと』の場合はそれが動物や妖怪の話をするというモチーフとすごく重なり合っていて、非常に面白かったんです。

正面ショットが生まれた経緯

渡邉 ところで、ドキュメンタリーにおけるこの正面から撮る手法はどのようにして思いついたのでしょうか。

濱口 それはですね、もともとは東北記録映画三部作の前に撮った『親密さ』で試したものだったんですね。二人が向かい合ってワークショップというかエチュードをおこなうシーンがあって、そこですでに正面ショットが使われています。
 『親密さ』の問題意識の一つは、演じることをどう撮るかという問題です。第二部ではまさに演劇自体が撮影されるのですけど、演劇をやっていらっしゃる方なら、すごく良かったと思える演劇を撮った記録映像を見返して、あれ?となった経験があるのではないかと思います。あの素晴らしかったはずの演劇の何かが、撮影をすることで失われてしまう。カメラで記録をするとあの高揚みたいなものが失われてしまうという体験を、きっと舞台の演出家は何回もされているのではないでしょうか。
これについて一つの仮説として立てたのは、引きの画に限定しますと、観客が映っているからではないかと考えました。それは結局のところ、演劇が観客に見せるためにおこなわれている「振り」であることが克明に記録されているからなんだと。もちろん、実際に演劇を見ている時にも他の観客の頭などは目に入ってくるわけですが、演劇の観客には自分が主体的にこの場を支えているという感覚があると思うんですよね。演劇の観客は自分の影響力を多少自覚していて、「演じる」という脆いフィクションを支える存在として自分のことを認識しているのではないかという気がしています。ところが身体を欠いたカメラでそれを撮ると、観客がいなくなってしまう。そこではただの「振り」だけが記録されてしまうのではないか、という仮説を立てたんです。そこでは演劇の観客が積極的に加担するイリュージョンが破壊されてしまう。そこでは極めて空々しい何かしか映らない。
 そう考えると、ここではカメラが観客の想像力をある程度肩代わりしなくてはいけない。演劇でも、向かい合っている設定の二人が客席のほうを向いて喋り、観客もこの二人は向かい合って話しているのだろうと了解しながら見るということがあります。ただ、それと同じように、正面ショットで本来向かい合っていない二人がまるで向かい合っているかのように見せるというのは、普通の映画の文法としてあるんですよね。『親密さ』においては、舞台を見る観客やねじれた位置関係をはっきりと写して、その上で映画的なカッティングをしていきます。それは演劇的イリュージョンの破壊された地点から、もう一度映画的な方法で、演劇的なイリュージョンを再構築していくということなんです。そこでは観客の想像力がほとんど不可欠な作り手として招待されている。そのとき、おそらく映画『親密さ』の観客は、それが映画の文法でしかないということを理解しつつ、でもそれに積極的に加担する、信じるという体験をしてくれるのではないかという発想がありました。ただ、その正面ショットが舞台を撮影する段になって急に現れるのもよろしくない気がしたので、リハーサル部分を写した第一部に映像的な前振りとして、その正面ショットが登場しています。そこで先ほどお話ししたカメラ・ポジションをずらして撮ることを思いついたんです。

渡邉 その演出は最初から狙いどおりに上手くいきましたか?

濱口 『親密さ』では、演じるのが役者だったことが大きいと思うんですけど、その不可解な状況をけっこう受け入れてくれた気がします。演じるってこういうことだよねという感じでやってくれました。東北記録映画三部作の場合は、やっぱりみなさん戸惑いますよね。最初はなぜこんなことをするのかと聞かれて、これは後で編集でつなぐと向かい合っているように見えるんですよと説明して。あとは、なぜこうする必要があるかと言えば、結局それが最良のポジションだからですと説明しました。観客はおそらくこのカメラ・ポジションで見たいと思うんです、と。『ハッピーアワー』の制作時、もともとは演技経験のない出演者が、「演技の場に立つことは、普段はちょっと斜から見ていた素晴らしい演技を自分の体で受け止める体験なんだと知った」と言っていて、それはそうだなと思いました。カメラで演技を捉える上で、置きたいポジションがあるとすればそれは真正面なんだという気持ちがありました。ドキュメンタリーにおいても、最良のポジションに置くという原則は変わらなくて、そこに置かせてくださいとお願いしました。それによって、最終的に観客と出演者の皆さんを混ぜていくということがあるんじゃないかと説明したと思います。

