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IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第29号

優しく寄り添う眼差し―ニコラ・フィリベールの作品世界

文=村山匡一郎(映画評論家、武蔵野美術大学非常勤講師、造形研究センター研究員)

 ニコラ・フィリベールという名前がわが国の映画ファンに知られるようになったのは、『音のない世界で』(1992)が公開された1995年以降のことである。今日のようにドキュメンタリー映画が毎週どこかの映画館で公開されるという状況からは程遠かった時代に、フランスのドキュメンタリー映画が一般公開されたことは、配給会社の英断ともいえるが、何よりもニコラ・フィリベールというドキュメンタリー映画作家の優れた才能によるものであった。実際、この『音のない世界で』は、その後のわが国におけるドキュメンタリー映画の人気に貢献した先駆けの1つになった。
 ニコラ・フィリベールの監督デビューは『指導者の声』(1978)であるが、これをテレビ放映するために再構成した『重役たち/テレビジョン』が放映禁止となり、6年ほど映画製作ができなかった。そのため、彼の実質的な映画製作は1980年代半ばから始まっている。その初期の短編作品の多くは個人の肖像を描いたものである。たとえば、『カマンベールの北壁』(1985)『クリストフ』(1985)『たった1人のトリロジー』(1987)は、世界的なアルピニストのクリストフ・プロフィの姿をカメラで追ったものだ。あるいは『行け、ラペビー!』(1988)ではツール・ド・フランスの最年長優勝者である77歳のロジェ・ラペビーの自転車競技にかける情熱が描かれているが、たとえばクロード・ルルーシュが撮った『マイヨ・ジョーヌのために・・・』(1965)と比べてみると、短いモンタージュに軽快な音楽を重ねてリズミカルに構成された後者よりも、はるかにアスリートの個性と情熱が浮き彫りにされているのがわかる。
 そのフィリベールの作品が変わるのは、長編第1作『パリ・ルーヴル美術館の秘密』(1990、1994年に「パリの横顔」展で初めて上映された時の邦題は「ルーブル美術館」)からだろうか。これはルーヴル美術館の新館の開館準備を時間の流れに沿って追った作品であり、開館までの細かい作業をナレーションによる言葉の説明抜きで映像詩のように描いていく。このスタイルは自然史博物館の動物学ギャラリーの改修を追った『動物、動物たち』(1994)でも踏襲されているが、たとえば、アラン・レネが国立図書館を描いた『世界の全ての記憶』(1956)で静かにゆっくりと移動撮影される映像と、それにナレーションによる言葉が重ねられて引き起こされる相乗効果とはまったく異なっている。フランス映画の伝統における言葉の大きな比重(劇映画なら台詞、ドキュメンタリー映画ならインタビューやナレーション)を考えると、フィリベールのスタイルはフランス的な伝統とは異質のように見える。
 このナレーションの点では、フレデリック・ワイズマンのスタイルに似ていなくもない。たとえば、『動物、動物たち』とワイズマンの『動物園』(1993)。ほぼ同じ頃に大西洋を挟んで製作されたこれら2つの作品は、死んだ動物と生きている動物という違いはあるが、博物館と動物園という施設として限定された場を共通の対象にしており、どちらも言葉による説明を排して映像だけで見せている。筆者はフィリベールにもワイズマンにも初来日した時にインタビューしているが、その際に両者にナレーションについて聞いたことがある。フィリベールによれば、ナレーションを入れると教育的になり、ナレーションを排すると対象との関係が変わってくる、と語っている(「月刊イメージフォーラム」1995年7月号)。一方、ワイズマンによれば、ナレーションは観客にどう考えるかを押し付けるから嫌いだ、と語っている(「月刊イメージフォーラム」1993年1月号)。両者ともにナレーションが含む啓蒙的な押し付けを避けていることがわかる。
 こうしたナレーションの排除は、1960年頃に登場してきたダイレクト・シネマの1つの特徴であり、ワイズマンはその系譜につながっている。だが、フィリベールは、ダイレクト・シネマという言葉は知っているが、作品はあまり見たことがない、と筆者に打ち明けている。おそらくそこにはフランスとアメリカのドキュメンタリー映画に対する姿勢の違いがあるのだろう。フランスのダイレクト・シネマに当たるシネマ・ヴェリテは、たとえば、その代表作であるジャン・ルーシュエドガール・モランによる『ある夏の記録』(1961)に見られるように、インタビューを重視しており、言葉の比重が大きかった。フィリベールの作品では、『バケのカムバック』(1988)の冒頭で唯一ナレーションが使われており、また『動物、動物たち』や『ぼくの好きな先生』(2002)などには音楽が入っているのを見ると、フィリベールはかなり柔軟な姿勢で製作しているように思われる。
 ところで、『パリ・ルーヴル美術館の秘密』から変化したものがもう1つある。1980年代の短編時代のフィリベールは、個人の肖像に多くの焦点を当てたが、それが小さな共同体に変わってきたことだ。『パリ・ルーヴル美術館の秘密』も『動物、動物たち』も施設であり、そこで働く人々を含めて描いている。『音のない世界で』では聾学校の先生と生徒を中心にした世界、『すべての些細な事柄』(1996)では精神科診療所の患者たちの世界、『僕たちの舞台』(1998)では演技を学ぶ学生たちの世界、『ぼくの好きな先生』では地方の「1クラス学級」の先生と生徒たちの世界と、小さな共同体を対象にして「ある場」を共有する人々にカメラを向けている。その点でも、警察や軍隊や工場などアメリカの施設を取り上げるワイズマンの世界に似ていなくもないが、ワイズマンの世界が透明感を生み出すスタイルで観客を当の対象世界に立ち会っているかのような臨場感を観客に与えるのに対して、フィリベールの世界は幾人かの登場人物に焦点を当て、いわば彼らを主人公にして観客に大きな物語の枠組みを与えるような印象が強いのが特徴である。
 その理由の1つに、フィリベールの作品では、カメラの姿勢がまるで対象に優しく寄り添うような距離感を感じさせることがある。ワイズマンのカメラもたえず対象に寄り添っているが、その姿勢はあらゆる対象に等距離であり、そこから映像世界の透明感が生まれている。フィリベールは対象となる人物や生物に親近感を持って接し、彼らの周囲にある事物とは違った距離を取っている。それゆえ、同じような施設など限定された場に焦点を絞っていても、人物や生物が浮き上がって観客に迫ってくるといえる。その親近感はフィリベールが世界に対して持つ人間味に由来すると思われるが、それがカメラを向ける優しい視線になるのだろう。実際、フィリベールは人間的に優しく、共感を抱かせる人物である。筆者は2004年に講演のため北京に招待された時、同じく招待されたフィリベールに再会しているが、最初に会った時以上に親近感を抱いた。そうした彼の思いやりのある性格は、撮影対象に向ける視線にも伴っている。
 とはいえ、フィリベールの世界は徐々に変化しているのも確かである。そう思ったのは『かつて、ノルマンディーで』(2007)を見たことによる。フィリベールは30年ほど前、ルネ・アリオがミシェル・フーコー監修の研究書に着想を得て映画化した『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』(1976)の助監督をやったが、彼は再び撮影地を訪れて当時の映画に出演した農民たちと再会する姿を撮って作品にした。ここには、フィリベールによるナレーションが入り、再会した農民たちとの懐かしい思い出があり、ルネ・アリオ作品に出演しながらカットされた父親の姿などがある。いわば自らの映画人生を見つめ直す個人映画であり、これまでのフィリベール作品とは趣きが異なっている。だが、これは、フィリベールの最高傑作であり、やはりフィリベールは大きく変わったといわざるをえない。実際、パリ植物園のオランウータンを撮った最新作『ネネット』(2010)は、檻のなかのネネットの愛称で人気のオランウータンをひたすら撮り続けたものである。対象に対する優しい視線は相変わらずだが、フィリベールの映画的な姿勢には新たな飛躍が加わったように見える。


