武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第30号

幻燈の歴史をめぐって

文=草原真知子(早稲田大学教授/メディアアート・キュレーター)

ファンタスマゴリアの上映風景
鎌を持った骸骨(死神)はファンタスマゴリアの定番だった。演じ手が二連(バイユニアル)の幻燈機のシャッターを操作して画像を変化させようとしているところ。

「江戸の花名勝会 六番組 市ヶ谷」(1863)
歌川豊国作だが上部は写し絵師の都鏡が描いている。江戸の地名に関連する歌舞伎の演目を描くこのシリーズで写し絵は5枚に登場し、当時の人気がうかがえる。

揚州周延「幻燈写心競 洋行」
当時の人気錦絵作家により明治22年−23年に刊行された。明治になって再渡来した幻燈が、女性のさまざまな夢を描き出す道具として比喩的に使われている。

富裕層の子供たちのパーティーの幻燈会を描いたPYGMALIONというパリ中心部のデパートの広告カード
19世紀後半にクロモリトグラフィー(多色印刷)が普及し、色鮮やかなポスターや宣伝物が登場した。当時最先端の家庭向けメディアだった幻燈は、デパートやチョコレートなどそれ自体が新しくファッショナブルなサービスや商品の広告に好んで使われた。ファンタスマゴリアが一世を風靡したフランス革命直後の暗い世相とは対極の、1900年のパリ万博の時代の明るく希望に満ちたパリのイメージが投影されている。同時代の「幻燈写心競」と共通点が見えてくるのではないだろうか。

酒飲みの見た世界
中嶋待乳製作による日本の禁酒運動スライドのうちの一枚。中嶋待乳の写真館は有名で、明治政府は鶴淵初蔵と中嶋の2人に幻燈製作を依頼した。日本の禁酒運動はアメリカやイギリスとは異なり国策的な面があった。

 幻燈すなわちラテルナ・マギカを「発明」したのが誰なのかはっきりしたことはわかっていない1。 著書「光と影の大いなる術」によって幻燈を世に知らしめたのはイエズス会の修道士アタナシウス・キルヒャー(1602−80)だが、現在と同じ原理の実用に耐える幻燈を初めて作り、使ったのは17世紀のオランダの有名な科学者クリスティアーン・ホイヘンス(1629−95)であろうと最近の研究では考えられている2。 数学、物理学、天文学の分野で大きな功績を残し、光の波動説を初めて唱えたホイヘンスは、20代の若さで反射望遠鏡を自作して土星の環やオリオン大星雲を発見し、またガリレオ・ガリレイが発見した振り子の等時性を実際に応用した初の実用的な時計を製作したほどで、光学のパイオニアであると同時に機械装置を作る技術にも優れていた。しかしホイヘンスにとって幻燈は余技で、まともな科学的成果と考えていなかったらしく論文も書かず、聞かれれば原理や製法を教えていた。幻燈の仕組みは単純でカメラ・オプスクラを反転させたものとも言える3。 当時のオランダは光学先進国で絵画にもカメラ・オプスクラが使われていたから、ホイヘンス自身は幻燈の発明あるいは改良をそれほど重要と思わなかったかもしれない4
 ホイヘンス家は名門で、父は高名な詩人かつ外交官であり、ホイヘンス家はヨーロッパの文化人たちが集まるサロンだった。中でも交際が深かったデカルトの影響をホイヘンスは強く受けたといわれ、科学の合理性の追求とそれを実現する機械装置への関心は、確かにデカルトを思わせる5。 父の求めでホイヘンスはそれらの客人たちに幻燈を披露していた。ホイヘンスの手になる幻燈の下図9点がライデン大学図書館に残っている。骸骨がいろいろなポーズを取り、手に持つ頭骨や腕の動きがコマ割りのように描かれ、4点は丸枠で囲まれている6。 骸骨のモチーフは中世末期からヨーロッパに広まった「死の舞踏」で、14世紀にヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)と百年戦争による死の恐怖から生まれたと言われ、16世紀のハンス・ホルバインによる木版画のシリーズは有名だ。おそらくホイヘンスの骸骨もぎこちなく踊ったはずで、ただでさえおどろおどろしい骸骨踊りが幻のように現れて動くのだからさぞや衝撃的で評判を呼んだことだろう。ホイヘンスが幻燈について何も出版しなかったのは、そこで映し出されるものが科学の合理性とは程遠かったからかもしれない。
 幻燈の起源にまつわるこれらの事柄は幻燈の文化的な位相を象徴している。ラテルナ・マギカ(マジック・ランタン)すなわち魔法のランプを意味するオランダ語の「トーフル・ランタレン」を江戸時代の蘭学者大槻玄沢は「妖燈」と訳した。妖しい幻を見せる娯楽装置であると同時に科学の装置であり、この2つの要素は重なり合ってもいた。幻燈は科学と宗教と魔術(マギカ)、知識階級と大衆、啓蒙と娯楽という一見相容れない要素の接点に生まれたメディアであり、欧米においても江戸後期以降の日本でも、それらの要素がせめぎ合いながら映像の歴史を形成していった。

