武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー

IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第31号

消えていく「暗い東京」を記録する

文=松江哲明(『トーキョードリフター』監督)

 「被災地に行って撮影をして下さい」とメールが届いた。
 理由は僕がドキュメンタリー監督だから。震災から2週間ほど経った頃だったと思う。相手は以前に名刺を交換し、数回メールをした人からだ。そんなに親しい方ではない。でもこの時期に僕にメールを送るということは彼女なりに切実な想いがあったのだと思う。
 でも僕はそのメールを無視した。
 返信をしたら彼女にとってキツい言葉になると思ったからだ。僕は絶対に「被災地」で撮影をしたくなかった。僕は現場に行ったら必ず気分が高揚したに違いない。絵になりそうな風景を探し、カメラを回すだろう。瓦礫の上に乗るのは間違いない。その下に遺体があったとしても、だ。それにテレビを見ればどれほど多くのカメラが現地に向かっているか想像がつく。僕の知ってるドキュメンタリー監督たちも向かっていると聞いていた。確かに放送される情報はどれも似たものが多かったが、これでもカメラは多過ぎるのではないか、と思った。
 インタビューや原稿の依頼もあった。「震災後の今、表現者としてどう考えているか」というような内容だった。それらは全て断った。僕は自作を解説するだけでなく、映画の批評も書いている。きっと他の映画監督よりも文章を発表する機会は多いと思う。でもあの時期に想いを書くことが嫌だった。どんな言葉もすぐに消費されるのは間違いないと思っていた。
 震災を撮ることも、語ることも僕は否定しない。一方で撮ることや語ることを強制されたくない。人生で経験したことのないような災害に見舞われたとしてもだ。映画は作り手の思想を恐ろしいほどに映してしまう。撮影時の心情が映像に残ってしまうドキュメンタリーは特にそうだ。カメラを回すことは恐い。そう思うからこそ簡単に回せない。
 それは逃げだ、とも言われた。確かにそうかもしれない。反論も出来なかった。でも、この動けない理由が、正直な気持ちなのだ。そこをしっかり考えたかった。
 2011年3月11日は韓国のソウルにいた。ハングル混じりで知る日本の状況はどこか遠い出来事だった。日本にいる友人や知人と連絡をとり、帰国の予定を延ばした。その頃は「もうこれまでとは同じ生活をすることは難しいだろうな」と思っていた。帰国した時、東京は暗かった。水道水の放射線量が高いので注意をするように、というニュースが流れていた日だったと思う。買いだめをする光景にも出くわした。あの瞬間、自分が大きな流れに取り残されているような気持ちになったのを覚えている。でも、それで構わない。むしろこういう状況に違和感を感じれて良かった。
 あの暗い東京は綺麗だった。新宿の街でさえ20時にもなると真っ暗で、静かだった。ミュージシャンの前野健太さんは「きっと皆早くに帰ってセックスをしてますよ」と言っていた。僕もそう思った。
 しかし、社会の流れは違った。灯りは予想以上に早く点き始めたのだ。僕はあの暗さをなかったことにしたくなかった。その時、カメラで残しておきたいと思った。記録の強みは「現在」を残せることだ。この暗さは将来、見ることが出来ないだろう。きっと「今」は未来にとって大切なものになる、そう確信した。何よりこの東京を映像に残している人は、僕が知る限り誰もいなかった。被災地に行く人はたくさんいたが、東京を撮る人はいない。僕は34年間過ごしたこの都市がこんなに暗いのを初めて見た。ここも311後の風景だと思った。
 「被災地」で撮影をすることは拒否した僕だが、東京は撮りたいと思った。この機会を逃したら二度と撮れない。僕はソウルにいた時から何度も連絡をとっていた前野さんに「暗い東京で遊びませんか」と声を掛けた。もちろんすぐに快諾という訳にはいかなかった。あの頃は何を表現するにしても理由や覚悟を問われる時期だった。何度も話し合って、やっと「やろう」と決められた。
 「自作で一番好きな作品は何ですか」と聞かれると、僕は『トーキョードリフター』と答える。すると間違いなく「え?」と驚かれる。続けて「意外ですね」と続く。相手は『童貞。をプロデュース』や『ライブテープ』、または『フラッシュバックメモリーズ』という答えを期待していたのだろうが、その気持ちも分からなくはない。なぜなら『トーキョードリフター』は最も観客動員が悪かった作品だからだ。しかし僕はあのタイミングで前野さんやスタッフたちと映画が撮れたことが嬉しかったし、何より自信になった。ハンディカムとマイクと最小限の人数で「これからも生きていく」ということが形に出来たと思う。僕にとってあの一夜が大きな分岐点だったことは間違いない。
 誰に何と言われようとも僕はあの頃の東京が好きだった。二度と見れないからこそ、余計に愛おしい。


