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IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第32号

特集 「ハリウッド」を知るためのフィルム・ガイド


 現実の事件や災害などを前にして、繰り返し囁かれる「まるでハリウッド映画みたいだ」という言葉。しかし、では「ハリウッド映画」とは何だろうと考えてみると、その内実をとても一言では説明できないことに気づきます。ハリウッドは20世紀の映画産業を牽引し、世界中の視覚文化や消費文化に多大な影響を与えてきました。その長く複雑な歴史を知ることは、映画だけに留まらず、現在のわたしたちを取り囲むあらゆる視覚芸術・娯楽作品を読み解く手掛かりとなるでしょう。
 そこで今号では、ハイカルチャーとサブカルチャーの垣根を越えて縦横無尽な批評活動を展開する石岡良治氏と、明快かつ大胆な切り口で「映画とは何か」を問い直す著作を発表している三浦哲哉氏に、広大なハリウッド映画の世界を探索するためのフィルム・ガイドをご執筆いただきました。

「ハリウッド映画」と技法の重ね合わせ(石岡良治・選)


『鷲の巣から救われて』
監督/エドウィン・S・ポーター&ジェイムズ・サール・ドーリー 1908年

アメリカ映画史の起点に位置付けられるエジソン・スタジオによる「初期映画」作品の一つ。フィルムスタディーズの知見は、この時期の「表象モード」が、現在のハリウッド映画とは異質であることを様々な仕方で示してきた。その特性をおおむね、物語的関心よりは見世物的新奇性への関心が顕著な「アトラクションの映画」(トム・ガニング)と要約することができるだろう。
 だがこの時期のエジソン・スタジオの作品群を前にするとき、観者は直ちにタイトル画面に執拗に現れる「商標trade mark」「著作権保持copyrighted」「特許済patented」などのクレジット表記に気付く(このすべてが揃った例としてエドウィン・S・ポーター監督『テディベア』1907が挙げられる)。映画はまずもって「発明」とみなされていたのであり、現在に至るまで「産業芸術」としての側面を保持している。著作権表記のミスでパブリックドメインになってしまった作品の数奇な命運(ジョージ・A・ロメロ監督『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』1968が有名だ)を考えると、表象モードの差異を貫いて、映画に産業芸術としての条件が課せられていることの重大性に思い至らざるをえない。
 産業芸術という条件は、「制作時点で使用可能な技術的手段を貪欲に用いる」という傾向性をもたらす。D・W・グリフィス主演作として知られる『鷲の巣から救われて』では、鷲が赤ん坊をさらう場面のトリック撮影が忘れがたい印象を残すだろう。あからさまに作り物の鷲そのものの効果というよりは、鷲に運ばれる赤ん坊の新鮮な反応に一定のリアリティを見出すことができるためだ。
 ハリウッド映画における鳥や飛行機などの飛翔体の表現史は、トリック撮影の歴史と並走するが、しばしばアンリアルな要素からなる過去の表現が、それでもなお心に残るのは、当該場面の「演技act」の総体にリアルなものが実現されているからだといえる。初期ミッキーマウスのアニメーター、アブ・アイワークスの手によるアルフレッド・ヒッチコック監督『鳥』(1963)の合成表現はその好例だ。

