武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第19号

温故知新 日本映画の再発見~活弁でみる無声映画~

文=下川久美香(イメージライブラリー・スタッフ)

 情報伝達、記録、娯楽、そして芸術の分野にも欠かせない映像。その原点は、およそ100年前の「動く写真」の誕生にある。アメリカ、フランスで生まれた「動く写真」つまり初めての映画は、日本に輸入されると人々に驚きや喜びをもたらすとともに、日本的な発達と変遷を辿ることとなる。そのひとつが、無声映画に「弁士」とよばれる人が説明やセリフをつける「活弁」という文化である。温故知新、古きを訪ね、新しい発見を求めて映画の誕生と変遷を辿る。

 想像できるだろうか?  今日、わたしたちが目にするテレビや映画には、かつて「色」もなく、「音」もなく、「動き」すらなかったことを。 私たちが見ているテレビや映画などの「動く写真」の歴史は、19世紀末に始まった。フランスのリヨンにある写真乾板工場に生まれたリュミエール兄弟は、化学を学び1895年に写真を動かすことに成功した。最初にフィルムに収められた「動く写真」つまり初めての映画は、シオタ駅に到着する列車や、仕事を終えてリュミエール工場から出てくる人々の姿である。これらは、パリのグラン・カフェで1895年の暮れに初めてスクリーンに投影された。この、観客がお金を払いスクリーンに投影された動く写真を鑑賞する、という形態こそ、世界で初めての映画興行となった。このリュミエールの動く写真はシネマトグラフと呼ばれた。

 それと同じ頃、アメリカのトーマス・A・エジソンもまた動く写真の開発を行っており、リュミエールの前年にキネトスコープと呼ばれる装置を発明した。しかし、写真が動くという点ではリュミエールに先行したものの、この装置は覗き窓から一人ずつ覗くスタイルであったので、スクリーンに投影された動く写真を同時に大勢の人が観るというスタイルのシネマトグラフが、現在の映画の原型であるとされている。皮肉にもリュミエール兄弟の父親はエジソンのキネトスコープを見て動く写真のヒントを得、エジソンはリュミエール兄弟のシネマトグラフを見てスクリーンに上映できるヴァイタスコープに改良した。ここまでが写真が「動き」を手に入れた話である。 フランスとアメリカで誕生した映画は、その翌年には日本に輸入され、京都、大阪、東京など各地で公開された。

 映画が日本に伝えられた当初は、外国の風景などを撮影した輸入フィルムが上映されていたが、日本においても徐々に映画が制作されるようになった。映画といってもはじめは踊りや舞台の記録で、最初に撮影された映画のひとつは九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎の歌舞伎『紅葉狩』(1899年)であった。舞台に対して観客側から固定カメラで撮影されたこの映像は、1903年に團十郎が病気で休演した時に上映され好評を得た。  やがて、映画は記録から実写劇映画の時代へと変化していく。人々が映画という新しいメディアに興味を持ち始めると、歌舞伎役者から俳優に転身する者が現れた。1920〜30年代に人気を博した時代劇スターの多くは歌舞伎の出身であり、映画の登場人物にも華やかさを売りにする「二枚目」、男らしく正義感あふれる「立役」を中心に物語を構成するという歌舞伎の型をうまく使っていた。一方で、映画の中では歌舞伎のように男性が女性を演じる女形を使うことを止め、女役は本物の女性が演じるようになり、映画女優という新しい職業が生まれた。

 1900年代初頭、映画はまだフィルムに音が記録されていない無声(サイレント)の時代である。映画には時折字幕で話の設定や筋、役や俳優の名前、時間の推移などの説明が挿入される。スクリーンの傍らには音楽を演奏する数人の楽士と映画を物語る弁士がついた。フィルムが「音」を手に入れるまで、つまりトーキーの時代を迎えるまでの30数年間に渡り、日本の無声映画の世界には弁士が活躍したのである。
 活動弁士という名称が使われるようになったのは、1899年(明治32年)頃と言われている。映画の興行の草分け的存在である駒田好洋は独特の語り口調で映画解説や客引きをしていたし、キネトスコープで解説をしていた上田布袋軒は元はサーカスや売出しのチンドン屋の口上をしていた。また吉原遊郭の声色屋が弁士になった例もある。最初は客寄せや映画という新しいメディアの説明から始まった語りであったが、次第に個性的な弁士が現れるようになった。そのひとり染井三郎は、語りに間合いや感情を込め、活弁を「話芸」の域に引き上げた人物であると言われる。弁士の人気は映画館の客の入りを大きく左右し、お目当ての弁士の話芸を聞くために映画を見に来る客も少なくなかった。1913年には弁士を養成する為に、現在の東京国立近代美術館フィルムセンターの場所に日活弁士学校が設けられた。

 無声映画の中で弁士が登場人物のセリフを語るという上映スタイルが生まれ、それが定着したのは日本だけである。朝鮮、台湾、韓国でも弁士による無声映画上映が行われていたが、日本の植民地だったことによるという。またタイでは男女の役者が見えないところからセリフを代弁する陰ゼリフの方法がとられ「アダムとイブ方式」と呼ばれていたが、一人でセリフも口上もこなし、台本をオリジナルで作ってしまう日本の弁士とは異なる。また、タイの映画は日本の巡回上映から始まったとされる説もあり、やはり弁士という文化は日本独自であるといえよう。
 日本には義太夫、落語、講談、物売り、呼込みなど様々な語りの文化があった。日本に現存する最初の映画が歌舞伎を撮影したものであることを思い出すと、歌舞伎に太夫がいるように映画に語りが求められたのは、むしろ観客の自然な要求であったと思われる。しかし、弁士が好まれた理由は伝統だけにあるのではない。無声映画においては、観客は俳優の表情や身振り手振りなどの視覚情報だけを手がかりに、映画の精神的内容にまで到達しなければならない。それをドラマチックに演出するのが弁士の話芸なのである。弁士は、登場人物のキャラクターによって声色を使い分けドラマを生み出す。無声映画には弁士が語る為の台本が用意されているわけではなく、弁士たちは自ら台本をつくり、役になりきり、映画をより魅力的なものに仕立て上げるのである。この話芸は映画の説明などという補足的なものではない。活弁によって観客は「活弁を聞く」のでもなく「映画をみる」のでもなく、むしろ映画を「体験」するのである。

