武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第16号

久里洋二(1928〜)

漫画家、イラストレーター、画家、アニメーション作家。1960年に真鍋博柳原良平らと〈アニメーション3人の会〉を結成し草月アートセンターで作品を上映しながらアニメーションの自主制作を提唱。同時にアニメーション作品を一般公募したり、海外作品を上映するなど、当時の漫画映画のイメージを大きく変えた。またヨーロッパやアメリカなど海外の映画祭でも数多くの作品を発表し、世界に通用する芸術的なアニメーション制作への道を開いた。


久里洋二の仕事

文=下川クミカ(イメージライブラリー・スタッフ)

 ペンを手にとり線をひくと、線で隔てられた左右には空間の力関係が生まれる。久里氏の作品に見られる迷いのない描線はそこに生まれる空間の性格を瞬時にして決定づけるものである。単純にして明解。久里氏の天性のセンスを端的に表している。人物や背景の性格を表わす要素でありながら、大胆さと的確さはマチスが描く線の魅力を思わせる。
 わたしは長年、久里氏はアニメーション作家である、と思い込んでいたが久里氏の肩書きはひとつではない。氏の線のごとく大胆かつ自由で、数多くの仕事を成し遂げてきた。

 久里氏は1928年福井県の鯖江市に生まれた。幼い頃から絵を描くのが好きであったという少年時代は、日中戦争、太平洋戦争と重なり、絵を描いているだけで国賊と言われる時代であった。横山泰三氏の諷刺漫画に傾倒していた久里氏は京都の美術学校を受験し合格するが、陸軍の軍人であった父の反対や生活の事情で進学を断念する。
 1950年に漫画家を目指して上京を決意し、尊敬する横山氏の家に程近い藤沢の地に下宿を始めた。雑誌の投稿で生計をたて、漫画ブームに乗じて得た収入でドイツ製の高額なアニメーションカメラを購入した。ドルの乏しい時代、個人で入手することが難しかったカメラを「部品だけでも欲しかった」という情熱で通産省の許可を取り付け入手してしまうところが久里氏らしい。
 氏の映画への憧れは幼少の頃からあったという。フィリップ・ブックつまりは本の隅っこに漫画を描いて動かすパラパラアニメ、お祭りで見るのぞきからくり、トイレの窓から忍び込んだ映画館…。氏の漫画と映画が結びつき、テレビ放送〈半常識の目〉で制作したアニメーションをきっかけに、その活動の場をアニメーション制作へと移行したのは自然の流れであった。
 しかし時代はまだアニメーションという言葉すら知られず、日本では手塚治虫や東映動画、海外ではウォルト・ディズニー作品が紹介されていた。これらは子供のためのアニメーション作品であり、制作には多くの人が携わり分業された産業としてのアニメーションであった。この時代、久里氏はエロティックで過激なまでに諷刺のきいた大人のアニメーションを個人で制作する。
 この活動は久里洋二、柳原良平真鍋博による〈アニメーション3人の会〉で多くの観客の目にふれることになる。〈アニメーション3人の会〉の作品は、勅使河原宏が立ち上げた草月アートセンターで上映された。草月アートセンターは1960年代の日本の新しく興った現代美術、前衛芸術を語る上で欠かせない存在であり、ジャンルを越え芸術を複合的なビジョンで捉えていた。ジョン・ケージオノ・ヨーコが音楽イベントを行なった場所でもあり、草月アートセンターの牽引的役割を果たしていた久里氏の作品は若い芸術家を惹き付け、後に横尾忠則和田誠宇野亜喜良らをアニメ制作に誘うことになる。また久里氏の作品には数多くの芸術家が集結している。『人間動物園』の音楽は武満徹によるもので、自らのヴォーカリズムで映像にユニークな音を提供した。谷川俊太郎は『二匹のサンマ』で詩を提供し、オノ・ヨーコは『アオス』で呻きともあえぎともとれる声で出演している。また冨田勲は当時最先端のシンセサイザーで音楽を担当し、一柳慧秋山邦晴も久里氏のいくつもの音楽を担当した。秋山祐徳太子、岡本太郎永六輔は『ザ・バスルーム』や『椅子』というハプニング的要素の濃い作品で出演している。
 ドイツ製のアニメーションカメラで制作した『人間動物園』は諷刺のきいたユニークな作品であり、ヴェネチア映画祭、フランスのアヌシー映画祭、カナダのバンクーバー映画祭をはじめ11の賞を獲得した。久里氏の作品の評価は当時の日本では追い付かず、海外で先に評価された。以後、久里氏の作品は実験的な試みの下で『LOVE(愛)』『アオス』『殺人狂時代』『寄生虫の一夜』など多数制作される。
 圧巻なのは週1本のペースで18年間続いた〈11PM〉のオープニングを飾るアニメーションである。「ぼくは作るのが早いから」とは久里氏の談だが、それはあの自由な線の描写力と奇想天外な発想の賜である。アイデアは泉のごとくあふれ、代わって視力の衰えや時代の変化によって氏の制作は徐々にタブローへと移行していった。一昨年、複数のアニメーターが集い芭蕉の句を基にしてそれぞれのパートを制作した短編集『冬の日』で久々にアニメ−ションカメラに向かう久里氏は、何枚も重ねたセル画をていねいに着彩していた。長年、制作してきたアヴァンギャルドな作風とは対照的に制作は至ってシンプルである。16ミリカメラで1枚ずつ美しい色で着色されたセル画を撮影する姿は、今でも映画を始めた頃と同じ制作風景である。
 冒頭に“久里氏の肩書きはひとつではない”と述べたが、キャリアを漫画からスタートした久里氏は、絵画、アニメーション、オブジェ、イラスト、インスタレーション、肖像画、絵本、短編小説と、久里流の自由な発想は様々なスタイルで表現された。
 実験精神に満ちた開拓者として、日本で初めてアート・アニメーションという言葉の神髄に迫り、海外アニメーションの紹介や海外作家との交流を通して次の世代へとその道筋をつけたことは、久里氏のもう一つの偉大な功績である。

