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イメージライブラリー映像特別講座
「映画で学ぶ憲法(2):民主社会における『君主』の表象」の記録


講師
愛敬浩二(名古屋大学 大学院法学研究科教授)
山元一(慶應義塾大学 法科大学院教授)
司会
志田陽子(武蔵野美術大学 造形学部教授、教養文化研究室、造形研究センター研究員)
開催日:2012年11月22日(木)

 

この講座について

本講座では、第2次世界大戦終了時の天皇を描いたソクーロフの『太陽』を素材に、象徴君主制をとる国の君主の描き方を検証しました。とくにイギリス王室を描いたいくつかの映画と対比しながら、同じような象徴君主制をとる国でもその描き方や社会の反応が大きく違うことを見るという、イメージライブラリーならではの横断比較を行いました。

志田 映像講座「映画で学ぶ憲法」のシリーズ第2弾は、「民主社会における『君主』の表象」というテーマで座談会をさせていただきたいと思います。まず、今日の上映対象作品になりました『太陽』という作品を扱おうと発案してくださいました山元一先生は、慶応義塾大学法科大学院教授で専攻は憲法です。フランス憲法がご専門で、最近は国際的な人権保障問題、多文化主義問題、そしてジェンダー問題などにもご関心を持っておられます。日本の映画に大変詳しく、特に小津安二郎映画の大ファンでいらっしゃって、実際に小津安二郎と同じ北鎌倉に住んでおられるそうです。そして、愛敬浩二先生は現在、名古屋大学大学院法学研究科の教授で専攻は憲法です。特にご専門になさってきているのが、イギリスの憲法史、憲法思想史です。イギリスといえば日本に並んで王室がある、象徴君主というものを置いている国ですから、このイギリスと比較してみようということで、愛敬先生にお越しいただきました。
 では、今日の上映対象作品でありました『太陽』を中心に、まずは山元先生からお話を伺いたいと思います。先生からは上映希望のシーンをご指示いただき、それをイメージライブラリーの方の技術で特定しまして、上映していきます。

山元 私を含めてこの3人は普通の人とは違う仕方で、天皇・天皇制というものにかかわっていると思います。日本国憲法を見ますと、第1章天皇と、第1条から天皇は象徴であるというのが出てきますから、日本で憲法を勉強しようとすると、この問題は避けて通れないということです。

志田 ではまず洋風の料理が出されるシーン。最初の方の、天皇の食事のシーンです。

<『太陽』部分上映 冒頭の洋風の料理が出されるシーン。 00:00:50〜00:02:20>

山元 何であのシーンを最初に出していただいたかと言いますと、「天皇制」って、西洋のイミテーションだということが一番重要かなと。それが最初からはっきりと出ているということですね。この映画を作った監督の方はむしろ、背後にちょっと不気味な音がしていて、攻撃が東京に来るかもしれないという、そういう緊迫感の中で食事をしているということを言いたかったのかもしれませんが、私が見ると西洋の君主のまねをして、西洋風の料理を西洋風の服を着て朝ご飯から食べていると。そういうところをぱっと映している、これが明治のときにつくった日本の天皇制の本質を大変鮮やかに示しているなと感じたわけです。
 最初から最後まで出てくる彼は、徹頭徹尾、西洋風の紳士として出てくるというところは非常に重要です。皆さん、例えば和服を着た天皇ってたぶん見たことないと思うんですよね。皇后の方は、和服を着ているシーンがあるかもしれませんけれども、天皇自体、人前では着ていないというのは、西洋の王様たちと一緒に、自分がそこにいたときに、まったく違和感のない形でそこに共存できる、そういう風習を少なくとも外側に向かっては目指していた。そういうことがあるんじゃないか。

志田 私たちは天皇というと、この映画の中でも語られている通りの天照大神の神話時代から天皇なる血筋が続いていて、平安時代を描いたドラマにもよく天皇らしきものが御簾の向こうに出てきたりする、そこから続いている天皇と思いがちだけれど、実は武家社会、特に江戸時代というものを経た後に、明治時代が来たその後の天皇制というのはそれとは違って、西洋の君主制をまねたものであると。その通りだと思います。この映画の後のほうで、マッカーサーが、着物を着てこなかったのかと尋ねるところがあります。これに対して天皇は、儀式のときだけは古来の伝統装束を付けると答えていますが、それ以外は徹底的に西洋を模したものであるということは、本当に参考になりますね。
 次は御前会議のシーンをお願いします。

<『太陽』部分上映 御前会議のシーン。 00:14:30〜00:18:53>

山元 昭和天皇を語るときには、ここは落とせないシーンだと思うんです。ただ映画の中で、これが何月何日のことなのかというのはちょっと分からないんです。8月9日と8月14日に御前会議をやったということは記録から明らかになっていまして、それで1945年8月9日から10日にかけて、戦争を続けたいという人が3人、それから戦争をやめたいというのが3人、その会議にいて両方同数だったので両方の意見は聞いた。それで、じゃあ、私の意見を言わせてもらうということで、この戦争はやめたいということを言う。これがいわゆるご聖断として有名になり、戦争をやめたということから、彼のイメージというのは、平和的なイメージが付くというので重要なわけですね。
 さらに、この映画の中では、裕仁のさまざまな側面を映し出しているわけで、生物学者としての側面もありますし、それから国家の最高度に重要な決定の中のキーパーソンとしての役割を、デフォルメがいろいろあるとは思いますがきちんと描いています。非常に緊迫感のある、続けたい側も必死だし、やめたい側も必死という状況の中で、皇居で会議をしているシーンを、きちんと描いているなというのが、私の印象です。