 映画の誕生と進化はテクノロジーのもたらした産物である。音を持たなかった映画は、新しい技術獲得によってフィルムに音が記録されたトーキーの時代に移行する。日本における最初の完全なトーキー作品は、1931年に製作された『マダムと女房』である。トーキー化が進むと楽団の音楽部が廃止され、次に弁士学校が廃止、無声映画の時代に活躍した弁士たちも次々と職を失った。時代の波に翻弄されながら、失職した弁士の中には映画館経営に転身した者や俳優になった者、弁士時代の人気のままに国会議員に転身した者もいた。人気弁士のひとりであった徳川夢声は、後に漫談師としてその活躍の場をラジオという新しいメディアに移した。
 トーキー映画は無声映画よりも制作に大きな資本が必要となり、それまでの個性的な小規模プロダクションは新しい設備投資ができずにやむなく大資本を持つ大手(松竹、日活)へと再編されていくことになる。大手の制作会社は1938年までに制作する作品を完全トーキー化した。つまり映画が「音」を手に入れたのである。ちなみに日本映画が現実世界の「色」を手に入れるのは、1950年代、まだまだ先である。

『雄呂血』とその背景~現代に引き継がれた活弁文化~

文=下川久美香(イメージライブラリー・スタッフ)

「雄呂血」©マツダ映画社

雄呂血』は、1923年に映画デビューした阪東妻三郎を一躍スターに押し上げた代表作である。阪妻(バンツマ)の愛称で人気を博した彼は、歌舞伎役者を目指したが封建的な歌舞伎の世界ではうまくいかず、1924年、設立間もないマキノ映画社に入り本格的な映画俳優の道に進む。さらに1925年には自ら独立プロダクションを興した。
 『雄呂血』は阪妻演じる久利富平三郎が、師と仰ぐ漢学者・松澄永山の誕生祝いの宴席で起こした些細なもめ事から誤解を受けたことに端を発する話である。平三郎はその誤解を解こうとするが、更なる誤解を重ねてしまう。彼は心の侭に正しい行いをするが理解されず、やがては無頼漢(ならず者)と称されてしまうのである。

 「無頼漢(ならず者)と称する者、必ずしも真の無頼漢のみにあらず。善良高潔なる人格者と称せられる者、必ずしも真の善人のみにあらず。善人の仮面を被り世を欺く大偽善者、今の世にもなお数多く生息することを知れ。」 (『雄呂血』より/弁士・松田春翠)

 この言葉は『雄呂血』の冒頭と結末に弁士・松田春翠が朗々と語り上げる一節である。つまり悪人と言われている人が必ずしも本当の悪人であるとは限らず、善人と言われている人の中にも善人の仮面を被り悪事を働くような真の悪人が沢山いるのだ、ということである。  驚いた事にこの作品は80年以上前の作品である。しかし、現在観ても古くさいどころか洗練された美的表現が随所に見てとれる。白く塗られた顔と黒く縁取られた目の隈取り、漆黒の着物と同調するかの黒髪、平三郎の振り払った杯が撒き散らした酒がつくった黒いしみ、純白の障子とそれを仕切る日本家屋の梁や柱。モノクロームの世界において、白と黒のコントラストは平面的に図案化された日本的な美の構図を再認識させる。作品のテーマもまた普遍的である。正しい行いを理解してもらえず、思い悩みながら落剥した平三郎のとぼとぼ歩く姿は、侍のそれではない。勧善懲悪の否定は、平三郎が一個人であることの象徴でもある。「何ひとつ悪いことはしていない。つくづくと嫌な世の中だ」と呟き不条理な世界に苦悩する姿は、昔も今も、そして恐らくいつまでも変わらないのだろう。

 『雄呂血』がつくられた1925年は、折しも治安維持法、普通選挙法の成立を経て、内務省が全国統一検閲を開始した年である(検閲行為は1917年の活動写真興行取締規則を経て全国統一化された)。かくいう『雄呂血』も剣劇映画の見せ場とも言うべき乱闘シーンがことごとくカットされ、それは全体の15パーセントにも及んでいる。当初のタイトル『無頼漢』を『雄呂血』に変えたのも、検閲を逃れるためであったそうだ。時代は1923年の関東大震災による被災とその後の近代化、普通選挙法と治安維持法の相反する2つの政治的圧力の間で人々は民主化と近代化の模索期にあったのである。  現在、無声映画時代の作品の多くは失われ、完全な状態で鑑賞するのは極めて難しい。しかし『雄呂血』は阪東妻三郎がネガを所有していたことで、奇跡的にほぼ公開当時の完全な状態で現存するフィルムのひとつである。『雄呂血』をはじめ映画小屋の片隅や興行先でいともたやすくカットされ捨てられていく無声映画のフィルムを発掘、復元し現代まで引き継いでこられたのは弁士・松田春翠氏にほかならない。また松田春翠氏の最後の弟子として師の意思を引き継ぎ、活弁の楽しさ、すばらしさを伝える現代の弁士こそ澤登翠氏である。マツダ映画社は、松田春翠氏の発掘されたフィルムを保存し、国内はもとより海外においても積極的に鑑賞会を行い活弁という日本の文化を海外に紹介していることを付記したい。


