武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第24号

ヌーヴェル・ヴァーグはいつも新しい

文=梅本洋一(映画評論家)

 ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた新たな映画運動が、パリで起こってからすでに50年が経とうとしている。1950年代末期に20代を終えようとしていた若い映画作家たちもすでに80歳に手が届こうとしている。だが、驚くべきことは、その映画運動を支えた5人の主要な映画作家たちは、1984年に52歳でこの世を去ったフランソワ・トリュフォーを除いて、まだ全員が現役で新作を世に送り続けているということだ。他の4人とは、ジャン=リュック・ゴダールエリック・ロメールクロード・シャブロルジャック・リヴェットである。
 『美しきセルジュ』(シャブロル)、『大人は判ってくれない』(トリュフォー)、『勝手にしやがれ』(ゴダール)、『パリはわれらのもの』(リヴェット)、『獅子座』(ロメール)という処女長編を1960年前後に送り出した彼らの映画運動がヌーヴェル・ヴァーグ=新しい波と呼ばれたのはなぜか。彼らのフィルムが決定的に新しかったからだ。ではなぜ、彼らのフィルムが決定的に新しかったのか。彼らが自らの活動の場であるパリの同時代の空気をそのままフィルムの中に封じ込めたからである。作りたての料理を暖かい内に真空パッケージして、それを暖め直せば(上映すれば)、作りたて同然の湯気が料理から沸き立つように、フィルムの全体を覆い尽くすからだ。彼ら以前のフィルムの多くが、一本の映画作品が語る物語を再生するために、大きなスタジオにセットを作って撮影されていた。撮影するとは、映画作品が内包する物語を適切に語るための作業だった。だが、ヌーヴェル・ヴァーグのフィルムは、彼らの街(パリ)と彼らの登場人物を撮影時の気温も湿度も含めて、そのまま保存することだった。物語を語る行為の前に、目の前の風景をそのまま保存すること。それが彼らのフィルムの目的だ。だから、彼らのフィルムは、常に決定的に新しい。彼らのどのフィルムを見ても、フィルム開始からほんの数十秒で、夏の暑さが、冬の寒さが、登場人物たちの若さが甦ってくる。
 彼らのフィルムが新しい理由はそれだけではない。彼らはいずれも映画批評家出身であることもその大きな理由のひとつだ。50年代初頭から、彼らは同じ雑誌に次々と映画批評を発表していた。「カイエ・デュ・シネマ」というのがその雑誌の名前だ。映画批評を書くということは、まず何よりも数多くの古今東西のフィルムを見ていることが前提となる。世界で初のフィルムセンターだった、アンリ・ラングロワが主宰したシネマテーク=フランセーズが彼らの格好の勉学の場だった。毎日毎晩映画を見続けた彼らは、その場で顔見知りになり、友人になり、映画についての議論を交わすようになる。シネマテークで映画を見る体験は、映画にはサイレント時代からの歴史があることを身体的に学ぶことだ。そして映画に歴史があるということは、新たな作品とは、その歴史を更新することであることを目と耳で体感するということだ。映画は興行という経済を伴うけれども、シネマテークのような場で、興業とは無関係にフィルムを見ると、興行成績よりも重要な映画の歴史があることが理解される。そして、もし自分たちが映画を撮るとしたら、その作品は、そうした歴史の最先端にあるべきだという倫理が生まれるのも当然のことだろう。彼らが目にした巨匠たちの作品を模倣するのではなく、それらを手本にしつつも、そこに新しい要素を確実に加えなければ、その作品に存在価値はない。彼らはそう確信して映画を撮り始める。
 つまり、ヌーヴェル・ヴァーグの映画は、その映画運動が今から50年前に起こったからといって、決して古くはならない。彼らが撮り始めたフィルムの新しさは相対的なものではないからだ。『大人は判ってくれない』でドワネル少年(ジャン=ピエール・レオ)が、クリッシー広場の凍った噴水の氷を割って顔を洗うとき、ドワネル少年が感じる冷たさや、『勝手にしやがれ』でポワカール(ジャン=ポール・ベルモンド)が闊歩する夏のシャンゼリゼのまばゆい光も、永遠の新しさとしてぼくらの目に記憶されることになる。

