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IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第9号

チェコの芸術家「イジー・トルンカ」

文=下川久美香(イメージライブラリー・スタッフ)

 はじめて見たイジー・トルンカの作品は『皇帝の鶯』であった。一目見た時から、言葉にできない魅力が私の中に広がっていくのを感じていた。
 イジー・トルンカはチェコを代表する人形アニメーション作家である。チェコのアニメーションといえば、カレル・ゼマンヤン・シュヴァンクマイエルなどの名が挙げられるが、いずれもその個性は他に類を見ない特異な作家である。中でもトルンカの作品は古典の風格を備えていながら見る度に、新しい発見をもたらしてくれるという不思議な魅力を持っている。
 彼らをはじめとして、イジー・バルタブジェティスラフ・ポヤールルボミール・ベネシュヴラディミール・イラーネクなどの作品は、近年チェコ・アニメーションという括りで、映画祭や特集上映で取り上げられる機会が増えている。
 チェコという国はヨーロッパの中央部にあるが、私たちにとって一般的には決してなじみの深い場所であるとは言いがたい。その国境をドイツ、オーストリア、ポーランド、スロヴァキアに囲まれた内陸の小国である。約79000㎢の国土に約一千万人の国民が暮らす国、それがチェコ共和国である。言い換えてみれば、およそ北海道くらいの広さの土地に、東京都の人口で一国をなしているのである。9割がチェコ人でチェコ語を公用語としている。世界遺産の点在する首都プラハは、中世の面影を色濃く残す美しい都市である。かつてはヨーロッパを凌駕する文化の中心であったことを今も私たちに伝えてくれる。
 イジー・トルンカは1912年2月24日チェコのボヘミア地方、プルゼニ(ピルゼン)で父は鉛管工、母と祖母は人形作りを営む家庭に生まれた。高校時代には、当時デッサンの教師をしていたチェコ人形劇の父と呼ばれるヨゼフ・スクーパ(1892〜1957)と出会い人形劇への強い影響を受けた。やがてトルンカはプラハ工芸大学に入学し、卒業後はスクーパの助手や人形劇団「木の劇場」を主催するが失敗してしまう。その後、プラハの「ロココ人形劇場」で美術家、演出家として働く傍ら、新聞に挿絵や漫画を描き、また小説や児童文学のためのイラストを描いていた。
 1945年、第二次世界大戦後にチェコの映画制作が国営化され、トルンカはそれまでのキャリアをかわれて国立映画スタジオ動画部門の監督に就任した。すでにイラストレーターとしてのキャリアを積んだトルンカであったが、彼のパステルやコンテを使ったデリケートなトーンを再現できるセル・アニメーションの技術はなく、アニメーション制作を始めた当初の作品は、ディズニーの亜流ともいえるような線と色面で描かれていた。またこれらのセル・アニメーションの制作は分業によるものだが、個性的な表情の難しい人形の頭(かしら)作りや着衣にていねいに待針を打ち命を吹き込むかのように人形を作っていくトルンカにとっては、個人制作に近い人形アニメーションのほうが彼の方法論を実践するにはふさわしい素材であった。  元来、チェコには大衆芸能としての人形劇の伝統があった。プロテスタントとカソリックの争いの中、チェコは1620年にビーラー・ホラ(白山)の戦いに破れ、以後ボヘミア貴族は排除されゲルマン化されるとともにチェコ語の使用は禁じられた。その後も30年戦争の舞台となった国土は荒廃し、チェコの300年以上に及ぶ従属の歴史が始まる。
 しかし18世紀後半になるとボヘミアでは民族運動が盛んになり、チェコ語の復権を唱える声と多くの文化的業績が誕生した。そのひとつがチェコ人による人形劇である。都市部で演じることを禁じられたチェコ人は、地方の町に即席で作った芝居小屋の中で、チェコ人にしか理解できないチェコ語を使って、圧制者を皮肉る芝居を行っていたのである。移動の簡単な小さな芝居小屋は小さな町から町に移動し、これがチェコの大衆文化である人形劇を形成していった。
 現在でもチェコには多くの人形劇場があり、町では多くのマリオネットが売られている。これらは外国人向けの観光材料であるが、チェコ人の生活の中で今でも人形劇は娯楽のひとつとして大切にされているそうである。またプラハのチェコ国立芸術アカデミーには人形劇学部があり、数多くの優秀な作家を輩出している。
 このようにトルンカの制作した人形アニメーションのバックグラウンドにはチェコの抑圧された歴史が隠されている。トルンカの時代では1918年にチェコスロヴァキアとして独立した後、1938年にはヒトラーによってドイツに併合される。そして1945年の第二次世界大戦におけるドイツ敗北の後、チェコスロヴァキアは独立するが、その後のソ連の干渉、プラハの春、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入、ビロード革命と社会情勢は複雑である。
 亡命者の相次ぐ中、抑圧された情勢の中でチェコという場所にこだわってトルンカが作品を制作した時期とチェコの情勢を重ねて考えることも興味深い。(チェコの詳しい歴史については、「ヨーロッパの十字路−チェコの歴史的背景」をご覧ください)

