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IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第6号

山中貞雄の映画

文=下川久美香(イメージライブラリー・スタッフ)

 日本の映画史上古典の域に入る山中作品は、歴史的な理解に負うだけでなく、1つ1つの作品は今もって色褪せることなく多くの人々に語られている。ここでは現存する作品を中心に、山中作品の魅力について考察する。
 山中貞雄が映画人として生きた時代、それは1927年から38年というわずか10数年の間であった。映画監督としての山中は、その間に20数本の作品を輩出したが、それらはあまり知られていない。現存する作品は『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3作のみである。
 山中が京都に生まれたのは1909年、映画の世界に身を投じたのは京都の旧制中学を卒業したばかり、18歳の時であるというから、山中の映画人としてのスタートは早かった。
 まず山中作品を語る前に、彼が生きた1920~1930年代の社会的背景と映画界にふれておきたい。

 1925年、男子普通選挙法と治安維持法が制定され、内務省によって全国統一検閲の実施が告げられた。つまり国家検閲を受けなければ映画の公開が行えないということである。その10年間に映画の検閲は、天皇・皇室/軍隊・戦争/社会秩序/エロティシズム/残酷・犯罪の順に払われていたという。乱闘時代劇の花形スターであった阪東妻三郎は、映画製作でまず第一に研究課題にしていたことは検閲に触れないことであったと語っている。しかしそれでもかなりの検閲を受け、多いもので10~15%がカットされ、制作に携わる者の気を削いだという。
 第一次世界大戦以降、慢性的に続く不況や1927年の金融恐慌、1929年の世界恐慌、続く農業恐慌によって庶民の生活は危機にさらされた。彼等の不満は、社会矛盾への批判や封建主義批判として映画の中で代弁されていった。これらは「傾向映画」と呼ばれ激しい検閲を受けることになった。
 それに対して同じく庶民を主人公に据えているのだが、彼等の日々の暮らしの中から些細な事件を取り上げ、人生の悲哀や人情を庶民的な笑いで描く作品が台頭してきた。これらは「小市民映画」と呼ばれ、小津安二郎が描いた家族の姿に誰もが自分を投影した。
 山中が映画監督としてのキャリアをスタートしたのはこの時代である。処女作『磯の源太 抱寝の長脇差』で評論家・岸松雄より賛辞を受け、岸を通じて山中は小津と深い親交をもつようになる。

 現存する作品『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』のタイトルからも想像できる通り、山中の作品は時代劇である。この3作を通じて、山中貞雄作品のレトリックを垣間見ることができる
。  山中の描く丹下左膳には、かつて伊藤大輔が日活時代に描いた大河内傳次郎演ずる悲愴感漂う「剣客・左膳」の面影はみじんも見られない。矢場を営む女房・お藤の尻にしかれ、ごろごろと1日横になって過ごし、孤児のちょび安の教育問題を口論すると女房に負かされ、ヒモ同然のダメ亭主(こちらも大河内傳次郎主演)である。しかしよく考えてみると「おや、これは何かに似ているな」と気付く。それは小津安二郎の『生れてはみたけれど』(1932年)ではないか。家長である男の権威は失墜し、代わりに人生の機微が情緒豊かに描かれているのである。山中の左膳はケレン味を廃し、いわば庶民にまげをのせた「時代劇版の小市民映画」であった。現存する3作品にはそれぞれ「丹下左膳」「天衣紛上野初花(てんにまがううえののはつはな)」「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」という原作が存在するのだが、山中はそれぞれの作品からモチーフのみを取り出し、原作とは全く違ったキャラクターに仕上げている。丹下左膳の原作者・林不忘の遺族はあまりに原作と違う内容に抗議して、山中の作を林不忘の原作と表記させず、タイトルを『丹下左膳』とせず『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』としたいきさつは有名である。