久里洋二氏へのインタビュー

聞き手:イメージライブラリー・スタッフ(下川久美香/木村美佐子/田中友紀子)
平成17年3月23日(水) 久里氏のアトリエにて

(IL=イメージライブラリー、YK=久里洋二氏)
IL:久里さんは今までに絵画、イラスト、短編小説、オブジェ、絵本などいろんなお仕事をされていますが、久里さんにとって他の仕事と比べてアニメーションにはどんな魅力がありますか?

YK:アニメーションは終わったな、そう思う。以前は<11PM>(*)なんか1週間に1本平気で作れた。2分か3分くらいのやつね。今は3分作るのに半年かかるよ。

IL:先生のアニメーションの次々にあふれ出すアイデアの展開はすごいですよね。古臭く感じるものではないし、もっと見たいなと思いますよ。先生と若い人の間にある世代の差を越えて、また海外で作品を発表される上で受け入れられる理由のひとつには、先生のテーマにあると思うのですが、国や民族や世代を越えて共通するテーマ、つまり〈男と女〉についておうかがいしたいのですが。

YK:それぞれの国の風俗や文化、おとぎ話ではなく〈男と女〉、シェイクスピアやオペラもそうでしょう?男と女の問題は全世界共通。どこの国に行っても子供を産まない国はないでしょう?原始時代から未来まで永遠のテーマで受け入れられるしわかり易い。

IL:アニメーションをはじめられた1960年頃、アニメーションという言葉も知られていない時代ですが、子供のためのディズニー映画や東映動画に対する反発精神はありましたか?

YK:漫画映画や戦前のミッキーマウスは好きなのだけれど、作品としての興味はなかったね。彼らは大衆文芸なんだよね。僕のはね、アート・アニメーションなんだよ。アート・アニメーションっていうのはね、1人で作るんだよ。お金にならない。それでいいじゃない。金持ちになろうとは思わないもの。そういう作家は全世界にいっぱいいるよ。

IL:一言でアニメーションと言っても、久里さんの作品は1960年代の前衛芸術側に近い存在でしたよね。草月アートセンターでも多くの前衛芸術家と一緒に仕事をされましたよね。

YK:アニメーションには全ての要素が入っているからね。背景を描く、キャラクターを描いて、動かし演技させて、ストーリーを考え、撮影の仕方、編集、みんなアートの要素が入っているでしょう。

IL:その中でも特にお気に入りの仕事、好きな作業はありますか?例えば最初のアイデアを絵にする瞬間とか?

YK:アイデアはたたいても昔みたいに出ないね。昔はいくらでも出たよ。作っている最中にも次の作品が作りたくなるからね。

IL:そういう感覚は作品から伝わってきますね。

YK:僕は個展が多いから映画を作る時間がないね。画廊に「売れない絵でもいい?」って言っても画廊はやっぱり困るよね。やっていけなくなっちゃうもんね。今は自宅で夜1時まで絵を描いているよ。このアトリエは夜7時までだね。

IL:草月アートセンターで上映されたアニメーションについて少しお話をうかがいたいのですが『人間動物園』で、音楽は武満徹さんがやっておられるようですが、具体的には音楽とアニメーションはどのようにして作り進められるのでしょうか?

YK:あれは音が先なの。最初に聞いたときは何をしていいかわからなかったね。何十回聞いてもアイデアが出てこなかったの。毎日100回くらい聞いて、ある瞬間ひらめいたんだ。

IL:最初に武満さんにこういうものを作って欲しいと頼まれたんですか?

