武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

イメージ・コレクション

人は映像にどんな思いをこめてきたのでしょうか。
映像は技術の進歩とともに変化してきました。しかし高度な技術がなかった時代にも、「何かを見たい」「伝えたい」、あるいは「何かを表したい」という思いがありました。このシリーズでは、映像玩具やフィルム、映写機などを収集される松本夏樹先生のコレクションを通じて、人間の映像に対する根源的な姿を巡っていきたいと思います。

イメージ・コレクション其之一 『福音の光』の寓意画(エンブレム)

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

図2

図3

 最初に掲げた図1は、1655年アムステルダムで刊行された『寓意画の秘密のヴェールの影に隠された福音の光』の扉絵銅版画である。著者はH・エンゲルグラーフというイエズス会士であった。グーテンベルク以後の印刷術の発達に伴い、16、17世紀の200年間に大流行した寓意画は、R・カイヨワに従えば「なにかしら秘密の意味の、あるいは聖なる教えの、運び手とみなされてもいたのであ」り、「今やイメージは、テクストの単なる置き換えに甘んじることなく、その挿画にとどまることもない。筆舌にはつくせぬ啓示を、不完全な人語をもってしては遂に把捉不能な、全的かつ瞬間的ヴィジョンを、奥義体得者たちに伝達しようとしているのであった」(注)。対抗宗教改革の旗手イエズス会にとっても、寓意画はきわめて有力な武器であったと言えよう。
 図の左上方から来る光は、右の四福音書記者を表すイメージ、鷲(ヨハネ)、牛(ルカ)、ライオン(マルコ)、人間(マタイ)に支えられた聖書に当たり、さらに反射して表題の書かれたヴェールに至る。その四隅を持っている天使たちは、それぞれ暗箱や虹などの光学現象を映し出している四枚の鏡を掲げている。神の福音の光は聖書の言葉となり、あたかも幻燈のようにそこから投影されてヴェール上に寓意画の像を結ぶのである。だが寓意画自体が「秘密のヴェール」でもあり、光はその影(像)に隠されている。この扉絵自身も寓意画の寓意画なのだ。図2は同書収載の、暗箱(カメラ・オブスキューラ、暗い部屋の意。現在のカメラの語はこれに由来する)を描いた寓意画であり、マニエリスム的な皮革細工紋様の枠によって、この光学現象そのものも丸鏡に映し出された鏡像であることを示している。本来影を照らし出し、謎を明るみに出すべき光の現象それ自体が、神の不可視の光の寓意であることを示す寓意画、それもまた鏡の中の暗箱の像なのである。図3は16世紀のプロテスタント神学者J・アルントの寓意神学書『真のキリスト教』収載の、同じく暗箱を描いた寓意画で、銘文には「闇と化し、逆様に」とある。神の光に照らされた姿も暗い魂の中には逆様に写ることを意味している。後にはイメージ表現を厭う新教神学も、当初は寓意画を積極的に活用していた。エンゲルグラーフと同時期に、同じくイエズス会士であったA・キルヒャーはその著『光と闇の大いなる術』中に「魔法の洋燈(ランテルナ・マギカ)」、即ち幻燈の図と説明を史上初めて収録し、これによりキルヒャーは映像史の始祖(パトリアルヒ)となったのである。
 この連載では、筆者収集の映像前史、図像学関係の資料にコメントを付して順次掲載して行く予定である。

注 『幻想のさなかに―幻想絵画試論―』ロジェ・カイヨワ著、三好郁朗訳、法政大学出版局、1975年刊 68頁


図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之二 『中国の影(オンブル・シノワーズ)』と水兵服(セイラー)

    文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

図2

図3

図4

「中国の影」Ombres chinoises とは18世紀後半以降フランスに流行した影絵ショーの謂で、実際は中国ではなくトルコの影絵芝居や、ヨーロッパ独自のシルエット画に由来すると云われる。19世紀中頃には家庭用玩具としての影絵セットが販売されたが、その箱や紙製舞台にも、多くの中国風の意匠が施されていた。同時期にヨーロッパ各国の幻燈製造業者によって、大型の劇場公演用と共に、家庭用の小型幻燈が作られ始める。
 1895年、リュミエール兄弟が幻燈の技術を基にシネマトグラフを製作・公開するや、僅か3年後にはセルロイド・フィルムに直接リトグラフ印刷したカラー・アニメーションとセットで、家庭用小型映写機がこれら幻燈製造業者によって売られ始めたが、ほとんどの映写機は幻燈と兼用であった。上映時間数秒のアニメーションの両端を接合してループ状にしたエンドレス・フィルム数本と、リトグラフ転写のガラススライド1ダースが兼用機と共に箱に収められるのが通常であった。図1は、20世紀初頭のフランス製セットの蓋に貼られたリトグラフで、少年が映写機の把手を回してループ・フィルムを上映し、家庭教師と覚しい指棒を持った婦人が子供たちに、映し出された競馬の情景を示すさまが描かれている。画面上部にはCINEMATOGRAPHE、下にはLANTERNA MAGICAと書かれ、左右の窓には提灯が吊り下げられて、それぞれから中国風の男と女が顔を出している。画面外枠や提灯に描かれた模様も漢字を意識したものである。シネマトグラフは純然たる自国の発明品であり乍ら、先行する光と影の遊戯文化の表象「中国の影」をなお纏(まと)い続けているのである。
 画面の少年の幾人かは水兵服姿だが、図2の同時代のドイツ製幻燈スライド紙箱にある幻燈を操る少年も、図3の家庭幻燈会を描いた明治の引札(広告用チラシ)の少年も同様である。水兵服は当時の裕福な家庭の子息を示す表象であった。明治30年(1897)、映画つまりシネマトグラフとエディソンのヴァイタスコープが日本で初上映されると、程無く国産の巡業々者用もしくは富裕層向け家庭用映写機が売られ始めるが、ほとんどは明治10年代に再渡来した幻燈の製造・販売業者によるものであった(注)。
 図4は2005年に発見した現存する日本最古のアニメーション・フィルムで、黒赤2色の「合羽(かっぱ)刷り」(型紙(ステンシル)印刷)50コマにより、水兵服の少年が登場して背後に「活動写真」と書き一礼する、というループ状の作品である。コマ撮りも西洋式の多色石版刷りも高価な為に、安価な家庭用幻燈スライド作りの技法「合羽刷り」によった日本最古のアニメーションは、映像それ自身の終りなき自己紹介なのである。