皇帝の鶯(うぐいす)
 1948年に制作されたトルンカの『皇帝の鶯』は『チェコの四季』に次ぐ長篇2作目の人形アニメーション作品であった。原作はハンス・クリスチャン・アンデルセンの『ナイチンゲール』(*1)を題材にしている。
 閉ざされた門と高い塀に囲まれた裕福な家で孤独に過ごす少年がいる。部屋の中には東洋の玩具が飾られ、今まさに新しい機械仕掛けの小鳥のオルゴールが届けられたところである。しかし物質的に満たされた少年の表情はどこか浮かないものである。門の外で遊ぶ女の子がうらやましくもあり、それでいて飛び出す勇気も持てないといったところであろうか。
 その夜、この病弱な少年は熱にうなされるのであるが、この実写部分に対して人形アニメーションはその少年の夢の部分として表現される。それはまるで、病弱な少年の一夜の夢という額縁にはめ込まれた絵画のように現実とは異なる世界を描写している。
 まず、原作に登場する「シナの皇帝」を「シナの〈幼い〉皇帝」に仕立てたこと。これがトルンカの企てた魅力のひとつであった。シナの幼い皇帝は機械仕掛けの人形の時計に従い、毎日決められた時間に起き、一日を決められたスケジュールで過ごしている。全てが人工的で定められた世界。トルンカはユニークなアイデアでこの「定められた世界」を描いている。
 ある日、遠い国の使者からこの幼い皇帝に一冊の本がプレゼントされる。シナの素晴らしい品々を紹介した本である。彼は1ページずつめくり、自分の珍しく美しいこれらの持ち物に賛美が注がれていることを誇らしく満足げに見ているのであるが、ひとつだけ見たことも聞いたこともない鳥のことが書かれているではないか。彼はすぐにこのナイチンゲールを連れて来るように家来たちに命令する。
 宮廷の外にいる少女に導かれて川のほとりに来てみると、宮中では見たことがない動物たちが個性的な音色で鳴いている。カエルの歌声は管楽器の音色で。この上なく美しい声で歌を奏でるナイチンゲールは繊細なバイオリンの音色で表現されている。どんなリアルな効果音にもまして美しい表現をみせてくれる瞬間である。これらトルンカ作品の音楽の多くを手掛けたヴァーツラフ・トロヤンはドボルザークの孫弟子と言われている。(*2)  皇帝は川のほとりで見つけたナイチンゲールの歌声に夢中になるのだが、ある日、機械仕掛けで歌を奏でる小鳥のプレゼントが届いてからは生きたナイチンゲールのことをすっかり忘れてしまう。しかし何度も機械仕掛けの小鳥の音色を聞いているうちに、皇帝は改めて生きた鳥の歌声の素晴らしさに気付き、いなくなったナイチンゲールを待ちわび物思いに沈む。
 機械仕掛けの鳥のバネが弾けて壊れてしまう描写は、チェコが工業国であり、1920年に「R・U・R(ロッスム・ユニバーサル・ロボット)」を生み出し機械文明を批判したカレル・チャペックの戯曲を想起させる。(*3)
 トルンカのアニメーションの特徴は、人形の頭(かしら)に造形的に手を加えず、つまりひとつの頭(かしら)のみで、その角度とそこに当たる照明の演出で喜怒哀楽を表現する点である。作中に人形のセリフはなく、饒舌な人間にも増して豊かで繊細な感情表現を行う。幼い皇帝が、待ちわびていたナイチンゲールの歌声を耳にして涙するシーンでは、私たち観客は息を詰め、そっと近付き寄り添うように、物言わぬ人形に静かに耳を傾けていることに気が付く。全編がアグフアカラーのフィルムの独特の色調で押さえられた世界は、東洋の不思議な世界に深遠な描写を与えている。  人形の頭(かしら)に造形的に手を加えないという方法は、トルンカ・スタジオで人形アニメーションを学んだ川本喜八郎氏(*4)にも受け継がれた。氏は帰国後、トルンカのアドバイスで日本の能や文楽の表現を研究したそうである。氏がトルンカスタジオを訪れた1963年当時「国の宝である人形映画制作を西側の人間に教えるはずがない」といわれ、スタジオに入るのに1ヶ月近くかかったのだという。(*5)
 川本氏はトルンカに「人形とはなんですか?」と尋ねた。トルンカは「人形は人間のミニチュアではない。」「人形には人形の世界がある」と答えた。(*5)
 もういちど作品に向かって、トルンカが表現しようとした「人形の世界」を見直したいと思う。