|筆者紹介|
松江哲明(まつえ・てつあき)/ドキュメンタリー監督。1977年、東京都生まれ。1999年、日本映画学校(現・日本映画大学)の卒業制作として監督した『あんにょんキムチ』が山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波特別賞、NETPAC特別賞、平成12年度文化庁優秀映画賞などを受賞。その後、『カレーライスの女たち』『童貞。をプロデュース』など刺激的な作品をコンスタントに発表。『あんにょん由美香』、『ライブテープ』、『フラッシュバックメモリーズ 3D』で数々の賞を受賞し、国内外で高い評価を得ている。

311のドキュメンタリストたち

文=安岡卓治(『311』監督)

 2011年3月、作家で映画監督の森達也、ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹と私の4人は、震災から2週間後に岩手、宮城、福島を6日間で走り抜け、映画『311』を制作した。4人は同じ現場を歩きながらそれぞれ違った思いを抱いていた。そのことは、その後のひとりひとりの活動に濃厚に反映されているように思う。
 松林は、福島県南相馬市を舞台に、原発事故の放射能汚染によって自らの家に帰ることを阻まれた人々を描いた映画『相馬看花』を単独で作り上げた。この作品は3部作の第1部だと松林は言う。南相馬の馬たちを追い続けた第2部『祭の馬』はドバイ国際映画祭で受賞し海外でも高い評価を受けた。松林作品の特徴は、ナレーションで語りかけるでもなく、また、映像に映り込むこともないにもかかわらず本人の存在感が濃厚であることだ。取材対象者にキャメラを向けながら語りかける松林の声、そして、それに応じる対象者のことばも松林に向けられる。インタビューではなく「対話」。相手と呼応する松林の人柄が映像の行間ににじむ。「主観」というキーワードが思い浮かぶ。自らの視点を軸に作品をつむぎ上げる。明らかに「私は」という主語が存在する映画だ。松林は311後着実に自らの作風を重ねている。
 綿井は、ライフワークのひとつであるイラク戦争の再取材に取り組んだ。
 2014年10月公開の『イラク チグリスに浮かぶ平和』。綿井自身の眼で見続けてきたイラク戦争の10年をドキュメンタリー映画として結実させたのだった。その志は、2003年、バグダッド陥落の翌日、傷ついた多くの市民が収容されるサウラ病院で、ひとりの父親と出会ったことから育まれていった。綿井と同い年のアリ・サクバンはこのとき米軍の爆撃で3人の子供を一度に失う。彼と綿井の交流はその後も続いたのだが、2008年にアリ自身も銃弾に倒れる。戦争に傷つき家族を失った人々の思いがつづられたこの映画は、綿井の「伝えようとする情熱」の産物だと思う。2005年公開の『リトルバーズ イラク 戦火の家族たち』以来、映画という方法を離れて光市母子殺害事件などを追いながら論稿によるジャーナリストとしての活動を続けてきた綿井が、震災を機に自らの映像的な視座をとりもどしたのだと私は思う。
 私も、311以降、タイトな作品づくりの日々を過ごすことになる。
 『311』を上映した2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、ひとりの青年から声をかけられた。「自分も南三陸で撮っているのですが、相談に乗ってもらえますか?」
 我妻和樹は東北学院大学で民俗学を学び、震災の前から民俗学研究のために南三陸で撮影を始めていた。震災の当日も南三陸に向かう車中にいた。彼自身は避難できたものの、撮影機材と記録映像を載せた彼の車は津波に飲まれたという。彼が取材していた集落・波伝谷も壊滅的な被害を受ける。記録された映像のほとんどの時間は、震災前の三陸の集落の人々の暮らしと長い歴史の中で積み上げられてきた文化、そしてそれを記録する我妻自身を描くことに費やされていた。集落の共同体がどのように営まれているか、その営みが歴史的にどのように変化してきたか。漁業や農業のディティールや四季折々の祭事などを丹念に記録したものだった。
 映画にしたい。山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映したい。そんな我妻の思いに誘われて南三陸を訪れる。編集は、震災によって休業中の民宿の一室を借りて進められていた。三陸の海に面した高台にあるその民宿の敷地は、軒先数メートルのところまで震災による土砂の崩落で削り取られていた。「次の地震が来たら、ここも崩落してますかねぇ」と笑みをもらす我妻に震災の惨禍を体験した者の覚悟のようなものを感じた。私は編集の助言者にしかすぎなかった。「ひとりでなんとか仕上げたいのです」と歯を食いしばる我妻の表情に、彼の背負ったものの大きさを感じた。南三陸町の海岸線を覆っていた瓦礫もやがて小さな山のようにまとめられ、そして撤去される。荒涼とした空き地が残された。その殺伐とした光景の移ろいを見ながら、我妻が記録した震災前の映像に刻まれた人々の営みの意味の深さを思う。