(梅本洋一:映画評論家。1953年生まれ。1981年パリ第8大学大学院映画演劇研究所博士課程修了。1988年横浜国立大学教育学部助教授。1999年同大学教育人間科学部教授。1991〜2001年カイエ・デュ・シネマ・ジャポン編集代表。著書に、『映画はわれらのもの』(青土社)、『映画をつなぎとめるために』(勁草書房)、『サッシャ・ギトリ』(勁草書房)、『映画旅日記 パリ東京』(青土社)、『建築を読む』(青土社)等がある。 )

ヌーヴェル・ヴァーグの軌跡

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

 1950年代末にフランス映画史に登場した新しい波、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、従来のフランス映画の凝り固まった価値観と支配的な映画製作システムに一石を投じ、世界にも余波を与えた。撮影所での職業的な訓練を経ずに自由な映画作りを始めたフランスの若手映画監督たちによる50年代末から60年代半ば頃までの作品群が、一般的にはヌーヴェル・ヴァーグの作品として定義づけられているが、その中核となったのが映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」出身の若い映画監督のグループ、いわゆる「カイエ派」である。ヌーヴェル・ヴァーグの先駆的な作品としてはジャン=ピエール・メルヴィルが30歳の時に撮りあげた自主製作映画『海の沈黙』(1947)などが挙げられるが、それが集団的な映画革新運動へと展開するには、「カイエ派」が世界的な注目を集める1959年を待たなければならない。
 1959年、撮影当時26歳、実質的な助監督の経験もない映画批評家フランソワ・トリュフォーの長編第一作『大人は判ってくれない』が、文化大臣アンドレ・マルローの推薦で急遽カンヌ映画祭に出品されることになった。トリュフォーは映画批評家としてはカンヌを激しく攻撃していたが、『大人は判ってくれない』は監督賞を受賞。それと前後して、「カイエ・デュ・シネマ」からは次々と若い映画監督が輩出された。『美しきセルジュ』『いとこ同志』のクロード・シャブロル、『気狂いピエロ』のジャン=リュック・ゴダール、『獅子座』のエリック・ロメール、『パリはわれらのもの』のジャック・リヴェット
 世界に衝撃を与え、それ以後の映画に大きな影響を及ぼしたヌーヴェル・ヴァーグとは何だったのか。それを考える上でまず、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに共通する映画への愛と素養を育むべき場が、戦後のフランスにあったことを知る必要があるだろう。

 フランスでは戦前からテーマや目的を持って映画の上映や討論会をおこなうシネクラブの伝統があったが、1944年のパリ解放後にその活動が活発になり、多くのシネクラブが組織されるようになった。ナチス占領中には上映禁止となっていたアメリカ映画も解禁されるようになり、あらゆる映画を享受し得る環境が整う。また、通常のシネクラブは小さな映画館で週に一回上映会をおこなっていたが、1948年にはシネマテーク・フランセーズが常設館を開設。主宰者のアンリ・ラングロワは、十代の頃から蚤の市でマニキュアの原料として売られていた映画創成期の貴重な映画フィルムを発見して買い上げていた稀代のフィルム蒐集家であった。彼は映画について討論することや映画の価値を判定することを嫌い、講演や討論会をおこなうことはなかったが、文字通り古今東西のあらゆる作品を分け隔てなく上映した。
 のちに「カイエ派」となる青年たちは複数のシネクラブに通う映画狂であり、シネマテーク・フランセーズを中心に交友を深めていった。そしてその知的交流はやがて彼らを映画批評の場へと駆りたてることになった。ヌーヴェル・ヴァーグの作家の中でも年長者のエリック・ロメール(本名モーリス・シェレール)は、自らアメリカのB級映画ばかりを上映する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」を主宰していたが、その会報にはリヴェット、ゴダール(ハンス・リュカス名義)、トリュフォーらが寄稿するようになった。
 シネマテークの子どもたちがフランス国内に怒涛のように流れ込んだ新旧のハリウッド映画をおおらかに吸収していく一方で、映画界では自国の映画産業を脅かす存在としてハリウッド映画は敵視されていた。こうした時流の中でアメリカの映画監督オーソン・ウェルズを擁護したのが、ヌーヴェル・ヴァーグの精神的父親といわれる映画批評家アンドレ・バザンだ。彼はパリ解放後に文化活動機関「労働と文化」の映画班で映画上映運動を展開し、シネクラブ運動推進の一翼を担った人物である。
 バザンは、ショットを物語的に配列する古典的モンタージュが観客の自由を麻痺させると非難。ウェルズの『市民ケーン』(1941、フランス公開1946)におけるパン・フォーカス(遠景、近景すべてにピントを合わせる手法)によってもたらされた視界の深度が、観客に自由な解釈を与えるとして評価した。しかしバザンの主張は、のちに世界映画史の権威となる共産党系のジョルジュ・サドゥールと対立し、形式主義者とみなされた彼は寄稿していた「レクラン・フランセ」誌を去ることになった。しかし古典的モンタージュに反撥するバザンの精神は、彼が1951年に創刊した「カイエ・デュ・シネマ」に集まった若き批評家たちに引き継がれていくことになった。