*1 邦訳本では『完訳アンデルセン童話集(ニ)』(大畑末吉訳/岩波書店)などで読むことができる。
*2 『夜想34 パペットアニメーション』(ペヨトル工房) 人形アニメーションの美学 川本喜八郎、おかだえみこ(聞き手)両氏の対談より
*3 カレル・チャペック(1890〜1938)SF劇『R・U・R』で「ロボット」という言葉を生み出した。彼の愛犬の生活を描いた『ダーシェンカ』(1933)も有名。
*4 川本喜八郎(1925〜)日本を代表する人形アニメーション作家。1963年から約2年間トルンカ・スタジオでアニメを学ぶ。『いばら姫またはねむり姫』は1990年、再び訪れたトルンカ・スタジオで制作された。
*5 NHK放送番組『世界・わが心の旅/プラハ・人形の魂を求めて』より

イジー・トルンカ バイオグラフィ


1912年
2月24日ボヘミアのプルゼニ(ピルゼン)に生まれる。
高校時代にチェコ人形劇の父と呼ばれるヨゼフ・スクーパから美術を学ぶ。

1935年
プラハの工芸大学に入学。卒業後、ペンダ教授の研究室に入る。

1936年
スクーパの助手を務める。また人形劇団「木の劇場」を創立するが失敗。プラハの「ロココ人形劇場」で美術家、演出家として働きながら、漫画や児童文学、挿画を描く。

1940年
プラハの工芸博物館で初個展。

1945年
プラハの国立映画スタジオ動画部門の監督に就任。

1955年
芸術功労賞受賞。

1962年
プラハのマーネス・ホールで作品展示。

1963年
人民芸術功労賞受賞。

イジー・トルンカ作品紹介


<アニメーション>
皇帝の鶯
1948年/68分(人形アニメーション+実写ドラマ)/原作 ハンス・クリスチャン・アンデルセン/監督、翻案 イジー・トルンカ/脚本 イジー・トルンカ、イジー・ブルデチュカ/ドラマ部分演出 ミロシェ・マコォヴェツ/音楽 ヴァーツラフ・トロヤン/撮影 E・フラネク

草原の歌
1949年/22分/原案 イジー・ブルデチュカ/監督、脚本、美術 イジー・トルンカ/音楽 ヤン・リヒリーク/撮影 E・フラネク

ジョン・フォード監督の『駅馬車』をヒントに作られた西部劇スタイルの人形アニメーション。主人公が馬車と並走するスピード感溢れるシーン、ヒーローである主人公に追い詰められた悪党が足を滑らせながら断崖を登っていくシーンの演出は、人形アニメーション表現の域を越えている。