注:岩本憲児『幻燈の世紀—映画前夜の視覚文化史—』、森話社、2002年。
松本夏樹・津堅信之「国産最古と考えられるアニメーションフィルムの発見について」、『映像学』76、2006年5月25日、日本映像学会発行、86頁以下。

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一、松本麻野
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之三 『覗く愉悦』

    文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1 『福音の光』の寓意画(17世紀)

図2 覗き眼鏡用着彩銅版画(18世紀)

図3 阿蘭陀眼鏡 英泉画(19世紀)

図4 カメラ・オブスクーラ(18世紀)

図5 実体鏡(明治)

 再びイエズス会士エンゲルグラーフの『福音の光』挿図、丸鏡に映じた像としての寓意画である(図1)。神から聖体顕示台へと至った「福音の光」が、更に空中から突き出された手にあるレンズによって導かれる。見えざる神は人の子イエスとしてこの世に顕われる。ミサにおいて「命のパン」(ヨハネ、6-48)はキリストの聖体へと変じ、「世の光」(ヨハネ、8-12)として顕示される。その光は寓意画というレンズを通して集光(コンデンス)され、悦びなき魂の闇中に神の心像(イメージ)を結ぶのである。不可視の神の顕現を覗く愉悦装置、イエズス会的光学の機巧(からくり)映す寓意画の鏡像。
 ルネサンス建築や、バロック演劇の舞台装置に多用された、視覚遊戯の空間や詐術としての透視遠近法は、未だしも見えざる光の擬似的再現と、異界を「視る」行為への畏怖を残していたが、18世紀啓蒙主義時代には、この世の中心たる人間の視覚、世界を定位する人の視線へと関心が移行していく(図2)。次の19世紀には、暗箱とレンズを通してこの世の一瞬の実像を定着させる技(アルス)としての写真が、更には時間経過すらも連続写真の帯と投影光の中に収めようとして映画が登場する。
 しかしながら、創造主と被造物たる人及び世界との疎隔を胎みつつも、媒介者(メディウム)としての光と視線の隠喩的イメージは、今日の映像メディア全盛を経てもなおアルタミラ壁画以来の「見ることの不可思議」を保持し続けている。レンズや小穴を通して異世界を覗く愉悦は、不変の「見えざる光」の源への遡行を含意しているのである(図3、4、5)。

注:図2のような透視画Perspectivesは、Optique(仏)、Diagonal viewing machine(英)と呼ばれた反射式覗き眼鏡の為に製作された。