正面ショットの使いどころ

渡邉 僕は東北記録三部作を見ていて、王兵の『鳳鳴―中国の記憶』を想起したんですね。おばあさんが三時間ぐらいずっと喋っているのを撮っているだけなのにめちゃくちゃ面白いという不思議な映画です。それで、時間が経つに連れて陽が暮れて行く。時の移行も撮っているわけですよね。この作品も蝶番が外れた時間というか、普通の時間ではない時間がずっと続いていく。あとは、これも東北つながりですけど、『ニッポン国 古屋敷村』でもおばあさんがずっと喋っていて、山形弁で何を言っているか全然分からないというシーンがあるんですけど(笑)、それも思い出しました。ずっと長回しで語りを撮っていても、それが妙なエモーションを醸し出す映画という系譜がありますけれど、東北記録三部作もそういう系譜につながる作品だなと思います。

濱口 『鳳鳴―中国の記憶』はまだ見ていないのですが、おそらくこの映画の元ネタもまたジャン・ユスターシュの『ナンバー・ゼロ』だと思います。僕はそれを見ていました。やはりユスターシュが自分のおばあさんにずっと話を聞いているという作品で、そうした不動の画面と語りだけで十分魅力的な映画が成立することは理解できていました。ただ、それをやっても王兵と同じことをやっていると言われるだろうなということは頭にあって、それを避けるための一つの方法として、カメラ・ポジションをずらす手法を編み出したところもあったと思います。

渡邉 濱口監督の意図とは外れるかもしれませんが、濱口作品と言ったらあの正面ショット、というぐらいの演出になっていると思います。今後の作品でも使っていくお考えはあるのでしょうか。

濱口 これは非常に難しいですね。不確定です。『ハッピーアワー』にもちょこちょこ入れているのですが、ただこの正面ショットは一方でとても難しくて、要するに「強い」んですよね。正面ショットを撮ってしまうと、結局それだけで強い画面になってしまう。その強さ自体を誤魔化すためにずっと正面にカメラを置き続ける選択肢もあるとは思うんですけど、それも少し形式が先立っているような感じがある。だから結局、ドラマがもっとも高まる時にしか正面にカメラを置くことができなくて、でもそれはそれで、ここがドラマの極点であるとただ単に示しているようでもあって。

渡邉 なるほど。ロカルノ国際映画祭など海外の観客からは、この手法についてどのような反応がありましたか? 日本の映画批評だと佐々木敦さんも本の中で書いていましたし、海外でも「小津のロー・ポジション」みたいな感じで「濱口の正面ショット」みたいなことが言われたりしないですか?

濱口 いや、ほとんどそこについて言及されることはなかったですね。やっぱり一方では、ドラマにおける慣習的な表現の一つに過ぎないというところは実際あると思うんです。
 また「小津的」と言っていただくことはありますが、恐れ多いというのが正直なところで、やっていることは全然違うと思っています。小津はロー・ポジションにカメラを置いて、向かい合っているのかしら?というような位置関係で会話をしている人物を撮る。その目線を丹念に追って行くと、実は彼らはどこでもない場所を見ている。ただそれがつながれていくと、まるで互いに会話をしているように見えるんです。ショットとショットのつながらなさと極めて連続的な物語を同時に見ていくような経験。写っているのにそれはないものなんです。観客は「無」を知覚するし、何ならそこにはまり込む。ショットとショットの間にある「無」みたいなものを小津は撮っていると思うんですけど、僕がやっている正面ショットはちょっと違っていて、これはある種、映画の慣習的な表現なんですね。観客をそこまで戦慄させるようなものではない。それこそ主観ショットと言われているものをドキュメンタリーでやるという文脈が珍しいと思われているのではないでしょうか。ドキュメンタリーという簡単に真実だと思われてしまうものに虚構を混ぜ合わせる必要を感じて、そのようなことをしている感じです。