1965年/15分/原案、監督、脚本 イジー・トルンカ/音楽 ヴァーツラフ・トロヤン/撮影 イジー・シャフアージ

主人公のアルルカンは小さな部屋でひとり、植木鉢を作りながら大好きな花を育てている。その平和で些細な幸せの空間は、突然現れた巨大な手によって壊される。巨大な「手」はアルルカンに自分の彫像を作るように命じ、アルルカンは抵抗も空しく檻に閉じ込められ「手」の彫像を制作する。
「手」の権力に屈していくアルルカンのせつない表情の変化の演出がすばらしい。

おじいさんの砂糖大根1945年/11分
動物たちと山賊1946年/9分
バネ男とSS1946年/14分
贈り物1946年/16分
チェコの四季1947年/83分
「皇帝の鶯」1948年/68分
コントラバス物語1949年/14分
「草原の歌」1949年/21分
悪魔の水車小屋1949年/20分
バヤヤ1950年/78分
楽しいサーカス1951年/12分
金の魚1951年/15分
チェコの古代伝説1952年/83分
二つの霜1954年/13分
おじいさんの物々交換1954年/9分
クテャーセクとクティルカ1954年/18分
善良な兵士シュヴェイク コニャックの巻1954年/23分
善良な兵士シュヴェイク 列車騒動の巻1954年/22分
善良な兵士シュヴェイク 堂々めぐりの巻1954年/31分
フルヴィーネクのサーカス1955年/23分
「ユネスコの話」1958年/10分
真夏の夜の夢1959年/75分
情熱1961年/9分
電子頭脳おばあさん1962年/29分
天使ガブリエルと鵞鳥夫人1964年/28分
「手」1965年/19分

<絵本>
人形アニメーション作家としてのキャリアをスタートする以前からイラストの仕事を手掛けていたトルンカは、本の挿絵も数多く描いている。最初の絵本は1937年に出版されたV.シュメイツの「トラの話」であった。その後、アンデルセン童話やグリム童話、チェコの民話、作家によって創作された物語や詩に多くの挿絵を描いている。
 黒い下地の上にパステルやコンテで描かれる柔らかなタッチの絵は、1945年にプラハの国立映画スタジオ動画部門の監督としてセル画による平面のアニメーションで実現できなかったトルンカの世界観をみることができる。
 下地に黒を用いた点は、単に美しい色使いというのではなく、色の洪水をどこかでコントロールしながらも暗い世界で光り輝く「色の演出」を行っているのであろう。
 トルンカは、絵本というメディアにあって、複製(印刷)を前提にしながらも、イラストを思うがままに描き、技術を絵に合わせていこうと考えた。また「イラストが基本で、それへのアプローチをすでに映画に持ち込んだ。」と語っている。(1968年 国際アンデルセン賞を受賞)

「ふしぎな庭」イジー・トルンカ/作・絵、井出弘子/訳 ほるぷ出版(1978)
「おじいさんのおくりもの」ヤン・アルダ/作、イジー・トルンカ/絵、やすかわあやこ/訳 ほるぷ出版(1984)
「わんぱくピーテック」フミル・ジーハ/作、イジー・トルンカ/絵、ちのえいいち/訳 ほるぷ出版(1984)

ヨーロッパの十字路—チェコの歴史的背景

文=狩野志歩(イメージライブラリー・スタッフ)

 人形アニメーションの巨匠トルンカがその生涯を過ごした国、チェコ。彼の人形とそのアニメーション作品には、チェコの伝統芸術とチェコ人としての民族的な誇りが窺える。彼が活動の拠点としていた首都プラハは中世のたたずまいを残す美しい街である。戦争による被害をほとんど受けずに残った街並は多くの人々を魅了してきたが、その歴史は決して穏やかなものではなかった。ヨーロッパのほぼ中央に位置するチェコは、東のスラブ民族と西のゲルマン民族との境界の国でもあり、歴史の中で常に近隣諸国の侵略に脅かされてきた。他国からの圧力により、自国の言葉すらも禁じられたチェコ人にとって、民族復興への願いは切なるものだったに違いない。