このイメージコレクション連載を企画され、労を惜しまれなかった『イメージライブラリー』の下川久美香さん御逝去の報に接し、心から御冥福をお祈りいたします。 松本夏樹

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之四 『動く驚異』

    文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

図2

図3

図4

図5

 日本に幻燈がもたらされたのは18世紀後半のことと考えられる。幻燈に関する最初の邦語文献『天狗通』(安永八年、1779年)の記述を、その発見者山本慶一の著書から引用すると、「幽魂幽鬼をあらわす術、影絵目鑑と言う物目鑑屋にあり。これを用うべし。いろいろの姿あらわる。何の絵にてもこの箱の内なる目がねに絵描き入れしおくときは、何を映してもその絵のとおりのもの見ゆるなり—後略」とあり、「影絵眼鏡にて白壁に絵を写す図」と題して、金棒を持った鬼が幻燈器で壁に映写されている図が掲げられている(注1)。蘭学者大槻玄沢もその著『蘭説弁惑』(寛政十一年、1799年)で幻燈について述べており、岩本憲児によれば「オランダ語で『とうふる、らんたある』とあるのは、tover lantaarnで、『悪魔のランタン』を意味している。この言葉は本書の西洋編で述べたラテン語のlanterna magica(魔法のランタン)に由来する。大槻玄沢はこれを『妖燈』と呼んだようだが、その師杉田玄白は『現妖鏡』または、オランダ語から『トーフルランターレン』と呼んだ」という(注2)。いずれにせよ幻燈から出現するのは、洋の東西を問わず幽魂幽鬼や悪魔といったあやかしの類いであり、人間の怖いもの見たさの欲望にかなう者共であった。忘れてならないのは、当時の光源が現在の電気によるものとは違い、たえずゆらめく炎であって、映し出される像も生きているかのように動いていたことである。
 図1は19世紀末ドイツ製の家庭用幻燈で、レンズ筒を支えている部分は典型的なグロッタ模様、色彩は赤と黒の意匠となっている。魔法や悪魔を連想させることで、幻燈そのものの持つ文化コードに沿うものとなっている。図2は古い人形劇でおなじみのトリックスター的存在であるアルルカンが、体をバラバラにされたり、元に戻ったりする仕掛けの幻燈スライドである。オランダ渡りの幻燈は享和三年(1803年)に、江戸の都屋都楽によって幻燈ショーと云える「写し絵」(上方では錦影絵)へと発展した。図3はその幻燈芝居のワンシーンを構成する仕掛種板(スライド)で、棒を持つ右手が上下に動くように、片方をマスクする黒く塗ったガラス板がこの図に組み合わされる。幻燈華やかなりし時代には、東西共に人は暗闇にゆらめきつつ出現する妖しの像の動きに幻惑されることを喜んでいた。
 だが同じ動く幻にも、東西の事情が反映しているのは当然であろう。図4は明治期の面被り人形で、西洋服姿の人形の背中を押すと、両手に持ったハンドバッグ、実はオカメの面を被る。文明開化に必死な自らへのパロディーとも、また素直な和魂洋才への賛辞とも云える玩具である。同時代英国の幻燈会(図5)では、西欧列強に蹂躙される中国の戯画が、教育的ツールとしての幻燈によって子供達にも与えられるのである。

注1:山本慶一『江戸の影絵遊び』草思社 1988年刊 139頁
注2:岩本憲児『幻燈の世紀—映画前夜の視覚文化史—』森話社 2002年刊 88頁

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之五 『視る欺瞞』

    文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1 おそらく杯洗として水を入れて使ったので、昇り龍の像は立身出世を表している

図2

図3

図4

 アナモルフォーズ(歪み絵)とは、そのままでは一見何が描かれているのか判らない絵を一定の視点から眺めることで、あるいは円筒や円錐の鏡面体を絵の上に置くことで、はじめて描かれたものが見えてくる瞞し絵の手法である。種村季弘によると「円筒アナモルフォーズの発祥地は東洋、それも中国であるらしい」(注1)。17世紀欧州に大流行したこの技法は、デカルトとも交流のあったパリのミニム会修道士たちによって研究された。種村によれば、「デカルトの二元論が地上的な知覚がとらえる『かくある存在』の欺瞞と、神の自然法則を通じてしか見えない現存在との分裂から出発しているとすれば、彼がミニム会士のアナモルフォーズ研究におのれの哲学の幾何学的証明を見たとしても一向に不思議はない。アナモルフォーズはたしかに遠近法という知覚の固定観念を逆用した遊びには違いないが、同時に現象界と知覚の欺瞞をあばく哲学的懐疑論の申し子でもあったのだ」。だが、「デカルト時代には遊びでもあった精神の光学は産業革命以後の生真面目なアカデミシャンに引き取られて、現実の『自然らしさ』、もっともらしさを定立する証明法へとふたたび一元化され——中略——自然らしさを混乱させる知覚のトリックは、子供部屋か手品師の小屋以外の場所では御法度」になったという。
 キリスト教世界のように視覚トリックが深刻な神学・哲学的隠喩とはなり得ない東洋では、アナモルフォーズは専ら遊興の具であった。日本でも古くから円筒鏡のかわりに刀の鞘を使って判別不能な絵を正しく写して見る「さや絵」がある(注2)。図1は江戸後期の深鉢で、見込みの定位置に錫の銚子のような円筒鏡状のものを置くと龍の頭部が鉢から立ち上がって見える趣向である。おそらくは宴会の席上で余興として楽しまれたのだろう。図2の明治印判小皿も同様で、皿を回すと鏡に映る風景が次々と変化していく。こうした江戸の洒脱な遊びの文化を明治新政府は近代化の妨げになるとして目の敵にしたのである。
 明治10年代に再渡来した西洋幻燈を啓蒙教育に使おうと考えた政府は、鶴淵初蔵と中島待乳に幻燈機とガラススライド(当時「映画」とか「種板」と呼ばれた)の製造を委嘱したが資金が続かなかった。困った鶴淵らは「教育幻燈会」と称して各地を巡業、その普及に勉めた結果、幻燈興行や安価になった機器による家庭幻燈会も盛んになっていった。図3と図4は共に教育幻燈会に用いられたもので、ガラスに原画のモノクロ写真をポジ転写し手彩色した上でもう1枚のガラスを重ねて周囲を布テープで貼っている。どちらも奇怪な絵柄ではあるが、種を明かせば前者は「女の口車に乗る人」、後者は「宴会は頭割り(つまり割り勘)」とういういたって単純な判じ絵である。だが教育勅語を国是として文明開化と倫理的啓蒙を推進する明治政府の謹厳実直や公徳心といった建前が、庶民にはおなじみの江戸趣味の洒落である言葉のトリックのイメージ化を通じて喧伝されたというのは何とも皮肉な話であろう。西欧近代が虚像の遊びと隠喩を捨てて産業社会の現実主義へと転じた、その分裂によって苦悶し歪んでいる実像だとすれば、東洋初の近代国家日本とは、とりもなおさずそのパロディ、「子供部屋か手品師の小屋」でしか見られないアナモルフォーズそれ自身に見えてくるのではなかろうか。