 「カイエ・デュ・シネマ」は、1950年に編集長ジャン=ジョルジュ・オリオールの死によって廃刊となった「ルヴュ・デュ・シネマ」誌のアメリカ映画賛美の流れを継承した。シネクラブの会報から発展したエリック・ロメール率いる「ガゼット・デュ・シネマ」誌も「カイエ・デュ・シネマ」創刊の動きに合流した。編集長となったバザンは、「ガゼット・デュ・シネマ」の寄稿者であった青年たちを積極的に執筆に参加させた。また、彼は少年鑑別所から引き取り面倒をみていたトリュフォーにも本格的に映画批評を書くように勧める。
 「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿するようになったトリュフォーは1954年「フランス映画のある種の傾向」を発表。この論文でトリュフォーは、文芸作品の脚色を重視したそれまでのフランス映画の「良質な伝統」を激しく非難。人気商業映画監督ジャン・ドラノワクロード・オータン=ラライヴ・アレグレ、マルセル・パリエロ、ルネ・クレマン、そして彼らの映画の脚本を手がけたジャン・オーランシュピエール・ボストのコンビを名指しし、気取りに満ちたセリフ回しで文学的に彩られた彼らの映画を「脚本家の作品」として糾弾した。この論文の過激さから、トリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と呼ばれるようになった。
 トリュフォーの出現は、アメリカ映画を尊重しながらも本来は穏健な映画批評誌であった「カイエ・デュ・シネマ」に激震をもたらした。トリュフォーを中心とした先鋭的な若い批評家たちは、「良質な伝統」から遠く離れた純粋な映画的表現者として、ジャン・コクトーマックス・オフュルスジャック・ベッケルロベール・ブレッソンジャック・タチジャン・ルノワールらのフランス人監督を擁護するとともに、それまで蔑視され批評の対象にもならなかったハリウッドの職人監督アルフレッド・ヒッチコックハワード・ホークスを称揚することによって挑発的な批評を展開していった。彼らは、小説家や作曲家や画家と同様に、映画監督もまた演出によって個的な「作家」として自己表現でき得ると主張し、一度「作家」とみなした映画監督については失敗作をも擁護した。この「作家主義」は作家へのインタビューによってさらに推し進められ、「カイエ・デュ・シネマ」の批評の機軸として標榜されるようになっていった。こうした「個人崇拝」は批評家として客観的な批評眼を持ち得るのか、バザンはその極端な独断主義に懐疑的だったが、闘争的な批評活動ののち、「カイエ・デュ・シネマ」の若手批評家たちは、撮影所での訓練の経験もほとんどないまま次々と映画制作の現場へと身を投じていった。
 16ミリによるいくつかの習作を経て、1956年、短編『王手飛車取り』でジャック・リヴェットがカイエ派の中で最初に商業デビューを果たした。製作は妻の伯母の遺産でクロード・シャブロルが設立した独立プロダクション、AJYMフィルム。また、彼らが敬愛するジャン・ルノワールの『女優ナナ』や、「左岸派(*)」のアラン・レネ の短編『ヴァン・ゴッホ』などの製作を手掛けた映画プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェ も資金援助に加わった。パーティーシーンではゴダール、トリュフォー、ロメール、シャブロルらが友情出演している。
 リヴェットに刺激され、1957年にはトリュフォーとゴダールがそれぞれ短編の『あこがれ 』『男の子の名前はみんなパトリックっていうの 』を撮る。そして1959年、クロード・シャブロルによるカイエ派初の長編『美しきセルジュ』と、第二作『いとこ同志』が立て続けに公開された。この年には、カンヌで監督賞を受賞するトリュフォーの『大人は判ってくれない』、既存の映画文法を無視しヌーヴェル・ヴァーグの決定打となったゴダールの『勝手にしやがれ』が製作され、とりわけヌーヴェル・ヴァーグの華やかな幕開けを印象付けた。