 17世紀中頃には幻燈を改良する試みが各地でなされ、17世紀末には幻燈に関する知識はヨーロッパ各地に広まっていたようだ。18世紀後半に編纂されたフランス啓蒙思想の集大成である「百科全書」には光学装置の項に幻燈の図版が構造と光学系の図とともに記載されている。幻燈は民衆の娯楽として広まり、数多くの旅芸人がブリキ製の幻燈機と木箱に入れたスライドを背負い、人寄せに使うタンバリンなどの楽器を携えて、町や村の祭りなどを興行して回った。幻影装置としての幻燈はメタファーとしても使われ、政治風刺画にも登場する。一方、フランス革命が漸く収束しかけた1789年、ベルギー出身のガスパール・ロベールソン7 は廃墟となったパリの修道院を舞台に骸骨や天使、さらには革命で命を落としたマーラーなど著名人の亡霊を音響付きで登場させる「ファンタスマゴリア」で観客を震え上がらせた。映写幕の背後から映像を映す背面投影(リアプロジェクション)で観客には仕掛けが見えない。映写幕の裏側で車輪付きの大型幻燈機を遠ざければ像は大きくなり、骸骨や亡霊が観客に迫ってくるように見える。スライドを左右でなく上下に動かせば魂が昇天し、天使が舞い降りる。スライドと幻燈機の両方に仕掛けがあり、ディゾルヴなど多様な表現ができる。魔術としての幻燈であり、ロベールソンは秘密主義に徹したがノウハウが漏れて類似のショーが広がった8
 日本で江戸後期から明治時代にかけて人気を集めた「写し絵」もファンタスマゴリアの系譜に属する。ここで写し絵について詳しく述べる余裕がないが、オランダから渡来した幻燈が江戸で見世物になった際、上絵師(和服の絵柄のデザイナー)で落語などの演芸を趣味としていた亀屋都楽が思いついた。歌舞伎や文楽でお馴染みの演目を俳優や人形でなく映像で演じるもので、語りと音曲は伝統的な形式を踏襲している9。 ファンタスマゴリア同様、背面投影で仕掛けを見せない秘伝の芸で、その技は当時の流行歌である小唄にも歌われた。
 写し絵の大きな特徴は、木製の軽い幻燈機(風呂と呼ばれた)を数台用いて複数の映像で一つのシーンを構成することにある。大道具に相当する背景は据え置きの幻燈機で映し、演じ手は腕に抱えた幻燈機で人物を動かす。登場人物の動作や表情を変化させるだけでなく、幻燈機自体を動かすことで映像は画面上を自在に動き回る。マホガニーや真鍮や鉄でできた欧米の幻燈機は重く、金属部分は熱くなり、手で持つことは不可能だ。一枚のスライドに描かれた絵をスクリーン一杯に映し出し、一人で操作するための機械仕掛けと強力な専用光源装置が西欧で発達し、それが映画の発明の重要な要素ともなった10。 それに対して写し絵の、小さなガラス絵と弱い光源を複数台組み合わせて映写機ごと動かすという発想は、板ガラスや薄い鉄板(ブリキ)や金属製ギアを作る技術が存在しなかった当時の日本の状況ゆえであるが、小型軽量化やモバイル性、チームワークの重視といった傾向は現代の日本にも通じていないだろうか。幻燈と写し絵の比較は、基本的には同一の技術が文化的・社会的背景によって異なった展開を見せる例としても興味深い。

 科学や啓蒙のための装置としての幻燈は欧米の大学で教育に使われ、ロンドンやパリやニューヨークなどの専門メーカーが製作した大型幻燈機と医学、動植物学、地質学、天文学などの科学教材のスライドセットが国際的に流通した。また聖書や禁酒運動キャンペーンのスライドは教会などで広く使われ、家庭ではグリム童話などのスライドが普及した。
 明治政府は幻燈を輸入し、買い集めた欧米の科学教材スライドセットを複製して師範学校に配布し、教育的で啓蒙的なメディアとしての幻燈を利用した。衛生教育、修身教育など、健康で国家に尽くす国民を育てるために幻燈は活用され、日清戦争ではパノラマ館と並んで最も刺激的な視覚メディアだった。一方、庶民の間では幻燈は「西洋写し絵」であるという理解が進み、旧弊な写し絵とは一線を画していたはずの幻燈は、写し絵の定番だった幽霊なども取り込んだ大衆娯楽に再帰する。日露戦争の時期に一挙に広まった家庭用の小型幻燈は、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる子供たち自身による幻燈会のように、日常生活の中に映像を浸透させる役割を果たした。
 幻燈は数百年にわたって世界各地で映像文化を育み、映画の誕生後も幻燈は共存した11。 教室や講演会場、あるいは作品上映やパフォーマンスに今日普通に使われる液晶プロジェクターも原理は幻燈と同じで、ガラス板に描かれた絵のかわりに、文字や画像が時々刻々と表示される透明な液晶パネルを透過光で映し出している。


