武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第26号

映画はトランジット状態の人々をつなぎとめる─井口奈己の映画

文=梅本洋一(映画評論家、横浜国立大学教授)

©2008「人のセックスを笑うな」製作委員会

©2004「犬猫」製作委員会

 『犬猫』や『人のセックスを笑うな』を見ていると、最近の若い映画作家に共通するミニマルな世界を描く映画に先鞭を付けたフィルムだと思われるかもしれない。そこに映っているのは、小さな日常生活であり、その中の極小の変化への眼差しだとも感じられるからだ。確かに井口奈己が扱ってきたのは、そうしたミニマルな世界なのだが、日本の小さな家族の内部や、地方都市の紋切り方の生活に収まってしまう空間と時間と、彼女が見せてくれる世界とは決定的に異なっている。
 最近、若い日本映画の主流を成しているミニマルな世界で展開する物語の多くは、家族の再生や日本の風景といった極めて保守的な物語に回収され、ひとつひとつのショットやフィルムが伝える一音一音が、物語への回収のためにだけに配置されているように感じられる。言い換えれば、すでに物語が、それも極めて保守的な物語が映画を撮影する以前から完成していて、ひとつのショットは次のショットのための準備でしかなく、ある音の強調は然るべき調和への一里塚でしかない。たとえ映画が映し出す空間に存在する問題の多くが、日本のある地方の問題であるにせよ、映画を見ているうちに、その一回性、単一性という生活が次第に稀薄になり、最初から準備されたクリッシェとしての物語の口実に成り下がっている。そこにいるはずの俳優たちも、映っているはずのその一瞬の気温や湿度も光も、すべては来るべき物語のための構成要素になっているのだ。人は、極めて巧妙につくられたそうした映画を、その分かり易さがゆえに傑作であると錯覚することが多い。
 それに対して井口奈己のフィルムは、もちろん、そこに物語こそ存在するが、その物語を語るために、ワンショットが撮影され、一音一音が録音されているわけではない。彼女のフィルムを見聞きしていると、それが語る物語など次第にどうでもよくなり、今、目の前にあるショットが伝える気温と湿度を、そこに手を伸ばせば触れることだってできそうな人の体温の方が、それらが伝えねばならない物語よりもずっと重要なものであることが感じられるだろう。いずれは、おそらく別れることになるだろうが、そのことよりも今、寒い室内で石油ストーブに灯油を入れる若い男と30代の女性の身体を見ていたい。大量のピーナッツとビールに酔いが回って、和室の低いテーブルの脇に横たわる物憂げな女性の身体を眺めていたい。なぜ二人は寒い部屋で抱き合うのか。なぜこんなにも落花生を食べなければならないのか。大方の映画は、その理由を説明するために腐心する。だが、井口奈己の映画は、その説明よりも、二人の体温と室温の低さをひたすら強調し、なぜ酔っているのかを解説するよりも、夥しい量の落花生の殻と呑みきって転がっているビールの缶を強調する。
 映画は台詞と編集によって物語を語る術を持っている。男と女が愛し合う理由を、それぞれの台詞や前後のショットによって人に示し納得させようとする。だが、意識的にか無意識にか判断することができないが、井口奈己は、自らの作品で、映画に備わった物語を語る方法を拒否している。フィックスのワンショットを多用し、ピンマイクが拾う繊細な台詞の抑揚を拒否し、周囲の—世界の—ノイズの中に台詞を解放している。電車がすれ違う音響の中で、缶が転がる騒音の中で、人は台詞の音声を明瞭に受け止めることができない。相互に緊密な関係を欠いた長いショットを連続させることで、人は、ショットの繋がりで理解される物語を追うのを諦めてしまう。今、この場所で、常に映画の持つ途方もない力に引き寄せられはじめているからである。
 人はどこかへ行くためにバスに乗る。映画が普通撮すのは登場人物がバスに乗るまでと、その人がバスを降りる瞬間だ。重要なのは、出発点がどこであり、到着地はどこなのかということだからだ。映画の中で、登場人物が映画館に行くのを撮すとき、それがどんな映画であり、映画館の中で何が起こるのかを示すためだ。だが、井口奈己のフィルムは、バスに乗っている登場人物を長いフィックスのショットが捉え、映画館の待合室の光景がずっと続いている。普通ならカットされるべき瞬間が、彼女のフィルムでは、極めて大きな力を持っている。彼女の登場人物たちは、ほぼ全員、トランジットの状態にある。どこからかやってきて、別の場所へと赴こうとするまでの間、その宙吊り状態。一緒に住む男性の家から、さしたる理由もなく飛び出し、たまたま中国へ留学することになって留守になる家に、かつて同じ男性を争ったことがある同級生と、しばらくの間、住むことになる女性。『犬猫』でも『人のセックスを笑うな』でも、すべての時間は臨時であり、仮初めであり、一時的なものである。だから、『人のセックスを笑うな』の映画館の待合室は、まるでトランジット状態のメタファーかもしれない。そして井口奈己は、そんな状態の登場人物に誠実な眼差しを向けることで、映画に潜んだ大きな力にめぐり合っている。