「マイヨ・ジョーヌのために…」
クロード・ルルーシュ/1965年/20分/Color+B&W
自転車ロードレースの最高峰ツール・ド・フランスの開会から表彰式までをモノクロとカラーの短いカットの繰り返しによって流れるようなスピード感で描いたドキュメンタリー。カメラは選手の視点、観客の視点、報道陣の視点と目まぐるしく変化しながら、レースの様子だけでなく、マッサージを受ける選手達や慌ただしく給水の準備をするスタッフなど、ツール・ド・フランスの様々な側面を捉えている。

世界の全ての記憶
アラン・レネ/1956年/22分/B&W
フランスの刊行物の全てが所蔵されるパリの国立図書館。膨大な量の書物が納められている、迷宮のような館内を厳格な構図とゆったりとした移動撮影によって巡りながら、記憶の集積としての書物がどのように収集・管理・保存されているかを描いている。

動物園
フレデリック・ワイズマン/1993年/130分/Color
アメリカのマイアミにあるメトロポリタン動物園の日常を記録したドキュメンタリー。訪れる家族連れやゾウのショーから、動物達の世話をする飼育係、獣医、寄付金集めのパーティなど、淡々と行われる動物園の運営を通してそのメカニズムを映し出す。

ある夏の記録
ジャン・ルーシュ、エドガール・モラン/1961年/90分/B&W
フランスの文化人類学者であり映画作家のジャン・ルーシュと哲学者・社会学者エドガール・モランが共同監督。2人は「人はカメラの前で誠実に演じることが出来るのか?」という議論を交わし、パリ市内の人々にインタビューを行う。その後、撮影されたフィルムを観てもらい、「撮影したものがどこまで真実なのか?」ということについて議論を試みる。