『雄呂血』 1925年(大正14年)/75分 監督:二川文太郎/原作:寿々喜多呂九平/主演:阪東妻三郎

阪東妻三郎演じる久利富平三郎は、漢学者・松澄永山のもとで漢学を学ぶ若侍である。ある日、松澄永山の誕生祝いの宴席で、平三郎は家老の倅である浪岡に絡まれ無理に酒をすすめられる。無礼講の宴席にもかかわらず、浪岡に侮辱された平三郎は、杯を振り払い宴席は騒ぎとなる。身分を笠に着て理不尽に振舞う浪岡の言動はとがめられず、平三郎には謹慎が言い渡される。平三郎は師の美しい一人娘・奈美江に恋焦がれており、その奈美江からも誤解を受け思い煩う。そんなとき奈美江と師の悪い噂をする侍と騒ぎを起こし、師から破門されてしまう。平三郎は、せめて奈美江にだけは師と奈美江の名誉を守るための上での行動であったのだと釈明するために忍び訪ねるが、その行動が奈美江に暴漢だと更なる誤解を与え、平三郎は逃げるように町を後にする。食べるにも困るほど落ちぶれた平三郎は、善行が裏目に出てどんどん追い詰められていく。やがて彼は無頼漢と称され、町人に怖がられるようになる。そんな彼をかくまったのが赤城の治良三という男であった。彼は義侠に富んだ親分として町人から慕われる存在であった。しかし実態は夜な夜な婦女を誘拐し、手篭めにする善人の姿をまとった大悪人であった。ならず者と呼ばれながらも見て見ぬふりができぬ平三郎は、かつてあこがれた奈美江を助けるため、何百人もの敵を相手に大立ち回りを演じる。

松田春翠©マツダ映画社

松田 春翠(まつだ しゅんすい)

1925年(大正14年)、初代松田春翠の実子として東京に生まれる。幼くして少年弁士として活躍。出征を経て、47年に復員後、再び活動写真と共に歩み、弁士を務める一方で各地に散逸してしまったフィルムの収集にあたる。48年に二代目松田春翠を襲名。この年、全国映画説明者競演会で優勝。52年にマツダ映画社を設立。59年、毎月定期的に無声映画を弁士付きで上映する「無声映画鑑賞会」を設立して会長に就任。松田春翠が収集したフィルムは日本の無声映画を中心に約一千作品、六千巻にのぼり、自身の活弁と伴奏音楽を録音した“活弁トーキー版”三十二作品を製作。63年にミリオンパール賞、85年には第一回東京都文化賞を受賞している。87年8月8日、肝細胞癌のため死去。(マツダ映画社ホームページより)

澤登翠©マツダ映画社

澤登 翠(さわと みどり)

東京都出身。法政大学文学部哲学科卒業。故松田春翠門下。日本を代表する弁士として国内はもとよりフランス、アメリカ他の海外公演を通じて、“弁士”の存在をアピールし高い評価を得ている。「伝統話芸・活弁」の継承者として“活弁”を現代のエンターテイメントとして甦らせ文化庁芸術祭優秀賞他数々の賞を受賞している。的確な作品解釈による多彩な語り口でいままでに500本以上の様々なジャンルの無声映画の活弁を務めている。 著書は「活動弁士 世界を駆ける」。(1973年デビュー)(マツダ映画社ホームページより)

無声映画 三つの風景

文=久保田桂子(イメージライブラリー・スタッフ)

1、旅するフィルム 映画小屋の風景

 童話作家の宮沢賢治はよく映画を見たという。賢治の弟、清六が兄を回想した『兄のトランク』の「映画についての断章」で、清六は、兄と初めて訪れた映画小屋での「活動写真」との出会いを書いている。

「それは青くうねって動いているようなものの上に、青い空から沢山の光るものが次から次へと降って来て、また底の方から美しい音が湧きだしてくるものでした。それを見ているうちに、私はこんなものを前にもどこかで何回も見たことがあったように思われて、ぼんやり夢のような気持ちになりました。[中略] —活動写真というものはいつでも雨が降っているものだ— と私は子供のときは思っていました。今の時代から考えますと変なことだとお考えでしょうが、それは私どもの田舎町に来るまでに、フィルムはすっかり傷だらけになって了って、どの画面も大雨が土砂降りという具合で、そのフィルムの傷の大きいものが、ピカピカ光ることが私にもわかって来たのでした。四歳のころに初めて見た、写真の上から光るものが降ってきたと見えたのは、多分その傷だったのでしょう。また、そのころの映写機の雑音が、大雷雨の音とそっくりでもあったのです。」(宮沢清六『兄のトランク』p.20-21)

 日本における映画初期、人々はこの動く写真に驚きを込めて「活動写真」と名付けた。明治から大正、昭和にかけて約35年間の無声映画の時代があったが、その間、日本では長きに渡って巡業隊による映画巡業が行われていた。 活動写真は年に数回、芝居小屋やテント、寺の本堂などにスクリーンを立てて上映され、そこは「映画小屋」と呼ばれた。上映の際には活動弁士と呼ばれる人々が物言わぬフィルムに代わって喋り、小編成のブラスバンドが伴奏をつけた。  初期の映画巡業隊は短い輸入フィルムを数本ずつまとめて上映していた。フィルムに写っているのは海の風景の実写であったり、ナポレオンらしき格好をした西洋人が頭を下げて挨拶をするといった単純なものであった。しかし人々はスクリーンの上で写真が動き出すという奇妙な体験に驚き、「エー海でござい」「我輩はナポレオンであーる」という弁士のおかしな解説に拍手喝采した。  兵庫県西宮の映画小屋で『水をかけられた水撒夫』というフィルムが上映された時の記録がある。これはいたずら少年が庭の水撒きホースを踏みつけ、男がホースを覗き込んだところを見計らって足を放す、といった様子を撮影したもので、ホースから勢い良く飛び出した水が男の顔に当たってこちら側にはじけ飛ぶと会場はざわめいた。世界で最初の映画と言われるリュミエール兄弟の『ラ・シオタに到着する列車』が初めて上映された時、こちらへ向かってくる列車の映像を本物の列車と取り違えて座席から逃げ出す観客がいたという話がある。これは誇張された話で事実ではないと言われているが、人々の驚きの深さをよく表している。それに比べると、『水をかけられた水撒夫』はどこかのんびりした驚きである。  やがてストーリーのあるフィルムが作られるようになり、日本でも映画制作が始まると、舞台を撮影したフィルムや長編の劇映画なども上映されるようになった。