『絞殺魔』
監督/リチャード・フライシャー 1968年

今世紀の「海外ドラマ(主として英語圏のテレビドラマシリーズを指す呼称)」の代表である『24 -TWENTY FOUR-』シリーズ(2001〜)が再活性化させたスプリット・スクリーン(分割画面)表現は、複数箇所での演技の並置によって、視聴者がリアルタイムに同時進行する出来事に立ち会っているかのような効果を巧みに演出していた。画面上の複数のウインドウに対して行使される「情報処理」が早晩飽和に達してしまうことを織り込みつつ、「監視モニタの時代」における対テロ捜査という主題を前面に押し出すスタイルは、シナリオが発するメッセージに対する当否を超えて、今世紀的なものとして受け止められたといえる。
 スプリット・スクリーンの強みは、個別の映像がさほど印象的でないときでも、クロスカッティングやラストミニッツレスキューといった、古典ハリウッド映画が確立した編集の効果を、観者が構成的に把握していく助けとなることにある。その反面、デバイスの人工性が突出してしまい、手法のための手法の誇示となりがちなことは否めない。
 リチャード・フライシャー監督の『絞殺魔』は、全編にわたりスプリット・スクリーンの人工性を用いることで、現実の「ボストン絞殺魔事件」に基づく題材の陰惨さを緩和しつつ、同時進行する複数の出来事に焦点を合わせている。この映画は、1960年代アメリカを特徴付ける「マーキュリー計画」の宇宙飛行士たちを祝うテレビニュース画面にはじまり、「犯人」デサルヴォの投獄で終わる。こうした構成は、映画内に氾濫する複数の画面が、あくまでも現実に由来し、かつ現実へと差し戻されていく「枠物語」であることを示すかのようだ。
 ハリウッド映画の途方もなさとして、現実のアメリカ史の進行と並走するのみならず、時に評価が定まっていない事象についても、現実を先取りするかのように映像化してしまう点が挙げられる。史実との齟齬をも辞さない素早さが、「もう一つのアメリカ史」を生み出し続けているのだ。『絞殺魔』で犯人とされた現実のデサルヴォは、1973年に獄中で刺殺され、現在では真犯人が別にいた可能性すら示唆される。だが、そうした事情からは相対的に独立した仕方で、複数の分割画面が「映像内の現実」を作中で構築している。

『マトリックス』
監督/ラナ[ラリー]&アンディ・ウォシャウスキー 1999年

映画に現れる情報処理のイメージは、マシンを操作する登場人物の身振りか、あるいは「デジタル」な表象を何らかの手段で強調するものが大半だ。ここに決定的に不在なのは実際のプログラミング過程だろう。映画『マトリックス』は可読性の低い緑色の文字列が垂直に降り注ぐイメージを巧みにコンピュータプログラミングと結びつけ、世紀転換期における情報処理をめぐる映像表現に大きなインパクトをもたらした。
 緑色の文字列そのものは、コンピュータ発展史上のCRTモニタに遡る「古いイメージ」だ。けれどもそれら文字列から成るプログラムが「マトリックス」と呼ばれる仮想現実空間を構築。反乱を起こしたコンピュータによってマトリックスに幽閉された人類が、覚醒して再び反乱を起こす、という明快な世界像を提示している。  ワイヤーを駆使したアクション演出や、身体をのけぞらせて弾丸を避ける様を回りこむように多数のカメラで撮影する「バレットタイム」が、マトリックス内部の「ハイパーリアル」な現実感覚を描きだす。ボードリヤールの「シミュレーション」思想の参照など、考察を誘う要素も織り交ぜ、続編となる三部作へと展開。一部設定の開示は、アニメーションやゲームなどのメディアミックスに委ねられた。
 『マトリックス』に由来する視覚イメージはあまりにも多く、そのため現在では相当数の要素が陳腐化(「コモディティ化」と言ってよい)してしまっている。陳腐化に際しては、トリロジー最終作『マトリックス レボリューションズ』(2003)の「古さ」が後押しした面は否めない。作品世界のインフラをなす「マシン・シティー」における蜂起の物語は、真摯ではあるがフリッツ・ラング監督『メトロポリス』(1927)以来の伝統的SF表象に収まっているからだ。その意味では押井守監督のアニメ映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)を直接の参照源とした第一作こそが「レボリューション」を起こしたのだと言えるが、本作が活性化させた「もう一つの現実」をめぐる陰謀論的想像力は、現在ではより直截な政治的表象へと向かう傾向を持っており、各時代ごとの陰謀論の機能を検討していく作業が待たれる。