 『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3作で共通するのは、<置き換え>と<取り戻す>というキーワードである。『丹下左膳餘話』では百万両の地図が塗込められた「こけ猿の壷」をそうとは知らずくず屋に出し、源三郎がそれを<取り戻す>ために江戸中を尋ね歩くのである。婿養子の源三郎は、この仕事に託つけて可愛い娘のいる矢場に通うのだが、実は「こけ猿の壷」はそこに引き取られた孤児のちょび安が金魚を入れている壷であるという話である。くず屋に出す際の源三郎夫婦の会話では「あんな壷、三文の値うちもない」といい、くず屋に出すと「あんな壷でも十文でひきとって行きましたよ」となり、くず屋はちょび安に「金魚を入れるのに丁度いいよ」と「ただ」でくれてやり、町中には「壷を一両でひきとる」旨の貼紙が出され、最後に源三郎は「百萬兩の壺」のありかを知るのだが、秘密にしたままいつまでも矢場に通うために「10年かかるか20年かかるかわからない」と女房に言い訳をしつつ、いそいそと浮気に出ていくのである。
 ここでは「壷」という相対的な価値を持った物が「金(小判)」という絶対的な価値に<置き換え>られることで、騒動が起こるのである。そのトランスレートに関わる役が、茂十と当八のくず屋のでこぼこコンビである。彼等は『河内山宗俊』では侍姿のでこぼこコンビとして、図らずも偽物と本物の<置き換え>役を演じ<取り戻す>行為に加担しているのである。
 しかしストーリーは「金(小判)」をめぐる話でありながら、「金(小判)」そのものが主題として扱われているわけではない。山中の映画にはテレビの時代劇ドラマでよく見るような山吹色に輝く「金(小判)」の山が登場することはない。その存在は、登場人物の会話や、それがすれあうわずかな音だけで、無意識のうちにそこに存在することを見る者に分らせてしまう。また、登場する人物は「金(小判)」に翻弄されながらも、単純に「金(小判)」に<置き換える>ことのできない意思を持っている。これが崇高な意思というわけではなく、単なる意地であり同情であり愛着であり見栄であったりと、人が誰でも持つ感情なのである。その意思を<取り戻す>ため、「金(小判)」は等価であるとは思えないような<置き換え>が行われ、あっさり別の手へと渡ってしまうのである。

 山中貞雄が映画監督として生きたのはわずか5年であった。山中は『人情紙風船』が公開された日に召集令状を受け、戦地に赴き戦病死する。わずか28歳であった。

山中貞雄の現存する3作品

文=狩野志歩(イメージライブラリー・スタッフ)

  山中貞雄は監督としてデビューしてから20数本の作品を制作したが、残念ながら現在私たちが見ることのできる作品はたった3本である。しかし、その3作品は特に名作といわれ、山中貞雄の作品世界を垣間見ることができる。

丹下左膳餘話 百萬兩の壺
1935年92分/監督・構成 山中貞雄/原作 林不忘/脚本 三村伸太郎/出演 大河内傳次郎、沢村国太郎、喜代三、深水藤子

伊賀柳生の城主・対馬守は、弟源三郎が婿養子に行く際、引き出物として贈った家宝のこけ猿の壷に百万両の金のありかを示した図面があることを知り、あわてて壷を返してくれと頼む。しかし、自分の婿入りにうす汚い壷一つしかくれなかった兄を恨んでいた源三郎は、屑屋にタダ同然で売ってしまう。後に壷の秘密を知った源三郎は、妻にせかされ江戸中を探し回る。一方、壷は長屋に住む七兵衛の息子ちょび安が屑屋からもらって金魚入れにしていた。七兵衛は通いの矢場で巻き込まれたいざこざで命を落としてしまう。残されたちょび安を引き取ったのが矢場の女将お藤と居候の丹下左膳であった。百万両の壷を巡って、左膳・お藤対源三郎夫妻の大騒動が始まる。