注1:種村季弘・高柳篤『だまし絵』、河出書房新社、1987年刊、60頁以下。以下の引用も同じ。
注2:山本慶一『さや絵考』私家版、1975年刊。

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之六 『透かし見る時間』

    文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

図2 大正期

図3 明治期

図4

 新約聖書の使徒行伝に、使徒ピリポがエチオピアの女王カンダケに仕える宦官を改宗させた逸話が語られている(使徒8-26~39)。ミケランジェロに学んだ典型的な北方マニエリスト、マルテン・V・ヘームスケルクが描き、16世紀ネーデルランドの有力な版元フィリップ・ガレが自ら彫版した使徒行伝図集の一枚に、この話が描写されている(図1)。
 画面左後方では、ピリポが馬車に乗った宦官に出会い、中央でピリポは馬車に乗り込んで聖書の講読を行い、前景では改宗を決意した宦官に洗礼を施し、その後ピリポは「主の霊」によって彼方へ連れ去られて行く。出来事の一連の推移がひとつの画面に描き込まれている例は、絵巻を始め決してめずらしいものではないが、ちょうど映画のロールフィルムをコアのところから引き出したように、時間経過が螺旋状にほどけて同一面に描かれているのが特徴である。以前に紹介した寓意書『福音の光』*が、寓意像を映し出す鏡という重層的枠構造をもっていたと同じく、出来事の推移を描く絵巻が螺旋状にほどける様を更に描くという複雑な構造をこの絵はもっている。云わば物語の経過をたたみ込んだ画面上を追う視線の螺旋形の動きで、時間が透けて再現される仕掛だとも云える。
 図2は、笑顔と泣き顔が破線で重ねて描かれた画面上に、縦縞の透過紙を被せて左右に動かすことで笑顔と泣き顔が交互に現れる、「写真活動」と銘打たれた玩具である。同じく縞模様によって運動を再現するのが、噴水図の幻燈用仕掛種板(図3)で、これは各々逆に回転する放射状の線のある二枚のガラス円盤が透けてつくり出すモアレ現象によって、噴水の動きを見せるのである。交互に見える部分と隠された部分とからなる、異なる情景が視線の中で時間経過として再現される点では、透過フィルムの間歇運動である映画の原理の前駆的形態と云える。
 視線の為の透ける仕掛の最後の例は、図4のフランス第二帝政時代のトランプカードで、表面は普通のマークや絵札のカードだが、カードの貼り合わせの内側にはエロティックな情景が、特に絵札の場合は表の人物と絡むように描かれている。賭博に興じる遊蕩児が、勝負の時間の中で別の闘いの時間を透かし見るのである。

*「イメージ・コレクション 其之一」(『イメージライブラリー・ニュース 第23号』掲載)において言及。

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之七 『フリーメイソン幻燈の図像学 Ⅰ』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1 前・椅子の親方(マスター)(ロッジ長)の前掛と頸飾