(梅本洋一:映画評論家。1953年生まれ。1981年パリ第8大学大学院映画演劇研究所博士課程修了。1988年横浜国立大学教育学部助教授。1999年同大学教育人間科学部教授。1991〜2001年カイエ・デュ・シネマ・ジャポン編集代表。著書に、『映画はわれらのもの』(青土社)、『映画をつなぎとめるために』(勁草書房)、『サッシャ・ギトリ』(勁草書房)、『映画旅日記 パリ東京』(青土社)、『建築を読む』(青土社)等がある。)

『犬猫』 女たちのつつましやかな冒険

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

犬猫 35ミリ版
©2004「犬猫」製作委員会

犬猫 8ミリ版
©オンナコドモフィルムズ

 他愛ない会話とクスクス笑い。ふたりで鏡の中をのぞきこんで、スズはヨーコに言う、「似合うじゃん。あげようか?」。白いワンピースは、スズのものからヨーコのものへ—。その姿からは、双子の姉妹のような親密さがあふれ出る。
 『犬猫』における典型的で対照的なふたつのキャラクター—かわいらしく要領のいいスズと、“ブスメガネ”の不器用なヨーコ。物語の定型をなぞるかのように、彼女たちの仲はよくない。しかしささやかな友情の証として白いワンピースが用意されたように、彼女たちの仲は悪くもない。
 女同士の友情にはいつでもほころびがある。しかもそのほころびはいつまでもほころびのままで、決定的な裂け目に至ることはない。映画のテーマが友情や反目であるならば、主人公は男である方がずっと上手く物語のために機能してくれる。女たちは理想的な恋人や貞淑な妻や魔性の女といったお決まりの役割を演じるのが関の山だ。しかし『犬猫』の女たちは、お仕着せのキャラクター像を放棄して、ただ自由気ままに女であることを謳歌する。そしてたぶん男にとっては不可解極まりない女の友情をぬけぬけと演じきってしまうのだ。
 そもそもヨーコとスズの不仲の要因は「いつも同じ男の子を好きになってしまう」からなのだが、こういった彼女たちの「同調」は、予期せず始まった共同生活の中、何度も提示される。共にひとつの布団にくるまり、肩を寄せあい無邪気な着せ替えを楽しんで、ヨーコが街角の花屋で花を買って帰れば、部屋には既にスズの手によって同じ花が飾られている…。こういったささやかな共鳴のエピソードの繰り返しののち、対極と思われたふたつのキャラクターは、決定的な恋の修羅場に至る頃には完全に同化してしまう。ひそかに想いを寄せるバイト仲間の三鷹君をスズに横取りされそうになったヨーコは、あの白いワンピースを身に付けて、夜の街へと飛び出していく。夜の商店街を駆け抜けるヨーコの爆発的な疾走は、抜け目ない復讐ののち、土手の上でのスズの痛ましい疾走に受け継がれることになる。
 『犬猫』の描く世界は狭い。ヨーコとスズの生活は東京郊外のありふれた風景の中で終始するし、留学のため中国へ旅立っていったアベチャンが二度と姿を現すこともない。窓辺を横切る猫の影、雨粒にさらされた蜘蛛の巣—日常の些細な風景をいつでも傍らに引き寄せながら、まるで戯れのように、大胆で滑稽な反復のリズムが『犬猫』には息づいている。プロットの因果律などあずかり知らぬその不条理なリズムこそ、女の友情にはふさわしいのかもしれない。
 復讐のあと、それでもやはり少し後悔して、ヨーコはいじらしい眠りについたスズの代わりに犬の散歩のバイトへと出かける。ここでまたしても反復の律動に従って、ヨーコは十字路で迷子になり犬の散歩中に引きずられて転ぶ、というスズの一連の動作を繰り返す。そして彼女は転がり落ちた枯芝の野の向こう側をふと見やる。その先には平凡なマンションが立ち並ぶだけで何もありはしないのだが、犬を導き歩き出した彼女の動きに合わせ、背後のカメラは堤防の斜面を滑り上る。決して大仰ではない控えめな移動撮影(トラベリング)によって、その親しみ慣れた箱庭の領域は揺るぐ。たったそれだけのささやかな視線の移動が、箱庭の境界線を押し広げ、観客は境界の向こう側の世界の存在と、苦々しい想いを抱きつつもたぶん互いを許しあってしまうであろう女たちの馬鹿馬鹿しい寛容さとを、一気に了解してしまうのだ。
—どんな女の子も魅力的。自分探しなんかしなくていい、そのままでいい—8ミリ版『犬猫』で、井口奈己は女優たちのそれぞれの個性を愛しそのままフィルムに定着させた。友情を語るためには健全とは言い難い女という媒体を選びつつ、そのつつましやかな冒険譚は、女こそ友情を描くにふさわしい、と思わせてしまう可憐さと豪快さとを内に秘めている。