 賢治兄弟の見た活動写真も花巻にやって来た映画巡業隊によるもので、その回想録には駒田好洋というひとりの弁士の名前が登場する。当時、駒田率いる駒田巡業隊は北は札幌、南は鹿児島まで日本中を巡業していた。交通の発達していない当時、その道中は苦労も多かったに違いない。しかし、人々は彼らが年に数回運んでくる活動写真をお祭や正月と同じように待ちわびたという。
 駒田の他にも巡業隊はあったが、駒田巡業隊はその派手さで有名だった。まず上映の数日前には「駒田好洋きたる」と派手なポスターが貼り出される。そして当日になると、当時まだ珍しかった燕尾服に身を包んだ駒田がジンタと呼ばれる音楽隊を指揮して「町廻り」と呼ばれる行進を行い、子供たちに割引券のついた風船を配ってまわった。ピカピカに磨き上げた管楽器が演奏するジンタの響きに人々は胸を躍らせ、子供たちは興奮で勉強や家の手伝いどころではなかっただろう。
 映画小屋では、エジソンのヴァイタスコープやリュミエール兄弟のシネマトグラフという装置でフィルムを上映し、それらはアセチレンガス燈の青白い光で映写したため、小屋に入るとそのガスの匂いや機械油の匂いが鼻をついた。時間になると楽隊が演奏を始め、それに合わせて弁士が登場する。弁士が前説と呼ばれる挨拶をして、呼子笛を吹くとフィルムの上映が始まった。シネマトグラフは現代の映画館と逆で、白い布のスクリーンの後方より映写する。上映の幕間にはその布に水をかけて箒で掃き、光の通りを良くした。次回の上映の時にはその水の露がきらきらと光ったという。スクリーンは「銀幕」とも呼ばれるが、青白い光に映写されたフィルムは、水に濡れたスクリーンの上で銀色に光っていたのではないだろうか。
 日本中で行われた映画巡業隊による上映は、日本人が活動写真に親しむのに重要な役割を果たした。彼らのおかげで、限られた都市部の人々だけでなく、山奥や僻地に暮らす人々もチャップリンを「親愛なるチャプちゃん」、「アルコール先生」などと親しい友人のように呼ぶことができたのだ。

2、無声映画館のざわめき

 活動写真は一時の物珍しさもあり日本中で熱狂と共に迎え入れられたものの、客足は徐々に衰えた。しかし、そんな折に日露戦争が勃発、戦地のニュースフィルムを上映する事で人気を盛り返し、全国に常設映画館が作られるようになる。明治36年(1903)には浅草に日本初の映画館、浅草電気館が誕生した。浅草は後に日本一の映画館街として発展するが、当初は大変賑っていたもののあまり柄の良い場所ではなかった。映画館主は紳士やご婦人の客層を得る為地区を整備し、モダンな洋風建築の電気館を設立、受付をはじめとする従業員に若い女性を多く採用した。
 無声映画館はにぎやかな場所であった。大きな映画館だと2階席、3階席があり、黄金期には連日満席になった。当時は男女別席で、夫婦であっても別々に座らなければならならず、違反すると直ちに案内係の女性につまみ出された。
 上映時間を知らせるベルが鳴り、楽団が登場して音あわせをすると、少し高いところに作られた弁士席に弁士が登場する。弁士席には上映中赤いランプが点くが暗闇で客席から弁士の顔は見えない。マイクなど無い時代で、弁士は喉を鍛えていて3階席まである場内でも隅々までその声を届かせた。現在の映画館のような足元のランプは無く、座席の周りは全くの暗闇であった。その為遅れてきた客の手を引いて席まで案内する「お手ひき」と呼ばれる女性案内係がおり、男性客の中にはこれが目的でわざわざ遅れてくる人もいたという。客席後方の臨官席には上映中も小さな明かりがついていた。ここは巡回中の警察官の席で、風紀を乱す不良興行物を取り締まるためにあったが、実際上映を止めた例は知られていない。警察官の中にはこうしてタダで活動写真を楽しみ、あげくに弁士に弟子入りして弁士になった者もいた。休憩時間は楽団による演奏、洋画ならクラシック、邦画なら長唄などの演奏があり、その後に威勢の良い売り子が、「おせんにキャラメル(おせんべいとキャラメル)」とカゴを肩にかついで場内を売り歩いた。映画館が閉まるのは浅草で夜10時。終演後、弁士席の傍らに女性のファンによる花束が置かれていることもあった。
 やがて映画がトーキーになり、人々はフィルムの声に耳を澄ますようになる。映画館の活気は衰えないものの、かつてのざわめきは消えて行った。

3、弁士達のいる風景

 映画監督の稲垣浩は「日本には純粋な無声映画は存在しなかった」と言っている。約35年間の無声映画時代、その始まりから消滅まで、無声映画の傍らには常に活動弁士がおり、彼等が物言わぬフィルムに代わって語り続けたからである。活動弁士は全盛期の昭和元年には日本中に7576人存在し、うち312人は女性弁士であった。
 日本では映画初期の時代、役者であれ監督であれ映画を仕事とする者はカタギの人間とは見られなかった。それ故、映画撮影所などは一種社会の隙間のような場所となり、世間からのはみ出し者や無教養者なども受け入れた。そうした様々な人種が集い切磋琢磨するパワーと活気の中で日本映画は発展していく。弁士達もそんな所でやっていくには決して紳士淑女ではかなわない。当然威勢の良い人々が多かった。上映中に客にヤジられると本気で怒って客と喧嘩を始める者もあれば、酒を飲んで現れるような者もおり、そんな時は客も「弁士、しっかりしろ!」である。無声映画の時代には弁士と客とのこうしたやりとりの話がたくさん残っている。当時は大正から昭和初期にかけての日本が軍国色に染まってゆく前の比較的のんびりした時代であったので、こうした風景も時代になじんだものだったのだろう。
 一口に弁士と言ってもその生き方は様々で、テキヤあがりや俳優崩れなどいろいろな人間がいたが、彼らに共通していたのは自分は芸術家であると誇りを持っていたことだった。人々も優れた弁士は他の芸術家たちと同じように尊敬した。ここに数人の弁士を紹介する。

上田 布袋軒 1849-? —弁士の元祖 関西の「高慢屋」
キネトスコープが神戸で初公開された時に解説した人物で弁士の元祖と言われる。義太夫あがりで、偉そうな口調で解説したことから「高慢屋」と呼ばれた。『M.アーウィンとJ.C.ライスの接吻』という、当時では不謹慎きわまりないこのフィルムを「接吻は西洋風の挨拶で日本人の握手と同じ、いたって平凡な行為」と解説、おかげでフィルムは上映禁止にならなかったという。