↓ 図2、図3は19世紀末アメリカのロッジで用いられた幻燈の硝子スライド。

図2 三位階、徒弟・職人・親方

図3 ソロモンの神殿の建立

 フリーメイソンの起源についてはよく分かっていない。1717年、ロンドンの四つのメイソン・ロッジ(集会所)が合同して、グランド・ロッジ(連合大ロッジ)を結成、1721年にフリーメイソンの綱領であるアンダーソン憲章を採択したのが、公的な歴史への登場である。
 しかし石工(メイソン)のギルドは、教会建築の盛んであった中世から存在しており、一説では、シュトラスブルク大聖堂の建設に従事した石工組合が、皇帝から賦役免除(タックスフリー)の特権を得たことが、フリーメイソンの語源であるとも言われている。石工は当時の最高の技術者であり、ギルドはその職業上の秘密を、外部からは勿論、熟練度に応じた各階層間でも厳格に守らねばならなかった。そこでお互いの技量を公開する前に、合図なり符丁で職制身分を確認し合う必要が生じたであろうし、また、建築現場の仮設小屋(ロッジ)での、職制位階への加入が儀礼化されていったであろう事も容易に想像できよう。
 だが宗教戦争以降、教会の社会的役割そのものが衰微していくに従い、巨大建築を担った石工の特権的職制も変質していかざるを得なくなった17世紀中葉、石工ではない一群の人々が、いわゆる「承認された(アクセプテッド)メイソン」として加入したと覚しい。彼等がメイソン本来の符丁や儀礼の体系を、ルネサンス・オカルト哲学(注1)に由来する魔術的・錬金術的象徴の大伽藍へと変貌させるのである。
 15世紀フィレンツェにメディチ家の庇護の下でプラトン・アカデミーを創設したマルシリオ・フィチーノは、ギリシャのオルペウス教やペルシャのゾロアスター教、特にエジプトの神で錬金術の始祖とされるヘルメス・トリスメギストスの、当時再発見された教えの中に、ユダヤ教やキリスト教以前に神が啓示した真理が含まれているとする「古代神学(プリスカ・テオロギア)」を主張した。またフィチーノの同志ピコ・デッラ・ミランドーラは、ユダヤ教の秘密教義カバラによって神の啓示の真の理解が得られるとした。彼等は古代の異教と魔術思想を復興した「オカルト哲学」により、教会教理に縛られたキリスト教世界を刷新しようと考えたのである。
 だが16世紀になると、ルターの宗教改革に対するカトリック側の思想統制によって、フィチーノ等の思想も異端として断罪されるに至った。しかし北方へと伝播したこの哲学は、アグリッパやパラケルススの魔術・錬金術思想に融合しつつ、17世紀初頭、ドイツ新教圏で新たな相貌の下に現れる。薔薇十字の「同志会の伝説」がそれである。
 始祖クリスティアン・ローゼンクロイツの墓の発見と共に、万物の中に隠された神の啓示を「象形文字(ヒエログリフ)」のように読み解く秘密の技が会の同志たちに齎され、やがて教皇支配と宗教対立の時代は終焉を迎えて、新たな世界が到来するという物語である。錬金術的寓意小説「化学の結婚」の著者にして牧師J・V・アンドレーエらの起草になるとされる「同志会の伝説」は、大きな反響を呼ぶと共に独り歩きを始める。カトリック勢力に対する、ドイツ新教側と英国やボヘミアとの対抗同盟を志向する人々の指導原理「薔薇十字啓蒙運動」へとそれは変貌したと、F・イエイツは言う(注2)。だがこの運動は30年戦争(1618-1648)で失敗に終わり、新教側からも弾圧を受けた人々は、隠れ蓑としてメイソンのロッジに加入し、彼等の思想をその符丁や儀礼の中に秘匿したのだという。その正否は別にしても、フリーメイソンの象徴体系の中心を為すのはソロモンの神殿の建立であり、その意味するところは、成員個々の自己陶冶による新しい世界の構築なのである。

注1:フランセス・イエイツ「魔術的ルネサンス」、内藤健二訳、1984年、晶文社。
注2:同「薔薇十字の覚醒」、山下知夫訳、1986年、工作舎。


図版 所蔵:松本夏樹
撮影:福島可奈子
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション 其之八『フリーメイソン幻燈の図像学 Ⅱ』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1 親方(マスター)ヒラムの死の象徴

図2 「ロッジの(三つの)光」

図3 「ロッジの(三つの)宝章(ジュウェル)」 第2(職人)位階の「作業道具」水準器、下げ振り、直角定規。

図4 「職人のカーペット」

 フリーメイソンの象徴体系の中心は、旧約聖書のソロモン王によるエルサレムの神殿建設(列王記上5~10、歴代志下2~9)であるが、特に重要なのは、聖書にはただその名前しか出てこない工人の長(おさ)、ソロモンの要請に応じてツロの王ヒラムが神殿造営の為に遣わした「青銅の細工人」(列王記上7-13)、「知恵のある工人」(歴代志下2-13)、達人ヒラム(ヒラム・アビフ或いはアドニラムともいう)を巡る物語である。
 神殿建設の全てを指揮する建築師ヒラムの技の秘密を得ようと、三人の職人がそれぞれ神殿の南と東と西の入口で待伏せて彼に強要し、各々が持っていた下げ振り、槌、直角定規で順にヒラムを傷つけ、終には殺害してしまう。事の露顕を恐れた三人はヒラムの遺骸を岩山に隠し、そこにアカシアの小枝を目印に挿して逃亡した。ソロモン王の命で親方の行方を探しに出かけた弟子たちがヒラムの遺体を発見するが、もはや技の秘密は失われてしまった為に、これを再び発見することがヒラムの後裔たるフリーメイソンの「作業」であるとされる。
 そこで親方の位階への加入儀礼では、親方志願者自身がヒラムとして象徴的死を体験した後、新たに生まれ変わった親方として合言葉と身振りと握手法が授けられる。また徒弟と職人の位階でも、それぞれ違った符丁や建築道具個々の隠された意味が伝授される。例えばヒラムの殺害に使われた下げ振りと槌と直角定規も、未加工の粗石(徒弟位階の象徴の一つ)を、神殿造営に相応しい完全な切り石に加工する、つまり自己陶治に不可欠な象徴なのである。こうした複雑な象徴体系は、徒弟・職人・親方位階それぞれの儀礼象徴が描かれたトレーシング・ボードと呼ばれる三つの図表に集約される。最初期のメイソンでは、ロッジの床面に直接図表が描かれ、儀礼終了と共に消されたとも言われるが、やがてタピス(カーペット)と呼ばれる図表が描かれた敷物が床に敷かれるようになり、これがトレーシング・ボードへと変化したが、その目的がメイソンの象徴体系の知識を儀礼の実践と共に学ぶという点では同じである。だが知識を学ぶとは云え、いわゆる一般的な教育や学問とは違い、これが合言葉の発声や身振りをともなう儀礼の直接体験とイメージの連鎖が不可分な知の体系であるところに、メイソンの「作業」の特徴があると言えよう。
 ここに掲載した一連の図版は、19世紀末アメリカのロッジで使用された幻燈講義の硝子スライドで、原図のモノクロ写真を硝子板にポジ転写し、手彩色されている。19世紀の幻燈は、娯楽としては勿論のこと、社会・学校教育や禁酒などの倫理的啓蒙の強力な手段として用いられた。急成長するアメリカ産業社会には膨大な新興富裕層が出現して、フリーメイソン会員も増加、その潤沢な資金力によってこのような高価な幻燈スライドを製作することができたのであろう。
 幻燈講義の特徴である、暗闇に出現する連続したイメージと講演者の声への集中は強烈な視聴覚体験であり、死の暗黒から光明への位階儀礼を中心とするフリーメイソンの「作業」にとって、これほど相応しい術の「道具」もまたないであろう。