渡邉 なるほど。僕もイメージライブラリー・ニュースで「小津安二郎のような」と書いてしまってすいませんでした(笑)。

濱口 いえいえ(笑)。

渡邉 もともと演劇を映画で撮るところから発想して、方法論として非常に厳密に考えられた演出なんだということが今日のお話を伺って分かりました。

観客の想像力をデザインする

司会 批評家や研究者であれば、もちろん技法的な部分に注意を向けると思うのですけれど、濱口監督の作品は、非専門家である観客が見ても形式的な部分や技巧に興味が向かうというか、構造がむき出しになっているようなところがあるのが興味深いです。これまでなら、そのような作品に対しては、虚構であることの露呈によって物語への没入を批判するとか、異化効果をもたらすといった評価がなされるのが一般的でした。ところが濱口監督の作品は、技巧的なものが見えているにも関わらず、結果的には非常に没入的でエモーショナルな作品に仕上がっているのが面白いなと思います。
 例えば『親密さ』では、しばしばオールナイト上映がおこなわれていますね。残念ながらわたしはまだ体験出来ていないのですが、作中に夜が明けていくシーンがあることと、オールナイト上映によって映画館から出た時に夜が明けていくことがシンクロして、非常に素晴らしい体験だったという話をよく聞きます。これも一方では、映画の視聴形態に働きかける形式的な操作であると言えますが、他方では、登場人物の体験と観客自身の体験をかさねあわせるという非常にエモーショナルな表現であると見ることもできます。このような試みに向かうようになった背景には、何かきっかけや、具体的な作家の影響などがあるのでしょうか。

濱口 それはあると思います。例えばイマジナリ―・ラインというものがあって、画面上、右を向いて喋っている人と左を向いて喋っている人をそれぞれ撮ることで、二人が向かい合って喋っているように見えるイリュージョンが生まれる。そういう観客の想像力を働かせようという映画の陰謀があるわけですけれど、そのラインを使って、何がしか観客の想像力や体験をデザインしたいとは思っていました。
 その個人的な源流の一つはきっと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと思います。あの映画を見ていると、基本的に反復があるわけですよね。後半に出てくるものは絶対に前半にも確実に示されていて、1回目に見た時と2回目に見た時の感じ方が違う。2回目に出てくるモチーフを見る時には、ただ「物」だけを見ているのではなく、「物」と「イメージ」を両方、二重に見るような体験になっているのではないかと思いました。この映画では、そういう反復構造が観客を引き付けるものとして構想されているような気がします。
 これと同じように、観客に対して具体的に働きかける、観客を映画の必須事項として必要とする作家として想定しているのはアルフレッド・ヒッチコックとジョン・カサヴェテスです。ヒッチコックの場合は、ジル・ドゥルーズが「関係イマージュ」ということを言っていて、例えば逃げている人物Aと追いつきそうな人物Bがいる。しかしこのAとBの関係性を感知しているのは観客しかいない。あくまで観客のためにAとBの関係がつくられている。ヒッチコック映画とは、いわばこの観客の感知により駆動する想像力全体を含めていうのだ、ということですね。ヒッチコックは、要素AとBだけでなく観客も含めて映画のサスペンスを構築しているということですね。
 ヒッチコックのサスペンスと同じようなことがカサヴェテスにおける感情の表現にもある気がしています。カサヴェテスの映画は、先ほど渡邉さんが仰ったような蝶番の外れた時間が連続するわけですよね。物語としてはまったく理解できないけれども、自分たちが生きている時間とすごく近い時間の流れ方をしている。つまり、彼らは自分たちと同じような時間の流れを生きていると観客は判断できるわけです。これは物語の語り方として僕はやはり天才的な発明だと思うんですが、そんな時間に長く付き合い続けていると、ある登場人物が必ずしも論理的には理解できない行動をとった時、観客はその人の行動を理解しないかと言ったらそうではなく、自分自身の想像力をむしろ積極的に駆動して、体験や人生において感じたこと、考えたことを充当する。ちぐはぐな行為の原因を観客自身で埋め合わせるということが起こる。それがカサヴェテス映画における感情を引き出す作法としてあるように思います。僕はそれを参考にしていて、観客にただ映画を見せるのではなく、観客の想像力をどう引き出すか、観客にとってどのような体験をつくるかということを考えています。