志田 このシーンで私が、脚本家が本当によく調べて考え抜いているなと思ったのが、裕仁が、政治を生臭く語らず、明治天皇が詠んだ和歌を引き合いに出すところですね。天皇制というのは、血筋が代々受け継がれているところに正統性があるというところに重ねて言えば、自分の前の前の代の天皇は何を言っているかという先例を見る、すると昔の代の和歌に詠まれているという、抽象的なところから、そこから何を読み取ろうかという話に持っていくところ。昭和天皇が実際、会議でこの和歌を出したかは、私は分からないんですが、映画で描く側のソクーロフも、そういった天皇制の特徴をよく研究した上で、この会議での天皇の言葉というのを考え抜いているんじゃないかと、感心したところです。

山元 今のはポイントをすごく突いていると思うんですが、後で見る『英国王のスピーチ』では、スピーチするというのが非常に重要なのに対して、日本は天皇が歌を詠むというのが大切で、そこが面白いと思いました。それから、明治天皇の方も、天皇というのは横並びに比べる人はいないので、比べるとなると自分の祖先で、特に尊敬していた明治天皇だということで、ここは彼の頭の中ではどういう構造ができているかがよく分かるように描かれています。

愛敬 僕がこの映画を見て、一言申し上げたいことは、やっぱりロシア映画だということ、日本映画ではないということです。佐藤忠男先生の『日本映画史』の第4巻に、「天皇と映画」という項目があり、それをご覧いただければ、いかに天皇を描くことが困難であったかということが分かると思います。
 例えば戦前、1925年、衣笠貞之助が『日輪』という映画の中で、卑弥呼ですよ。天皇と系譜上の関係があるかもよく分からない卑弥呼を描いたところ、右翼が妨害を起こしたという事件があるそうですし、1951年の吉村公三郎監督の『源氏物語』でも、平安時代の帝ですけど、それさえ御簾の奥にいてよく見えないとか、天皇を描くということは非常に難しかったわけです。
 『太陽』では、御前会議のシーンで天皇が描かれていましたが、これは驚くべきシーンと考えていただきたい。1952年の『黎明八月十五日』という映画では、カメラを天皇の目に置くことで、御前会議を描きつつ、天皇は描かないというテクニックを使っています。1952年でもそうなんです。
 岡本喜八監督、この方は結構バイオレンスな映画を作る方ですが、岡本でさえ、『日本のいちばん長い日』(1967年)で天皇は遠景で描いた。このように、日本で天皇を描くことが非常に難しい。ですから、ロシア人だからこそ、天皇の微細な日常を描いている、というところがすごく重要だと思います。

志田 次はマッカーサーと会見をする裕仁のシーン、お願いします。

<『太陽』部分上映 マッカーサーと会見をする裕仁のシーン。 01:19:47〜01:21:27、01:25:12〜1:26:00>

山元 ここは、非常に面白いですね。実際にこんなふうに葉巻で火を移したりはしなかった。ここは、実際にはあり得ない。例えば、天皇が英語をしゃべっているということ自体、ありえないと思いますけれども。戦後の日本の中で、結果的には、天皇制は守られた、ここはその要になる出来事ですね。
それで、安保条約がその後できて、占領軍は今もそうですけれども在日米軍という形で日本にいるということで、日本とアメリカの特別な紐帯、つながりというものができてくる。これが日本の戦後の政治をもっとも基本的なところで規定しているわけですが、その事実とこのシーンというのは、無関係では存在しえないわけですね。
 まず、この中でたぶん一番監督が描きたかったのは、マッカーサーが彼に立派な人であるという敬意を持てるかどうか。ここは非常に重要なところだと思うんですね。敬意を持てるかどうかということを知るということで、直截にヒトラーが比較の対象として出てくるわけです。これは、とても重要な問いでして、連合軍は日本とドイツとイタリアと戦っていたわけですから、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニと裕仁がファシズム勢力すなわち枢軸国の側で、それが連合軍と戦っていると、こういう構図の中でやっていたわけですから、もし、ヒトラーと裕仁が仲良しだったら、これは死刑にするしかない。戦争責任を徹底的に追及するしかないはずなんです。
 だから、そこでマッカーサーは聞いているわけですね。ヒトラーが友達なんじゃないか。しかしそこで彼は会ったこともないんだと言って、はねのける。それはそれなりにマッカーサーが納得できるものであったということが重要ですね。
 葉巻のシーンは、エロチックというか、ゲイな感じというか、そういうセクシュアルなものがすごくあるシーンだと思うんですが、これは日本とアメリカの離れられない戦後における関係性というものの始まりを描いたものと感じます。今の日本の歴史というのは、このシーンを超えるものとしては存在していない。そういう意味で、強い示唆を与える、見事な持っていき方。すべてフィクションですけど、その中に、こういうふうに重要なものがちりばめられているなという感じがします。

