武蔵野美術大学 美術館・図書館イメージライブラリー

武蔵野美術大学公開講座
「シュヴァンクマイエルの魔術的世界」の記録


講師ヤン・シュヴァンクマイエル(作家)
開催日:2007年8月27日
通訳:ペトル・ホリー(チェコセンター所長)
主催武蔵野美術大学企画広報課 企画・運営:イメージライブラリー
協力:レン コーポレーション、チェスキー・ケー、チェコセンター 

 

この講座について

ヤン・シュヴァンクマイエル氏は、シュルレアリストの闘士として、映像作品だけでなく、ドローイング、オブジェ、詩、コラージュなどを制作する現代を代表するチェコの作家です。本講座では、ヤン・シュヴァンクマイエル氏をお招きし、世界のアーティストたちに多大な影響を与え続けるその作品世界について語って頂きました。


はじめに

シュヴァンクマイエル みなさま、今日はお暑い中お集まりいただき、誠にありがとうございます。他の会場でもそうでしたが、見渡す限りほとんど女性の方ばかりで、一体なぜ、女性の方ばかりが私を好んでくださっているのか不思議でなりません。私が日本に来るたびに、女性、女性、女性-男性がとても少ないことに驚いています。私はこう考えています。一体なぜ女性の方ばかりが私のことを好むのか、その理由は一つしかないと思います。日本の女性のみなさんは、もしかするとサドマゾヒスティックなタイプが非常に多いのではないでしょうか。私の映画には、サディズム的な要素があって、女性の方々はそれを求めて私の作品に好意を頂いているのではないでしょうか。もちろん、お断りしますが、私はサディズムを好む人間ではございません。サディズムを実行するよりも、それをむしろ作品の中に取り入れたほうがいいのではないかと考えています。これは、私にとって、ある種の治療、セラピーでもあるというふうに思っております。
 では、皆様から質問を承って、それに出来る限りお答えしたいと思います。できれば、私が一人でお話しするよりもQ&Aというかたちでやらせていただければと思います。

質問1

 「地下室の怪」は、シュヴァンクマイエルさんご自身が小さい頃、地下室にじゃがいもを取りにいくときに地下室を怖がっていたという体験から生まれた作品だと聞いたことがあります。シュヴァンクマイエルさんは、小さな頃から怖い体験をなさったり、空想をなさっていたのでしょうか?

シュヴァンクマイエル 私は最近、日本には地下室という部屋の存在がほとんどないということを聞いて驚きました。プラハは1300年以上の歴史をもっていますが、これも地下室が子供にとってトラウマになる空間である理由の一つであると思います。もちろん、近代的な建築や新しい建築の地下室は非常にきれいで、デザイン性のある空間となっていますが、私の子供の頃の時代はそういった建物ではなく本当に昔の建物で、地下室は恐ろしいものでした。私がいつも心配していたのは、母親から「じゃがいもを取って来て」と言われることでした。母親がその言葉を口にするのをいつも恐れ戦いていました。私の幼少期において最も恐ろしい言葉はこの「じゃがいもを取って来て」というものでした。今でさえ、「じゃがいもを取って来て」という言葉を口にするだけでとても怖い思いをしています。
 しかし、実は恐怖は二面性のあるものなのです。ある一方で、トラウマになるものであり、もう一方では子どもの想像力を豊かにするという非常にユニークな役割をもっています。日本にはこのような諺があるかどうかわかりませんが、チェコには「恐怖は目が大きい」という諺があります。これはどういうことかというと、恐怖に大きな目がついている、つまり恐怖は想像力を豊かにするということなのです。私たちは恐怖を感じるとき、存在しない風景、または存在しない動物などを想像してしまいます。この諺からいいましても、恐怖は想像力にとってどれだけ大事な要素であるかということが分かります。ですから、地下室にじゃがいもを取りに行った時の恐ろしい経験は、私の想像力のために大きな役割を果たしてくれました。「地下室の怪」は、私が子どもの頃に体験したことへのオマージュでもあるのです。

質問2 
 シュヴァンクマイエルさんの作品には、必ずといっていいほど何かを食べるシーンが登場します。食べるという行為に対するシュヴァンクマイエルさんの思い入れをお聞きしたいのですが。