YK:あれは名古屋の放送局で放送したやつを武満さんが「使ってよ」ってそんな感じ。あの作品は全世界今でも毎月どこかで上映されているよ。イタリアではぼくの作品は「古典アニメーション」と言われているよ。

IL:作品を見た後、制作年を改めて見て「え、1960年の作品?40年も前の作品のように思えないな」と感じたのですが。

YK:1960年代はおもしろかったよ。仮装パーティーとかファッション・ショーとかね。僕なんかも右半分が緑で左半分が黄色の背広作ったよ。黄色い蝶ネクタイで。おもしろかったな、毎日が狂ってたから。芸術家はみんな仲良かった、金がないから。だからみんな助け合うのよ。武満さんもタダでやってくれた。スタジオで制作した後も音楽をやってくれた秋山さん(秋山邦晴氏)なんかと「久里さん終わったねー」って言って近所の定食屋に行って納豆丼食べるのよ。オノ・ヨーコだって「これ使っていいよ」って言って『アオス』の音を提供してくれた。オノさんは今でもあの作品がお気に入りで事務所からテープがありますかって問い合わせがあるんだよ。
現代音楽のジョン・ケージ。現代音楽なんかみんな狂ってて、一柳さん(一柳慧氏)もステージにガードレールと扇風機置いてバンバン叩くんだよ。ガタガタガタって音がする。ピアノの中にもいろんな棒を突っ込んで音を半音狂わすの。

IL:今、アニメーションブームでコンピュータで手軽に作れるのですが…。

YK:あーゆーのは駄目よ。ハートがない。人間づきあいがないでしょ。もっと音楽家やいろんな芸術家とも付き合って作ったほうが楽しいよ。

IL:そうですね、アニメーションの枠を越えて音楽とかアートとかいろんなジャンルの人たちと出会っていっしょに作っていくのはうらやましいですね。

IL:『椅子』という作品がありますが、あれを見ていると次に誰が出てくるかすごく楽しいですね。

YK:岡本太郎谷川俊太郎さんやみんなタダででてくれたよ。

IL:久里さんの作品にいろんな人が協力したように、久里さんもいろんな人の作品作りにも協力したんですよね。

YK:そう、みんなここでアニメーションを作ったよ。音楽もカメラもクーラーもない部屋で撮影するのは大変だったよ。朝倉摂も作ったね。イギリスのジョージ・ダニングに「ビートルズの『イエロー・サブマリン』を作ってるけど協力してくれない?」と言われたけどイギリスに行く時間がなかったから断ったよ。

IL:海外のアニメーションを見る機会もほとんどなかった時代、草月で海外のアート・アニメーションも紹介されたんですよね。

YK:フランスのアレクサンダー・アレクセイエフの家に行って、スタジオでピンボードを見たのよ。日本に輸入された作品は税関に通す前に市ヶ谷の試写室で見るのよ。そこで奈良さん(奈良義巳氏)とアレクセイエフから送られてきた『禿山の一夜』を見たんだ。でも2人で「ちょっと違うんじゃない?」って思ったの。ピンスクリーンの作品ではなく実写なの。同じタイトルなんだけど、最後まで見たら内容はやはり『禿山の一夜』なの。内容は禿げた男の髪が伸びるの。でも12時を過ぎると毛が抜けちゃうの。これも『禿山の一夜』なの。結局、向こうの勘違いで同じタイトルの違う作品が送られてきていたので、送り返して交換してもらったの。でもあれは傑作だったぁ。僕はアレクセイエフの『』を持っているよ。

IL:あの時代、国内外のいろいろな方と関わられていたんですね。

YK:長年制作していた間には信頼していた人に裏切られたこともあり、アニメーションの制作が嫌になったね。もう止めようと思ったよ。最近はまたみんな寄ってきたよ、ハエみたいに。昔の俺は威張っていたからね。ライブドアのホリエモン、あんな感じね。嫌われるよ。俺も若いときは人のこと思っていなかったかもね。30代は手におえないくらい勝手な事言うけど40過ぎるとおとなしくなるよ、ふにゃふにゃでコンニャクみたいになるよ。そしてどんどん若い人が出てくるのね。だから30代までにどんどんやったほうがいいよ。昔は相当生意気だったから嫌われていたと思う。自分ではわからないけどみんな逃げるね。

IL:それが作品の中にはすごく生かされていたのではないですか?

YK:勢いがあって「やっちゃえー」っていう感じね。ああいう刺激って必要ね。とにかく40までに思いっきりやってみるんだよ。

IL:1960年ころ、アンフォルメルとかネオダダとかハプニングとかいろんな前衛芸術が起こり、海外から紹介された時代でもありますが、影響は受けましたか?

YK:僕は個性が強いからね。影響は受けていないね。海外でも見たことないアニメーションだと言われたよ。

IL:私は久里さんの作品を最初に見たときに「無国籍だな」と思いました。

YK:あの時代、どこかで初めにアート・アニメーションが起こってその影響を受けて…というのではなく、全世界で同時にアートアニメの芽が出たという時期だったね。
今は森林の中に新しいアニメの木が一本芽生えるような状況なので、なかなか目立たないね。別のものを探さなきゃならない。完璧に別なものを見つけ出さなければならない。何かの影響を受けたというそれだけではいけない。今の芸術家にとっては難しいと思う。絵で食うのは簡単だけど名を成す仕事を残すのは難しい。

YK:アニメーションだけではなく、絵画や彫刻など今までいろんな作品を見てきて目が肥えてしまったせいか、いいと思う作品もなかなかないな。

IL:ご自分の作品についてはいかがですか?