志田 ありがとうございます。確かに今の葉巻のシーンは、日本人が描こうとしたら、描けないシーンだろうと思います。またそこに二つの国のその後の関係が象徴されていると。続いて、山元先生からの上映指示の、人間宣言について語るところをお願いします。

<『太陽』部分上映 人間宣言について語る裕仁のシーン。 01:36:50〜01:38:05>

山元 ここも大変重要。このシーンが重要というよりは、天皇が、神格を否定するということ自体が重要で、それがこういう形で、彼の生活の中で、生活というか人生の中で、こういう形で描かれているというのが、印象的で、これはもちろんこんなふうにあったとは思わないわけですね。
 これは、歴史では、GHQが天皇の神格を否定する宣言をした方がよいと言い、それで天皇も同意して行ったものといわれていますね。実際にこれが行われるのは、1946年の1月1日ですので、戦争が終わった8月15日からしばらく経って、日本が占領されてからの出来事です。
 これはどうも有名なあのラジオの話(玉音放送)と人間宣言という、それ自体は別にラジオ放送したわけではない、文書を出したものとが混同されていて、後で録音した若者が自決したというところが出てくるんですけれども、これは、実際には自決はしてないと思いますけど、録音したのは8月15日のラジオ放送の方で、だからその2つは違うんです。その個々の事実はちょっと置いておきますと、神格、単なる人間であるにもかかわらず、血筋の故に神格性を与えられてしまった人が、神格を放り出す、普通の人間に戻るということの持っている意味ですね。
 これは、普通の人間には味わえない。神格を普通は味わえませんし、神格から離れるということも味わえないわけで、そこをどう描いていくかというところがすごく興味深い。ちょっとカラ笑いをしていたように見えましたけれども、やはり嬉しかったんじゃないかと思うんです。無理やり神の座に上げられていたわけですから。それで、さらにまたこの後、桃井かおりが扮している皇后が来て、そこでますます人間となった彼の喜びというのが素直に出ているわけですね。
 ですから、そこは、政治的、社会的な話と別に、人間としてはそういうふうに感じるだろうなということが、自分のような憲法を研究している人間からすると、その流れを豊かに見ることができる気がするんですね。天皇が人間になったということを裏切りと感じる人たちもいるわけですね。神である天皇の下に命を落としたわけですから、自分だけ人間になっちゃったら、死んだ英霊たちは救われないじゃないかという、逆の感情も起こってくる。それは、三島由紀夫の『英霊の声』というのに出ています。映画でそのことは言っていませんが、それを部分的に暗示させるのが、桃井かおりが、若者が自決したと聞いたときに、ものすごく暗い顔をするところです。そこは、天皇本人としては嬉しいかもしれないけど、やっぱりそんなに簡単じゃないのだ、ということを言っている気がします。

志田 もう1シーン、「YouTube」からの天皇の広島行啓のシーンをご指定いただいているのでお願いします。

<動画上映 You Tubeより

山元 ここに映っているのは原爆ドームです。これはもう戦争が終わって2年ぐらいたったとき、1947年12月7日に広島へ初めて行くわけですね。ポツダム宣言が出されたのは7月の末だったんですけど、これをすぐに受け入れていれば、8月6日とか8月9日の広島や長崎よりも日付が前なので、原爆が落とされなかった可能性もあるわけですね。
 しかし日本は、長崎の原爆が落とされるまでは、ポツダム宣言を受け入れなかった。そこには、やはり天皇の責任もおそらく一部はあると思うんですけれども。しかし彼は広島に行って、そんなことを民衆から突き上げられることはなく、原爆ドームを背にしながら、熱狂的な歓迎を受ける。ビックスという歴史家の人が、このシーンを見たら日本が戦争に勝って、それで各地を回っている天皇が称賛されているシーンにしか見えないんじゃないのかと言っているんですけれども、まさにその通り。
 ここで感じる違和感というんですか、この彼は戦争責任は問われないで、平和な天皇として、やがて死ぬわけですね。釈然としないものがやはり残るんですけれども、しかしこういったものの延長に今の日本があるんだなということです。

愛敬 先ほど私はロシア人だから描き出せた映画だと言ったんですが、反面、ロシア人だから描き出せなかったことがあるんじゃないか。たとえば、天皇の人間宣言は、昭和天皇は「神から人になる」ことが苦痛だったのではなくて、「万世一系」という、少なくとも神話的には天照大神から、歴史的事実としてもたぶん千何年以上、家系が続いているわけですよね。それが自分の代でなくなるかもしれない。この恐怖感って僕はすごいと思うんですよ。
 皆さん、ちょっと考えてほしいんですけど、自分の家が代々の地方の名家で、何百年も家を守ってきたわけですよ。なのに、自分がその家を守れなくて、売り払ってしまうかもしれない状況に陥った場合、これはかなりの苦痛ですよね。ご先祖様に顔向けできません。
 昭和天皇の場合、地方の名家とは比べものにならない苦痛でしょう。日本に1つしかない、もしかしたら世界に1つしかないかもしれない、累々と続いてきた万世一系の体制が、自分の代でなくなってしまうかもしれないのですから。昭和天皇だって、自分が神ではないということくらい、近代人であればたぶん分かると思いますので、神から人になることを恐れてはいなかったのではないか。けれども、自分の代で万世一系が途絶えてしまうかもしれないということへの恐怖感は物凄かっただろうと思うんですけど、そこはどうも描ききれてないのではないかという印象をもったという感想を申し上げておきます。