駒田 好洋 好洋 1877-1935 —旅する弁士 活弁口調の原点
アメリカに憧れ密航し、資金が尽きると帰国。宣伝屋の後、映写機とフィルムを買入れ日本中を巡業した。活弁口調の創始者。洋行帰りから名を「好洋」、口癖の「スコブル非常」から別名「スコブル非常の駒田」。映画館が全国に広まり弁士が映画館に定着していく中でも、駒田はひとつの場所に留まることはなく、その弁士活動30余年の間、日本中をまわる巡業の旅を続けた。

染井 三郎 明治後半〜1960 —映画解説を芸まで高めた
浅草公園で様々な見世物興行の解説を行っていた染井は、浅草電気館に引き抜かれて弁士になった。低い声で淡々と語る知的な解説で有名。小説家で映画制作も手がけた谷崎潤一郎は弁士の解説が大嫌いだったが、唯一染井の解説は褒めた。

大蔵 貢 1899〜1978 —後に映画会社社長になったエロ弁士
どんな清楚な物語も彼の解説にかかるとすべて猥褻な映画になってしまったという語りで有名。喜劇を得意とし「チャップリン弁士」とも呼ばれた。弁士時代から映画館経営に乗り出し、後に新東宝社長としてピンク映画や怪奇映画を製作した。昭和36年、新東宝の倒産後、彼が設立した大蔵映画は現在まで続いている。

徳川 夢声 1894〜1971 —話芸に一生をかけた最後の天才弁士
無声映画時代末期の天才弁士と言われた。弁士の存在を意識させず、映画と一体になることを目指した話芸は多くの弁士の理想とされ、『カリガリ博士』など前衛的な外国映画の名解説は多くの人々の語り草となっている。活弁廃止後も話芸を貫き、ラジオや舞台で活躍、随筆家としても数多くの著書を残した。

 また、浅草で染井と人気を二分した土屋松濤(しょうとう)という弁士がいた。元遊郭の流しの声色屋で、彼はどんな映画も自己流に喋り、時には映写技師や撮影所にも注文を付けた。染井と対照的な解説語りで、巧みな台詞使いで歌うように解説した。
 弁士の語り方は、声色説明派(うたう派)、客観説明派(うたわない派)と大きく分けられた。前者は土屋松濤、後者は染井三郎がその代表的人物であった。昭和の東京では「下町派」「山の手派」と名を変えて呼ばれ、徳川夢声は山の手派の代表的人物である。それらに属さない個性的な語りで有名な者もいた。大辻司郎(1896〜1952)は喜劇を専門とした弁士で、後に漫談家に転向。その語りは一言二言喋っては黙り込むという珍妙なもので、業を煮やした客が「なまけるな!」とヤジることもあったが、それさえも笑いのネタにしたという。有名な悲劇『椿姫』を解説した際、観客が笑い転げたという逸話がある。
 女性弁士では松井須磨子(同名の女優もいるが別人)という、尾上松之助の忍術ものをドスのきいた低い声で解説する人気弁士もいた。彼女が男声を得意とするのは元々源氏節芝居という浄瑠璃の弾き語りをしていたからである。
 海外に渡った弁士もいた。『ピクチャー・ブライド』(1994年)は1920年代ハワイにおける日系移民の女性を描いた映画である。その中で移民たちが働く広大なサトウキビ畑の向こうから弁士と三味線引きの乗った馬車が活動写真の宣伝にやってくるシーンがある。異国の苦しい境遇の中、常に頑なであった主人公の表情がその一時和らぐのが印象的な場面である。次に、アメリカ、台湾で活躍した弁士の紹介をする。

桃中軒 浪右衛門 1887〜1971 —サンフランシスコ・ちょんまげの弁士
異国の娯楽に馴染めない日系移民にとって日本からの巡業隊は心の癒しであった。浪右衛門は日本で浪花節を学び、台湾、朝鮮、ハワイ、ウラジオストックなど各国の日本人コミュニティーをまわり浪花節の巡業をした。後に活動写真に浪花節の語りを付けて人気を博し、最後はサンフランシスコを拠点にした。語りの間に「That Right!」と合いの手をうったので「ダッツライ(That Right)の浪さん」と呼ばれた。トレードマークはちょんまげ、上映の伴奏は三味線と拍子木であった。

高松 豊次郎 1872〜1952 —台湾・片腕の弁士
工場の事故で片腕を失った後、法律を学ぶ。社会制度批判を行う政治落語を始めるも当時日本では社会主義に傾倒していた者への目が厳しく、やがて活動弁士に転向。後に伊藤博文と出会い、日本の植民地での映画巡業を持ちかけられ台湾へ渡った。

 また台湾には「台湾の夢声」と呼ばれる台湾人弁士、詹天馬(せんてんま)がいた。彼は八人の声色を巧みに使い分けて人気を博した。彼は数回日本に渡り、夢声に弟子入りしたという。

 本文の多くの記述は吉田智恵男氏の『もう一つの映画史:活弁の時代』を参考にさせて頂いた。その中でも弁士について語られたもので、最も印象に残る一文がある。

「考えれば弁士はなんとも奇妙な仕事であった。弁士は無声映画を土壌として咲いた一種のあだ花であったといえるであろう。」(吉田智恵男『もう一つの映画史:活弁の時代』p.135)

 この花は35年という短命ではあったが個性的で大変華やかな花だった。吉田氏の言葉には時代の流れに消えざるを得なかった弁士達への深い哀惜が感じられる。人々を沸かせた弁士たちの名解説の殆どは記録として残っていない。しかし吉田氏をはじめ弁士と同じ時代を生きた人々の身体には彼らの語りが鮮やかに刻み込まれている。

 昭和6年(1931)には日本に輸入される洋画がすべてトーキーになり、日本初のトーキー映画『マダムと女房』が作られる。フィルムにすでに音があるので弁士が喋る必要はない。映画館はまず楽団、次いで弁士の解雇を始めた。しかし当時は弁士の消滅を惜しむ声がかなり高く、トーキーの将来性を疑う声も多くあった。弁士達は団結してストライキを起こし、多くが一度は復職したものの、やがてはすべての弁士が映画館を去った。こうしてある者は他の話芸の道、ある者はチンドン屋や紙芝居屋に転身していく。こうした騒動の中、組合同士のいざこざから自殺した弁士に須田貞明という人物がいたが、彼は映画監督黒澤明の兄であった。