『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』
監督/ピーター・ジャクソン 2002年

完全な異世界を構築する「ハイファンタジー」の傑作であり、(T)RPGゲームジャンルなどを生み出したことで知られるJ・R・R・トールキンのファンタジー小説『指輪物語』を見事に映画化した『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001〜2003)。世界中に数多くのファンを抱える緻密な世界観の映像化は困難とされ、1978年公開のアニメーション映画版(ラルフ・バクシ監督)も不評で前半部を描いたまま途絶。以後の映画化企画がなかなか実現しなかった理由としては、ファンの要求の高さだけでなく、ホビット族をはじめとする諸種族の造形の困難が挙げられる。
 結果的には1990年代から本格化したCGの発展が、困難克服の鍵となったわけだが、今なおCGを駆使した映画に対しては、レンズを介さず舞台装置を俯瞰する「カメラ」の典型的なアクションへの違和や、何よりも「不気味の谷」に落ち込んだ表現に対する抵抗が表明される傾向がある。ところがまさに「CGの不気味さ」を逆手に取り、例をみない造形を獲得したのが、トリロジー二作目の『二つの塔』で本格的に登場した「ゴラム」であった。
 俳優アンディ・サーキスがモーションキャプチャを用いて「演技」したゴラムは、巧みにキャプチャされた表情とともに、従来の特殊メイクの限界を突破した「人類以外の諸種族」表現を獲得した。また、CG画面のカメラが喚起しがちな違和感についても、ほぼすべてのデジタルゲームのファンタジー作品が『指輪物語』に由来しており、ゲームの3D表現の洗練期と重なったことも幸いした。
 以後活躍を続けるピーター・ジャクソン監督の活動でとりわけ注目されるのは、出身地ニュージーランドを拠点にすることで「ハリウッド映画」のグローバル化を体現していることだろう。その結果、『ロード・オブ・ザ・リング』や『ホビット』三部作(2012〜2014)の撮影地ツアーは、トールキンが予期しなかった形で『指輪物語』のルーツ巡りを可能にしている。

『アバター』
監督/ジェームズ・キャメロン 2009年

以上おおまかに見てきた「ハリウッド映画」の諸傾向を総合するかのような「3D映画」のヒット作。「アトラクションの映画」の現在形と言える3D映画は、「異空間への没入体験」を説得的に示した本作が存在していなければ、すでに「何度目かの仇花」となっていた公算が大きい。シナリオ面では手放しで賛同する者が少ないにもかかわらず、本作を歴史的な重要作にしているのは、下半身不随となった元海兵隊員の主人公ジェイクが、惑星パンドラのナヴィ族との接触のために、類似した外見の「アバター」を得た後、身体を自在に動かす場面の素晴らしさが決定的だろう。
CGを活かした青い肌が印象的なアバター姿のジェイクは、仮想空間を動きまわるのではないところがポイントだ。典型的な「白人酋長もの」として展開される物語は、翼竜を乗りこなしつつ、侵攻作戦の尖兵となる元上司の「悪役」クオリッチ大佐と対峙するクライマックスを迎える。クオリッチ大佐がジェイクの「本体」への攻撃を試みる場面で、ジェイクの2つの身体が同一空間に現れていることは、『マトリックス』が分離していた複数の異なるリアリティの水準を、3DCG空間における異なる身体表象の齟齬という仕方で捉え直していることを示すだろう。

|筆者紹介|
石岡良治(いしおか よしはる)/1972年、東京都生まれ。批評家、表象文化論。青山学院大学ほかで非常勤講師。著作に、『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)、『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社、2015年)。論考に「ミスター・DNAのインストラクション—『ジュラシック・パーク』と映画のメディウム」(『ユリイカ』2008年7月号)、「『グエムル—漢江の怪物—』の環世界」(『ユリイカ』2010年5月号)、「岩井俊二作品における印象の重ね書き」(『ユリイカ』2012年9月号)など。


アーカイヴと愛をめぐる映画(三浦哲哉・選)


『イントレランス』
監督/D・W・グリフィス 1916年

映画誕生以後の人類は、「過去」を、動く映像において想起することができるようになった。19世紀以前の人物たちを、私たちは文書や肖像画によってしか知ることができないが、20世紀以降は、それを映像アーカイヴから再生できるようになった。このことがもたらした「歴史感覚」の変容の意味はきわめて大きいだろう。
 さらに、映画誕生以前の過去さえも、動く映像において再現しようとする欲望に、ハリウッド映画は取り憑かれてきた。10年代のイタリア史劇映画と競合しつつ、その最初の記念碑となったのがD・W・グリフィスによる1916年作品『イントレランス』である。
 紀元前のバビロニア、キリストの時代のベツレヘム、ユグノー迫害の時代のフランス、そして現代アメリカという四つの時代が並行して描かれる。とりわけバビロニアの古代都市を視覚的に再現するために莫大な資金が投入され、ほとんど一つの王国というべき巨大なセットが建造された。
 現在見直すと、違和感を覚えないわけにはいかない。とくに、全員アメリカ人だ……と唖然としてしまうのだ。バビロン時代のヒロイン「マウンテン・ガール」など、仕草からなにからアメリカ娘以外の何ものでもない。このような悪しきアメリカ中心主義には多くの問題があるし、歴史表象におけるハリウッド的バイアスについては意識的でなければならない。
 とはいえ、この作品の真の画期性は、ある一つの過去を真正に再現しうるかいなかという点ではなく、複数の時代がパラレルに、並行して描かれうるという点にこそあった。四つの時代を、映画のカメラは、自由自在に往き来してしまう。フィクションとしてではあれ、そのような「視点」がきわめて具体的に、感覚可能なものとして実現されたのである。
 四つの時代のどこにも帰属せず、ゆりかごを揺らしながら物語の展開を見届けているかのようなリリアン・ギッシュの姿の不思議さ。そこはいったい、いつ、どこだろうか。