志田 ところで私たち3名は、憲法を専門にしている人間なので、一番大事なところを当たり前過ぎて言わずに話を始めてしまいました。君主といったときに、西洋では近代以前の国王、日本では第2次世界大戦終了までの天皇というのは、政治権力を持つ君主、主権者でした。実際に天皇が政治的決定をどのくらい主体的にしたか・できたかという問題は置くとして、天皇の言葉である政治的決定が語られたとき、それが日本国民に、政治的決定という形で浸透していく。そういう力を持つ存在だったんですけれども、象徴といったときには、この政治権力性はもう持たないということです。
 それでは「象徴」として君主が存在するとはいったいどういうことを言うんだろう。私の授業でも、象徴ってこの場合何ですかと聞かれることがあります。憲法の教科書でいう説明は記号論などをやっている学生には物足りないのでは、と私も悩むところです。
 そこでイギリスの、その辺をとても分かりやすく描いてくれている映画として、『英国王のスピーチ』という作品を選びました。イギリスでは、政治権力性は持たない君主が、人々が不安にあるときにスピーチをすることで人々を落ち着かせる、なだめる。そういった役割を負っているんですけれども、これがなかなかできずに、苦労した国王が歴史上いるというところを描いた映画です。
 こちらは、かなり人間くさく描かれていまして、今の『太陽』とは大変対照的な印象が持てる映画だと思います。主人公の国王ジョージ6世は第2次世界大戦時の国王なんですけれども、どもりの症状があってスピーチができない。とても自信がない状態。その状態を、2つシーンを続けてお願いします。まずは映画冒頭のスピーチのところです。

<『英国王のスピーチ』部分上映 国王のスピーチ。失敗しているシーン。 00:03:30〜00:05:07>

志田 この映画は意図的だろうと思うんですけれども、この国王のスピーチの様子と、それを受け止めている民衆の表情というのがシンクロしていて、国王がおどおどしていると民衆もとても不安げな気分になる、という雰囲気が非常によく描かれていて、象徴君主の役割はここだというのをとても分かりやすく描いてくれているように思うんです。次のシーンは、クリスマス放送でスピーチしなきゃいけないというので、国王ジョージ6世がすっかり落胆している、自信がないというところです。

<『英国王のスピーチ』部分上映 泣き出す国王。「僕は国王じゃない」。妻がなだめる。 01:14:45〜01:16:20>

愛敬 やや誇張されているとの評価もあるようですが、ジョージ6世がどもりであったというのは実話です。ジョージ6世に関する記述をみると、そのことが書かれています。

志田 そして家族に支えられる、家族の前では素顔を見せるというところも、この映画は西洋映画らしく、大変分かりやすい描き方で出てくるわけですね。先ほどの映画に比べると、私たちはこういったシーン、違和感なく見られる。これに対して先ほどの『太陽』は、むしろ全体に漂う違和感というのが大変重要なポイントだったんだろうという対比もできるような気がします。
 次は山元先生からのご指定のところなんですが、王位に就く根拠に関連して、国王の特権と義務が語られるシーンというのがあって、これが象徴君主というものを大変分かりやすく描かれているところではないかと。

<『英国王のスピーチ』王位に就く根拠に関連して、国王の特権と義務が語られるシーン。 00:59:20〜01:01:10>

山元 ちょうど憲法という言葉も出てきて、ぴっときたわけですけれども、私はイギリスのことは全然知らない、主に外国の勉強はフランスでやっているので、フランスは革命の時にルイ16世という王様の首を飛ばしちゃいまして、その後、紆余曲折を経たあとで共和制が続いていますので、こういうことがあるのかとびっくりしたんです。
 これは日本でいったら、皇太子と秋篠宮が話しているということですよね。その兄弟の間で王位をどうやって継承するかという話になっていて、何で私たちは王様でいられるのか、王様ということについて、正統性があるのか。それはきちんと義務を果たしているからであろう。そういうところを彼らなりに問うていくというシーンがあるんですね。
 日本だと本当に血筋の問題、血統だけの問題というふうになっていて、ここでいうような、君は王様になりたいからスピーチの練習しているんだなとか、そういう話には全然なってこないはずです。そこが一応どちらも世襲的に王位が継承されていく同じシステムであっても、ずいぶん違うなと感じるんですね。比較として面白いなと思いました。

志田 今日は上映しなかった別のシーンで、ジョージ5世という父の国王がいるんですが、この人が息子のジョージ6世を心配して、このように語るところがあるんですね。昔の王は、軍服を着て馬にまたがっていればよかったが、今は国民の機嫌を取らねばならん。我々は役者なんだ、と。昔の国王というのは戦場にも出たし、政治的な権力も持っていたけれども、それと同時に、やはり象徴としてのカリスマ性というものも発揮して、人々の求心力にならねばならなかった。そのときに、話はしなくていいから、軍服を着て馬にまたがって、戦場でその姿を現すという、そのプレゼンスだけでよかったんだけれど、現在はそうではないんだと、言葉で語り掛ける役者にならないといけないんだという「象徴君主の義務」を、父親の国王が説教しているシーンがあります(『英国王のスピーチ』00:30:00〜00:32:39)。これも今の山元先生のご指摘と重なるところではないかと思います。
 もう1カ所、山元先生のご指摘のところをお願いします。日本的な現人神とはまったく異なったイギリス国王の地位について。