 ビデオやDVDが普及したおかげで現代の私達はあらゆる時代の映画を見る事ができる。しかし、人と映画との出会いはその時代に生きた人間の、その一時の経験でしかない。かつて無声映画時代を生きた人々にとって、映画の記憶とは強烈な場所の記憶であり、体に刻まれた身体の記憶であった。近年、映像のインターネット配信技術が急速に発達し、携帯電話の画面で映画を見ることも可能であるという。こうした現在を生きる私達にとって、映画の記憶とはなんだろうか。最初にあげた「映画についての断章」に描かれているものは、幼い頃に未知の美しさに出会った驚きの記憶である。この未知の美しさとの出会いは形を変えて現在に存在するはずである。

チャンバラ映画とスーパースター

文=田中友紀子(イメージライブラリー・スタッフ)

—恩義を忘れはせぬなれど、恩義のために正義に反することは拙者には出来ないのだッ 阪東妻三郎演じる平三郎が、悪党・治良三の前に立ちはだかると、弁士が朗々と語りあげる。 —女、女、女故に悶え苦しみ正義を貫きながら悪人の汚名を着せられた平三郎は、世を欺き、義侠の義にかくれた偽善者、悪人治良三をば倒すべく天誅の刃が払われたっ! (『雄呂血』より/弁士・松田春翠)

 これは『雄呂血』の映画史上名を残す大殺陣が始まるシーンである。殺陣(たて)とは、時代物の演劇や映画のなかで行なわれる剣戟・立ち回りのことで、俗称としてチャンバラとも呼ばれている。観客はこの9分近く続くチャンバラ・シーンで、主人公が繰り出す刀の乱舞に熱狂し拍手喝采を送った。そのスピーディでダイナミックなアクションには、今見ても手に汗握らせる迫力がある。当時、映画館で時代劇が現代劇以上に熱狂を呼んだのはチャンバラの魅力のためであり、時代劇の隆盛はチャンバラの流行と直結している。チャンバラは時代劇と切っても切り離せないものであった。

 日本の大衆芸能が伝統と近代の狭間で揺れ動いた明治時代、演劇界では歌舞伎(旧劇)と現代劇(新劇)の中間に位置する新しい国民演劇の創造を目指して、「新国劇」という劇団が結成された。新国劇は立ち回りと大衆劇を中心に上演し、チャンバラ・ブームを巻き起こした。なぜ新国劇の立ち回りが人々に受けたのか。なぜなら、それまでの演劇における立ち回りには、歌舞伎の型に縛られたスローテンポなものしかなかったため、人々は新国劇のスピード感あふれるリアリティや、その迫真さに魅了されたのである。
 その頃、演劇に代わって庶民の娯楽のトップになろうとしていた映画の世界では、旧劇に属する尾上松之助が当代随一の大スターであった。尾上松之助は生涯の出演作が千本を超える俳優であったが、最後まで舞台劇的な演出、演技様式から脱しきれなかった。松之助をスターに育て上げた映画監督・マキノ省三にしても、彼の様式化された立ち回りにあきたりず、リアリティのあるアクションを求めて新国劇のチャンバラに近づいていくことになる。
 こうして新国劇によって確立された剣戟がチャンバラ映画流行の導火線となったのだが、その流行に拍車をかけたのは、大正十二年に起きた関東大震災であった。東京の撮影所を失った日本映画の主流は京都へ移り、若い作家たちは、アメリカのアクション映画をはじめとする外国映画の表現様式を大胆に摂取し、様々な技法を模索した。その動きは、それまで時代物を中心に制作していた京都の流れと重なり、時代劇映画が目覚しい新展開を見せ始めた。その時代をリードしたのが、先に述べたマキノ省三と、彼の下で新時代のシナリオを次々と発表した脚本家・寿々喜多呂九平であった。大衆は、彼らが描く迫真的な立ち回り、講談から離れた新しい人間像、スピーディなストーリー展開に熱狂し、チャンバラ映画は全盛期を迎える。しかし、チャンバラ映画が観客を魅了したのは、そうした経緯を超えて、むしろ大震災後の大不況や、人々に覆い被さる半封建的な時代状況に、ダイナミックで峻烈な剣の美学が合致したためだといえる。さらに、世の中が戦争に向けて軍国主義化し、日本型ファシズムへ急傾斜していく中で、現実と次元を異にした時代劇映画は、厳しい検閲を潜り抜けるカモフラージュになるという点で現代劇にない可能性をもっていた。マゲに隠して反逆精神や革命思想を体現するスーパー・ヒーローたちは、時代の閉塞状況を切り開く自由のシンボルにまで高められていった。観客にとって彼らは神格化し、それを演じる俳優たちまでも偶像として崇拝されるようになっていく。人々がチャンバラ映画に熱狂した時代、それは時代劇という虚構の世界が、時代の趨勢と大衆の叫びを描き得た時代であった。
 この時代を支配したチャンバラ・スターに、寿々喜多呂九平の脚本で売り出した「バンツマ」こと阪東妻三郎がいた。妻三郎は、優れた顔立ちと歯切れのよいアクションで彗星のごとく映画界に現われ、悲運と反逆のヒーローを演じて剣戟王の代名詞的存在となる。代表作の一つ『影法師』は、大衆に味方する無敵のスーパー・ヒーローであり、鬱屈した時代から噴出す情念の代弁者となった。彼と並び称されたのが、大河内傳次郎であった。伊藤大輔監督とのコンビで数々の名作を放ち、中でも日本映画史上不滅の金字塔と語り伝えられる『忠次旅日記』に、大衆は時代の重圧に追い詰められる自分たちの姿を重ね合わせた。そして、それに続いて片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、林長二郎(長谷川一夫)といったトップ・スターたちが、チャンバラ映画の黄金期を支えた。