図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一、福島可奈子
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション 其之九『映像に遺された満州』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1 満州国騎兵隊

図2 満州に暮らす日本人

 本学美術館・図書館民俗資料室ギャラリー展示19「承徳の民藝品−伊東祐信・知恵子コレクション展−」関連企画「映像に遺された満州」(2014年9月22日~10月11日、於イメージライブラリー)で映像展示したフィルムは二つの点で重要である。
 ひとつには、これがフランスのパテ・ベビー9・5ミリフィルム、映画発明後に初めて登場した個人向け小型映画による映像であり、発売翌年の大正一二(1923)年の関東大震災直後に日本に到来、個人の映像記録が可能であった為に、時代状況からして中国サイドから撮影・現存の可能性がほぼ皆無な当時の満州の姿が個人映画に残されていること、そしていまひとつの点とは、これらの映像が立場の異なる二人の民間人によって違う時期に撮影されていることである。
 一人はおそらく企業活動の視察で「満州國」成立以前に渡航して彼の地でカメラを回し、もう一人は医師で、まさに「満州國」建国の瞬間、昭和七(1932)年三月一日の祝賀大会からその撮影を開始しているのである。
 前者の撮影時期は大正一三(1924)年から昭和五(1930)年までであろう。なぜなら昭和六(1931)年に関東軍による南満州鉄道爆破「柳条湖事件」から満州事変が勃発、翌年三月一日には「満州國」が成立して、長春を新首都「新京」と改名するが、映像には南満州鉄道(満鉄)の車窓から撮った遼陽、撫順、奉天そして長春の駅名も写っているからである。奉天では忠霊塔などを訪ね、また長春の街並み、ハルビンのロシア人街の景観とその賑わい、黒龍江辺のロシア人村落など、関東軍の傀儡国家「満州國」成立以前の姿を知ることができる。
 後者の医師が撮影した二巻のフィルム缶には各々「建国運動」と「家庭生活」と記してある。「建国運動」巻頭では祝賀行列中に伝統芸能「高足踊り」や、関東軍指導下の新制満州国軍騎兵隊がみられる。続いて所謂匪賊(抗日ゲリラや統率を離れた国民党軍残党など)を河原に引き出し公開銃殺するさまが写っている。医師が関東軍上層部と親しくなければ勿論こうした撮影が許可されよう筈もなく、おそらく監察医だった為に死亡確認の要から処刑現場に赴いたのだろう。民間人とはいえ特殊な立場にいればこそ、個人の小型映画に稀有な情景が残されたのである。
 「家庭生活」の巻には医師の家族がピクニックやテニスをしたり、毛皮に身を包んで犬の散歩をするなど「満州國」支配階級日本人としての優雅な外地生活を楽しむさまがみられる。満鉄の食堂車や豪華なソファー付展望車で旅行もしている。この映像が現存しているのは、ソ連軍侵攻の際に悲惨な運命に見舞われた満蒙開拓団などとは違い、医師一行が想い出のフィルムを持って早々と日本に引き揚げることができたゆえであり、当時の個人映画という存在の皮肉を思わざるをえない。
 未だ江戸情緒を残していた東京が、関東大震災を契機に舞台装置めいた看板式建築の林立するモダン都市へと変貌し、明治以来の日本国家が日清日露、第一次大戦の相継ぐ勝利を背景に推進した近代化は、ここに西欧追従を脱して、やがて自覚的な様式として選びとった「大東亜」のモダンスタイルを獲得していく。「昭和モダン」と命名される内向きの時代定義とは相違して、疑似的国際社会としての大東亜スタイルは、政治的立場の如何を問わず、日本人の謂わば未来志向の表象となって出現した。
 そして、個人映画が登場したのは、まさにそうした変貌の時代の最中であった。近代アジアの未来国家である王道楽土「満州國」が成立する。震災直後にアナーキスト大杉栄を暗殺した甘粕元憲兵大尉を長とする満州映画協会「満映」が、そして最新鋭蒸気機関車「あじあ号」を擁する国策会社「満鉄」が、大東亜モダニズムの尖兵として東亜の盟主ニッポンのイメージを増幅する。昭和三年の御大典当時、官製唱歌に「昭和、昭和、昭和の子供よ僕達は…」と唱われたアジアの夜明けの子、少国民は、この自覚された近代アジアの未来を担う子供たちというイメージを自らに課していく。彼らはやがて十数年後、未来社会の範となる筈の日本のモダン都市群が焦土と化すさまを目のあたりにするだろう。
 擬態された東亜のモダニズムはただフィルムの薄明の中にのみその幻影を留めるに過ぎない。しかし生き残ったかつての小モボ、モガたちは、敗戦後の新生日本建設に彼らの未来像を重ねていく。だとすれば現代日本とは、とりもなおさず幻影の幻影、フェイクなインスタレーション未来国家のそのまた投影像ではないのだろうか。「満州國」が偽皇帝愛新覚羅溥儀と、男装の麗人川島芳子と、支那の歌姫李香蘭こと山口淑子に象徴される、つまり追放された者と皇帝、男と女、中国と日本の差異の越境とアイデンティティーの曖昧さの中に、薄明「彼は誰れ」の内に立ち現れるのであれば、満州帝国成立八十年後の現代日本もやはりレビュー終演後の舞台装置の如き、曖昧な時の中に投影された未来像だとは云えまいか。