<『英国王のスピーチ』部分上映 兄王の退位問題が政治問題として議論されるシーン。 01:07:00〜01:11:30>

志田 ここは、スピーチの訓練をしてくれているトレーナーが普段なら面会できるところを、その面会を断ってでも、ある会議をしているところなんですが、それはちょうど今、愛敬先生が説明してくださった通り、兄エドワードが民間の女性と結婚したがっている。なので、退位をしなければいけないんじゃないかと議論しているところです。

山元 ある王がいて、その王が死んで、あるいは不都合があって王位が他の人に移っていくという、そのプロセスはどうやって決定されるのかということについて非常に面白いわけです。日本の象徴天皇制というのは、少なくとも現在の法律制度では退位できない。生きているときには退位できないので死ぬまで天皇で、死んだ途端に次の人が皇位を継承する。こういう仕組みになっていますので、こういうふうに首相を交えて、王の候補者が説得して、次の王は君だということはまったくないわけですね。
 もう1点。実はこれが昭和天皇だとちょっと複雑な話になりまして、彼は退位を考えていたんですね。戦争に負けたときと、それから東京裁判という戦争犯罪の国際裁判が終わったときと、それから日本が独立したとき、この3回、彼自身、退位した方がいいんじゃないかという気持ちで揺れたらしいんですね。国会でも、やがて首相になる中曽根が若いころ、天皇は退位したらどうだということを吉田茂という首相に対して言っているぐらいでして、そういう点において随分違うなというのが面白かったですね。

愛敬 念のために言っておきますと、エドワード8世のケースは例外的ですね。生存中に王位を失ったのは、他に有名な例としては、名誉革命のときに王位から排除されたジェームス2世のケースがありますね。もちろん、王位に就く前に、やばそうな人を王位継承者から排除するということは、結構あるんでしょうけれども。

志田 では、この『英国王のスピーチ』のクライマックスに当たるシーンをお願いします。上映と重ねてしゃべります。

<『英国王のスピーチ』部分上映 イギリスはドイツと戦争状態に突入。ラジオ生放送でスピーチ。不安げな町の人々、不安げな国王のシーン。 01:34:00〜01:38:20>
(音声を落として上映しながら解説)

志田 まずイギリスがドイツと戦争状態に突入したというところです。これだけの長いスピーチはとてもこなしきれないと不安になった国王は、ドクターにスピーチ前の特訓をお願いするんですが、この特訓の中でジョージ6世が、いろいろ口汚い言葉をぽんぽん間に挟みます。それは訓練の中で自分が抑圧していた、国王たるもの人前で出してはいけないということで抑圧していた言葉が多すぎて、それがどもりという症状になっていたとわかってくるんですね。だから、しゃべる練習では、こんちくしょうみたいな言葉はどんどん出せと言われていた。その集大成のように、スピーチを集中的にしゃべる練習と、くそったれ、この野郎という言葉が出てくるところが面白い場面です。こういうところは精神分析の知識が下敷きにありますね。国王も人間なので、そういう人間らしい言葉が許される場がないとしゃべれないのは当然だという、国王の人間くささを訴えているシーンなんじゃないかなと思います。

(プレッシャーに負けそうな国王。「できない」「バーティ、時間よ」のセリフで上映終了。)

志田 このようにして、見る者をはらはらさせつつ、最後のラジオ放送スピーチのシーンになるわけです。

<『英国王のスピーチ』部分上映 ラジオ放送スピーチがイギリス全土に流れるシーン。 01:42:40〜01:47:29>
(音声を落として上映しながら解説)

志田 そこで対比として皆さんに注目していただきたいのは、先ほどドイツとの戦争に突入しましたとアナウンスが流れたところで国王が、こんなスピーチできっこないと不安におののいていたときには、民衆の表情も非常に不安げで、どこへ逃げたらいいんだろうと何か騒然として、街並みも暗い感じがしていたんですけれども、この国王のスピーチが見事に流れていくというときに、民衆や、これから自分たちも戦闘活動に入らねばならないという軍人たちの表情が映し出される。これが、国王の心理状態と国民の心理状態がシンクロしているように描かれているというところ。単純化しすぎかもしれないけれども、象徴君主に託された役割がこれなんだというところが、非常に分かりやすく見えてくると思います。

(部分上映終了)

志田 そしてスピーチを見事に演じ切った国王に対しては、最後に家族が祝福をするシーンがありまして、ここは山元先生がお気に入りというシーンですよね。山元先生からは、この部分にコメントをいただいていまして、「『太陽』のラストシーンでも、そしてこの『英国王のスピーチ』でも、君主というのは本質的に孤独である。それを最後に支えるのは、やはり心を許せる家族だというところが、どちらの映画にもラストシーンで描かれているというところは興味深い」、と。

<『英国王のスピーチ』部分上映 夫人と子どもたちから祝福されるシーン。 01:49:10〜01:51:10>

志田 先ほどの天皇が広島原爆ドームの前で手を挙げたときの人々の様子とちょっと重ね合わせて見てほしいんですけれど、こちらの映画は、この国王、最初はまるでスピーチができなかった人が、見事なスピーチができた。その感動と重ね合わせて、人々が盛り上がっているところが描かれているわけですね。ですが、おそらく日本の天皇の場合には、何かを達成したから感動するという、そういう問題にはならないだろうというのが、山元先生のご指摘ではないかと思います。
 次、愛敬先生からは、『バンク・ジョブ』を素材に、さらにここまでいっているものもあるよというのをお話しいただければと思います。