『マイノリティ・リポート』
監督/スティーヴン・スピルバーグ 2002年

未来さえもが映像化されてしまうとするならば、世界はどうなるか。 この問いをめぐって構成される一連の映画が21世紀に入ってから立て続けに作られ一つのサブジャンルを成している。本作に加え、主だったところで『ペイチェック─消された記憶』(2004)、『ネクスト』(2007)、『アジャストメント』(2011)などがある。これらは娯楽作品として優れているだけでなく、映画とは何かを考えるきっかけとしても貴重な、SF=スペキュラティブ(思弁的)フィクションの秀作である。
 なぜ21世紀に入ってからなのか。「監視社会化」等の社会情勢に加えて、コンピュータによる映像処理、とりわけノンリニア編集が一般化したことが決定的な要因であるだろう。「ノンリニア」とは、時系列順に拘束されずに、という意味であり、コンピュータのデスクトップ上で編集者はHDDに記憶されたショット断片を自由に組み換えることができる。
 この「ノンリニア的想像力」がきわまって、過去の出来事だけでなく、未来の出来事の映像断片さえもつなぎあわせることができるとすれば……。そのような想定を文字通り実演してみせるのが本作の主人公トム・クルーズだ。この未来社会ではこれから起こる犯罪事件を、予知能力を持つという「プリコグ」たちを介して、映像として垣間見ることができる。ただし、それらはばらばらの断片としてしか与えられない。そこでトムを含むエージェントたちは、モニタ上に次々と浮かび上がるそれら断片を、巨大なタッチパネルによって編集し、その犯罪行為の全容を再構成するだろう。時間との舞踊ともいうべき、驚くべき場面である。
 だが無論、未来予知には論理的矛盾が含まれないわけにはいかない。本作では、「トム・クルーズが殺人事件を起こす」という内容の予言を受けた彼が、自らの運命をいかにして変容しうるかが描かれる。それは同時に、この「ノンリニア的想像力」の限界を探る旅にほかならない。

『サイン』
監督/M・ナイト・シャマラン 2002年

シャマラン作品は、裏の裏が表に転じたようなところがあって、だからそれが単なる表、つまりべタ、というか、バカであることと見分けがつきがたい事実がある。だがよく見れば、本作はバカの外観の下に、イメージの時間と運命をめぐる深遠な洞察を繰り広げていることがわかる(はずである)。
 筋立てはようするに、何度も映画化されてきたH・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』+ヒッチコック『鳥』。 宇宙人が襲来し、この世の終わりを予感しつつも、家族が力を合わせてサヴァイヴする。そのまんまである。ディテールにおいても、私たちが飽きるほど繰り返し消費してきた紋切り型が、露骨すぎてたじろぐほどの露骨さにおいて、画面を埋め尽くす。
 だが、それらベタベタなイメージは、それゆえ不穏な影を帯びている。その不穏さが臨界に達するのは、メル・ギブソンの息子がトンデモ本コーナーに置いてありそうな「宇宙人もの」の本を購入し、その頁をめくるときである。稚拙なタッチで書かれた宇宙人侵略のイメージなのだが、それこそがまさに彼ら家族の状況をあまりに正確に予見しているのだった……。
 つまりこういうことだ。私たちの想像力はアメリカ文化が大量生産してきたイメージ断片をいまや原型としており、その中に、私たちは(主人公のメル・ギブソンたちがそうであるように)住まっている。
 そのうえで本作が問うのは、ぞっとするようなクリシェの無意味な集積であるように思えるこの世界に、いかにして、有意義な連関を、信じるに足るつながりを見出すことができるか、である。タイトルの「サイン」の意味はそこにある。やがて映画の終盤に、死んだ妻が残した謎の言葉「振り抜け swing away」を符牒として、偶然のかけらから、本当に、光り輝く運命が現れ出てしまうことの驚き。私たちの生の環境が連関を失い無意味化したことが、現代における運命的体験のための条件である、とシャマランは言っているのだ。