『親密さ』のオールナイト上映

渡邉 今話題に上った『親密さ』第一部の終盤のシーンは本当に感動的なんですよね。夜明け前、作中劇の演出家と脚本家の二人が陸橋の歩道をずっと歩いて行く。おおよそ10分ぐらいのシーンだったでしょうか、カットをせずに長回しで二人が話しながら歩く様子が撮られているんですけど、最初は真っ暗だったのが、だんだん空が明らんでくるんですよね。最終的には早朝になって終わるんですけど、本当に涙が出るくらい美しいシーンなんです。
 僕は2012年にオーディトリウム渋谷でオールナイト上映を体験しています。上映が終わると午前5時くらいで、映画館を出て朝方の渋谷を帰ることになるんですけど、その体験が堪らないわけです。完全に作中の明け方のシーンと自分自身の体験がリンクしていて、僕の中では、朝5時に渋谷から帰るところまで含めて『親密さ』という映画の体験だったんです。このことはまさに、オールナイト上映という上映形態が保証してくれたものですよね

濱口 そうですね。オールナイトを企画した時点で、やっぱりそういうことが起こってほしいと期待していました。実際にその体験をしてくれた人たちから熱いコメントをいただいて嬉しい気持ちになったのですが、一方で、その体験を出来なかった人のほうがずっと多いわけですよね。これはすごく難しいなと思っていて、オールナイト上映は今後もやりたいと思っているんですけど、それが『親密さ』を見る上で唯一の体験になってしまうと、制作者としては複雑な気持ちになる。舞台のような一回性の芸術であればそれで良いかもしれませんが、『親密さ』という映画のこととして考えると、オールナイト上映ばかりはやってられないなという気持ちもあります。

渡邉 僕はその辺りも含めて、やっぱり今の映画の置かれているフレキシブルな状況は面白いと思っています。この講座に関連して11月14日におこなわれた『親密さ』の参考上映もオールナイト上映ではなかったわけですけれども、その都度その都度の『親密さ』を見る体験が、観客にとって固有な体験になっていけば良い。そういうことも含めて、世界と映画のサーキュレーションという気がしています。

質疑応答

司会 それでは、このあたりで質疑応答に移りたいと思います。

質問者1 わたしは地元が茨城県なので、水戸市がロケ地になっている『不気味なものの肌に触れる』を2年前からずっと見たいと思っていたんです。それが自分の通っている大学で上映されることを知って、今日を本当に楽しみにしていました。ありがとうございました。
 水戸市がロケ地ということで、わたしが普段歩いていた場所がそのまま出てきたりもしたんですけど、代表的な建物や地名はすべてピントが合わないようになっていましたね。そこで質問をさせていただくと、この場所で撮影することに決めたのはなぜかということと、水戸で撮影して印象的だったことをお聞きしたいです。

濱口 ありがとうございます。水戸で撮ったにも関わらず、そこに住んでいる人以外には水戸だと分かりづらいというのは、まさにそうなるように撮ったんです。なぜかと言うと、構想中の長編『FLOODS』をどこで撮るかがまだ分からないからです。川が一つのモチーフになっているけれど、それが水戸市なのかは分からない。もう一つの理由は、物語がダークなので地方公共団体の支援を得づらいということがあります。あらかじめ撮影する市を決めてしまうと後で大変になるかもしれないと考えました。『不気味なものの肌に触れる』を水戸で撮ることになったのは、水戸短編映像祭の方からオファーをいただいたのがきっかけです。ただし水戸を水戸と分かるようには撮影できませんよという前提を確認した上で、撮影をおこないました。
 僕が水戸に対して抱いている印象は、これは地元の方には言いづらいんですけど、何かとても禍々しいところがあるような気がしてですね(笑)。撮っている物語の印象や、雨や曇りといった撮影日の天候のせいかもしれないですが、ここには得体の知れない何かが隠れていそうだという気配がありました。それを撮ることが出来たという感じがあるので、水戸にして良かったなと思っています。