井口奈己 作品紹介

文=木村美佐子(イメージライブラリー・スタッフ)

井口奈己監督

いぐち なみ…1967年東京都生まれ。黒沢清監督や矢口史靖監督らの現場に録音助手として参加した後、初めて自主製作した8ミリ映画『犬猫』でPFFアワード2001の企画賞を受賞。更に日本プロフェッショナル大賞新人賞にも輝く。2004年にはその『犬猫』を35ミリでセルフ・リメイクし、商業用映画デビュー。同年のトリノ国際映画祭にて審査員特別賞、国際批評家連盟賞、最優秀脚本特別賞を受賞。2008年、劇場用映画第2弾の『人のセックスを笑うな』が公開され、ロングランヒットとなる。(公式プロフィールより)

犬猫 8ミリ版
2000年/84分
監督・脚本:井口奈己/撮影・録音:鈴木昭彦/出演:小松留美、塩谷恵子、鈴木卓爾
犬猫 35ミリ版
2004年/94分
監督・脚本:井口奈己/撮影:鈴木昭彦/出演:榎本加奈子、藤田陽子、忍成修吾、小池栄子、西島秀俊

あらすじ/中国へ留学するアベチャンの留守宅を預かることになったヨーコ。しかし幼なじみのスズが、恋人の古田の家を飛び出し転がり込んできた。いつも同じ人を好きになってしまうため、あまり仲がよくないふたりだったが、やむなく一緒に暮らし始める。しかし、ヨーコがひそかに想いを寄せていたバイト仲間の三鷹とスズが仲良くなってしまい…。
解説/構想から撮影終了までに1年半、編集にも1年半が費やされた8ミリ版は、2002年、8ミリ映画ながらも中野武蔵野ホール(2004年に閉館したミニシアター)でレイトショー公開され、高く評価された。
35ミリ版は2004年に制作されたセルフ・リメイク作品。井口監督は『犬猫』の世界観に合わせ、スタンダード・サイズでのフィルム撮影を敢行した。撮影前の準備期間には主演女優たちに骨盤を調整する体操などをさせ、撮影時に力を抜いた演技を引き出した。

人のセックスを笑うな
2007年/137分
監督:井口奈己/脚本:本調有香、井口奈己/撮影:鈴木昭彦/美術:木村威夫
出演:永作博美、松山ケンイチ、蒼井優、忍成修吾、あがた森魚

あらすじ/19歳の美術学校生のみるめは、新任としてやってきた20歳年上の講師ユリと恋に落ちる。みるめに想いを寄せていた同級生のえんちゃんは、ふたりの関係を知りショックを受ける。みるめは自由奔放で魅力的なユリに夢中になるが、実は彼女には夫がいたのだった。
解説/原作は山崎ナオコーラの同名小説。舞台を原作の東京近郊から地方都市へと変更し、年下の男の子を夢中にさせる魅力的なユリのキャラクター設定はそのままに、仕事面ではうまくいかず田舎に埋もれてしまっている30歳代後半女性のリアルな一面を垣間見せた。脚本では神代辰巳監督の遺作で脚本家デビューした本調有香が共同執筆で参加。
画面から人物が切れにくいアメリカン・ビスタという横長のフレームを採用した上、井口監督は役者の演技がよければ基本的にはカット割りをしないため、通常の映画よりもカット数が少ないが、それゆえに恋人たちの幸福で濃密な時間を捉えるのに成功している。

イメージ・コレクション其之四 「動く驚異」

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)