シュヴァンクマイエル まだ幼少期の質問ですね。私の作品に出てくる「食べる」という行為には二つの意味があります。一つは、ある意味のイデオロギーです。「食べる」という行為は、我々が生きている文明のとても正確な象徴であると私は考えています。何か食べ物を口に入れて、それを舌で転がして噛み、そして飲み込むというのは、我々が生きている非常にアグレッシブな文明の強い象徴だというふうに思います。文明のアグレッシブな部分=「食べる」というのは、私にとってもテーマの一つです。そして、もうひとつの意味というのは私の個人的な経験からなるものです。私は実はとても弱い子どもでした。というのは、私は子どもの頃食べ物に対して嫌悪感を抱いていて、食べることを強く拒んでいました。親たちは私にまずい薬を飲ませたり、夏になると強制的にものを食べさせるキャンプに送ったりしたので、私は大変な思いをしました。そうされることによって、私の食べ物からくるトラウマはだんだん大きくなっていきました。一時期非常に体が弱くなって、歩けなくなった私は車椅子に乗せられて母親に運ばれていました。同世代の子どもたちは一年生になったのに、私は学校から1年間入学を拒否されてしまった経験もあります。私が幼少期に体験したこのようなトラウマは、当然ながら私の映画の中に登場するのです。それはもちろん、無意識であっても。

質問3

 空間についての質問です。シュルレアリスムにとって空間というのは大事なテーマであり、シュヴァンクマイエルさんの作品における空間は独特なものです。地下室というのは一つのドラマティックな空間ですが、シュヴァンクマイエルさんご自身と作品の登場人物は、その他にどのような空間を好んでいるのでしょうか。そして、東京、日本においてドラマティックな空間と接しましたか?または、東京、日本においてどのような空間を好みますか?

シュヴァンクマイエル 大変面白い質問をありがとうございます。確かに空間というのは大事ですが、シュルレアリスムにとって空間というのは一番大事なものではないと私は解釈しています。もちろん、ダリ、またはイヴ・タンギーの絵画において、空間というのは大事な役割を果たしています。しかしながら、ミロの絵画を見ますと、空間というのはどこへ行ってしまったのかというくらい、全く意味をなしていないわけです。しかし、非常によく気が付いていただけたと思いますが、私の映画と空間は切っても切れない関係にあると思います。私は、映画で窮屈な空間、非常に狭い所の怖さをよく扱っています。密閉された、トラウマを引き起こす空間です。これもまた私の幼少期と密接につながっています。たとえば「地下室の怪」「家での静かな一週間」「アリス」、そして一番の例は、「闇・光・闇」です。この作品はご覧頂いていると思いますが、手足、胴体など体のパーツが一つずつ部屋の中に入ってきて、気が付くと部屋に入りきれないというもので、この作品では狭い空間の怖さを描こうとしました。もちろんロケを行なう空間とも密接な関係にあるのですが、私にとって、俳優から小道具、大道具、これら全てが入っている空間というのは同じような価値をもっています。俳優、小道具、大道具、その場面、その全てがある空間というのは私にとって同じようなレベルにたつ要素であり、一つでも欠けたら私はそれを選ぶことはないと思います。そして、私は大道具も、小道具-それはもう非常に細かい小道具にいたるまで、徹底的に厳選しています。
 そして、日本、東京において私のトラウマとなっているのは地下鉄です。地下鉄は私にとって消せない迷路になっていて、理解することができないのです。ここにいる人たち(チェコセンターのペトル・ホリー氏をさして)の案内がなければ私は常に迷ってしまい、大変な目にあっていることでしょう。

質問4

 「ルナシー」を見て思ったのですが、異常な個人や社会からはみ出した人間に対する抑圧というのは、体制(スターリン主義など)の欠陥から生まれるものなのでしょうか、それとも人間社会というのは必然的に異常な人間を抑圧するといったシステムをもっているのでしょうか。そして、将来人間が進歩すれば異常な人間を抑圧することはなくなるのでしょうか? また、抑圧はシュヴァンクマイエルさんの作品にどういった影響を与えていますか。抑圧によって作品が生まれるといったことはあるのでしょうか。