 チェコスロヴァキアは1993年に解体、チェコとスロヴァキアに分かれそれぞれ独立した国家を持つようになったが、もともとこの二つの国は同じ祖先を持つ、その昔大モラヴィア王国と呼ばれる一つの国であった。王国が滅ぼされてから、スロヴァキアはハンガリーの属領となり、チェコ人は今のボヘミア地方にボヘミア王国(チェコ王国)を建国し、それぞれ別の道を歩むこととなる。
 14世紀にはボヘミア国王のカレル1世が神聖ローマ帝国(*1)の皇帝に選出され、プラハは帝国の首都となる。この頃から、チェコは神聖ローマ帝国に従属し、またドイツの植民政策によってドイツ化が進み、チェコの知識人たちは皆ドイツ語を使うようになった。そしてチェコは次第に民族としての自立性を失ってゆくのである。
 チェコ人の最初の民族運動は、フス派(プロテスタント)による宗教改革である。ローマ=カトリック教の腐敗と宮廷や地主などの権力構造に入り込んでいたドイツ人への反発から生まれたフス派の指導者フスは、チェコ語による文化を大きく発展させた。そしてフスがカトリック教会から異端とされ火刑に処せられてから、「フス戦争」と呼ばれる大きな戦争となった。15年間に及ぶ戦争が終結した後、ボヘミアは宗教の自由が認められ、政治的にも宗教的にも帝国から自立的な立場をとるようになる。しかし、17世紀に入ってハプスブルク家はボヘミアへの支配を強化する為プロテスタントを弾圧。そこから「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」(1620)に発展し、その結果プロテスタントのチェコ軍は大敗することになる。この敗戦によってチェコは独立権を奪われ、完全にローマ帝国の支配下におかれることになる。カトリックが唯一の宗教となり、15万人ものプロテスタントが国外に亡命し、入れ代わるようにしてオーストリアなどのカトリック系外国人がチェコに入った。ドイツ語が公用語となり、チェコ語とチェコ文化は衰退した。「プラハ」はドイツ語の「プラーグ」に「ヴルダヴァ川」は「モルダウ川」に改名され、通りの名前も全てドイツ語に書き換えられたのである。残ったプロテスタント貴族たちもカトリックに改宗させられ、貴族たちにとってチェコ語は農民の言葉で恥ずかしいものだとされた。こうしてドイツ化したチェコ人は、民族としてのアイデンティティを急速に失っていく。
 しかし18世紀に入ると、チェコ文化の復興意識が思想家や作家、芸術家などの知識人を中心に高まる。それは、近代化が進んだ農村部で人口が爆発的に増え、チェコ語を話す農民が都市へ流入し、都市部に住む知識人との交流の機会が増えたことで、自らの起源を見直す動きが活発化したのである。彼らはチェコの歴史や文学をドイツ語に翻訳し、多くの知識人や貴族に紹介していった。1783年に完成したノスティッツ劇場(*2)では、ドイツ語の他にチェコ語での上演も行われ、その演目は人形劇として農村を廻った。内容も次第にチェコ史に題材を取ったものになり、人形劇を通して庶民層にも民族復興運動は浸透していった。そこで生まれたカシュパーレクというキャラクターは、支配者への皮肉を込めた笑いで人気を得た。やがて、チェコ人の間でチェコ語専門の劇場を作ろうとする動きが出て、1868年に国民劇場の建設が始まる。こけら落としはチェコを代表する作曲家スメタナ(*3)の戯曲『リブシェ』(*4)であった。「民族が己れ自身のために」というスローガンのもと、全国から集められた寄付金で建造された国民劇場はチェコ人にとって民族の象徴のような存在であった。
 第一次世界大戦が終結した1918年、チェコスロヴァキア共和国として独立。300年にも及ぶ支配から解放されることになる。その後第二次世界大戦が始まるまでの20年間はチェコ文化が豊かに繁栄した時期であった。ロボットという造語を生み出した戯曲『R・U・R』を書いたカレル・チャペックや、『兵士シュヴェイクの冒険』を書いたヤロスラフ・ハシェク、プラハのユダヤ人ゲットーに生まれたフランツ・カフカ、 後にチェコ・シュールレアリスムへと移行してゆく芸術運動「ポエティズム」を牽引したアヴァンギャルド芸術家集団「デヴィエトスィル」のメンバーでノーベル賞作家の詩人ヤロスラフ・サイフェルト、言語学者ヤコブソンが在籍していた「プラハ言語学サークル」など、彼等は積極的に海外の作家や研究者たちと交流し、文化を発展させていった。しかし、1938年のナチス・ドイツによる侵攻によってチェコスロヴァキアは解体され、チェコはドイツ占領下で再び暗黒の時代を迎えることとなる。
 1945年、第二次世界大戦の終わりと共にチェコはソ連軍によって解放される。その3年後には共産党政権が誕生。今度は徹底したスターリン主義のもとで言論の自由を奪われ、粛清によって多くの人々が逮捕、処刑された。映画産業は国有化され、社会主義リアリズムにのっとられた映画が作られた。トルンカが国立映画スタジオでアニメーションの制作を始めたのは丁度この頃である。しかし、国家の監視があったとはいえ、経済的支援とある程度の表現の自由は認められていたようで、チェコにおける人形アニメーションの発展や60年代のチェコ・ヌーヴェルヴァーグ(*5)を生み出した。そしてソ連でのスターリン批判の動きと共にチェコにも非スターリン化の波が来て、1968年に「プラハの春」と呼ばれる大規模な民主化運動が起こった。6月には「二千語宣言」が文化人をはじめとする著名人の署名と共に発表された。これは国民に対して、民主化の為に戦うことを呼び掛けたもので、トルンカも署名に参加したという。「人間の顔をした社会主義」を掲げたこの運動は、しかしながらわずか半年でソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻によって制圧される。ソ連は「正常化」の名のもとでチェコの独立と自由を奪うが、自由化の動きは押さえることができず、ついに1989年チェコ共産党政権が崩壊。一滴の血も流さずに革命が成功した為「ビロード革命」と呼ばれた。1993年にはチェコスロヴァキアは解体し、チェコ共和国とスロヴァキア共和国に分かれ念願の独立を果たしたのである。
 このようにチェコを巡る民族的、歴史的背景は非常に複雑である。内陸の国ゆえに大量に流入する外国人との交流、ヨーロッパを支配するハプスブルク家への忠誠と反発、チェコ語の禁止によって書き換えられた地名と唯一のチェコ語文化として生き残った人形劇、チェコ人とドイツ人、ヨーロッパ最大のユダヤ人地区に住むユダヤ人との反目と交流、ナチス・ドイツからの解放と社会主義国家による表現の制約、一方で資金的制約からの自由、独立した現在は民主化の波と共に次第に近代化してゆく古都…。長い歴史の中で、チェコの人々は何度も民族としてのアイデンティティの危機にさらされて来た。しかし同時に海外から流入した文化や外国人を受け入れ、それを独自のチェコ文化として発展させてしまう逞しさも持っている。ヨーロッパの十字路とも例えられるチェコは、様々な文化や民族が行き交う道筋の上に豊かなチェコ文化を築き上げたのである。