チャンバラ映画のトップスターたち

阪東 妻三郎(1901〜1953)
脚本家・寿々喜多呂九平とのコンビで発表した『影法師』が人気を博し、『雄呂血』で虚無的なヒーロー像を演じて大ヒットする。その大胆な殺陣は見るものを圧倒し、乱闘劇の<バンツマ>として一世を風靡した。映画がトーキーの時代に突入すると、その予想外に甲高い声がファンの失望を呼ぶが、発声訓練を重ねてトーキーの波を乗り越えた。戦後になっても、『王将』『破れ太鼓』といった現代劇で素晴らしい演技を見せ続け、正真正銘のスターでありつづけた。4人の息子のうち、田村高廣、正和、亮の三人は俳優となった。

大河内 傳次郎(1898〜1962)
のたうちまわるような壮絶な立ち回りで観客を圧倒し、阪東妻三郎と並んで賞された時代劇スター。伊藤大輔監督との不朽の名コンビで主演した『忠次旅日記』『新版大岡政談』シリーズなどの作品群は、時代の先端をゆく傑作として注目され、大河内演じる隻腕隻眼のヒーロー・丹下左膳は観客の熱狂を呼んだ。トーキーの時代になると、「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」という独特のイントネーションが一世を風靡した。晩年は京都小倉山山荘の造園に熱中し、現在その山荘は<大河内山荘>として公開されている。

片岡 千恵蔵(1903〜1983)
戦前・戦後の長期にわたり時代劇を支えた剣士スター。チャンバラがあまり得意でなかった千恵蔵は、伊丹万作、稲垣浩監督の名作に次々に主演し、ユーモアのある明るい時代劇という新しい分野を開拓した。

嵐 寛寿郎(1903〜1980)
デビュー作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』がヒットし、『鞍馬天狗』は寛寿郎の十八番ものとして定着する。天性の素質に支えられた爽快な立ち回りで圧倒的な人気を得た。

市川 右太衛門(1907〜1999)
立ち姿の美しさ、舞踊の素養を生かした立ち回りの華麗さで、美剣士スターとして活躍した。『一殺多生剣』などの反骨精神漂う作品を含め多くの作品に主演したが、生涯の当たり役は34年にわたって31本もの作品が制作された『旗本退屈男』シリーズ。豪快な役柄で美々しい衣装を着こなし、女性ファンを虜にした。

長谷川 一夫(1908〜1984)
男性的なチャンバラとは一味違う、踊るように華麗な立ち回りと美男子ぶりで、若い女性ファンの圧倒的な人気を得た。

映画における音の歴史

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

 映画用のフィルムを手にとると、その片隅には細い帯状のサウンドトラックを視認できる。小刻みに幅を変える黒と透明のストライプは、機械を通して音を電気信号に変換し、さらに光の信号へと変換したものだ。上映時には、ここを通過する光量の変化を光電管という機械が感知して音に還元する。この光学サウンドトラックはフィルムにおける音声記録の主流であり、発明されてからほとんどその原理を変えていない。線の幅が広いと大きな音、幅が狭いと小さな音になり、線の間隔が広いと低音、間隔が狭いと高音になる。
 この原理に着目したカナダのアニメーション作家ノーマン・マクラレンは、装置を使わずに直接フィルムに「音を描く」方法を『ペンポイント・パーカッション』(1951)で実践している。画面に姿を現したマクラレンは、透明な35ミリフィルムのサウンドトラックに、さまざまな模様を筆で描きこんでいく。彼が筆の柄でそれらの模様をなぞると、対応する大小高低さまざまな音色が提示される。画像のコマと並行して走りながら、普段は決して映画内に現れることのないサウンドトラックを、彼は視覚化してみせたのだ。
 マクラレンはフィルムのテクノロジーに常に敏感な実験アニメーションのパイオニアであったが、それとともにユーモアと芸術性を失わない詩人でもあった。自作の周波数カードをサウンドトラックに撮影する技巧的な手段を試みた『隣人』や、ジャズの調べと抽象的イメージが同調した『色彩幻想』は、今の時代にも、映画における映像と音の融合というひとつの課題に改めて立ち返らせてくれる。