 今は何もない、生活の痕跡を一切ぬぐい尽くし、この地で連綿と積み重ねられた人々の歴史さえ感じることのできない荒野に千年前と同じ潮風が吹く。地球の歴史からみれば一瞬にも満たないわずかな時間に起こった自然の営みが人間の痕跡を消し去る。自然とは何か、命とは何か、人間とは何か、この映画はそれを考えさせてくれる。134分に仕上がった作品『波伝谷に生きる人びと』は、ぴあフィルムフェスティバルで「日本映画ペンクラブ賞」を受賞する。
 2012年の夏、私はふたりのジャーナリストからドキュメンタリー映画の編集を託された。
 豊田直巳と野田雅也は、これまで私がドキュメンタリーづくりを共にした綿井健陽や古居みずえ、広河隆一らと同じ「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」【略称 JVJA】のメンバーでもあり、顔を合わせることも度々あった。震災発生直後、JVJAのメンバーは共同取材体制をとり、翌日には被災地に入り取材を開始する。原発事故後は、福島に入り放射性物質の被害を記録し始めた。豊田と野田は飯舘村の酪農家に焦点を絞り、2013年の5月までに250時間にも及ぶ映像を記録した。この映像から全5章3時間45分の超長編ドキュメンタリー映画『遺言 原発さえなければ』が生まれ、2014年の3月に公開された。福島県飯舘村の酪農家たちを主人公にしたこの作品は、原発事故の被害で自殺した菅野重清さんの遺言を終章にしながら、原発がもたらす、いや原発そのものの脅威を描いている。その長尺ゆえ映画館での公開は不可能になるのではないかと懸念したが、幸いなことに、ポレポレ東中野で1日1回1週間のロードショウが決まった。長さは通常の劇場公開映画の2本分に相当するのだから、その劇場で上映される他のプログラムを圧迫する。ただでさえ、震災関連、とりわけ原発関連の映画の観客動員は芳しいとは言えない。そんな状況で1週間の連続上映を決断した劇場の志には敬服するしかない。独立系の単館ミニシアターは、その映画の作品性、社会への問題提起に果たす役割などを評価し、商業性だけでプログラムを決めることは無いのだ。
 劇場公開初日、まるで奇跡のようだった。劇場を溢れた観客は、急遽特設上映会場として設定された上階のカフェをも埋め尽くした。満席のため鑑賞を断念した観客もいる。1週間の上映期間は連日同じ状況が続き、追加ロードショウが決定した。
 長年、劇場公開用の長編ドキュメンタリー映画を作り続けてきたが、こんな体験は初めてだった。劇場公開で広告宣伝費を回収し、映画館の運営に支障をきたさない数の観客動員を果たし、地方上映やホール上映、各地の団体の自主上映や学習会などへのレンタルで制作費を回収することが、ドキュメンタリー映画の基本的な運営モデルだ。
 そのモデルを超越し作品は動き始めた。
 「なぜだろう?」と思う。
 間違いなく、観客こそがこの映画を求めてくれていたのだと思った。
 国を壊滅に追い込むほどの甚大な被害をもたらす深刻な事故を起こしながら、原発推進の方針を捨てない行政に深い不信を抱く人々がほとんどなのだ。だが、稼働が停止している原発立地の自治体で避難計画が策定されようとしていることなど、信じられない愚挙が続いている。一旦事故が起これば、その自治体は壊滅的な打撃を受ける。その現実を福島で経験しながら、5年も経たないうちに新たな「安全神話」が再構築されようとしている。
 その背景となる構図がより鮮明になったのは、まだ公開されていないが私が編集の作業設計を務めた小西晴子監督の『赤浜ロックンロール』の映像素材だった。
 三陸沿岸を囲む「巨大防潮堤」を推進する国土交通省は、岩手県大槌町赤浜の住民たちの強い反発にあう。この小さな港町で海と共に生きてきた人々は、10数メートルもの防潮堤によって海から隔てられる暮らしを受け入れることはできない。町は住民の主張に理解を示すが、国交省をはじめ全国各地から「応援」として派遣された行政マンたちはそれを覆そうとする。防潮堤案を一旦取り下げながら、沿岸道路のかさ上げを提案する。構造物の高さは変わらない。
 4階建てのビルの高さにかさ上げされた道路を想像してみて欲しい。巨大公共工事の大前提は貫かれるのだ。様々な形で金が動き人々の心を揺さぶる。
 政権がどのように代わっても実務を支える行政の構造は、おそらく明治以降変わっていないのかもしれない。巨大国策企業を優遇し民衆を虐げる。行政官は退職後、その働きによって巨大企業に再雇用されてゆく。解りやすい構図だ。もちろん行政官の全てではないが、民衆を愚弄する高級官僚の書き込みが相次いでネット上に露呈したのはご承知の通りだ。マスコミも行政の構造にからめとられつつある。こんな状況に懸念を抱く人々は少なくない。
 だからこそ、他者の資本に依存せずインディペンデントの魂を持った作り手が、自らが現認した事実を映像記録によって積み上げ、問題提起を続ける営みが大切なのだと思う。