(*1)中世に登場した神聖ローマ帝国は、ドイツ系のハプスブルク家が800年に渡って中欧諸国を統治した大帝国。その領土は現在のドイツ、オーストリア、スイス、イタリアの一部、そしてチェコに渡る広大なものだった。次第にその多様な民族をとりまとめることが困難となり、帝国は崩壊した。
(*2) 1799年に等族劇場に改名される。オーストリア生まれのモーツァルトと所縁が深く、1787年に『ドン・ジョバンニ』を初演したことで有名。
(*3)スメタナはドボルザークと並ぶチェコを代表する作曲家。チェコの民族復興に尽力する。代表作は6つの交響詩から成る『わが祖国』で、毎年行われる音楽祭「プラハの春」でオープニングに演奏される。第2曲目である『ヴルダヴァ』は『モルダウ』として一般的に知られているが、ここでいう「わが祖国」は当然チェコを指すことから、チェコ語の「ヴルダヴァ」が正しい表記といえる。
(*4)チェコ最古の年代記に出てくる『リブシェ伝説』をもとに書かれた戯曲。『リブシェ伝説』は、チェコを最初に統治した王妃で予言者のリブシェの物語で、スメタナの他にもトルンカやチェコ出身でアール・ヌーヴォーの画家ミュシャ等、多くの芸術家が作品の題材に選んだ。19世紀には民族のルーツとしてチェコの愛国主義と結びついた。
(*5) プラハの芸術アカデミー出身の若い映画監督を中心とした新しい波。その後アメリカに渡り『カッコーの巣の上で』(1975)でアカデミー賞をとったミロス・フォアマンもその一人。ちなみにモーツァルトの生涯を描いた『アマデウス』(1984)の撮影は前述の等族劇場で行なわれたという。