YK:僕の作品、だから恥ずかしいよ。いつも悩んでいるよ。いいもの作ろうと思うと苦しい。僕くらいの年になるといいもの作ろうと思うよりも好きなものを作るようにしている。でもね20代、30代の人たちは誰にもないあっと驚くようなものを出して世界で闘う精神が必要よ。今まですでに何千、何万という人が残したアートがあるから今までの勉強だけではだめね。

YK:僕は審査員をすることもあるんだけど、きれいなだけでは駄目ね。ハートがない。ハートを込めなさい。自分をそっくり作品の中にいれちゃうの。難しいよ。

YK:マラソンは一斉に同じ方向に走るけど、違う方向に走るのよ、道じゃないところ走るの。振り向いても誰もいないから。それがアートじゃないかな、苦しいけれど。でも自分で作った足跡は残っているから誰かが匂いをかいでついてくる、時間がかかるけど。冒険と開拓と発明だと思う。…難しいな。
傑作を作ろうとかそういう気持ちでやるのではなくて、自分でなにか見つければいいんじゃないの?

(…と言いつつ、久里さんはおもむろに映写機の準備を始められた。この後、まだ筆の入っていない白いキャンバスをスクリーンにして<11PM>作品など、即興の上映会となりました。久里さんありがとうございました。

*11PMについて…1965年から1990年までの25年に渡り、月曜日から金曜日まで日本テレビ系列で放送された深夜の長寿番組。司会は日替わりで藤本義一、大橋巨泉、愛川欽也らがつとめ、アシスタントには朝丘雪路、かたせ梨乃、松岡きっこ等が登場した。内容は時事問題から大人の娯楽の象徴である麻雀、競馬予想、釣り、ゴルフ、さらにはエロティックな要素も多く、露出度の高いバニーガールの衣装をまとう女性アシスタントの出てくるこの番組は父兄の間では〈子供には見せたくない番組〉とされていた。アメリカの情報番組をヒントに番組が開始され、奇抜な演出手法は深夜放送の母型となった。番組制作に携わったスタッフは後に〈仮装大賞〉〈24時間テレビ愛は地球を救う〉〈お笑いスター誕生〉など多くのヒット番組を手掛けた。余談だが矢追淳一氏はこの番組のディレクター時代に、怪奇現象やUFOを取り上げた。

久里洋二作品紹介

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

<アニメーション>
「二匹のサンマ」  白黒版/1960年、カラー版/1968年
海の上を漂流する一組の男女。女はいかだの上でサンマを焼き、辿り着いた無人島でも、やはり女はサンマを焼き続ける。次にその孤島に辿り着いたのは一人の発明家。そしてその次には大量の漂流者たちが…。のどかな島はやがて人と家で溢れ返り、ついに国家が誕生。そして戦争が始まる…。
文明批判を風刺的に描いた同名漫画をもとに、その作者である久里洋二本人がアニメーション化した作品。1960年のオリジナル版では、音楽家の秋山邦晴が久里洋二の作品に初参加。既成の音素材に電気的加工を加えるミュージック・コンクレート(具体音楽)の手法でユニークな音響作品を提供した。とうとうと読み上げられる印象深い詩は、谷川俊太郎の手によるもの。<アニメーション3人の会>の第1回上映会で発表された。1968年にリメイクされたカラー版では、歌謡曲「世界は二人のために」が付せられた。

人間動物園  1962年
動物園のようにオリの中に閉じ込められた人間の男女。その恐妻ぶりを可笑しく描いた作品。武満徹の声による音楽・ヴォーカリズム三部作のうちの「クラップ・ヴォーカリズム」に想を得て制作された。

LOVE(愛)  1963年
『人間動物園』のバリエーションで、武満徹のヴォーカリズム三部作の中から、男女の声でひたすら「あい」と繰り返される「ヴォーカリズムA.I」の音楽を使用。愛ゆえに終わることのない男女の追いかけっこを描いている。

椅子  1964年
久里作品の中でも数少ない実写アニメーションのひとつ。様々な職業の人々を15分椅子に座らせ、数秒に一コマシャッターを切って撮影し、現代人の「なにもしていないと云う不安」を炙り出す。岡本太郎、谷川俊太郎、永六輔などの有名人はノーギャラでの出演。

アオス  1964年
漫画家・井上洋介の漫画集「箱類図鑑」をアニメーション化。使われている効果音は旧草月アートセンターで交流を深めたオノ・ヨーコが手掛けている。

「殺人狂時代」  オリジナル版/1965年、海外版/1967年
殺人をテーマにした13話から成るオムニバス作品。67年にカラーでリメイクされた海外版では、2つのエピソードと話の間に挿入されたユニークなCMは割愛された。ピサの斜塔が倒壊するシーンのためにイタリアでは上映禁止になったという。