現存する3作品の中で最も古く、山中貞雄26歳の作品である。公開当時、時代劇の英雄、丹下左膳の描き方を巡り賛否両論あったという。大河内傳次郎の当たり役、丹下左膳は片目片腕の怪剣士で、啖呵を切って豪快な立廻りを見せることで有名なヒーロー。次々と続編が作られヒットした。山中はこれまでの丹下左膳のイメージを一変し、パロディともいえる程軽やかな喜劇へと変貌させた。骨組みとなっている設定はアメリカ映画の『歓呼の崖』という父子の愛情物語からヒントを得ているといわれている。 また「逆手の話法」といわれる技法も特徴的である。これは、前のカットで否定した事柄を次のカットで肯定する手法で、例えば、近所の子にいじめられるので寺子屋に行くのを嫌がるちょび安を無理矢理に送り出したシーンで、左膳とお藤のセリフ。「あの子泣かされているんじゃないかしら」「気になるならお前一寸行って見て来いよ」「あんた行っておくれよ」「俺ァ厭だ」…。その直後のカットで、ちょび安をいじめる子供の頭をコツンとする左膳、といったやりとりに顕著に見られる。このような微笑ましいシーンの中に山中の描きたかった小市民のリアリティがちりばめられている。

河内山宗俊
1936年82分/監督・原作 山中貞雄/出演 河原崎長十郎、中村翫右衛門、原節子

河内山宗俊はふとしたきっかけで広太郎という若者と仲良くなり、毎日つるんで遊ぶようになる。広太郎の姉お浪は、甘酒を売ってほそぼそと生計をたてながら、家に帰ってこない弟を捜し歩く毎日。ある日、吉原で広太郎は幼馴染みの三千歳と再会するが、森田屋への身請け話が出て、二人は心中をはかる。しかし心中は失敗、生き残った広太郎は森田屋に追われる身となる。逃げた弟の代わりに三百両を求められたお浪は身売りを決意。森田屋の用心棒でありながら河内山とすっかり意気投合した金子市とともに、河内山はお浪を取り戻すべく、命を賭して捨て身で戦う。

『街の入墨者』に次いで前進座と組んだ2本目の作品。封建的な歌舞伎の世界に対抗していた前進座の役者たちは、カットの長さに合わせてセリフを調節したり、長廻しのロングショットにも耐えられる、映画という新しいメディアに対応できる演技ができた。
河内山と金子市のマドンナ的存在のお浪は原作にはない役柄である。当時16歳で売出し中の原節子を起用した。アメリカ映画からの影響を多く受けた山中は、『三悪人』(1926年 ジョン・フォード監督)の中で、男たちが可憐な娘のために命を懸けて戦う、という設定を時代劇に持ち込んだ。普段は遊び人の男たちがお浪の為に命懸けで戦う掘割でのラストシーンは圧巻。


人情紙風船
1937年86分/監督 山中貞雄/原作・脚本 三村伸太郎/出演 中村翫右衛門、河原崎長十郎、霧立のぼる

江戸深川の貧乏長屋に住む浪人の海野又十郎は仕事を得るため、唯一の頼みの毛利三左衛門という侍のもとへ毎日足繁く通うが、父親の恩義も忘れられ邪険に扱われる。毛利三左衛門は木場の老舗白子屋の娘お駒を家老の息子に嫁がせる為の手引きを依頼されている。又十郎と同じ長屋に住む髪結新三は、賭博で金が尽きてしまい、白子屋に借金を頼みに行くが、番頭忠七に冷たく断られ、かねてから睨まれていた源七親分の子分にさんざん痛めつけられてしまう。頭にきた新三は縁日の晩お駒を誘拐し、丁度隣に住む又十郎が新三をかばうためお駒をかくまってやる。白子屋をはじめ、三左衛門、源七は大慌てである。結局五十両でけりがつき、長屋の連中は酒盛りをはじめる。そこへ又十郎の女房おたきが帰宅して、人々が又十郎が誘拐の片棒をかついだと噂しているのを耳にする。そこまで落ちぶれたかとおたきは心中を決意し、内職用の包丁を取り出すのだった。新三も源七親分に呼び出され、死を覚悟しながら橋へ向かった。