シュヴァンクマイエル ジークムント・フロイトは、抑圧はあらゆる文明の基本にある、文明が誕生したところに抑圧が生まれてくるというような表現をしています。ですから、抑圧は絶対主義、スターリン主義や共産主義といった恐ろしい体制が考えたものではありません。例えば、チェコスロヴァキアの場合(今はチェコ共和国ですが)、1948年から1989年にかけての共産主義時代という絶対主義的な体制のもとでの抑圧は非常にプリミティブなものでした。なぜプリミティブかというと、それが目に見えるからでありました。目に見えるということは、それに人々が気付くことができるということです。その後、1989年のビロード革命やベルリンの壁の崩壊があり民主主義に戻ったのですが、抑圧はなくなったわけではありませんでした。ただ顔を変えただけだと私は考えています。抑圧は1989年以前のプリミティブで目に見える手段ではなく、私たちが気付くことのできない形になってしまいました。
 「ルナシー」は自由についての作品です。「ルナシー」、チェコ語の原題では「狂気」というタイトルなのですが、映画で私が取り扱おうとした問題は、「自由」という問題なのです。映画の原点はサド公爵の作品でした。私は彼の作品を読むことによって、彼が訴える自由がいかに難しいことかということがわかりました。サド公爵は、完全な自由、絶対的な自由を訴えているのですが、それがどこまで自由なのかということを考えさせられます。というのは、彼の考える完全な自由はあまりにも自由すぎて、それは他の人の自由とぶつかり合い、そこに不自由が生じるということに気が付いたのです。しかしながら、やはり私たちは完全に自由にならなければならないと思います。マルクスは、自由が必然的なものであることを私たちが理解して、自由にならなければならないといったことを言っています。しかし、彼の言葉に一つ欠けているものがあります。それは欲望です。私は欲望は大事なものだと考えています。
 私は、「自由」は存在し得ないと考えています。心を解放することはできますが、果たして自由になれるかどうかは疑問です。しかし、私は自由のことで常に闘い続けなければならないと思っています。「今はもう自由になった」という言い方はありえないと思います。私たちが自由をどこで感じとるかというと、それはやはり反乱においてです。ですから、我々が何かを創造するならば、何かに反乱して創造しなければならないと考えます。もし、現在芸術活動に意味があるとするならば、自ら、または作品を見てくださる人々の心を解放することにあるというふうに解釈しています。
 先ほどのご質問ですが、チェコスロヴァキアは40幾年間、絶対主義、共産主義という赤い道を歩んできました。もちろん「ルナシー」は絶対主義についての映画ではありませんでした。あらゆる世界でこのような映画の考え方を採用できるかと思います。実は、「ルナシー」のチェコでのプレミア上映は11月17日でした。この日が、かつて1989年にビロード革命が勃発した日と同じ日だったために、私たちが公開日を打算的に決定したのではないかという批判もありました。こういった愚かな発言をする人間は自由な人間とは言えなし、自由を目指して努力をする人間だとは思いません。

質問5

 シュヴァンクマイエルさんの映像作品には、終わりが振り出しに戻って延々と続くようないイメージの作品が多いと思います。私自身は、そういった永遠に続く時間を怖いと思うのですが、シュヴァンクマイエルさんはそうしたことに対して特別な思いをもっていらっしゃいますか?

シュヴァンクマイエル よく気がつきましたね。ただ、すべての作品がそうなのではありません。例えば「エトセトラ」「ファウスト」などです。何かが終ってまた始まりに戻る、というのは非常にドラマティックで我々にトラウマを与えるものであり、私の潜在意識のどこかにそれがあるのではないかと思います。そして、それは必然的に作品に出てくるのです。私はこのサイクルは、私たちが生きている世界の矛盾がもたらす要素だと考えています。犯した過ちからなんの教訓も得ずに、また同じような過ちを犯すのが人間です。何度言っても誰も気が付かないというのが我々の文明の現実です。これこそが一番大きなトラウマなのではないでしょうか。

質問6

 人は、何かを変えたいと思うものだと思います。しかし、何かを変えることを求めているのか、あるいは変わった後の世界を求めているのか私自身わからなくなることがあります。シュヴァンクマイエルさんはこれについてどうお考えですか。