寄生虫の一夜  1972年
緑色の様々な形態をした寄生虫たちが人間をむさぼり食う。絶えることのない残酷な食物連鎖と、生と死の永遠の反復。ボッシュの絵画に触発されて描かれたグロテスクで奇妙な寓話。冨田勲のシンセサイザーの音楽が、静かに、そして不気味に響き渡る。

ザ・バスルーム  1972年
実写の早回しや、実写のストップモーション・アニメーションなどを取り入れ、部屋の中でおこる奇妙な出来事の数々をとらえた作品。
引っ越して空になった部屋にカメラを据え置き、1ヶ月かけて撮影が行われた。久里洋二が自ら制作したオブジェや、展覧会の映像なども使用され、当時の活動を垣間見ることができる。

久里洋二フィルモグラフィ

1960年
FASION (ファッション)5分
「ミツワ石鹸」1分
二匹のサンマ(白黒版)22分
切手の幻想7分

1962年
人間動物園」3分
「あっちはこっち」20分

1963年
軌跡7分
LOVE(愛)5分
「リングリングボーイ」4分
「ゼロの発見」20分
MAN AND WOMAN AND DOG(男と女と犬)3分

1964年
椅子10分
「ザ・ボタン」3分
アオス9分

1965年
隣の野郎9分
SAMURAI(侍)8分
6分
殺人狂時代(オリジナル版)13分

1966年
「小さなささやき」12分
「サドの卵」10分

1967年
殺人狂時代(海外版)10分
THE ROOM(部屋)5分
「あなたは何を考えているの?」10分
FLOWER(花)1分

1968年
二匹のサンマ(カラー版)13分
ケメ子のLOVE3分

1969年
G線上の悲劇9分
「世界はわがもの」10分

1970年
「立体アニメ」10分

1972年
寄生虫の一夜10分
ザ・バスルーム10分
「IMUS」7分

1974年
「フロイトの木」5分
「木の上の生活」3分
ポップ3分

1975年
「幻想の喜劇」5分
「人口爆発」5分

1976年
「進化」4分

1977年
漫画7分

1978年
「天井桟敷」6分
「VANISH」3分
「THE CAT」17分
「エゴイスト」7分

2003年
連句アニメーション『冬の日』

アニメーション3人の会

文=田中友紀子(イメージライブラリー・スタッフ)

 実験アニメーションのパイオニアである作家ノーマン・マクラレンは、感光済みのフィルムの表面に着色したり、針でひっかいて絵を描いたりして作る「カメラレス・アニメーション」や、人をコマ撮りして動かす「ライブ・アニメーション」といった技法を用いた短編作品を数々生み出した。ディズニーのような莫大な制作費と多くの人手によって作られるアニメーション作品が一般的であった時代、彼の作品のような実験的なアニメーションは非常に新鮮な驚きを人々に与え、その感動と影響は世界の作家たちの間にもじわじわと浸透していった。やがて、それは潮流となり、世界のアニメーション界が大きく動き出し始める。
 世界のアニメーション界に大きなうねりが起こり始めたのとほとんど同じ頃、日本でも実験的なアニメーションへの胎動が始まっていた。久里洋二らの《アニメーション3人の会》の発足である。当時、大江健三郎石原慎太郎谷川俊太郎武満徹などの、安保条約に抗議する若い芸術家たちが集った《若い日本の会》に、テレビ局から『半常識の目』というタイトルで、一週間の三十分番組を自由に作ってほしいという依頼がもちこまれた。この会のメンバーだった漫画家久里洋二、デザイナー柳原良平、イラストレーター真鍋博の三人も、アニメーションを約十分ずつ受け持つことになり、彼らは番組が終わった後も《アニメーション3人の会》として、アニメーション制作の活動を続けることを決めたのである。そして、この三人と、当時草月アートセンターの運営に携わっていた奈良義巳とが出会い、草月コンテンポラリー・シリーズ(*)の催しの一つとして1960年に『3人のアニメーション』が開かれた。久里・柳原・真鍋の三人は「見るだけでなく作るアニメ」という考えのもとに、「真に現代に生きてゆくため、もっと多彩な実験が繰り返されてゆかねばならない」といった内容のマニフェストを掲げ、自由な発想や表現方法を使った自主制作アニメーション、非商業アニメーションを提案した。日本ではまだアニメといえば、東映動画(現・東映アニメーション)によるセルアニメだったこの時代、これはまさに、アニメーションに対する意識改革であった。『3人のアニメーション』は、その後、草月シネマテーク(*)の催しものとして62年、63年に開催され、革命的な実験アニメーションを発表すると同時に、国内外の多くのアーティストたちの作品を招待上映した。1964年の第四回からは『アニメーション・フェスティバル』と名を変え、新たに宇野亜喜良横尾忠則和田誠などのグラフィック・デザイナーが参加し、つづく翌年は、デザイナーの勝井三雄田名網敬一、画家の朝倉摂が出品した。1966年の六回目には一般から作品を公募、《アニメーション三人の会》のメンバーは、この回から招待作品の部門に参加し、自主的な運営からは身を引いた。そして、《アニメーション・フェスティバル》は、1967年の『アニメーションへの招待』を最後に終了したが、実験精神に溢れた作品を世に出していこうとする姿勢は、『草月実験映画祭』『フィルム・アート・フェスティバル』へと受け継がれていく。《アニメーション3人の会》は、日本のアート・アニメーションの源流であり、その実験精神に満ちた新鮮な作品群が、その後の日本の実験映画に与えた影響は計り知れない。