愛敬 私の役目は、イギリスの場合、国王や王室をどれだけ自由に描くことができるのかを話すことにあります。ところで、僕が今、手にしているのは、エリザベス女王の人形なんです。これは、僕の研究室に置いてあるものなんですけど、これは太陽電池が付いていて、日光が当たると一日中手を振り続けるんです。では、天皇でこれと同じ人形を作ることができるのか。少し考えてみてください。 さて、『バンク・ジョブ』という映画は、このイメージライブラリーにふさわしい映画かどうか非常に怪しい映画です。まず映画監督がロジャー・ドナルドソンといって、これはトム・クルーズの『カクテル』やケビン・コスナーの『13デイズ』などを作っている人で、完全にエンターテインメント系の映画監督です。主演もジェイソン・ステイサムという人で、『トランスポーター』でしたっけ、アクション物の俳優です。サスペンス映画としては非常に面白い映画です。
 前提をお話しさせていただきます。1970年にイギリスのベイカー・ストリートにあるロイズ銀行の地下に穴を掘って銀行強盗が入って、金庫の中の物を全部持っていかれたという事件があるんですが、その事件をなぜかイギリス政府は報道しなかったんですね。政府は「D-Notice」という報道禁止の通告を出して、この事件について報道させなかった。莫大な被害があったのに、犯人は捕まっていません。この映画はその事件を、政府が明らかにしたくないものが奪われたから、報道管制をしたんだと解釈をして、それが王室のスキャンダルだという設定にしています。そのスキャンダルの証拠になるものをある黒人が握っていて、だから彼はやりたい放題なんですね。
 このマイケルXというのは実在人物です。マイケルXは、黒人運動家として有名な人物で、ジョン・レノンとオノ・ヨーコも寄付した人らしいんですけど、ここではめちゃくちゃな悪人として描かれています。実際、彼は殺人罪で絞首刑になっています。
 このように、事実とフィクションが交ざっている映画です。簡単に映画の筋を紹介します。ステイサムたちは銀行強盗には成功するんですけど、余計なものまで奪っちゃったんですよ。マフィアに買収されている警察官のリストです。だから、マフィアから追われる。その一方、イギリスの諜報機関であるMI−5からも追われる。そして、仲間がどんどん殺されていく。でも、クライマックスでは、アクション俳優のステイサムが爆発して大活躍します。そういう娯楽映画の中で王室がどう描かれているかを見ていただこうと思います。

<『バンク・ジョブ』部分上映 マーガレット王女らしき女性の奔放な性行為が盗撮されるシーン。 冒頭〜00:07:00>
(音声を落として上映しながら解説)

志田 この音楽はT. Rexですね。

愛敬 T. Rexの“Get It On”ですね。この女性がマーガレット王女です。映画の中では、マーガレット王女であるとは言いませんけれども、マーガレット王女だということは分かります。髪型は完全に当時のマーガレットを真似ていますし。この描写が日本の皇室についてできるかどうかを考えてみてください。顔は絶対映さないんだけどマーガレットなんですね。
 これがジェイソン・ステイサムです。かっこいいですね。彼は小物の悪党の役を演じます。お金に困っているところに、昔のガールフレンドから銀行強盗の誘いが来る。

(部分上映終了)

愛敬 先ほど出てきた女が麻薬を持ち込もうとしているのを見つけて、それをネタに彼女を脅して、銀行強盗をさせることになります。ステイサムが仲間を集めて銀行強盗に成功するんですが、その金庫の中から取らなくてもいいものも取ってきてしまって、取られたと思ったマフィアたちが怒って、彼らを殺し始めて、それで何とか自分たちが助かるために、政治家ではなく王室からの保護を求めるんです。

<『バンク・ジョブ』部分上映 主人公(ジェイソン・ステイサム)が安全を図るため、女王と取引。マウントバッテン卿が登場し、問題の写真を見て「Scallywag(お転婆娘め)!」と言うシーン。 01:30:20〜01:38:00>
(音声を落として上映しながら解説)

愛敬 パディントンという駅で会って、ここで新しいパスポートをよこせと交渉するシーンですね。このマウントバッテンというのは、ビクトリア女王の曾孫で、エリザベスの旦那さんであるエディンバラ公の大叔父に当たる人物です。王室と関係の深い大物の貴族です。
 関係者がみんな、パディントン駅に集まってきたシーンです。この人がマフィアのトップです。ちなみに、マフィアのボスを演じているのはデヴィッド・スーシェ、NHKで放映していたドラマでポアロの役をやっている人ですね。次のシーンで、マウントバッテン卿が出てきますので、ちょっと注目してください。写真をもらった後、彼がいう台詞が、僕はすごく好きなんですよね。

(部分上映終了)