|筆者紹介|
安岡卓治(やすおか・たかはる)/映画プロデューサー、日本映画大学教授。1954年、東京都生まれ。原一男監督『ゆきゆきて、神軍』の助監督を経て、園子温らのインディーズ映画を数多くプロデュース。製作・撮影・編集を務めた森達也監督の『A』はベルリン国際映画祭正式招待、『A2』は山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を同時受賞した。松林要樹監督の『花と兵隊』、豊田直巳監督の『遺言 原発さえなければ』など、数々のドキュメンタリー作品に編集やプロデューサーとして携わっている。

3・11とドキュメンタリー表現の拡張

文=金子遊(映像作家、慶應義塾大学非常勤講師)

 東日本大震災にあってから、4年が経とうとしている。地震と大津波によって大勢の犠牲者をだした自然災害としての3・11と、人災という側面をもつ福島第一原発事故の3・12は、区別して考えられるべきであろう。どちらにしても、震災によって生じたさまざまなできごとを記録した「震災ドキュメンタリー」を日本のドキュメンタリー映画史に位置づけようとするとき、それがいかに途方もないことであるか改めて驚いてしまう。テレビ番組を抜いたとしても、この4年のあいだに劇場、映画祭、自主上映などで上映された作品は膨大な数になるからだ。多種多様な人が震災ドキュメンタリーをつくり続けているのは、3・11が社会に与えたインパクトの大きさを物語るが、もっといえば、震災を契機にしてドキュメンタリー表現の世界は活況を呈している。震災を撮る行為は映像表現の質を向上し、表現形式の幅を広げることに役立っているといえるのだ。それはどういうことか?