シュヴァンクマイエル 何かを変えたいと思う人はこの世の中に非常に少ないのではないかと思います。反乱的な思考をもっている人間は、この世の中から排除される傾向にありますから、今のままでいいという人は大勢いると思います。そこで、想像力の問題が持ち上がってくるわけです。想像力の一番大きな機能、私にとって大きな機能は、我々が生きているこの世界と、それが変わった後の世界が存在しうるというところにあります。ですから、想像力には非常に反乱的な面が含まれているのです。そういう理由で、全てのあらゆる体制は想像力を非常に嫌ってきました。

質問7

司会 シュヴァンクマイエルさんの映画作品において、シュルレアリスムゆえに喜怒哀楽が表現されないのはわかるのですが、シュヴァンクマイエルさんは「心」という問題をどのように考えているのでしょうか。

シュヴァンクマイエル ご質問にお答えする前に、一つお断りしておきたいのは、シュルレアリスムに対する様々な誤解があるのではないかということです。例えば、美術史においてシュルレアリスムはアヴァンギャルドから生まれた一つの流れであり、それは既に終ったものだと解釈されてきました。しかし、シュルレアリスムは美学ではありません。シュルレアリスムは我々の現実の捉え方であり、強いて言えばその姿勢なのです。アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスムは芸術ではない」と言っているのは有名です。ですから、彼は「シュルレアリスムの絵画」ではなく「絵画におけるシュレアリスム」という本を執筆しています。私も、「私の作品はシュルレアリスム作品だ」という言い方ではなく「私の映画におけるシュルレアリスム」という表現をしています。ご存知のように、シュルレアリストたちが一番やりたいことは、人類が誕生したときのことを探るということです。それは潜在意識、無意識を探るということです。そのためにシュルレアリストたちは無意識を探る方法を探求してきたのです。無意識というのはいわゆる快楽原理によるものだと解釈しています。ですから、喜怒哀楽を探るより、無意識を探ることのほうがシュルレアリスムの大事な役割のひとつだと考えます。心についてはリアリズムの芸術が探って描いてきたわけですから、シュルレアリスムは無意識を描きたいということです。

質問8

 先ほど食べるという行為についてお話されたときに、食べ物に対する嫌悪感があったとおっしゃっていました。その嫌悪感は人が誕生したときからあるものなのか、あるいはその後に生まれるものなのか。食べるという行為が攻撃性を象徴しているという考えは、子供のころから無意識に感じ取っていたのでしょうか。

シュヴァンクマイエル そうですね、もうおぼろげにしか覚えていませんが、誕生したときに既に嫌悪感があるのか、その後に嫌悪感が生まれるのかという問題は、後者のほうが正解になるのではないかと思います。親や学校の先生にああしろ、こうしろと命令されると、それに反抗するのが子どもです。そこからトラウマが生まれたのではないかと思っています。もちろん大人になってほとんどの料理を食べられるようになりましたが、今もまだどうしても食べられないものがあります。それは茹でた玉葱です。しかし、それがなぜ食べられないのかは不条理といいますか、説明できません。またはほうれん草、牛乳を温めたときに表面にできる膜も嫌いです。それから今は食べられますが、かつては茹でた卵も食べられず、唯一食べられたのは茹でた黄身だけでした。あと、スクランブルエッグも大嫌いでした。

質問9

 「男のゲーム」など、シュヴァンクマイエルさんは死や破壊を笑いと結びつけて表現されることがあります。そのあたりのお話をお聞かせください。

シュヴァンクマイエル ありがとうございます。確かに、私の全ての作品にブラックユーモアが非常に強く入っているかと思います。なぜかというと、この文明を描くのに最もいい方法がブラックユーモアだと考えるからです。ブラックユーモアがなければ、この文明を描くことはできないと思います。たとえば「ルナシー」には肉片が登場しますが、これは明らかにブラックユーモアなのです。また、この作品に登場するクルミエール医師の理論もまたブラックユーモアです。私が非常に好んで使うのは、ホラーとブラックユーモアの二面性をもつジャンルです。右に行けばホラーになり、左にいけばブラックユーモアになるという描き方は映画作品だけにとどまりません。その他の作品もそのような制作をしています。