チェコのアニメーション作家たち

文=木村美佐子/田中友紀子(イメージライブラリー・スタッフ)

 独自の文化と複雑な歴史の中で人形アニメーションを発展させてきたチェコ。この豊かな土壌からは、多くの偉大なアニメーション作家たちが生まれました。

イジー・バルタ 1948〜
 イジー・トルンカと同じ工芸大学のTVグラフィック科に学び、『謎かけと飴玉』(78)でデビューしたのち、ディスクジョッキーの一日を描いた『ディスクジョッキー』の企画が認められ、1981年にトルンカ・スタジオに登用される。トルンカのような幽玄の世界を描いたチェコ・アニメーションの流れとは異なった潮流に属する作家である。彼は、往々にして人間が共通して抱えている弱点や矛盾を、普遍性のあるモノに演じさせ、観客の注意を呼び起こそうとする。『手袋の失われた世界』(82)はニクロム線を仕込んだ手袋達が、チャップリンフェリーニ、『アンダルシアの犬』『未知との遭遇』その他の映画のパロディを次々と演じる、ユニークな映画史である。手袋の緻密な演技が妙な真実味をかもしだす、ユーモアのある作品だ。5年の歳月をかけて制作された人形アニメーション『笛吹き男』(85)は、新しい解釈による「ハーメルンの笛吹き男」の物語。不自然なバランスの彫刻のようにデフォルメされた人間が繰り広げる強欲の所作の果てにある結末を描き出した傑作である。

カレル・ゼマン 1910〜1989
 第二次世界大戦後、ゴットヴァルドフ(現ズリーン)の国立映画スタジオでは二人の有名なアニメーション作家が活躍した。一人はトルンカより一足早く人形アニメーション制作に携わっていた女性監督ヘルミーナ・ティールロヴァー、そしてもう一人は後に特撮の巨人と呼ばれることになるカレル・ゼマンだ。
 彼は、短編コメディ『プロコウク氏』シリーズ(47〜)、ボヘミア・ガラス製の繊細なガラス人形でピエロの悲恋を描いた『水玉の幻想』(48)といったいくつかの人形アニメーションを手掛けた後、その技術を応用して特撮映画の制作に取りかかる。ジュール・ヴェルヌの小説を題材にした長編映画『悪魔の発明』(57)は、科学と発明が花開いた19世紀末の趣を色濃く伝える、優雅なSF冒険物語だ。実写部分のセットには至る所にエッチングのような細かい縞模様があしらわれ、立体感が排された奇妙な世界はまさに銅版画の挿絵そのもの。そこに切り紙アニメーションが巧みに挿入されるので、実写の人間が絵の中で動いているような錯覚が起きるのだ。人形に魂を肉付けしていったトルンカとは好対照の、様式美への追求がうかがえる。その後『盗まれた飛行船』(66)、『彗星に乗って』(70)などの長編トリック映画を手掛けた後、『クラバート』(77)、『ホンジークとマジェンカ』(80)といった切り紙アニメーションを制作。1989年、惜しまれつつ78歳でその生涯を閉じた。