 彼らがとりあげたのはとりたてて目新しい物語ではない。ヌーヴェル・ヴァーグの新しさは、かつてアレクサンドル・アストリュックが「カメラ=万年筆論」で予見したように、柔軟で精緻なエクリチュールのひとつとして、映画が真に映画的な語り口を獲得したことにある。
 彼らは素人や新人俳優を起用し、カメラを撮影所の照明ではなく現実の光の下へと持ち出した。そしてセリフから文芸的な虚飾を剥ぎ取り、撮影現場では即興演出を大胆に取りいれた。こうしてカメラの前には、こなれた演技ではない、いきいきとした人間の動きや表情、自然光の下のあるがままの猥雑な街の姿があらわとなった。ヌーヴェル・ヴァーグを特徴づけるこうしたドキュメンタリー的手法は、高感度フィルム、軽量なカメラと録音機材の開発という当時の技術革新に負うところが大きい。
 いうまでもなく、こうした手法がそれまで試みられなかったわけではない。彼らがこよなく愛したジャン・ルノワールは『ピクニック』でオール・ロケーション撮影を敢行し、ロベルト・ロッセリーニは『無防備都市』で第二次世界大戦後の荒廃したローマの姿を写し撮った。彼らは「カイエ・デュ・シネマ」での批評活動、ひいてはシネマテーク・ フランセーズでの映画的体験をとおして、映画の歴史の影に横たわる偉大な先駆者たちの存在を認識した最初の世代である。すべてが試みられてしまったことを知りつつ、遅れてやってきたヌーヴェル・ヴァーグの作家たちは、そうした痛みを抱えながら自らの映画に対峙しなければならなかった。
 彼らは大がかりなセットや照明のもと物語がつつがなく進行する映画に慣らされた観客たちに、映画の草創期と同じように照明を使わずにフィルムに刻み込んだ現実の素朴なイメージを提示し、純粋な映画の喜びを蘇らせた。そしてそれまでの映画では語られることのなかった、個人的で些細な日常のできごとを描くことによって、観客を新鮮な感動でゆさぶった。ヌーヴェル・ヴァーグの新しさとは、彼らが映画狂、批評家として常に覚醒し、映画への愛と批評精神を共有する仲間たちとともに映画の新たな地平を模索していたことにあったといえる。映画について語りあうこと、それがヌーヴェル・ヴァーグの力だったとゴダールは語っている。

 しかし小規模で親密な映画作りから出発したヌーヴェル・ヴァーグは、その成功によって急速に求心性を失っていくことになった。プロの映画監督として歩みだした彼らは、共同作業から成り立つ映画産業という枠組みの中で、それぞれが自らの作家性を追求していくことになるのだ。
 当初『大人は判ってくれない』のラストシーンは自殺を暗示しているとの解釈もあったのだが、主人公のドワネル少年は彼を演じたジャン=ピエール・レオの強い個性に引き寄せられながら生き続け、1968年、トリュフォーはシリーズ三作目『夜霧の恋人たち』を制作し、アンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズに捧げた。この年、トリュフォーとゴダールはラングロワ解任に対する「シネマテーク・フランセーズ擁護委員会」結成や、五月革命の最中に執り行われたカンヌ映画祭への抗議活動において運動の中心となる。しかしこれを契機に政治の時代に突入したゴダールと、商業映画へと傾いていったトリュフォーは完全に決別することになった。