イメージ・コレクション其之十 『座敷影絵の幻』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

図2

図3

図4

 江戸時代の随筆家西澤一鳳はその著『皇都午睡』[嘉永三(1850)年刊]で次の様に述べている。
 「昔より廃らぬ物は座敷遊びに用ゆる影畫なり。硝子の畫板を逆にはめて、人物花鳥の働らき、近江八景、宮嶋、金閣寺、天神祭りなど、古風にて品よき弄び也。是も近来鳴物囃子を入、寫畫と呼て四谷怪談などをす、甚下卑たり。座敷手妻、座敷影畫など古風なるところを愛すべきもの也。」
 写し絵については既に触れたことがあるが(注1)、西澤一鳳によれば鳴物や囃子のついた芸能としての幻燈ショー・写し絵より、座敷影絵の方が古風だという。だが現存する写し絵(上方では錦影絵と呼ぶ)の道具は、そのほとんどが芸能用の品で、座敷影絵がどのようなものであったのかはわからなかった。
 ところが2010年、四国の旧家の蔵から収納箱に入った座敷影絵のほぼ完全なセットが発見された(図1)。1から21までの通し番号の書かれた種板は、画像が動く仕掛種板14枚、引くことで画像が移動する「長絵」7枚からなり、収納箱の引出しに収められていた(注2)。この「長絵」のひとつで通し番号「四」の絵は、紅白の提灯が飾られて多勢の見物客に埋まる橋に向かって、「中」や「天満宮」と書かれた幟を立てた船や、大提灯や旗を付けた船、天辺に鳳凰を載せた神輿が乗る大船が進んでいく情景が描かれている(図2)。これは大坂天神祭の船渡御の情景で、これとほぼ同一の種板が以前発見されて、ながらく、船渡御では橋上の人の足の下を御神体が潜ることはないとされていた、天神祭の定説が覆った例がある。しかも一鳳のあげている座敷影絵のひとつであることはなおさらに興味深い。
 だが更に興味深い「長絵」は唯一縦引きである番号「二十」である(図3)。
 これは宝暦七(1757)年、大坂の豊竹座で初演された人形浄瑠璃で、翌年には歌舞伎に翻案された『祇園祭礼信仰記』四段目、通称『金閣寺』に登場する雪姫の演技「爪先鼠の段」を描いた種板なのである。
 天下乗っ取りを目論む敵役「国崩し」と呼ばれる松永大膳が、将軍足利義輝の母である慶壽院を金閣上階に閉じ込めた上に、絵師狩野将鑑の娘雪姫に金閣天井へ龍を描けと強要する。だが雪姫は父親が何者かに殺され、龍の手本画帖と宝刀「倶利伽羅丸」が奪われた為に描けぬと言うと、大膳は雪姫を瀧の前に引きすえ、刀を抜いて「これを手本にして描け」と瀧に刃をかざせば不思議にも龍の姿が現れた。伝家の宝刀を奪い父を殺したのが大膳であるのを知った雪姫は「倶利伽羅丸」を取返そうとするが、逆に桜の木に縛りつけられてしまう。大膳がその場を去ると、雪姫は散った桜の花びらを爪先で並べて鼠を描き、この鼠が雪姫の縄目を喰いちぎり助ける。これが「爪先鼠の段」の名の由来である。
 縦引きの「長絵」を風呂(木製幻燈器)の下から上へと動かすと、雪姫と瀧に刀をかざす大膳(かすれているが瀧には龍の姿が現れている)、そして金閣上階で慶壽院が救出されたことを知らせる狼煙「火龍砲」が打上げられている情景まで、芝居の一連の推移が順に見られる(図4)。
 付け加えるなら、大膳を呼ぶ「国崩し」とは城をも破壊する大砲の別称であり、暗にその持物の巨大さを示している。つまり桜の木に縛られた雪姫落花狼藉の危うさ、そして雪姫の裾を割って爪先で鼠を描く際どさを、座敷の暗闇の中に現れた幻として楽しもうというのが、この「古風にて品よき弄び」の今ひとつの隠された情景なのである。