『J・エドガー』
監督/クリント・イーストウッド 2011年

自作自演作家クリント・イーストウッドは、その存在自体がアメリカの神話であり、同時にその資格において、様々な別の神話と対話し、戯れ、批判してきた。だからイーストウッドの歴史映画は特別な意味を帯びる。
 たとえば『許されざる者』(1992)は西部劇の神話を、『父親たちの星条旗』(2006)は第二次大戦の英雄たちの神話を、『チェンジリング』(2008)はそれら神話を立ち上げるマスメディア環境そのものを描く。本作は、アメリカ国内の諜報システムを作り上げた男、エドガー・フーヴァーの生涯を描く点で、まさにイーストウッドのそのような関心に沿った作品であると言える。
 科学的な犯罪捜査法と合理的な情報管理をフランスから取り入れつつ、フーヴァーはアメリカにおける記録と記憶のシステムを書き換えた。
 さて、しかし本作が示すのは、厳格な独裁者に思えたフーヴァーの生において、彼自身が作ったシステムをはみだす「嘘」と「愛」こそが重要だった点である。
 この映画では、フーヴァーが口述筆記ライターに自分の生涯を語る「現在」を起点に、語られた「過去」が次々と映像化されていく。やがて、明らかになるのは、それら「過去」には多くの嘘が含まれている事実である。ハリウッド映画の禁忌「偽のフラッシュバック」(観客の混乱を防ぐため、偽りの過去を視覚化して写真映像特有の実在性の印象を付与してはならないというルール)をあえて逆用する、破格の構成が取られているのだ。そこで、権力者による記憶の管理がいかに恣意的であるかが暴露される。
 だが、記憶はただ捏造された嘘であるというだけではない。嘘と混乱を含みつつも、しかし、記憶断片を束ねる真の核心が存在する、と死を前にした老主人公は言う。それは、愛しい相手を前にして思わず流した汗を拭うハンカチーフである。恋心の象徴としてのハンカチーフのイメージが、実は、全人生の価値を遡及的に照らしつつ、記憶の糸を紡いでいたのだ。

『インターステラー』
監督/クリストファー・ノーラン 2014年

時間を超えて旅をし、過去さえも変えたいという夢想を描くSF映画の最新ヴァージョンである。
 本作の独創性はどこにあったのか。第一に、時空間の相対性、とりわけ時間の尺度の複数性そのものの描写である。たとえば、その場所で過ごす1時間が地球の7年間に相当するという惑星があり、数時間後にこの惑星の探索から戻って来た主人公たちをその外で待っていた仲間は、数十歳老けてしまっている。こうした描写が喚起する「相対性のめまい」は圧倒的である。
 さて、では徹底的に相対化され、相互に隔たった時空間の諸断片を束ねる原理は、ここでは何に託されているか。「重力」と「愛」であるという。まず「重力」であるが、それは「時間」と「空間」に先行するパラメータであり、だから(?)、「重力」は、時空間をとび超えたメッセージの媒体となりうる、らしい。そして「愛」は、どうやら時空を超えたコミュニケーションに目的性を与える何かとして想定されている。極限の未来にあって、様々な過去にいる孤独な魂たちに、ここへ向かいなさい─あなたたちの存在があったからこそ、この未来は現にありえたことになるのです─と言う。「愛」はそのような究極のメッセージとしてある。実際、マシュー・マコノヒー演じる宇宙飛行士が人類を救うことができるのは、未来からのそのようなお告げに導かれることによってである。
 だが、次の疑問が残る。たしかに、「愛」に目的づけられて人類は、惑星外へとその継承の営みを延命させる。しかしこの外に漏れ出た者たちはどうなるのか。救済されず、文字通り地に堕ちるのだろう。とすると、本作で描かれるすべてが、宗教的救済の非常にダークな戯画であるようにも思われてくる。
 いずれにせよ、問いつづけるほかはない。アーカイヴから別の価値を救済する原理としての愛には、どのような幅と可能性がまだ残されているだろうか。

|筆者紹介|
三浦哲哉(みうら てつや)/ 1976年、福島県生まれ。映画批評・研究、表象文化論。青山学院大学文学部准教授。福島県内外での映画上映プロジェクトImage.Fukushima代表。主な著作に『映画とは何か—フランス映画思想史』(筑摩選書、2014年)、『サスペンス映画史』(みすず書房、2012年)、『ひきずる映画—ポスト・カタストロフ時代の想像力』(共著、フィルムアート社、2011年)がある。