 トーキー(“talking picture”から派生した語)の登場より前から、すでに映画は音と無関係ではなかった。1895年、リュミエール兄弟によるパリのグラン・カフェでのシネマトグラフの上映会、つまり《映画の誕生》の際にすでにピアノによって既成曲が伴奏されている。それ以降も、サイレント映画の上映の際にはクラシックなどの既成曲が生演奏されていた。選曲は劇場に任されていたため、その演奏形態はピアノやオルガンの独奏からオーケストラまでさまざまだった。特定の映画のためにオリジナル・スコアが用意されるようになったのはフランスのフィルム・ダール社の『ギース公の暗殺』(1908)から。サン=サーンスが作曲した交響楽が初の映画音楽として知られている。その後サイレント時代には『國民の創生』『鉄路の白薔薇』『幕間』『バレエ・メカニック』など映像と音とが密接な関係を築いた映画も登場した。
 1926年、倒産寸前のワーナー・ブラザース社は、ディスクに音を録音しフィルムに同調させる方式を映画『ドン・ファン』に採用した。このディスク型トーキー、ヴァイタフォンは、伴奏音楽を完璧に映像に同調させることが目的とされ、いわばサイレント時代のオーケストラ・ピットを、より正確に、より経済的に再現することが至上の狙いだった。
 その翌年、ワーナーは歌手アル・ジョルスンを主演に迎えて、ヴァイタフォン方式の『ジャズ・シンガー』を製作した。ジョルスンの歌声が満載されてはいるものの、字幕を利用したサイレントの場面が多くを占めるこの映画は、アドリブで放たれた“You ain't heard nothin' yet! (お楽しみはこれからだ!)”というたったひとつの台詞によって、《映画史上初のトーキー》として名を残すこととなった。人々はジョルスンの台詞に熱狂し、『ジャズ・シンガー』は大ヒットを記録。この成功によってトーキーに懐疑的だったスタジオも一斉にトーキー化を推し進めた。1928年には全編トーキー作品『ニューヨークの灯』が製作された。こうした流れの中で、ディスクの摩耗の早いヴァイタフォンは急速に消滅してゆき、1931年頃までにフィルムに光学録音するフォックス社のムーヴィートーン方式(『ジャズ・シンガー』の公開5ヶ月前からフォックス社がニュース映画に採用し始め、リンドバーグの太平洋横断の速報で大成功を収めていた)がアメリカの映画市場を独占することになった。
 サウンドトラックの出現は、それに付随するもうひとつの革新的な進歩—《1秒間24コマ》という恒久的なフィルムの撮影・映写速度を映画にもたらした。サイレント期はカメラも映写機も手回しで、上映時間も一定ではなかったが、トーキーではフィルムの速度が変わると音の高さも変わってしまうため、電気的に一定の速度でフィルムを回す必要があったのだ。
 一方で、トーキーの到来が映画界に多くの混乱を巻き起こしたのも事実である。サイレントに固執したチャップリンに代表されるように、ムルナウルネ・クレールなどの一部の映画人は映画の表現力や創造性を奪うと考え、トーキーに対し否定的であった。音の自然主義的な従属を懸念したロシアの映画人、エイゼンシュテインプドフキンアレクサンドロフらは、音をモンタージュの新しい構成要素として迎え入れようと、1928年、トーキー映画についての声明文を雑誌に発表する。
 さらにより現実的な事情からトーキーは映画の芸術性を侵犯した。サイレント時代後期は登場人物の細やかな心理描写が可能なほどに映像言語が洗練された時代であった。しかしトーキー初期には技術的な問題によって音を細かく編集することができなかったため、それに合わせて映像の編集レベルも引き下げられたのだ。1940年代に撮影現場で編集が簡単な磁気録音が可能になるまでそれは続いた。  トーキーの弊害はこればかりではなく、映画の初期に一般的に採用され、映画芸術科学アカデミーが「スタンダード・サイズ」と定めた画面の縦横の比率、1対1.33(3対4)の存在を一時期脅かした。トーキーの出現によってフィルム上にサウンドトラックのための余地が必要になり、画面の比率を正方形に近い1対1.2へと移行せざるを得なくなったのだ。
 1.33比率は数年後にはアカデミーによって回復され、テレビの画面にも適用された*1。しかし1950年代、皮肉にもテレビの台頭によって集客力を失った映画は、テレビとの差別化を図ってより横長のワイド・スクリーンを一般化させる。巨大なスクリーンの登場によって、それに相応しい迫力ある立体音響(ステレオ)が求められるようになった。そこで複数のチャンネルを記録することが可能な磁気トラックを上映用フィルムに塗布する試みもなされたが、コストが高い上に比較的寿命が短かったために定着はしなかった。ステレオが標準になるのはそれから20年後のことである。  1970年代にドルビーラボラトリーズは光学サウンド特有のノイズの軽減と、従来のサウンドトラックの空間に4チャンネルの音を記録することに成功した。このドルビー・ステレオ方式は1977年の2大ヒット作『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』で採用され、瞬く間に普及した。それは左右・中央・サラウンド(周囲の環境音と特殊効果のため)の4つのチャンネルに収録された音声を、個別のスピーカーから発することで、モノラルでは得られない立体的で臨場感のある音響を演出することを可能にした。ドルビー・ステレオは現在も映画の一般的なアナログフォーマットとなっている。しかしながらこうした音響技術の発展が、映画の表現の場において、いつでも成功に寄与するとは限らない。

 柔軟で想像力に富む私たちの脳は、スクリーンと、本来そこから分離しているはずの音を即座に結びつける強力な錯覚のメカニズムを備えている。スピーカーが例えどんな位置にあろうとも、私たちはそこから発せられる足音をスクリーン内の俳優の動きに結び付け、足音もまたスクリーン内を動き回っているかのように解釈するのだ。しかし、個別の空間を持つ立体音響の発展は、こうした脳内の錯覚を脅かす。俳優がスクリーンの中央から右側へフレーム・アウトした時、足音もまた中央から右側のスピーカーへと移動するが、その音の所在はスクリーンの縁、もしくはその先にある劇場の空間をことさらに強調してしまう。その足音がモノラルで提示されたならば、私たちの脳は、もっと素直にその音源を想像することができるはずだ。
 さらに立体音響について映画批評家のミシェル・シオンが言及した記述に興味深いものがある。彼は映画『ブレードランナー』(1982)の「音響的にも音楽的にも比類のない豊かさ」を認めつつも、ハリソン・フォードの「オフの声」の説得力のなさを指摘する。(ミシェル・シオン『映画にとって音とは何か』p.85)「オフの声」音とは画面で示される時空間には位置づけられない音、つまり映画音楽やナレーションを意味している*2。もちろんこうした「オフ」の音を耳にした時、私たちの脳はフレームの中にその音源を探すことはなく、それが「本来どこにもない場所」からやってきた「スクリーン全体に存在する」ものだと理解するのだが、実際的な音の振り分けと配置がおこなわれてしまう立体音響では、それをうまく機能させることは難しい。『ブレードランナー』は大がかりなSF大作であり、その点においては立体音響の迫力ある音響はおおいに貢献したものの、この映画の持つ繊細で内省的な部分においては成果を上げることはできなかった*3。テクノロジーの賜物である映画において、技術とそれが表現するものとは表裏一体であり、その均衡はいつでもあやうい。
 1990年代以降、ハリウッドの超大作においてドルビーデジタルやdts(デジタル・シアター・システム)など、5チャンネル以上をデジタル圧縮録音するデジタル・サウンドが採用されるようになった(それぞれ『バットマン・リターンズ』、『ジュラシック・パーク』で初めて登場)。デジタル・サウンドにおいては、フィルムのサウンドトラックはもはやデジタル音声が正常に作動しなかったためのバックアップとして、もしくは再生システムのない映画館のためにアナログ音声を記録しているにすぎない。デジタル信号は、音のために用意された神聖な場所ではなく、パーフォレーション(フィルムの送り穴)の隙間や脇に居座っている。dtsに至っては、その音声は完全にフィルムから切り離されている。CD-ROMに記録した音声をフィルムに同期させて再生するというそのシステムは、フィルム自身が音を持ち得なかった時代の、ヴァイタフォンのシステムに酷似している。その回帰は、驚きと共に映画というメディアのさらなる進化を予見させ、感慨をもたらす。

(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)



参考文献

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