わたなっべ
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IMAGE LIBRARY NEWS イメージライブラリー・ニュース第33号

特集「映画⇆世界のサーキュレーション」


 いたるところにカメラと映像が氾濫し、あたかも「世界そのものが映画になりうる」かのような世界。ビッグバジェットの大作映画が話題を集める一方、小規模な自主映画や動画が乱立する二極化状況の中で、両者を貫く重要な概念として「ドキュメンタリー」を挙げることができるでしょう。歴史的な事件・事故の現場やかけがえのない個の生に立ち会わんとするドキュメンタリストの活躍はもちろんのこと、劇映画の現場でも、ドキュメンタリー・タッチやフェイクドキュメンタリーと呼ばれる手法が多用されるようになりました。また一方で、『なみのおと』(酒井耕・濱口竜介監督)や『アクト・オブ・キリング』(ジョシュア・オッペンハイマー監督)など、劇映画の方法論をドキュメンタリーに持ち込む試みが注目を浴びたのも記憶に新しいところです。
 ではこのように、映画⇆世界、劇映画⇆ドキュメンタリー、フィクション⇆ノンフィクションといった循環(サーキュレーション)を通じて生まれる芸術表現にはいかなる可能性があるのでしょうか。それとも一時的な流行にすぎないのでしょうか。今号ではそんな問題意識を背景として、映画史研究者・批評家の渡邉大輔氏に濱口竜介監督作品を論じていただきました。

現代映画と「モノ=イメージとの同盟」――濱口竜介小論

文=渡邉大輔(映画史研究者・批評家)