* ヌーヴェル・ヴァーグの狭義の定義としては、その主流をなした「カイエ・デュ・シネマ」誌出身の「カイエ派(右岸派)」と、「左岸派」を合わせて指し示すのが一般的である。「左岸派」とは、「カイエ・デュ・シネマ」誌の事務所がセーヌ河の右岸に位置していたのに対し、モンパルナスなどの左岸で主に活動していたアラン・レネ、アニエス・ヴァルダジャック・ドゥミクリス・マルケルらの作家である。これは単なる地理上の分類で、両者は対立していたわけではない。アニエス・ヴァルダによる自主製作の長編映画『ラ・ポワント・クールト』(1954)は新聞評でアンドレ・バザンの絶賛を受け、カイエ派に先駆けて商業的な成功に至った。『大人は判ってくれない』がカンヌで監督賞を受賞した1959年には、アラン・レネの長編第一作『二十四時間の情事』が国際映画批評家大賞を受賞した。

ヌーヴェル・ヴァーグ代表作

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

美しきセルジュ
1957年99分/監督・脚本・製作 クロード・シャブロル/撮影 アンリ・ドカエ/編集 ジャック・ガイヤール/音楽 エミール・デルピエール/出演 ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン

病気療養のためにパリから故郷の村に帰省したフランソワは、幼なじみのセルジュと再会する。建築家を目指していたセルジュは、恋人を妊娠させたことで上京をあきらめ、さらに恋人がその子供を死産してしまったことから酒浸りの日々を送っていた。フランソワはセルジュを立ち直らせるため、神父の心配をよそに冬になっても村に残ることを決意する。

1956年に妻の叔母の遺産を相続したシャブロルは、独立プロダクションを設立し、まずカイエ派の仲間ジャック・リヴェットの短編『王手飛車取り』を製作した。そして翌年、自らのデビュー作でありカイエ派初の長編作品となる『美しきセルジュ』の製作に着手。自らの故郷であるサルダンでロケーション撮影をおこない、美しくも閉塞的な空気が充満した田舎の風景の中に、歪んだ人間関係と青春の苦悩を描きだした。
撮影監督のアンリ・ドカエ は、ヌーヴェル・ヴァーグのさきがけとなったジャン=ピエール・メルヴィル監督の自主製作映画『海の沈黙』でカメラを担当した人物である。彼はこの後もシャブロルの二作目『いとこ同志』、トリュフォーの『大人は判ってくれない』のカメラを担当しヌーヴェル・ヴァーグに深く関わっていくことになる。『いとこ同志』に引き継がれていく大胆なパン撮影、雪降り積もる夜道の場面は特筆に値するだろう。
フランスでの公開は1959年。わずか1ヶ月後に公開された『いとこ同志』は大ヒットを記録し、シャブロルはその金でロメールの『獅子座』を製作、また、『大人は判ってくれない』で成功したトリュフォーとともにリヴェットの長編第一作『パリはわれらのもの』にも資金提供をした。

大人は判ってくれない
1959年99分/監督・原案・脚本 フランソワ・トリュフォー/脚本 マルセル・ムーシー/撮影 アンリ・ドカエ/美術 ベルナール・エヴァン/編集 マリー=ジョゼフ・ヨヨット/音楽 ジャン・コンスタンタン/出演 ジャン=ピエール・レオ

アントワーヌ・ドワネルはパリの下町に住む12歳の少年。学校ではいつもいたずらばかりして先生に目をつけられている。共稼ぎの両親はいつも口論してばかりだ。そんなある日、遊ぶ金に困った彼は、父親の会社から盗んだタイプライターを質に入れようとしたのが見つかり、両親に感化院に入れられてしまう。