*草月アートセンターは、60年代前半のジャズの研究的なコンサート〈草月ミュージック・イン〉、現代音楽の推進を標榜する〈草月コンテンポラリー・シリーズ〉、アニメーションや映像の実験の場〈草月シネマテーク〉という三つの主催事業を展開していた。《アニメーション三人の会》が発足した当時は、まだ〈草月シネマテーク〉が発足していなかったため、アニメーションや実験映像の上映会でありながらも、〈第五回草月コンテンポラリー・シリーズ〉として開催された。

真鍋 博
1932年、愛媛県生まれ。現・多摩美術大学卒業後、教職・作家活動を経て同大学院美術研究科を修了。朝日ジャーナル連載「第七地下壕」で第一回講談社さしえ賞受賞した。星新一、アガサ・クリスティー、筒井康隆、海外SF小説などの装幀・挿絵を手掛ける。大阪万博、沖縄海洋博、科学博などにも参画。諷刺に富んだSF的思考をまとめた著作や、まちづくりに関するエッセイも執筆している。2000年、新宿区の病院にて生涯を閉じる。

柳原 良平
1931年、東京生まれ。京都美術大学卒業後、寿屋(現サントリー)の宣伝部に入社。開高健、山口瞳とともにトリスウイスキーのコマーシャルを制作。アンクルトリスのキャラクターは一世を風靡し、毎日産業デザイン賞、電通賞などを受賞した。その後、サントリーを退社、船や港をテーマにした作品の制作に取り組む一方、海事・港湾関係の委員会や審議会の委員を務める。現在イラストレーター、画家、漫画家、随筆家、海事評論家として活躍している。


新しいイメージをさぐりだすために  <アニメーション3人の会>マニフェスト
(前略)僕たち<アニメーション3人の会>が、アニメーションを通して発表していきたいとおもうのは、新しい方法や技術を新しい意識に、強く結びつけてゆくことである。そこには、本当に新しいイメージがあるだろう。
 画家、漫画家、デザイナーの、それぞれのジャンルから出て集まったのも、僕たちの個人の幅をやぶってゆき、すこし大げさにいえば、異なった意識と方法のなかで交流を深化したかったのだ。
 これからのアニメーションの方法を考えれば、現代の映画や絵画、あるいはデザインなどとともに、真に<現代>に生きてゆくため、もっと多彩な実験が繰り返されてゆかねばなるまい。
 <アニメーション3人の会>は、そうした変革の側に、つねに立っている。

アニメーション3人の会:久里洋二 真鍋博 柳原良平

(芦屋市美術博物館,千葉市美術館編「『草月とその時代1945-1970』展カタログ」1998年より。)


池田屋騒動
1961年8分/柳原良平
簡潔な線でデザインされたユニークなキャラクターと同様、物語も非常に簡潔。歴史的な事件である池田屋騒動の傍らで起きた庶民の小事件を、大胆に省略されながらも愛嬌のある動きで描く。

両人侍誉皮切
1963年7分/柳原良平
切り紙アニメーション。次第にそりが合わなくなっていく“顔”と“胴”の口争いがユーモラスに描かれる。シネマスコープの画面の中にナレーションの字幕が構成される。

M.S.CHANDA
1965年8分/柳原良平
M.S.CHANDA号のある一日の描写。船への愛情が感じられる可愛らしい描写につい引き込まれてしまう作品。

時間
1963年8分/真鍋博
時計の形態から生まれる様々なイメージを次々と変化させ、人々の日常的な一日を描いた、グラフィック・アニメーションとも呼べる作品。

潜水艦カシオペア」
1964年6分/真鍋博
原案は都築道夫のショートショート。コマ撮りはされていないので、アニメーションではないが、真鍋博のイラストと水・気泡を合成して撮影するという実験的な手法が使われている。

追跡
1966年3分/真鍋博
原案は星新一。植物などを拡大したミクロの世界で、二つのキャラクターが追いかけっこを繰り広げる。音響を担当している大野松雄は、1952年よりフリーの音響デザイナーとして活躍し、まだシンセサイザーがない時代に、身の回りの音を電気的に加工して、驚くべき想像力でまだ誰も聞いたことのない音を作りだしていた音響作曲家。

白い祭
1964年7分/宇野亜喜良
独特の世界観で女性を描き続ける宇野亜喜良によるアニメーション。白い画面の上に、女性、花、馬といった様々なイメージが連鎖して現われる。