愛敬 日本の天皇・皇族に関して、こういう描写が可能かということをちょっと考えていただければというのが、この映画を選んだ意図です。先ほど説明したとおり、マウントバッテン卿というのは、すごく王室と近い人物だから、女王の代理として、訴追免除の約束ができる。「イギリスらしさ」という観点からすると、政府ではなくて、王室に許可を求めるというところにも注目してください。ともあれ、マウントバッテン卿みたいな人物がこの場面で出てきたということは、問題の写真に写った女性はマーガレット王女だということになっちゃうんですよね。映画でははっきりと、マウントバッテン卿であると言ってますから。
 このシーンでもう1つ注目してほしいのは、マウントバッテン卿が盗撮写真を回収した際に発する一言です。彼は、「お転婆娘だ She is a scallywag」と言っています。scallywagは、「ならず者」というような意味で、普通、王室の人とか貴族が使う言葉ではないみたいです。大きな辞書で調べると、リバプールのような港町のちょっと乱暴な人々が使う言葉と書いてあるんですけど、マウントバッテン卿のこの台詞が目茶苦茶かっこよくて、この一言が欲しくてDVDを買ったんです。それぐらい大好きなシーンです。
 日本の皇室に関して、あんなにかっこいいシーンは描けませんよね。そこがちょっとしゃくに障る(笑)、というのが、今日、この映画を紹介させていただいた理由です。『太陽』での昭和天皇の描き方は、ちょっと子どもっぽすぎるんじゃないかという不満を僕は持っています。もっとかっこいい描き方だってありえるのではないか。イギリス王室は、タブーが日本より弱いからこそ、こういうかっこいい描き方もできるという一例として紹介させていただきました。

志田 次は、愛敬先生がお持ちいただいた映像集があるということなので、お願いします。

愛敬 これは、王室の描き方としては本当にひどいものばかりです。(机上のエリザベス人形をみて)あ、人形が手を振り始めましたね。では、上映をお願いします。

(上映開始)

愛敬 これは、モンティ・パイソンという1960年から1970年にBBCで放送されたものです。ちなみに、このアニメーションを作っているのが、テリー・ギリアム。現在は映画監督として有名な方ですね。『未来世紀ブラジル』とか、『12モンキーズ』とか。最初のアニメーションでは、大砲の砲弾がどこに飛ぶのかを見てください。日本でこの描写が可能かです。大砲で頭を打ち抜かれたのは、ビクトリア女王です。ビクトリア女王の頭を突き抜けた砲弾が、半裸の女性の乳房の部分にくっついてブラジャー代わりになる。こんなシーン、日本で可能かですね。
 次のシーンです。日本の競馬でも、天皇賞ってありますよね。ビクトリア女王杯障害レースといえば、優勝者に女王杯が授与されるレースだと思いますよね。ところが、この映像では、馬ではなく、ビクトリア女王が障害レースを走るんですね。すごくおかしくて、走ってるのが全員ビクトリア女王だから、アナウンサーは、「第一位はビクトリア女王、第二位もビクトリア女王」と言ってますね。この描写を明治天皇でやることは可能でしょうか。
 次もモンティ・パイソンからです。これは、生物の生存競争に関する説明が、どんどん馬鹿な話になっていくというスケッチです。マーガレット王女が出てきます。朝食とマーガレットの生存競争なんですね。そして、ケント公という貴族とその仲間が現れて、マーガレットに殴る蹴るの暴行。イギリスではなぜ、こういう描写が可能なのかというのが、昔から関心があることなんですね。
 次の映像は、イギリスのコメディアン、サシャ・バロン・コーエン主演の『アリ・G』という映画のワン・シーンです。あまりにお馬鹿でお下劣なので、決してお薦めはしませんが、僕は大好きです。失業者だったアリ・Gはお馬鹿でお下劣な政策を訴えて国会議員となり、エリザベス女王に謁見するのですが、そのとき、転んで、女王のスカートを引きずり下ろしてしまいます。
 次はエルビス・コステロの“Everyday I Write the Book”という曲のミュージック・ビデオです。一目瞭然だと思いますけど、チャールズとダイアナのそっくりさんですね。ダイアナはテレビに夢中で、チャールズに全然関心を向けないという、そういう内容です。チャールズはダイアナの気を惹くため、彼女の見ているドラマの登場人物の格好をして現れるんですけど、ダイアナは完全無視なんですね。このシーンを皇太子と雅子さんで描けるのか、ちょっと考えてみてください。極めつけのシーンは、チャールズがサーカスのライオンのように、火の輪をくぐるシーンです。でも、ダイアナは完全無視。チャールズは全然相手にしてもらえません。だいたいこんな感じでこのビデオは終わるんですけど。
 次はご存じの方もいるかもしれませんが、セックス・ピストルズというパンク・バンドのポスターです。エリザベス女王の写真に目張りが入っています。これ指名手配写真ですよね。イギリスの国歌と同じ題名の曲(God Save the Queen)のジャケットですけど、歌詞を聞くと、「女王陛下万歳!ファシスト体制万歳!」とか、「お前らに未来はない」とか、そんなことを歌ってます。こういう曲が、普通にシングルとして発売されてヒットするというところは、やっぱり日本と決定的に違うのかなということで、紹介させていただきました。

(上映終了)

愛敬 僕がこういう問題に関心を持ち始めたのは、イギリスの郵便局に行ったら、王室の人々の顔写真、それも団扇みたいに大きな顔写真で作った絵葉書を売っているんです。その絵葉書を買えば、女王や皇太子の顔に落書きしたり、仮装パーティーの際に被る御面としても利用できるわけですよね。日本で無理でしょう、そういう絵葉書を売るのは。この違いは何だろうということをぜひ考えてみられたらなというのが、僕の今日のプレゼンテーションの趣旨です。