質問10 
 以前の作品と比べて、近作ではアニメーションの部分が的を絞られて使われているかと思います。実写とアニメーションのパートをどういった意味や感覚の違いで作り分けているのでしょうか。また、以前と現在ではアニメーションを使うことの意味が変わってきているのでしょうか。

シュヴァンクマイエル 私は常に、私はアニメーション作家ではないと言いつづけています。アニメーションは、私にとって手段の一つにすぎません。例えば「庭園」という作品ではアニメーション撮影は一つも使っていません。ご質問にお答えしますと、私はテーマによって、その手段を選んでいます。映画作品を構成する段階に入って、アニメーションと実写をそれぞれどういう割合で使うかというようには考えません。私が手段を選ぶのではなく、テーマ性が手段を選ぶと解釈しています。

質問11

 今日の日本の資本主義社会にあって、シュヴァンクマイエルさんの活動や作品が経済活動の一部として記号されたり、パッケージ化されたりする傾向にあると思います。また、野性的なものや、権力に対して暴力的なものがすぐに骨抜きにされるような傾向にあると思うのですが、そういった資本主義的な社会に対してどのように接していったらいいとお考えですか?

シュヴァンクマイエル 不思議なことであり、矛盾しているのですが、この文明の最も恐ろしいところは、文明を批判するものですらその文明が消費化してしまうところだと思います。私は自分の映画の制作資金を自ら出せるような人間ではありません。ですから、これも矛盾ですが、私の作品はやがて私を離れていく、つまり映画は商品となって私の所有物ではなくなっていくのです。私のもとを離れた映画がどういう運命を辿っていくかを、私が逆立ちをしても変えることができないことを非常に残念に思っています。一番いいのは、制作を止めてしまうことです。制作を止めることがこの問題の解決になるでしょう。しかし、制作を止めてしまうと、自分の思いを観客に伝えることができなくなってしいます。ですから、やはり制作したほうがいいと思っています。こういった葛藤は、常に私達が考えていなければならないことです。皆様もきっとそうだと思います。それは「ここまでだったら大丈夫、これ以上は嫌だ」という葛藤です。モラルの問題でもありますが。これは解決不可能な問題だと考えています。

質問12

 シュヴァンクマイエルさんの映画作品には、旋律のある音が入っているものと、ない作品があると思います。シュヴァンクマイエルさんは、聴覚というものをどう考えていらっしゃるのでしょうか?

シュヴァンクマイエル 先程お答えしたことに続く点かと思いますが、音もまた、俳優、大道具、小道具と同じように私の作品の中で重要な役割を果たしています。音もまた、俳優、大道具、小道具と同様に何かを象徴することができます。私の映画でよく使っているのは、いわゆる雑音、リアルな雑音です。聴覚的に考えれば、それらは普通のリアルな音に聞こえるかもしれません。しかし、私が使う音には非現実的な要素が非常に多く、映画の中で行なわれるあらゆる動作に音をつけようとしているのです。私にとって、車のドアを閉める音と、髪を梳く音は同じような価値をもちます。大事なのは音の編集で、その際、現実的な音を非現実的なものにしようとしています。例えば、いくつかの現実的な音を混ぜ合わせて、その比率を耳で数えながら非現実的な音を作ることを好みます。そうすることによって、音がもたらす意味をまったく違うものに変えることができます。ここ数年の長編においては、クラシック音楽を使用しています。私はこういった音楽も雑音のように扱っていて、音楽を切り取ってコラージュしていくことで何か新しいものを作ろうとしています。私の映画の音楽は、恋人たちのシーンに甘いメロディを流すというような、何らかの雰囲気をかもし出すための意味はもっていないのです。さらに、「悦楽共犯者」に自慰のシーンがあるのですが、そこにイタリアのロマン派のオペラを使うということもしています。オペラはこの場面にふさわしくありません。その場面と180度違う音楽を合わせることが、その場面を際立たせるのではないかと思います。また、「ルナシー」という作品においてもいくつかの曲を使っています。しかし、お気づきとは思いますが、曲を最初から最後にかけて流すのではなく、最後から最初にむけて逆に流している場面がいくつかあります。音は私にとって現実的なものに過ぎません。私は音を物として扱っているのです。