トリュフォーの前作の短編『あこがれ』には、少年たちが壁に貼られた『首輪のない犬』の映画ポスターを破るシーンがある。トリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」の中で断罪した映画監督のひとり、ジャン・ドラノワの映画だ。この論文で記したような、「サンジェルマン・デ・プレのアパルトマンの五階からながめたままの人生を見せてくれるような、生の実感にあふれた、わたしたちの映画」(山田宏一訳、『ユリイカ 臨時増刊 総特集 ヌーヴェル・ヴァーグ30年』、p28)がトリュフォーの目指す映画だった。
彼の長編第一作『大人は判ってくれない』は、舞台こそモンマルトルであれ、まさに彼が望んだとおりのみずみずしい魅力あふれる一編となった。トリュフォーは前年に「アール」誌でカンヌ映画祭を激しく攻撃していたが、文化大臣アンドレ・マルローの推薦でカンヌに正式出品された本作は監督賞を獲得。興行的にも大成功を収めたトリュフォーは、敬愛するジャン・コクトーの最後の監督作品『オルフェの遺言』を製作した。
トリュフォーはドワネル同様に孤独な少年時代を過ごしたが、彼を感化院から救い出し庇護した精神的父親、アンドレ・バザンはこの作品がクランクアップした日の夜、40歳の若さで亡くなった。

勝手にしやがれ
1959年86分/監督・脚本 ジャン=リュック・ゴダール/原案 フランソワ・トリュフォー/撮影 ラウル・クタール/編集 セシール・ドキュジス/音楽 マルシャル・ソアル/出演 ジャン・ポール=ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジェ

自動車泥棒のミシェルは、マルセイユから車を運ぶ途中、衝動的に警官を射殺してしまう。パリに到着した彼は、恋心を抱いていたアメリカ娘パトリシアと再会し彼女のアパルトマンに転がり込むが、ついにふたりに警察の捜査の手が及ぶ。逃避行のさなか、パトリシアはミシェルを裏切って警察に密告する。

短編『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』(1956)、『シャルロットとジュール』(1958)ののち、ゴダールが監督した初の長編作品。もともとは新聞の三面記事をもとにしてトリュフォーが自分で撮ろうと温めていたシノプシスをゴダールが譲り受け、トリュフォーのカンヌ受賞を受けて映画化にこぎつけた。
画面の手前から奥へ、奥から手前へと、シャンゼリゼ通りを気ままに歩くミシェルとパトリシアの姿を捉えた冒頭のシーンは、郵便用の手押し車に隠れて撮影された。即興撮影を得意とするカメラマンラウール・クタールはゴダールの初期作品のほとんどに関わることになった。また、ゴダールは編集段階で2時間以上あった映画を短くするため、ひとつのシーンの中の一部を除去するという方法をとった。アクションの一部が欠落したことによって斬新なリズムを生むジャンプ・カットは、映画の既成概念をくつがえし世界に衝撃を与えた。
インタビューに答える小説家を演じるのはジャン=ピエール・メルヴィル。初期のゴダール作品には映画狂的で無邪気な映画の引用があふれていた。

王手飛車取り
1956年28分/監督・脚本 ジャック・リヴェット/脚本 クロード・シャブロル/脚本・撮影 シャルル・ビッチュ/ 編集 ドニーズ・ド・カザビアンカ /出演 ヴィルジニー・ヴィトリ、ジャン=クロード・ブリアリ

不倫相手から高価な毛皮のコートをプレゼントされた女は、夫に怪しまれないよう駅の手荷物預かり所にコートを預け、その預り証を拾ったものだと嘘をついて夫に引き取りに行かせるのだった。しかし夫が持ち帰ってきたのは、身に覚えのない安物のコートだった…。

男女の恋の駆け引きをチェスになぞらえて描いた短編作品。ヌーヴェル・ヴァーグの中でもカイエ派初の商業劇映画で、この作品に勇気づけられたカイエ・デュ・シネマの仲間たちが次々と監督デビューを果たしていった。しかし1958年に撮影が開始されたリヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』の製作は困難を極め、完成までに3年を要した。

獅子座
1959年100分/監督・脚本 エリック・ロメール/撮影 ニコラ・アエール/音楽 ルイ・サゲール/編集 アンヌ=マリー・コトレ/出演 ジェス・アーン、ファン・ダウデ

伯母の莫大な遺産を相続できると知った獅子座生まれの中年作曲家が友人とともにそれを祝うが、その知らせは誤報だった。文無しとなり浮浪者に身を持ち崩した彼は8月のパリの街をさまよう。

カイエ派の中でも年長者であるロメールが39歳の時に撮った長編第一作。当初はシャブロルが製作を手がけていたが配給業者が変わり3年後にやっと単館公開に至った。この興行的失敗からロメールはこの後しばらく16ミリでの映画製作を余儀なくされた。