1 幻燈以前に反射板や凸レンズで集光性を高めたランプが用いられ、その側面や正面に細かい穴で図形を描いた金属板などをあてがって光で図柄を映し出す例もある。

2 「光と影の大いなる術」第二版(1671)の図版はスライドがレンズの前に設置されていて原理上は影絵に近い。この執筆時点ではキルヒャーは幻燈の実物を見てはいなかったと思われる。

3 カメラ・オプスクラは外界からの光のパターンをレンズで集めて箱あるいは部屋の中の壁に映し出す(像は倒立する)。幻燈は箱の内部の光源によってガラスに描かれた絵(倒立)を外部の壁面に映写する。つまり幻燈とカメラ・オプスクラは入力と出力が逆転している。

4 絵の光学的正確さからカメラ・オプスクラを使用したのではないかと言われているヨハネス・フェルメール(1632−1675)、レンズを用いた錯視によって箱の中に室内風景を再現するperspective box(遠近法の箱)を制作した画家サミュエル・ファン・ホーフストラーテン(Samuel van Hoogstraten, 1627−1678) など、ホイヘンスの同時代人は光学を絵画に駆使していた。

5 デカルトは空間や事物が客観的に計測可能であることの証明として座標系を考案。デカルトが考えたXY軸にその後Z軸が付加されたが、今もCartesian coordinate system (デカルト座標系)と呼ばれる。またデカルトは身体機能を機械として捉える人間機械論の立場に立った。

6 当時の幻燈のスライドは一枚の長い木の板にいくつもの丸いガラス絵を嵌め込むか、長いガラス板にあるいは複数の、あるいは連続した絵を描いたもので、板を横に移動(スライド)させることでコマを変化させる。

7 本名はガスパール・ロベールだが英語風に「ロバートの息子」を意味するRobertsonを名乗ったのでロバートソンとも表記される。ロベールソンはフランス語読み。

8 現存する巨大な車輪付きのファンタスマゴリア装置二つのうち一つは幻燈機2台を並べたタイプで、両方のレンズの筒先を連結して金属のシャッターが取り付けられ、レバーを動かすことで1台の映像を消しつつもう1台から映像を出せる。このようなシャッターとスライドの絵自体を変化させる仕掛けとの組み合わせで、多種多様な効果を生み出すことが可能だった。

9 関西では錦影絵と呼ばれ、風景や物語を一枚の横長のガラスに描く長絵と呼ばれるスライドが多く作られた。これについては松本夏樹が最新の研究成果を報告している。

10 但しスライドを順に手渡し、あるいは箱に戻すための助手がつくことが多い。

11 幻燈の歴史については岩本憲児「幻燈の世紀」(森話社、2002)が詳しい。幻燈について最も詳細な資料はEncyclopaedia of The Magic Lantern (The Magic Lantern Society, 2001)にまとめられている。



|筆者紹介|
草原真知子/メディアアート・デジタルメディア論・メディア文化史研究。 早稲田大学文化構想学部表象メディア論系教授、UCLA客員教授、工学博士(東京大学)。
80年代前半からメディアアートの展示企画、評論を行う。東京都写真美術館、NTT/ICCの設立などに携わり、アルス・エレクトロニカ、文化庁メディア芸術祭など国内外の公募展の審査委員をつとめる。デジタル時代のメディア技術と芸術・文化・社会の関係を分析し、近年は「デバイスアート」について多くの論文を発表。写し絵、幻燈、パノラマなど初期の映像メディアも同様の視点から研究する。論文のほとんどは英語であるが、以下に収録されている。
Media Archaeology (University of California Press,2011)/The Panorama in the Old World and the New (International Panorama Council,2010)/「戦争のある暮らし」(水声社、2008)/Digital by Design(Thames and Hudson,2008)/Place Studies (Weimar,2008)/MediaArtHistories(MIT Press,2006)/ほか。
(「Utsushi-e 写し絵 江戸から明治の最先端映像エンターテイメント」 http://www.f.waseda.jp/kusahara/Utsushi-e_j/TOP.htmlより)

イメージ・コレクション其之八 『フリーメイソン幻燈の図像学 Ⅱ』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)