質問13

 私は「ルナシー」を観て、肉片のシーンに明るい音楽がかかっていることに衝撃を受けたのですが、今のお話を聞いて、そのことについて理解できました。一方で、この肉片のシーンと物語の関連性が理解できなかったのですが、これにはどういった意味があるのでしょうか。

シュヴァンクマイエル どういう意味があると思いますか?きっと何かお考えがあるでしょう。私が作る映画は様々な解釈が可能な映画であり、私はこれを「想像的映画」と呼んでいます。ですから、あらゆる解釈が正しいと考えています。私はよくこういった質問を受けるのですが、あえて自分の作品について解説しないことにしています。というのは、もし私が「こういうことを言いたかったのだ」という答えを出してしまったら、みなさんは「この解釈は正しかった」あるいは「この解釈は間違っていた」と思われるでしょう。私はそういうふうに考えて欲しくありません。みなさんに自由に考えていただきたいのです。願わくば、私の作品がある種の爆弾になって欲しいと考えています。みなさんの中で「これは何なのだろうか」と考えるための起爆剤になって欲しいのです。そして、みなさんが「こういう世界もあるのだ」と思い、さらにこの世界が無意識、潜在意識とつながっているということを考えるきっかけとなってくれれば、この上ない喜びなのです。あえていうならば、「ルナシー」のアニメーション・パートでは肉、舌、眼球、脳味噌などが蠢いているのですが、この場面と実写の間には類似性、あるいはパラレルなところがあるということにお気づきなのではないかと思うのですが・・・・。
 私はいつも言っているのですが、想像力的なことを描くためには、自分の無意識を辿ることが一番重要な要素だと考えています。こういった作品は理性を使って生まれるのではなく、無意識的に生まれてきます。私は、いつも自分の無意識の声に耳を澄まして制作を行なっています。ですから、私は作品を完成させた後、その作品を改めて観て「この映画は何についての映画なのだろう」という疑問にさらされます。そして、私自身によるその解釈もまた、万の解釈のうちの一つに過ぎません。どんな解釈も可能なのが私の作品なのです。ご存知の方も多いとは思いますが、シュルレアリスムの画家たちは、作品を完成させてからそのタイトルをつけていました。

質問14

 シュヴァンクマイエルさんの映画は、一般的な映画と表現方法や編集が違っているかと思います。シュヴァンクマイエルさんは意識してそういった映画と違うものを作ろうとなさっていますか。また、影響を受けた監督がいれば教えてください。

シュヴァンクマイエル もちろん映画だけでなく、オブジェやほかの作品においてもできるだけ自分の表現をしようと思っていますが、他の映画と違うものを作ろうとする意識は全くありません。また、私の映画には様々な手法を実験して独特なものにしようといった、実験的な要素もありません。そういったことは今まで一度もなかったと思います。もし私の作品の中に新しい手段-例えば特撮や、珍しいものを使っているということがあるならば、それは意識して生まれたものではありません。無意識的に生まれてきたものだと思います。そこには自分ならではの方法しかないと思います。
 もうひとつの質問ですが、私にも好きな作家がいます。それは映画監督のみでなく、画家や文学の巨匠たちも含まれています。たとえば映画でいうとルイス・ブニュエルデヴィッド・リンチ。文学でいうとエドガー・アラン・ポー、そして画家ですとマックス・エルンストとルネ・マグリット、それからもちろん17世紀のジュゼッペ・アルチンボルトです。そして、フェデリコ・フェリーニブラザーズ・クエイもなかなかいい作品をつくるようになりました。彼らの作品は普通のアニメーション映画のジャンルをはるかに超えたものだと評価したいと思います。

司会 最後に、この武蔵野美術大学には、絵画、彫刻、映像作品などを作っている人もいます。これから創作の道に入っていくことは楽しいことでも、闘いの連続でもあると思います。闘うシュルレアリストを自称されているシュヴァンクマイエルさん、その茨の道を進んでいく彼らにメッセージをお願いします。

シュヴァンクマイエル 非常に簡単なことです。反乱を起こしながら、自分が本当にやりたいことを絶対に通してください。その二つです。頑張ってください。

(2007年8月27日収録 掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)
写真撮影:三本松淳