鬱陶しい梅雨時、長屋で暮らす一人の住人の自殺から物語は始まる。お通夜にかこつけて大家に酒を用意させ酒盛りを始める住人たち。士官を夢みて、三左衛門にひどい扱いをうけながらも耐え忍ぶ又十郎と武士の女房のプライドを捨てきれず、黙々と紙風船の内職をするおたき。金持ちにバカにされ、ヤクザに脅されている新三。そして最後はやるせない死を迎える。お陰で長屋の人々は今日もタダ酒が飲めるのである。
この作品は、日中戦争が勃発した年に撮影が開始されたが、先の見えない陰うつとした空気は、当時の世の中を映しているかのようだ。もともと三村伸太郎の脚本では、貧乏長屋の人々のバイタリティを描き、希望に満ちたものだったが、山中は一部を改変し全く印象の異なる作品に仕上げた。
全編に渡り「死」 の気配が漂うこの作品は、山中にとっての遺作となった。『人情紙風船』を撮り終えた後、召集令状を受け取り、そのまま帰らぬ人となった山中の日記には、「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」と書かれてあった。

山中貞雄フィルモグラフィー

1932年
磯の源太・抱寝の長脇差
小判しぐれ
小笠原壱岐守
口笛を吹く武士
右門捕物帖 三十番手柄 帯解仏法
天狗廻状 前編

1933年
薩摩飛脚 剣光愛慾篇
盤獄の一生
鼠小僧次郎吉 江戸の巻
鼠小僧次郎吉 道中の巻
鼠小僧次郎吉 完結篇 再び江戸の巻

1934年
風流活人剣
足軽出世譚
勝関 (監督は小石栄一。山中は応援監督)
雁太郎街道

1935年
国定忠次
丹下左膳餘話 百萬兩の壺
関の弥太ッペ(稲垣浩と共同監督)
街の入墨者
大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻 (監督は稲垣浩。山中は荒井良平と共に応援監督)
怪盗白頭巾 前編

1936年
怪盗白頭巾 後編
河内山宗俊
海鳴り街道

1937年
森の石松
人情紙風船

時代劇と伝統芸能

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

 日本映画史は映画が担った記録媒体としての役割から語り始めることができる。リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフが日本に初めてもたらされたのは、1897年、明治時代のことである。この輸入興行にともなって来日したリュミエール社の技師・ジレルは、京都で歌舞伎俳優の所作事をフィルムに収めた。また、日本で撮影された最初の興行用映画は芸者の座敷を撮影したものと言われている。『紅葉狩』は、1899年の歌舞伎座の舞台の記念として撮影された、現存する最も古い日本映画である。このように日本芸能を記録するメディアとして利用されていた映画は、次第に芸能の要素を取り込んで、日本独自の映画ジャンルを築き上げて行くことになる。<時代劇>だ。
 シネマトグラフの伝来から、輸入フィルムの巡回上映が行われるようになるが、フィルムの供給が賄いきれなくなると、興行主たちは製作も手掛けるようになっていった。その中の一つ、横田商会(後の日活)から制作を委託された牧野省三は旅役者の尾上松之助を映画に起用した。無声で心理描写のテクニックもない映画の黎明期において、歌舞伎から由来する舞台芝居は簡単に取り入れることができた。豪快な立廻りで悪者をやっつけ、目玉をむいて大見得を切る。題材は、歌舞伎、講談、忍術もの。子供たちは瞬く間に松之助に夢中になった。日本で最初の映画スター<目玉の松ちゃん>の誕生だ。芸能から踏襲したのはそれだけではない。女形が女を演じ、弁士がスクリーンの袖で調子よく解説の声を振るった。世界のほとんどの国で無声映画は音楽伴奏のみで上映されていたが、日本では弁士の善し悪しは観客の入りを決める程であった。浄瑠璃などの語りものつきの芝居が発達した素地があったからに他ならない。
 しかし、大人にとってそれは幼稚な見世物に過ぎなかったし、知識層の多くは蔑視して日本映画を見ようともしなかった。当時外国では既にグリフィスがクローズ・アップやカット・バックという映像的テクニックを野心的に模索していたのだ。それにも関わらず松之助映画は観客が子供であるからと技術向上を怠った。撮影台本のない舞台芝居を据え放しのカメラで撮り続け、題材は単純明快なものに求める。松之助映画の量産は続いたが、次第に他社の時代劇に引き離されていった。日活から独立した牧野省三は独立プロダクションを設立し、新しいスター像を確立する。権力に反逆し、次から次へと敵を斬る、封建時代の題材と歌舞伎の演技術から解放されたその新しい時代劇は人々を魅了した。依然女形を起用していた松之助映画の時代遅れは否めない。
 時代の風潮に遅れまいとあがきながらも、1926年、松之助は亡くなる。その生涯に出演した映画は1000本近い。日本映画の大衆化に貢献した彼の功績は大きい。その年伊藤大輔が日活に入社。昭和初期、時代劇は伊藤大輔、山中貞雄らの手によって円熟期を迎える。