「ヌーヴェル・ヴァーグの軌跡」「ヌーヴェル・ヴァーグの代表作」参考文献
飯島正『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系I』冬樹社、1980年
ゴダール、ジャン=リュック『ゴダール 映画史I』奥村昭夫訳、筑摩書房、1982年
細川晋監修『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』エスクァイア マガジン ジャパン、1999年
山田宏一『わがフランス映画誌』平凡社、1990年
山田宏一『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌〔増補〕』平凡社、2002年
山田宏一『トリュフォー、ある映画的人生〔増補〕』平凡社、2002年
『ユリイカ 臨時増刊 総特集 ヌーヴェル・ヴァーグ30年』青土社、1995年
『ヌーヴェル・ヴァーグ「新しい波」の奇蹟』ネコ・パブリッシング、1997年

第五届中国紀録片交流周

文=久保田桂子(イメージライブラリー・スタッフ)


5月末の北京郊外は初夏のような気候だった。夕方に上映を控えた新しい会場はお昼を過ぎても工事の真最中で、入り口の塗りたての床を跨ぎ、螺旋階段で地下へ降りると、今回の映画祭の為にここだけ急ピッチで完成させたという上映室がある。中に入ると屋外の工事音が急に遠ざかり、ひんやりとした薄暗闇が心地よい。新品の椅子が並ぶ室内を見回すと、後ろの方で母親と小さな男の子が涼んでいた。目が暗闇に慣れてくると、内装を終えたばかりの壁やスクリーンの下など、いたるところにパイナップルの切れはしの小山が積まれているのに気付く。柔らかい布のシートに腰掛けると、手もとのジュース置き場にも大きな切れはしがひとつ、無造作に挿してあった。手に取るとすっぱい香りがするが、これで夕方の上映までに室内の塗装の匂いが消えるのだろうか。
 私は昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会った中国の作家達の不思議な佇まいに惹かれ、偶然に知人が関わっているこの映画祭へ訪れる機会を得た。そしてここで最初に出会った、あの工事音が遠く響く、パイナップルの切れはしがある暗闇は、妙にわくわくする場所だった。まさに今生まれつつある場所の整頓されていない雑多な空気、まるで生き物のような場所の気配がそこにあった。それは映画祭に集まった人々や、彼らの作品にも共通する気配だと言えるかもしれない。この空気こそ、今回の短い滞在の中で最も私が魅せられ、鮮やかに胸に刻まれたものだ。
 
 北京郊外の農村地帯にある宋荘村は、芸術家が多く住むアーティスト村として知られている。ここの宋荘美術館では年に2回、春と秋にインディペンデント映画祭が行われ、春の中国記録片交流周(中国ドキュメンタリー映画祭)では、一週間にわたり国内で作られたドキュメンタリー映画が上映され、作家と観客が交流する場となっている。5回目の今回は、中国の作家達に大きな影響を与えた日本の記録映画監督・小川紳介の回顧展も併せて行なわれ、日本からも関係者がたくさん訪れた。
 中国のドキュメンタリーについて、以前山形映画祭などで見聞きしたことをここで少し紹介したい。中国では90年代に一般にもビデオカメラが普及し、ドキュメンタリーをはじめ様々な個人による映像制作が活発になったが、その一方で、国内で公開される映画はすべて撮影前の段階で検閲を受ける制度があり、検閲を通っていないものは公式の場所で上映することが認められていない。そうした理由から作品の上映場所はバーや大学の教室などに限られてしまい、多くの作家が海外の映画祭へ発表の場を求めるようになった。2000年に北京で初めてのインディペンデント映画祭が行われてから、北京をはじめ上海、南京、雲南などで近年、同様の映像イベントが活発になってきている。後に聞いた話だが、冒頭に書いた新しい上映室は、映画祭を主催した人々の夢が実現したものだった。以前からバーや大学などで上映を行ってきた彼らにとって、政府に属するものではない、個人に属した上映室で自由に作品を上映することは長年の夢であった。また会場の映写機を始めとして、音響設備、椅子についても質の良い設備にこだわったのは、作家が苦労して作った作品が教室などの簡単な設備で観られるのでなく、きちんとした上映環境の中で観客に作品を味わってもらい、同時に作家に自分が尊敬されていると感じてもらいたいという切実な願いがあったからだという。映画祭を主催しているのは、80年代中国現代アートのリーダー的存在であった批評家の栗憲庭(Li Xianting)氏が設立した映画基金であり、この基金のスポンサーの多くは通県の現代アーティスト達である。栗氏は、現在のインディペンデントの映像作家とその作品が描き出しているものが、現代アートの初期の作家が持っていた意志と共鳴するものがあると感じ、それ以降熱心にインディペンデント映画のサポート活動を行っている。