ブジェティスラフ・ポヤール 1923〜
 多くのトルンカ作品においてトップ・アニメーターとして活躍したポヤールは、『魔法の森のお菓子の家』(51)で監督デビューを果たした。飲酒運転の悲痛な末路を描いた2本目の演出作品『飲みすぎた一杯』(53)はカンヌ映画祭で人形映画賞を受賞する。疾走するバイクの背景が猛スピードで流れ去り、青年の顔に並走する夜行列車が光を落とす。そして悲劇を予感させるように、一瞬現れる開放的な空の風景…。その圧倒的な現代性とロマンティシズムで、トルンカの人形制作ながらも、師とは全く異なった作風でポヤルは観客を魅了した。
 1968年のソ連のチェコ侵攻前後からは、チェコとカナダを往復しながら、主に半立体のレリーフ人形や切り紙を素材に制作を続けている。1986年に制作されたカナダのジャック・ドゥルーアンとの共作『ナイトエンジェル』は、若き日のポヤル作品を彷佛とさせる、実にリリカルなアニメーション作品だ。ドゥルーアンのピンスクリーンとポヤールの人形が、事故によって突然視力を奪われた青年の、光と闇、夢と現実の間の彷徨を幻想的に描き出している。視力を失いながらも、手探りで歩く青年の描写は圧巻。手が物に触れる度、記憶の中から呼び覚まされたかのように、暗闇からふっと物の輪郭が浮かび上がるシーンは、アニメーションならではの表現の豊かさを感じさせる名場面だ。

ヤン・シュヴァンクマイエル 1934〜
芸術アカデミーの人形劇科で演出法と舞台美術を学んだシュヴァンクマイエルは、映像を取り入れた伝統あるパフォーマンス・シアター「ラテルナ・マギカ」で美術監督として活躍した。やがて映画と演劇の二つの要素を取り入れた処女作『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』(64)を発表する。1970年にシュルレアリスム・グループのメンバーになり、革命前には映像作品の上映禁止や台詞のカットなど数々の検閲を受けた。政治参加の芸術『オトラントの城』(73)の制作をめぐっては、1980年まで当局側から映画制作の禁止を命じられたが、その間は触覚芸術の実験に時間を注いだ。自らをアニメーション作家とすることを否定し、シュルレアリスムの闘士として、映像作品だけでなくドローイング、オブジェ、詩、コラージュなどを制作している。緻密さのあまり一年に15分ほどしかつくれないという短編アニメーションは、彼自身の奇妙なコレクション、死んだ動物や肉片、切り刻まれ、潰される人形たちを素材にしたインパクトの強い作品である。

(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)



参考文献

川崎市民ミュージアム「『イジィ・トルンカ アニメーションフェアー』カタログ」1989年。
『夜想34号 パペット・アニメーション』ペヨトル工房。
『夜想35号 チェコの魔術的芸術』ペヨトル工房。
伴野孝司/望月信夫『世界アニメーション映画史』ぱるぷ。
登川直樹 編『講座アニメーション2 世界の作家たち』美術出版社。
月岡貞夫 編『講座アニメーション4 動きをつくる』美術出版社。
ハラス、ジョン/マンベル、ロジャー『アニメーション』伊藤逸平訳、ダヴィッド社。
森卓也『アニメーション入門』美術出版社。
おかだえみこ/鈴木伸一/高畑勲/宮崎駿『アニメの世界』新潮社。
『小型映画 アニメと特撮』玄光社。
赤塚若樹 編集・訳『シュヴァンクマイエルの世界』国書刊行会。
石川達夫『黄金のプラハ』平凡社。
チハーコヴァー、ヴラスタ『新版 プラハ幻景』新宿書房。
南塚信吾 編『東欧の民族と文化』彩流社。
矢田俊隆『世界現代史26 ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』山川出版社。