ニコラ・フィリベール作品紹介


ニコラ・フィリベール Nicolas Philibert
1951年ナンシー生まれ。グルノーブル大学で哲学を学ぶ。ルネ・アリオアラン・タネール、クロード・ゴレッタの撮影に参加、助監督を務める。1978年、大企業の社長達を撮影したテレビ・ドキュメンタリー『指導者の声』で監督デビュー。1990年、『パリ・ルーヴル美術館の秘密』で国際的な名声を得る。その後、数々のドキュメンタリー作品を発表し、いずれも高く評価されている。

<主な作品>
「指導者の声」1978年/100分
カマンベールの北壁」1985年/7分
クリストフ」1985年/28分
たった1人のトリロジー」1987年/53分
行け、ラペビー!」1988年/27分
バケのカムバック」1988年/24分
パリ・ルーヴル美術館の秘密」1990年/85分
音のない世界で」1992年/99分
動物、動物たち」1994年/59分
すべての些細な事柄」1996年/105分
僕たちの舞台」1998年/106分
ぼくの好きな先生」2002年/104分
かつて、ノルマンディーで」2007年/113分
「ネネット」2010年/70分


音のない世界で Le pays des sourds
1992年/99分/カラー

ろう学校で発声練習をする子供達、結婚し新居を探すカップル、色々な乗り物の音を手話でおもしろおかしく説明する先生…パリに住むろう者達のそれぞれの日常生活を断片的に綴りながら、音楽やナレーションといった説明的表現を避け、音のない世界で生きる彼等のあるがままの姿を捉える。主なサウンドといえるのは、手話の動きによる微かな衣擦れの音や風にそよぐ木の葉の音、遠くで聞こえる健聴者達のざわめきだけである。しかし、静寂の筈の映画が賑やかな印象さえ与えるのは、ろう者達のコミュニケーションが手話だけでなく表情や身体を駆使した視覚的に完成された表現であり、健聴者の発話に偏重した会話よりも遥かに豊かな“言葉”に溢れているからだ。ろう者の世界と健聴者の世界の両側から等しい距離で映画に触れることのできる、フィリベールの優しい想いに満ちた作品。


すべての些細な事柄 La moindre des choses
1996年/105分/カラー

河畔の城を病棟にしているラ・ボルド精神科診療所。毎年恒例の上演会を控え、戯曲“オペレッタ”の練習が繰り広げられる中、カメラはラ・ボルドの住人達の些細な日常を掬い上げていく。患者とスタッフとの分け隔てない共同作業を治療のひとつとするラ・ボルドでは、彼らを区別するような医師の白衣は存在しない。その自由で寛容な気質そのままに、映画は誰が患者でどんな病歴なのか明確に提示することなく、上演会に向けての浮き足立つようなざわめき、他愛ない日々の出来事や緑眩い森の風景に等しく慈愛の視線を注いでいく。上演会の幸福な喧噪が過ぎ去った映画の終盤、患者のひとりがカメラに向かって語る、「あんたも今は僕らの仲間だよ」。他者の存在を認め共に生きようとするラ・ボルドの人々の在り方は、対象への敬意に満ちたフィリベールの映画作りの姿勢そのものと重なる。


かつて、ノルマンディーで Retour en Normandie
2007年/113分/カラー

本作は1976年にルネ・アリオが監督した映画『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』を巡るドキュメンタリーである。この作品は1835年にノルマンディーの農村で20歳の青年が母親と妹弟を殺害した事件を分析したミシェル・フーコーの著作に着想を得ており、主要な登場人物は実際にノルマンディーに暮らす人々によって演じられた。このユニークな映画作りから30年。当時助監督としてこの映画に参加したフィリベールは、かつて映画に出演した人々に会うため再びノルマンディーを訪れる。今も同じ村に暮らす人々は当時の思い出を語り、その後の自分の人生を振り返る。フィリベールは映画が結び付けた様々な人生を見つめながら、彼自身も師アリオの手記を手繰り、映画作りの困難と孤独、そして幸福へと思いを馳せる。


ネネット Nénette
2010年/70分/カラー

パリ第5区にある植物園では、40歳になるオランウータン“ネネット”が飼育されている。彼女“ネネット”は、ガラスに隔たれた飼育室で穏やかな瞳を宙に向けたまま、通り過ぎていく何百もの見物客を素知らぬ風に過ごしている。カメラは彼女だけをフレームに捉え、ガラスのこちら側で交わされる人々の会話を実録する。子供達の屈託のない歓声や驚嘆、憐憫、飼育員が語る彼女の生い立ち…。しかしながら映画に人々の姿は一切登場しない。彼らは(観客である我々もまた)、ネネットを見つめ続け、いつしか彼女に自分自身を投影していく。同時に、フィリベール監督はこの作品を視点と表象に関する映画であると語る。フレームの中に他者を捉え空間と時間の中に固定化する、実録・捕獲装置としてのドキュメンタリーのメタファーなのである。

イメージ・コレクション其之七 『フリーメイソン幻燈の図像学 Ⅰ』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)