注1:イメージ・コレクション其之四 『動く驚異』参照。
注2:『演劇研究』第三十五号、拙稿「新発見の江戸期の木製幻燈に関する考察—『写し絵・錦影絵』との比較を中心に—」、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2011年。

図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子

イメージ・コレクション其之十一 『It's only a paper moon』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

図1

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図5

図6

図7

図8 『無敵凹平の怪賊退治』

 1933年に作曲されたこの表題の曲は、同年の映画『テイク・ア・チャンス』、そして1973年の『ペーパー・ムーン』の主題歌に使われた。一説によれば、G・メリエスの『月世界旅行』(1902年)に出てくる、顔のある月と三日月に座る女神の二つのイメージが合わさり、この大ヒットした映画公開後のアメリカで記念写真の背景書き割りとして流行したものがペーパー・ムーンと呼ばれたという。
 「ただの紙製のお月様」、闇に幻影を映し出す装置にも昔は紙製のものがあった。18世紀後半長崎にもたらされた幻燈は、レンズと金属筒と灯油ランプを組み合わせた精巧な装置であったが、これを模倣した日本の幻燈は前回の『座敷影絵』に見たように木製の簡単な作りで「風呂」と呼ばれた。後には複数の風呂を用いる芝居仕立ての幻燈見世物(江戸では写し絵、上方では錦影絵)となり明治まで隆盛を誇った。また明治初期には西洋幻燈が再渡来し(注)、木製の風呂と金属製幻燈は併用されていたが、その発明当初から幻燈スライド(江戸以来「種板」、明治の一時期には「映画」とも呼ばれていた)は洋の東西を問わずガラス板が用いられていた。ところが最近みつけた木製の『軽便幻燈器』(図1)の種板は紙製で、絵柄は木版刷りに手彩色であった(図2)。
 おそらくは明治初期、幻燈の再渡来から間もない時期に製造されたと覚しい子供向けの玩具である為に、まだ高価であったガラス板ではなく紙で作ったのであろう。明治20年代には家庭用の小型金属製幻燈も製造され始めており、使用される種板も全てガラスなので、これはごく短い期間に存在したきわめて稀な作例だといえよう。
 しかしスライドはおろか幻燈本体まで紙で作られた時代がある。昭和15年7月7日、商工省・農林省令第二号「奢侈品等製造販売制限規則」が施行、この「七七(しちしち)禁令」と呼ばれた法律のもと、戦時下に子供の玩具に金属を使用することが制限されて木製さらには紙製の幻燈が製作された。それ以前からガラススライドにかわってセルロイド製の幻燈ロールフィルムも登場していたが、これも硫酸紙など半透明の紙に絵を印刷したフィルムになる。その代表的なものに日本幻燈機があり、大型は木製で小型は紙製の本体にフィルム送り部分は木製、レンズ筒は大小どちらもベークライト製である(図3)。紙フィルムは木製コアに巻かれて紙箱に収められていた。
 幻燈の内容もいかにも戦時下らしく、スパイの国内暗躍への警戒を宣伝する『国民防諜』であるとか、アジアに貪欲な魔手を延ばすアメリカに対する長期戦への心構えを説く『百年戦争』(図4)といった類が多かった。東亜映写機などはレンズ以外は全て紙製で(図5)、そのスライドも「狭い職場も笑顔で広い」「戦に勝つのだ、増産だ」と、戦時統制経済下の生活標語めいた内容になっている(図6)。子供の幻燈遊びにまで国家の号令が及ぶのでは却ってその逼迫感が曝露されているようなものだが、そんなことを考慮する余裕も失われていた時代であった。
 七七(しちしち)禁令以前にも紙製フィルムはあった。ただしこれは幻燈ではなく家庭用小型映画のフィルムで、日本独自の発明であった。昭和9年に登場した「レフシー家庭映写機」というもので(図7)、紙製フィルムに実写映画はモノクロで、アニメーションの多くはカラーで印刷されている。映写のしくみは透過式ではなく、紙の表面に光を当てて反射光を投影した。モノクロ映画しかなかった時代に家庭でカラー・アニメーションを楽しむことができたのである(図8)。レフシーが世に出るや直ちに大阪のメーカーが同様の反射式紙フィルム映写機「家庭トーキー」を製造、こちらはその名の通り映画に同期させてレコードをかけるというものであった。


注:イメージ・コレクション其之五 『視る欺瞞』参照。


図版 所蔵:松本夏樹
撮影:原田正一
デジタル制作:福島可奈子