質問者1 ありがとうございました。

質問者2 現在は映像が遍在している時代であるというお話がありましたが、最近は美術館や展覧会でもアートとしての映像作品が増えていると思います。ツァイ・ミンリャンのように映画監督としては引退して美術館で上映する短編作品をつくる作家も出てきていますし、去年のせんだいメディアテークでは濱口監督の東北記録映画三部作も展覧会会場でループ上映をされていたと聞いています。ループ上映だと、観客はその一部分だけを見たり、途中から見ることになりますが、そのような状況について映画作家としてどのように考えているのかをお聞きしたいと思いました。

濱口 それはですね、分からないというのが正直なところです。映画をつくるとはどういうことかと言いますと、徹頭徹尾見てもらえるという前提でつくるわけですよね。映画館という空間の中で頭から終わりまで見てもらえる前提があって、そのためのつくり方の探求を重ねてきたわけです。最初はあまり意味がないと思われていたものが後半になって活きてくるような作劇はそういう前提があってこそ成り立つものですし、先ほどお話しした観客の体験のデザインも、それが拠り所になっていると思います。ですので、人びとが通り過ぎていく中でループ上映される映像を、どのようにすれば有効に出すことができるのかについての答えを僕はまだ見つけられていない。もしもインスタレーションをするなら、それこそ動画よりも写真や静止画を使うほうが自分の考えていることを見てもらえる可能性があるのではと考えたりすることはあります。

質問者2 ありがとうございます。そうすると、今アート作品としての映像が増えているのはなぜなのでしょうか。

渡邉 やはりこれもメディア環境の変化と密接に関わっていると思います。1980年代ぐらいからビデオを使った作品やメディアアートが本格的に台頭してくる時代になっていると思いますが、昔は映像という媒体と言えば映画とテレビくらいしかなかったのが、誰でも簡単に映像を編集したり改変できたりするような環境が整ってきた。その結果、映画監督や写真家だけではなく、何かクリエイティブなことをしたいという作家が手軽に映像というメディウム・素材を使うようになったという状況が関係していると思うんですね。
 個人的な実感で言うと、僕はもともと映画の研究をしていて、映画批評をやりたいと思っていたんですけど、現在の状況にヴィヴィッドに反応するために新しい映像環境についての本や文章を書いても、映画の人からはあまり良い反応がないんですね。むしろメディアアートの作家や映像を撮っている美術作家の方が僕の本に共感してくれる。これは面白い現象で、やはり映画はすごく強い慣習というかシステムを持っていて、まだまだ映画とはこういうものだという了解が作り手にも受け手にも共有されているジャンルなのだと思います。
 映像の全編を観賞するという受容体験から離れているというお話についても、今日お話ししたように、作家が作品を完全にコントロールしたりパッケージングできる環境ではなくなったということがあると思っています。映像の受容体験に関する二つのキーワードの対比で言うと、「凝視」すること、つまり画面を始めから終わりまでずっと見つめて観賞する体験から、「気散じ」、つまり気が散るということですね。アーケードや商店街を歩いていて、いろんなところにあるネオンサインやデジタルサイネージが目に飛び込んでくるのをパッパッと見ていくような体験になってきているのではないでしょうか。
 昔の映画は90分から2時間だったので、初めから終わりまで凝視してお話を追うことができたと思うんですよ。でも、これもデジタル化が関わっているのですが、今は長尺の映画がすごく増えているんですね。まさに濱口監督もそうですし、王兵やラヴ・ディアスもそうですが、そういう映画に対して凝視の受容体験をするのはなかなか難しい。王兵の『鉄西区』なんて9時間ありますから、それを90分の映画を見るように一つの細部も漏らさず見ることは不可能なわけですね。このことは、映像インスタレーションのように気散じ的に観賞する体験が主流になっていることと確実につながっていると思います。