 映画祭には、普段様々な地域で個別に制作をする人々が飛行機や長距離列車に乗って集まってきていた。検閲を通していない作品を上映する為に広く一般に向けて広報が出来ないことも理由としてあるのだが、参加者の大半は作家や制作を志す人々で占められ、会場にはここでしか見られない作品の一本一本に真剣に向き合おうとする静かな熱気があった。ここで上映された作品の作家に以前の仕事を尋ねると、画家、写真家、デザイナー、新聞記者、医者など、毎回てんでバラバラな返事が返ってくる。もちろん学校で映像を学んだ人も少なからずいるのだが、映像とは全く違う道を経て映像表現に辿りついた人が多いことに驚いてしまった。それゆえだろうか、作品のアプローチ、映像スタイルがそれぞれに個性的で、時々既存の映像文法をすっとすり抜けるような自由さがある。日本の映像作家に比べ、映像そのものに対する感性、捉え方の定義がより広いように感じられた。彼らの多くは、80年代以降の中国の急激な変化の流れの中で、変わり行く自分の周囲の現実を自分の手で記録したいという思いからビデオカメラを持った人達だった。その作品の多くは、大きな変化の波にさらされている場所や人々にカメラを向け、長い時間をかけて寄り添うように人々の生活や感情を記録している。
 上映後は作品と作家へ率直な拍手が寄せられ、その後に作家と観客の質疑応答がいつまでも続いていく。私はその場の中で、飛び交う中国語の内容はわからないまま、会場にいる人々のことに思いを巡らせていた。日本で映像制作を志す多くの人々が学校で映像を学ぶのと違って、彼らは学校へ行く代わりに実際の生活する人の中にカメラを持って飛び込んで行き、実制作の中から映画作りを学んでいる。その切実な思いは、画面の中に確かに映りこんでいた。また、作品を見ている際にふと気付き驚いてしまったのは、その眼差しに変化の中でやがて失われるものに対するセンチメンタルなノスタルジーが無いことだった。その代わりに、もっと切実なものとして、今生きている人々と共鳴しようとする意志と、小さく脆い生活の感情の機微を愛おしむような、柔らかい眼差しが根底にある。彼らはカメラを人に向けると同時に、「今、この場所でどう生きるのか」ということを自分自身への問いとして考え、その問いを共有して生きようとしている。この映画祭という場所は、彼らにとって単なる作品発表や情報交換の場ではなく、他の作家たちの作品に真剣に向き合い、話し合い、そこから様々なことを吸収するための場所でもある。その過程の中で、もしかしたら映画そのものについて学ぶ以上に、映画を作る行為について、この国の「今、ここ」をどのような眼差しでとらえ、どう自分が関わっていくかについて真摯に考える場所になっているのかもしれない。
 こうした会場の空気に触れることで、私は自分が今いる場所から何を汲み上げて映画を作ることが出来るのか、同時代を生きている人と映画を通じてどう関わっていけるのかといった、映画を作ることと生きることの距離について考えた。また同時に、上映され他者と出会うことによって初めて映画が生き始める、という当たり前のことを目の当たりにして、こうした「映画の場所」の大切さを痛感した。日本でも個人制作による映画が多く作られているが、このような個人の眼差しによる映画が、自分以外の見知らぬ他者とどのように出会い広がっていけるのだろうか、またその出会いはどのような「場」で始まるのか。あの北京郊外で出会った小さな「映画の場所」を出発点として、私も中国の作家のように日本でも考えてみたい。

イメージ・コレクション其之二 「中国の影(オンブル・シノワーズ)」と水兵服(セイラー)

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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