 3・11が起きたとき、ニュースや動画で被災地の映像を見たつくり手は、現場を自分の目で確かめたいという欲動をおさえられなくなった。しかもその場所は、首都圏から車で数時間で行ける場所にあった。第一波として現地入りした『無常素描』(2011)の大宮浩一や『大津波のあとに』(2011)の森元修一らの作品では、甚大すぎる津波被害を前にして圧倒された撮影者が、ひたすら横移動のビデオカメラで瓦礫を撮るショットが見られる。その後も、同じような映像は被災地に入ったカメラによって反復されることになった。
 『311』(2011)も第一波の作品群に属するが、他の作品とは異なるさまざまな仕かけを凝らしている。第一に森達也、安岡卓治、綿井健陽、松林要樹という、ひとりでもドキュメタリー作家として通用する4人がそれぞれビデオカメラを回し、撮った映像を編集するという趣向があげられる。ここには同じ被災地の現場を撮っても、複数の視点が交錯するおもしろさがある。複数の撮影者がいるという状況は、東京から福島第一原発を目ざしたが近づくことができず、東北の津波被害にあった沿岸部へむかった道程において、「震災を撮ろうとしている自分たちの姿にカメラをむける」という表現へつながっていった。
 ふつうの神経の持ち主であれば、取材で被災地へ入るときに「他人の不幸をネタにして申しわけない」という殊勝な気持ちになるものだ。ところが『311』のつくり手は、未曾有の震災に興奮する自分たちの姿をあえて見せ、撮影行為が物見遊山的にでかけることとほとんど等価であるという本質をあらわにする。『311』は「被災地へ行ってドキュメンタリーを撮ること」自体を撮ったのであり、カメラを他人の不幸へむけることや、メディアが被災地を報道することについての再考をうながす批評的な作品なのだ。
 『311』には、搬送中の遺体にビデオカメラをむける森達也が、遺族から「どうしてカメラをむけるんだ」と憤慨されるシーンが入れてある。震災後のメディア報道において犠牲者の遺体は、カメラアングルやフレーミングや編集によって、映像や写真から排除されるものだった。遺体は自主規制の対象だったのであり、このシーンは遺体を撮影することができない状況を見せることで、そのタブーの存在を指し示すアレゴリカルな表現となっている。釜石市の遺体安置所を舞台に西田敏行が扮する「おくりびと」を描いた劇映画『遺体 明日への十日間』(2013)は、特殊メイクを駆使してリアルな遺体を表現しようとしたが、その直接性と『311』における寓意的な表現のあり方は好対照をなしているといえる。

 とても映像であらわすことができないようなできごとを、別のもので示そうとするとき、それは換喩(メニトミー)や隠喩(メタファー)の表現のかたちを取りやすい。『松本俊夫の蟷螂の斧』(2011−2012)は、大木裕之、タノタイガ、小沢剛、狩野志歩といった作家が撮影した映像を、松本俊夫が編集して構成したコラボレーション・ビデオである。第2部「万象無常」において、松本俊夫は「悪夢のような大災害」を映像で表現するために、被災地の水たまりに異常繁殖したハエや蛆のイメージを強迫的にくり返し、「死と生がせめぎ合うその根源的な光景」を表現した。80歳になる大家は被災地に足を踏み入れることなく、編集室から一歩もでずに換喩的に3・11を表現することに成功している。
 どんな表現者であっても「他人と同じことをしていてはダメだ」と思うだろう。特に震災ドキュメンタリーのように、多くの人が同じ題材で作品を撮っているときは、他人とちがう切り口を提出せねばならず、そのプレッシャーは創造力を育む。松江哲明の『トーキョードリフター』(2011)は、3・11を何か別のものに仮託した隠喩的な表現であり、形式的な実験が前にでたコンセプチュアルな作品である。みんなが被災地へ行くのなら、自分は被災地へ行かずに震災ドキュメンタリーを撮ってみせるという自負心があったのか、「東京も被災地である」という観点で撮った音楽ドキュメンタリーとなっている。
 福島第一原発事故から2ヶ月半がすぎた5月の終わり、計画停電や節電によってネオンサインや街灯の多くが消え、東京の夜はかつてないほど暗かった。雨のなかをバイクで移動しながら、ミュージシャンの前野健太が新宿、渋谷、中野などの街角で単独ライブを行なっていく。淡々と歌う前野のライブを狂言まわしにして、映画は、停電や節電で暗かった東京の風景と、あの頃のアンビエンス(環境、空気感)を立ちあげる。また、都会に降る雨にぬれる前野の姿は、不可視の存在である放射線や放射性物質の脅威を暗示し、東京で低線量の被爆を受ける人たちの姿のメタファーになっているのだ。
 