石岡良治+三浦哲哉 著作紹介


石岡良治『視覚文化「超」講義』
フィルムアート社、2014年

映画・アニメ・PV・ゲーム等、消費社会における視覚文化をハイカルチャーとポピュラー文化の枠組みを超えて分析した講義録。取り上げられるのはダグラス・サーク、マイケル・ジャクソン、ガンダム、初音ミクなど広範に及ぶ。その中で特に大きく取り上げられるのが、タイムマシンで過去・現在・未来を行き来する映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ。「豊かなアメリカ」の象徴であるタイムトラベル先の1950年代への郷愁、さらに2010年代の現在から見た80年代映画としての郷愁といった、一見消費社会とは無縁と思われる「ノスタルジア」という心の動きをキーワードにして作品を読み解いていく。巻末掲載の國分功一郎との対談では、情報過多時代のスピードに対し、加速・減速の二元論的な向き合い方ではなく、複数の速度を使い分ける「ギアチェンジの技法」を提唱。めまぐるしく変化する情報社会の中でどう文化を捉えていくべきか、新たな視座を提示した好著である。


石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』
青土社、2015年

マンガを中心に現代日本のポピュラーカルチャーを取り上げた批評集。第Ⅰ部では「形象」(図像的・造形イメージ)が物語世界でどのような寓意性を持って「反響」し、その「反響」が作品の外にどう「反映」されるかを紐解いていく(「黒」のイメージが象徴的に使われる松本大洋の『鉄コン筋クリート』『ZERO』)。第Ⅱ部ではキャラクターの「媒介性」(メディエーション)に注目しつつ、「反響」と「反映」、「作品の内と外」の関係を考察する(キャラクターデザインとして描いた絵に実装された「雰囲気」がアニメーションやゲームに作用する安倍吉俊のイラストレーション)。第Ⅲ部の終章では複数の平行世界を移動する『仮面ライダーディケイド』を、情報過多時代におけるヒーローとして取り上げ、「作品の内と外」の関係そのものの寓意を示す。前著『視覚文化「超」講義』でも標榜された「ギアチェンジの技法」によって、「視覚文化×マンガ」の魅力に迫った一冊。


三浦哲哉『サスペンス映画史』
みすず書房、2012年

サスペンスとは宙吊りの状態や未決定の状態に置かれることを意味する言葉である。では、人びとはなぜそのような「不自由」の経験を求めてサスペンス映画を見るのだろうか? そんな問いかけから出発し、映画の歴史の中でサスペンス表現がどのように変遷してきたか、どのように観客を魅了してきたかを丹念に解き明かす三浦氏の初単著。書名に「映画史」と付けられてはいるが、退屈な歴史の教科書のように作品タイトルと作家名ばかりが網羅的に書き連ねられているのではない。著者は論じる対象を主にハリウッド映画に絞り、さらにD・W・グリフィスやアルフレッド・ヒッチコック、クリント・イーストウッドなど画期的なサスペンス表現を生み出した作家を大胆にセレクト。個々のフィルムについての具体的な場面描写や精緻な分析はそれ自体がスリリングで、対象作品を未見の者でも楽しんで読むことができ、その作品を実際に見てみてみようという気にさせてくれる。


三浦哲哉『映画とは何か—フランス映画思想史』
筑摩選書、2014年

映像が動くというただそれだけのことに途轍もない感動を覚えるのはなぜだろうか? 過去、こうした問いに答えるためにしばしば持ち出されてきたのは「リアリズム」(現実主義)だった。しかし、映画に映るものはありのままの現実ではないというリアリズムへの批判や、デジタル化によってイメージを後から加工することが容易になるといった環境の変化もあり、現在、リアリズムという考え方は説得力を失っている。そこで著者は、「リアル」ではなく「自動性」という概念を用いることを提案する。自動性とは、イメージが人間の意識や意思からは独立して自動的に保存され、運動するということであり、それこそがデジタル化以後にも失われない映画の力を認識する鍵だというのだ。フランスの映画作家や思想家の思考と実践を辿りながら、自動性の美学の諸相を浮かび上がらせていく手腕は見事で、目から鱗の連続。まさに「映画とは何か」を考えるために必読の書である。

イメージ・コレクション其之十 『座敷影絵の幻』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)