トーキーの夜明け

文=田中友紀子(イメージライブラリー・スタッフ)

 1920年代に入ると日本の映画会社もかなりの数となり、日本映画がサイレントからトーキーへと転換していく時期には、大小無数のプロダクションが生まれては滅んでいった。この時代の独立プロダクションには、時代劇映画などのスーパースターたちが、日活や松竹などの大会社と配給契約を結び自由制作を行う、いわゆるスタープロダクションが多かった。阪東妻三郎プロダクション、市川右太衛門プロダクション、片岡千恵蔵プロダクション、嵐寛寿郎プロダクションなどがそれで、それぞれが小さな撮影所をもち、低予算の時代劇映画をつくっていた。これらのプロダクションは規模が小さいため、才能のある者は比較的簡単にその才能を開花することができた。嵐寛寿郎プロダクションで、22歳で監督になった山中貞雄も例外ではない。伊藤大輔が、片岡千恵蔵プロダクションに『日輪』で彼の助手を務めた22歳の稲垣浩と、中学の同窓で当時同居していた伊丹万作を送り込んだのも、この自由な体制のもとでのことである。
 1927年になると、アメリカで最初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が発表され、アメリカがトーキーを謳歌し始めると、日本の評論家たちもトーキーを歓迎し、日本の無声映画スタジオは次第に色褪せてきた。このトーキーへの転換期にあって、日活からは、阿部豊、溝口健二、村田実、内田吐夢田坂具隆をはじめ、田坂の助手であった熊谷久虎などの優れた作品が生まれた。忘れてならないのは、松竹に籍をおいた、牛原虚彦島津保次郎、ヨーロッパから帰国した衣笠貞之助や、この頃忽然と光彩を放ってきた小津安二郎清水宏である。殊に『和製喧嘩友達』『大学は出たけれど』『会社員生活』の3作品を連続快打した小津の進出は目覚ましかった。また、帝国キネマは、松竹から豊田四郎を迎え、さらに従来からの鈴木重吉や木村荘十二による『何が彼女をそうさせたか』が成功した。後、帝キネの代行会社として生まれた新興キネマは、当時数多く存在した群小プロダクションを応援するなど、トーキー前夜の日本の映画界の整理役を果たし、そこに多くの作家が出入りした。やがて1931年、五所平之助監督による、日本トーキーの最初の金字塔と呼ばれる『マダムと女房』が発表された。
 1933年にもなると、日本トーキーも試作の時期を過ぎ、本格的にトーキーの時代へと突入していく。サイレントよりはるかに制作費のかかるトーキーが普及すると、小規模な経営をしているスタープロダクションなどの群小プロダクションは、次々と大手映画会社に吸収されていった。山中貞雄をはじめ、スタープロダクションの制作者たちは大手映画会社でこれまでよりも大規模な作品を手がけることができるようになったが、それは映画界が管理社会化していくことでもあった。トーキーによる産業革命によって、映画会社が堂々とした近代的なシステムの中で動き出した時代であった。

※名称・役職名等は当時のものです。

(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)

参考文献

今村昌平[ほか]編 『講座日本映画 1 無声映画の完成』岩波書店、1985年。
今村昌平[ほか]編 『講座日本映画 3 トーキーの時代』岩波書店、1986年。
大島渚[ほか]『日本映画を読む:パイオニアたちの遺産 』ダゲレオ出版、1984年。
キネマ旬報社『日本映画監督全集』キネマ旬報社、1976年。
佐藤忠男『日本映画の巨匠たち 第2巻』学陽書房、1996年。
千葉伸夫[ほか]『日本映画史:実写から成長―混迷の時代まで』キネマ旬報社、1985年。
千葉伸夫編『監督山中貞雄』実業之日本社、1998年。
山中貞雄『山中貞雄作品集 全一巻』実業之日本社、1998年。