志田 モンティ・パイソン、そしてセックス・ピストルズの『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』、一つ一つは何となく知っていても、こうしてまとめて見ると、衝撃的なぐらい、王室をおちょくることをメディアやアーティストがやって、そして社会もそれを楽しんで受け入れているということですね、イギリス社会は。
 今日の講座とは別の「芸術と法」シリーズの講演でも扱ったことですが*、日本では、天皇の肖像をコラージュの素材として使った美術作品が物議を醸してしまって、美術館で展示することもなかなかできないという問題があります。日本ではいかに君主を描くことがタブーであり描きにくいかということと、今見た映像を対比していただくと、大変な違いが分かってくるかと思います。

山元 これは日本ではないなということは確かですね。だから、同じ、イギリスには王室があります、日本にも皇室があります、それぞれ民主主義の国でも、君主制がありますと言っちゃうと、一言で終わっちゃいますけど、その中身がやっぱり全然違う。
 日本の場合は、天皇のものまねとかするコメディアンはいないですよね。皇室、皇太子のものまねとかですね。これはだからむしろ『太陽』の中のイッセー尾形は完全に裕仁のものまねをやり続けたわけで、普通のコメディーの枠の中ではできないことを『太陽』という映画の中でやったという点でも、非常に日本の恐るべき、触れてはいけないもの、アンタッチャブルとしての皇室というものの存在が日本社会にはやっぱりあります。

愛敬 ザ・ニュースペーパーというコント集団がありますよね。政治家とかの真似をして笑わせる人たちです。僕はけっこう好きなので、名古屋公演があると見に行くんですけど、皇室関係者の真似は見たことがありません。政治家をあれだけ馬鹿にするのに、皇室の人たちは出てこない。雅子さんなんてそれなりに、面白おかしく演じられそうなのに。山元先生のおっしゃる通り、同じ象徴君主、立憲君主であっても、社会がどう受け止めているかということの違いも踏まえて、その是否を議論する必要があるんじゃないかなと思いました。

志田 今日のメイン上映作品対象の『太陽』との比較で、一言ずつ、今日のまとめをお願いします。

愛敬 『太陽』を見て、やはり感じたのは、外国人だから描けたのだろうということですね。日本では現在でも、あのように天皇を描くのは難しいということを僕はあらためて痛感しました。僕は映画好きですので、『太陽』についてはもちろん、映像が美しいとかいろいろと別の感銘も受けましたけれども、やはり最も感銘を受けたのはさっきの点です。ですから、感想を申し上げれば、いつか日本の監督がああいう形で、天皇の実像を描くということを期待したいと僕は思います。

山元 私も『英国王のスピーチ』と『太陽』って、ある種のシンクロを感じるんですね。やはり1つヒトラーというのがあそこの中で出てきて、1つは友達だ、知り合いだったんじゃないかといって、もう片一方はヒトラーに対抗して演説をすると、そこにある種同時代性、君主をめぐる同時代性というのがあったということですね。
 それから、日本のあの玉音放送は、聞いている一般国民の側は何を言っているのか全然分からなかった。どうも戦争に負けたらしいと受け止めたらしいですけれども、『英国王のスピーチ』では明確な言葉で、戦争をしなければいけないんだというのを語る。やっぱり絶対的な君主と、大衆と関わらなければいけない君主の、少なくとも、あの裕仁とこちらの王様とは、すごく違うと。
 最後に、まさに外国人が描いたものということなのかもしれないんですが、私はやっぱり『太陽』の最後のシーンがすごく感動的で、大広間に子どもたちが遊んでいますよと言って、手を取って、夫妻で行きますね。これがラストシーンなんですよ。これは、子どもたちが遊んでいるところに夫婦2人で行くという、そこは人間としての共感、この監督はすごく裕仁が好きな人らしくて、そういったものに対する共感を隠しきれないシーンを描く。イギリスのあの映画のようにエリザベスを抱いたり、そういうところは出てこないんですけれども、その先にある大広間で2人が子どもたちを抱き上げるシーンを想像させるところがロマンチックで、政治的な文脈を超えて私は好きです。そして政治的文脈との関連でいえば、戦後日本の戦争から解放された平和な時代が暗示されているということ、そして、自分自身がそのような日本社会で生を受けることができたことが、シンクロしてきます。

志田 今日は、民主国家なのに君主がいるという大変不思議な制度を取っている日本とイギリス、この2つの国の君主の描き方の対比を行ってみました。今日の成果は、私の方で、出てきた憲法上の重要なキーワードを抽出させていただいて、イメージライブラリーのデータベース構築作業の方に提供させていただく予定です。山元先生、愛敬先生、ありがとうございました。(拍手)


*武蔵野美術大学造形研究センター研究成果報告書別冊『芸術と法』に収録した君島東彦「社会の中の芸術家──芸術家にとっての戦争と平和──」(講演)、小倉利丸「芸術表現の《場》——美術館・ストリート」(シンポジウム「芸術の多様な局面と法」における講演)を参照。

(2012年11月22日収録。掲載に当たって内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は当時のものです。)