アンソロジーNO.1
1964年7分/横尾忠則
横尾自身の作品のコラージュ。ポスターやイラストの映像が次々とつなげられ一つの世界を作りだす。

殺人
1964年10分/和田誠
ホームズ型、ジェームズ・ボンド型といった、いろんなタイプの探偵が、殺人事件の犯人を捕まえる。映画のパロディが満載。

草月アートセンター

文=狩野志歩(イメージライブラリー・スタッフ)

 〈アニメーション3人の会〉が第一回の上映会場に選んだ草月アートセンター。伝統文化であるいけばなの文化施設で久里洋二をはじめ、安部公房武満徹ジョン・ケージマース・カニングハム寺山修司横尾忠則オノ・ヨーコ松本俊夫…60年代の前衛芸術の表現者たちが、あらゆる領域を超えて交錯した中心点に草月アートセンターはあった。

 1958年6月、東京赤坂に丹下健三設計の草月会館が落成する。安部公房がその姿を毒キノコに喩えた紫色の豪奢な会館の地下にはホールが設けられ、アンフォルメルの画家サム・フランシスとジョルジュ・マチューの巨大な壁画が客席を挟んで向かいあうように掲げられた。ロビーには気鋭の芸術家や文化人が溢れ、一種サロンのような雰囲気が漂っていたという。
 この草月会館を建てた草月流いけばなの初代家元・勅使河原蒼風(1900-1979)は、ダダやシュルレアリスム、そして戦後日本に輸入されたアンフォルメルからの影響を受け、いけばなに廃品や鉄屑を用いたり、巨大な枯れ木を使ったオブジェを次々と創作し、伝統的ないけばなの概念を内側から突き崩していった人物である。一方で、ピカソや福沢一郎をはじめとする膨大な美術作品の蒐集や若い芸術家を支援するパトロンの顔も持っていた。総ての芸術が垣根を越えて交流することを夢見た彼は、草月ホールを前衛芸術の新しい試みの場として開放した。58年の9月には草月アートセンターが発足し、企画を一任された息子の勅使河原宏(1927-2001)がディレクターとして就任した。
 発足当初は「草月教養クラブ」や「シネマ57」による定例会が主な活動であった。安部公房が企画を担当していた「草月教養クラブ」は、「笑いの特集」「夢」「美」といったテーマに沿って、講演や映画上映、ジャズ・コンサート、舞踏など、毎回多彩な内容であった。勅使河原宏が松山善三羽仁進らと始めた「ノンコマーシャル映画を観る会」を前身とする「シネマ57」(*1)では、イタリアン・ネオリアリズモやフランスのヌーヴェルバーグに衝撃を受けた彼等が「ルイス・ブニュエル特集」「亀井文夫記録映画特集」といった、これまで日本で鑑賞する機会の無かったヨーロッパのアバンギャルド映画やドキュメンタリー作品を取りあげて上映していた。
 前衛芸術の統合を目指したアートセンターの多様な活動のなかでも、特に音楽と映画は中心的な役割を担うことになる。当時モダン・ジャズに心酔していた武満徹を中心とした「エトセトラとジャズの会」は、植草甚一、八木正生谷川俊太郎らが参加し、50年代末〜60年代にかけて日本を席巻したモダン・ジャズ・ブームに火をつけた。谷川俊太郎が名付けた「エトセトラとジャズの会」には、エトセトラ、つまり様々なメディアとジャズの融合の意味が込められており、全6回の定例会では、ジャズの最新盤を巡る討論や、セロニアス・モンク研究、『真夏の夜のジャズ』の試写などが行なわれた。60年4月例会では、ジャズのリズムに合わせて線や色彩が乱舞する、ノーマン・マクラレンシネカリグラフ・アニメーション(*2)「つかの間の組曲(個と連続)」が上映された。やがて、自分達でもジャズで映画を作ろうということになり、当時の様子は秋山邦晴によると「モダン・ジャズのレコードにつけるひともいたり、ときには逆に出来上がったフィルムに、八木正生や三保敬太郎が生の即興演奏をつけたりもした。写真家の今井寿恵やデザイナーの真鍋博らも制作した。」(*3)という。こうした音楽と映像の実験的なコラボレーションは、のちに武満徹の音楽に久里洋二がアニメーションをつけた『人間動物園』や、真鍋博の『時間』に高橋悠治がミュージック・コンクレートで参加したりといった活動にも繋がってゆく。
 「エトセトラとジャズの会」、「草月ミュージック・イン」といった定例会がモダン・ジャズを中心に企画されていたのに対し、「草月コンテンポラリー・シリーズ」は現代音楽や実験映画、前衛演劇を包括した裾野の広い展開を目指した。特筆すべきは、現代音楽のジョン・ケージを日本で初めて紹介したことである。初来日したケージは舞台上で米を炊く〈演奏〉を披露し、それは「ジョン・ケージ・ショック」とも呼ばれる程、日本の現代音楽界を根底から揺るがすものであった。この来日は、さらに彼が音楽監督を務めていたマース・カニングハム・ダンスカンパニーの招聘へと発展し、舞台美術を担当したラウシェンバーグと共に64年に再来日を果たしている。