質問者3  現在の状況は果たして一元的なんだろうかという疑問があります。映画にしてもドラマにしても、気散じ的なものを受け入れるというよりは気散じ的なものが前提条件になっていて、外的な要素が強い分、画面のここを見ろというのがどんどん強まってきていると思うんですね。3Dなどはまさに、ここを集中して見てくださいと強く誘導する働きをするものです。それに対して、例えばジム・ジャームッシュの映画であれば、どこを見ていても良い。まさにジャームッシュ自身が言っていますけれど、映画のピントがすべてに合っているから、登場人物たちが喋っていたとしても、風が吹いているのを見ていて良い。画面内での気散じがあり得たと思うんです。
 そうすると、目とカメラの融合というお話がありましたが、そこでも微妙に亀裂が入っている部分があるのではないでしょうか。存在するはずのないところにカメラが存在することが前景化するのと、カメラがある種透明化して目のように働くことは違うのではないかという気がする。まさにそれが今現在の対立なのではないかと思うんです。そうした意味で言うと、濱口さんの作品はある種現在性に抵抗している部分もあるのではないでしょうか。わたしが見たいものと同じものをあなたも見てくださいという3D的なものに対して、濱口さんがどのようにお考えかを伺いたいです。

濱口 気散じの体験、つまりある画面の中のどこを見ても良いというのは、原理的にはあらゆる映像において許されていることだと思います。ジャームッシュの名前がここで挙げられるのは、彼の映像がそうした傾向を積極的に許しているからだと思いますが、それに対して3Dは焦点化を促すというお話ですね。ただ、焦点化を促す行為自体はハリウッドがずっとやってきたことで、3Dがその体験に劇的な変化をもたらしたどうかは僕には疑問です。物語映画はずっとある種の中心化を志向してきて、その傾向の果てに3D映画が出てきているけれど、それは今までとあまり変わらないことなのではないでしょうか。
 むしろ――これは蓮實重彦さん的な考え方だと思いますが――中心化されているとは言え、それでも映っているものを見ているかどうか。包括的に画面全体を見る眼差しがあるかどうかということは、常に問われている気がします。我々は常に見逃し続けているという自覚に基づいて見ないといけないということは、ずっと変わらないと思います。一方で、観客一人ひとりにとっては気散じの体験であっても、その観客の知覚の集合体はいつか必ず画面に映っているものを見尽くす。作り手としては、画面というものは隈無く見尽されるものだという前提に立ってつくるしかないというのが僕の結論です。

質問者4 僕は日本画の学生なので、日本に昔からある紙に昔からある絵具と筆で描くみたいなことを延々とやっています。デジタルが僕らの生活の中に浸透していても、絵画はやっぱりどうしようもないくらい物質で、明日いきなりなくなったりはしないし、やり直そうと思ってもすぐにはやり直せないしで、絵画だけ時代から取り残されているような気がしています。映像の場合はスクリーンに映写したものを観客が見るのに対して、絵画は紙の上に乗った絵具を人が見るという点では両者は似ているなと思うのですが、映像にはデジタルの可塑性があって、絵画は確固たる物質であるという点では大きく違いますよね。濱口さんは映像と絵画について、どのように思われますか?

濱口  あくまで僕個人的な、映像をつくる者としての立場から言うと、映像の可塑性ってまったく高くないんですよね。頼みやすいスタッフや使える予算の関係もあって、僕にとって映像は基本的には撮ったらもう変えられないものなんです。現場で起きることはある程度調整できるけれど、一度撮ってしまったものを後から調整することは容易ではない。とても可塑性の低いメディアを扱っているという感覚があります。それに比べたら、絵画はすごく可塑性の高いものに見えます。もちろん、何かしら撮った写真をPhotoshopで加工することに比べたら絵画の可塑性は低いんだと思いますが、結局のところ、何かしら望むものをつくろうとしたら、どんなメディアであってもなかなか言うことを聞いてくれないものなんじゃないかという気がします。でも僕は古い時代にも軸足を置いているので、変えづらいということ自体が一つの方法に成り得ると思って制作をしています。可塑性が低いということは、物事をとてもシンプルにしてくれる。考えなくてはならないことを減らしてくれることだと思っています。

司会 それではこのあたりで講座を終わりたいと思います。ぜひお二人に大きな拍手をお願いします。ありがとうございました。


(2015年11月19日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)