 これまで見てきたように、3・11の震災はたった1本の映画、たったひとりのドキュメンタリー作家では表現しきれない「表象できない何か」である。だからこそ、意識的なつくり手たちは、それを映像で表現するためにいろいろと手法を編みださなくてはならなかった。ぼくたちをうならせるような緊張感のあるドキュメンタリー作品の裏側には、大抵つくり手による何らかの創造的な発明があるものだ。『なみのおと』(2012)からはじまって、東北記録映画三部作を撮った濱口竜介と酒井耕の作品もその例外ではない。
 震災から1ヶ月後に、仙台市で「3がつ11にちをわすれないためにセンター」という、震災と復興の記録をするプロジェクトがはじまった。濱口はそれに参加するため仙台滞在をはじめたが、しばらくは何をどう撮っていいかわからなかったという。ところが、ひとりの市会議員がまわりの人に津波にあった体験を話しているのを聞いたとき、はじめて震災に実感として触れることができた。「もちろん被災地の様子をたくさん見ていましたが、結局『何かが起きてしまった後に自分がいる』ということは分かっても、一体どういうことが起きてしまったのかは掴めないという感じがありました。でもその話を聞いているときは、『その場で何かが起きている』という気がすごくしたんです。もしかしたらここにカメラを向けて映画を撮ることができるかもしれないと考えて、被災者の語りを撮ろうと決めました」とインタビューで濱口竜介は応えている(「STUDIO VOICE」2013.11.12 インタビュー・文=小林栄治)。
 『なみのおと』には、迫りくる津波の映像も、津波で破壊しつくされた廃墟の光景もでてこない。映画を構成する映像要素はといえば、宮城県の湾岸沿いを移動するつくり手たちの姿と、それにオーバーラップされる地図の画像。震災後に撮影された何でもない風景のショットと、地震と津波の体験を語る人たちのインタビュー映像だけである。これだけで興趣をそそる作品に仕立てているのだ。どのようなマジックを働かせたのか?
 『なみのおと』では、単なる被災者の体験の聞きとりインタビューではなく、ふたり以上の被災者が語り合うダイアローグとなっている。そして驚くことに、話している人を切り返しのショットで正面から撮っているのだ。通常であれば、Aさんを正面から撮り、それと話すBさんの正面のショットに切り返したら、Aさんを撮っていたビデオカメラが映りこんでしまう。それでは、切り返すときに実際には間があって、ビデオカメラを取りのぞいたというのか。だが、ふたりの対話は流れるように進んでおり、そのような気配はない。一体どのように撮ったのか。正解は、AさんとBさんがむき合う椅子を横に少しずらし、それぞれの正面につくり手たちがビデオカメラを構えていたというのだ。
 つまり、対話をする人たちはビデオカメラの正面に座り、斜めむかいに相手を見ながら話していたのである。これは単に、ドキュメンタリーにおいて切り返しショットを可能にするための技術的な発明ではない。インタビュー形式を使わずに、震災から一段落した時期に、姉妹、夫婦、地元の仲間、友だちといった親しい人たち同士が相対して、3・11の体験について対話型で語る場をつくりだしている。しかも対話相手が親しい人であり、カメラを意識してもいるので、演劇性が加味された魅力的な時間が記録されている。スペクタクル性のある映像もインサートショットも使われないのに、被災者の臨場感あふれる語りによって、ぼくたちは目眩や興奮へと誘われることすらあるのだ。

 ここに例示できたのは、ほんの一部である。震災から1ヶ月後のドキュメンタリーの表現方法があれば、1年後のそれがあり、10年後のそれがある。数多くの震災ドキュメンタリーがつくられ、多彩な表現を織りなし、これからもつくられていくだろう。歴史上、東北の湾岸をおそった数々の地震や津波と、今度の3・11のちがいは、ぼくたちの手のなかに、すぐに撮影することができるビデオカメラがあるということだ。震災をめぐる映像の表現は、まだはじまったばかりである。先端的なドキュメンタリー表現の宝庫である「震災ドキュメンタリー」を見て、さまざまな映像表現の可能性に触れながら、あの日のできごとをもう一度考えてみてはいかがだろうか。


|筆者紹介|
金子遊(かねこ・ゆう)/映像作家、批評家。1974年、埼玉県生まれ。ドキュメンタリーマガジンneoneo編集委員。劇場公開作に『ベオグラード1999』『ムネオイズム』。近刊に共編著『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』など。

イメージ・コレクション其之九 『映像に遺された満州』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)