 この「草月コンテンポラリー・シリーズ」の第5回で「3人のアニメーション」と題して、〈アニメーション3人の会〉が初めて作品を披露したのは60年のことである。そして64年には3人以外の作品も集めた「アニメーション・フェスティバル」が開催される。この頃からアートセンターでは映画の上映企画が増え始め、66年の「世界前衛映画祭 映画芸術の先駆者たち」では、フランスのシネマテーク・フランセーズのディレクター、アンリ・ラングロワが選定した『アンダルシアの犬』(ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリ)、『詩人の血』(ジャン・コクトー)をはじめとした百本もの膨大な量の歴史的な前衛映画が紹介された。また、渡米していた金坂健二や飯村隆彦から最新のアメリカン・アンダーグラウンド・シーンが紹介されるにつれ、日本では俗に言う〈アングラ・ブーム〉が訪れるのである。
 67年には「アニメーション・フェスティバル」の形式を実験映画にまで拡大した形で「第一回草月実験映画祭」(*4)が開催される。公募部門では、当時大学生の奥村昭夫がグランプリを獲得した。また、同年開催された「アンダーグラウンド・フィルム・フェスティバル」で発表された大林宣彦の『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』が大ヒットした(当時の大学の三分の二が学園祭で上映したという)ことを契機に、新しい映画表現としてのプライヴェート・シネマ(個人映画)がアングラ・ブームと結びついて、若手映像作家の台頭を促した。そして68年、「草月実験映画祭」は「フィルム・アート・フェスティバル東京1968」と名を変え、招待部門ではジャン=リュック・ゴダールの『中国女』、『ウィークエンド』等が上映された。
 あらゆる芸術のジャンルに横たわる境界を無効にする、という草月アートセンターの意志は、60年代の前衛芸術に通底していた意識であり、さらに欧米に渡って最先端の芸術に触れた現代音楽の秋山邦晴、一柳慧らのアートセンターでの活躍、草月の会報誌「SAC」に毎号寄せられた植草甚一による海外ニュース等は、情報が欠乏していた当時の日本のアートシーンを昂揚させるに充分な刺激であった。時代の問題意識を鋭敏に感じとった芸術家達が草月アートセンターで出会い、刺激し合うことでさらなる芸術の境地を切り開いていった。そうした、渾沌としたマグマのようなエネルギーが頂点に達したのが「Expose/1968 なにかいってくれ、いまさがす」である。この五夜連続のシンポジウムは、日本初の万博である大阪万博「Expo 70」を意識したものであり、時代の転換期における芸術のありようを徹底的に露呈(Expose)させるという意図の下開催された。その内容もアートセンターの活動を総括するかのようなミクストメディアで構成されており、パネリストは箱に入れられ、或いはテレビモニターを通して討論、横尾忠則のサイケデリック・ショーや篠原有司男による全裸ハプニング等、ありとあらゆる実験が試みられた。
 当時の日本は万博の希望に満ちた空気と70年安保闘争の不穏な空気を同時に抱え持っていた。それは、前衛芸術とそれを支援する華道の一大流派草月、対万博として開催された「Expose/1968」とシンポジウムに関わった多くの人々の大阪万博参加、といった矛盾と葛藤へと重なり、それが造反の標的となってしまった。フランスに端を発した学生運動の嵐が、カンヌ映画祭、ベネチア・ビエンナーレを次々と粉砕していく中、「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」も、開催初日に反対派の乱入によって中止を余儀無くさせられた。その後遺症はあまりに大きく、ついに71年、草月アートセンターは解散。十四年間にわたる活動に終止符が打たれたのである。それは同時に60年代という時代の幕引きでもあった。草月アートセンターという強力な磁場を失った前衛芸術家達は、そこで提起された問いかけを今度はそれぞれのフィールドで追求してゆくのである。

*1 翌年は「シネマ58」というように、毎年年号をつけていた。
*2 シネカリグラフ・アニメーションは、フィルムに直接引っ掻いたり着彩する技法。カメラレス・アニメーションとも言われる。
*3 フィルムアート社『輝け60年代:草月アートセンターの全記録』2002年より。
*4 運営委員は、久里洋二、粟津潔、植草甚一、川喜多かしこ、勅使河原宏、松本俊夫。

(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)



参考文献

久里洋二『久里洋二 人間動物園』美術出版社。
久里洋二『海と島のファンタジー』ユージン伝。
久里洋二『二世(にせ)ファーブル昆虫記』新潮社。
久里洋二『思索ナンセンス選集4 久里洋二のユーモア世界』」K.I.C思索社。
久里洋二『久里洋二作品集』求龍堂。
久里洋二『久里洋二漫画集』久里実験漫画工房。
池田宏[ほか]編『講座アニメーション2 世界の作家たち』美術出版社。
『STUDIO VOICE VOL.332』インファス。
フィルムアート社『輝け60年代:草月アートセンターの全記録』。
芦屋市美術博物館,千葉市美術館編「『草月とその時代1945-1970』展カタログ」。