 部屋の中央に、ふたりの女性がむかいあうかたちで椅子に腰掛けている。差しこむ外気の陽光をそれぞれ半身でやわらかく受け止めながら、画面向かって左側には、二幅の掛け軸が掛けられた乳白色の壁を背にして、着物をまとった鷹揚な老婆、彼女の正面には、洋服を着たやはり髪に白いものが混じる婦人が座っている。映画をいま観つつある観客へのどこか目配せめいた、シークエンス冒頭の両者のかしこまった自己紹介によって、着物の老婆が宮城県内で民話伝承に従事する佐藤玲子という語り部であり、年配の婦人のほうは小野和子という名前で、かれらの民話伝承を長らく訪ね歩いていることなどがたちどころに判明する。
 おだやかな雰囲気の画面に突如として映画的緊張がみなぎるのは、彼女たちの口から不意に、「河童」という単語が漏れる瞬間だ。その後、間もなく老婆はかつて自身が嫁いだ家の姑との因習的な思い出とからめながら、含羞を含んだ表情で「小豆研ぎ」という河童と同じ怪異の話を朴訥と語りだす。この老婆の姿は、たとえばこの場面に先立って、「ひとと動物がいろんなかたちでかかわってくるのも、昔話がよく語ることですよね」という小野の問いかけに応えて、人間の娘が雄猿のもとに嫁ぐ「猿の恩返し」なる、同じく「ひとでないモノ」の民話を語る別の老語り部のそれと過不足なく重なりあう。と同時にやはり重要なのは、こうした「ひとでないモノ」の話がはじまった瞬間、それまでふたりの傍らに置かれ、斜めから切り返されていたキャメラが、一転してかれらの顔を画面中央に真正面から捉えるバストショットの切り返しに変わることだろう。だが、人物たちは何事もなかったかのごとく、まっすぐにレンズに視線を向けたまま、淀みない会話を続けてゆく……。
以上の、いっけんして奇妙なシークエンスは、酒井耕と濱口竜介が東北の民話伝承活動に取材したドキュメンタリー『うたうひと』(2013)のなかに含まれている。すでに知られるように、同様の構図のショット/切り返しショットは、4時間以上におよぶ大作『親密さ』(2012)あたりにおそらく端を発し、『うたうひと』をその一編として撮られた東日本大震災後の三陸を舞台にしたドキュメンタリー連作「東北記録映画三部作」(2011~2013)や、習作的中編『不気味なものの肌に触れる』(2013)、そして5時間近くの最新作『ハッピーアワー』(2015)にいたる濱口竜介の近作に数多く顔を見せる。画面を観るだれもが小津安二郎のような、と条件反射的に形容してしまうこの演出は、監督自身の証言を含むいくつかの記述によって、実際には、対話の撮影の途中で、人物を斜向かいに配置しなおしてそれぞれの正面にキャメラを据え、双方とも対話者ではなくキャメラにむかって話してもらうことで可能になったことが明らかにされている。
とはいえ、『シチュエーションズ』(文藝春秋)の佐々木敦など多くの論者がつとに指摘しているように、「東北記録映画三部作」などのドキュメンタリーはもちろん、「ENBUゼミナール」の俳優ワークショップの様子を取りいれた『親密さ』などのフィクション作品にせよ、淀みない自然さで進行する対話の映像記録のなかに、きわめて形式的かつ抽象的に構成された切り返しが唐突に挿入されるこれら一連のシークエンスは、映画におけるフィクション、ドキュメンタリーといった慣習的な区分にもかかわる、今日の映像の表象や受容の経験をめぐる現実性/虚構性のあわいを攪乱するような、一種異様なリアリティを観客に与えるだろう。この点から、映像講座「映画⇆世界のサーキュレーション」の趣旨も踏まえつつ、濱口竜介の映画的想像力の内実についてあらためて短く考えてみたい。
濱口竜介は、現代日本映画の若手監督たちのなかでも、さまざまな意味で「ポスト9・11」ないし「ポスト3・11」という区分で語るにふさわしい作家である。たとえばそれは、東京大学映画研究会の卒業制作でもある実質的な監督デビュー作『何食わぬ顔』を2003年に発表し、また、『親密さ』では民兵組織に志願する青年やSNSを印象的に登場させたり、震災直前の季節を舞台としていたり、何より震災そのものを題材とした「東北記録映画三部作」の製作などからも如実にうかがわれるものなのだが、そればかりではない。右に記してきたように、そのことは、かれがこれまでのキャリアのなかでさまざまに試みてきた、映画というメディアやジャンルの形式性、あるいはリアリティ表現にまつわるラディカルな問いなおしにも示されているといえる。
繰りかえすように、濱口はかねてからフィクションとドキュメンタリー、もしくはその両方の要素を巧みに混在させた独特の創作活動を展開してきた。ただ、似たような傾向は、じつは濱口のみならず、かれと同世代の若手インディペンデント映画作家をはじめとし、国内外を問わず「ポスト9・11/ポスト3・11」の現代シネアストたちの諸作品にいちように認められるものでもある。たとえば、その象徴的な事例といえるのが、拙著『イメージの進行形』(人文書院)などでも問題にしてきた、90年代末以降のいわゆる「フェイクドキュメンタリー」の世界的な流行現象である。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)のヒットなどをきっかけに、21世紀に入ってから手ブレ映像や肌理の粗いディジタル画像、素人っぽい演技といったドキュメンタリーの慣習的表現・手法を模したフィクション作品がいたるところで脚光を浴びた。ハリウッドであれば、J・J・エイブラムスなど。現代日本でも、山下敦弘から白石晃士、真利子哲也にいたるまで、才気溢れる若手作家たちがこぞってこのジャンルで、注目作を手掛けてきた。 むろん、フェイクドキュメンタリーという趣向自体は、60年代のモンド・ムービーなどを例に出すまでもなく、それ以前から映画史には存在する。とはいえ、今日におけるフェイクドキュメンタリーの台頭において決定的に重要なのは、同種の表現を含んだ岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』(2001)を持ちだすまでもなく、それが「ポスト9・11/ポスト3・11」の映像的な徴候ともいえる、メディアの「ディジタル化」や「ネットワーク化」――いわゆる「ポストメディウム的状況」と密接にかかわっているという点にほかならない。
21世紀のディジタル端末と高速データ通信技術の社会的氾濫という事態は、監視キャメラから動画サイトまで、日常的な風景(現実)における映像(イメージ)の遍在化、ハイブリッドを加速度的に招き寄せた。さきの拙著でさしあたり「映像圏」と名指したその状況は、いわばあらゆる現実的記録(ドキュメント)を潜在的に「フェイク」に変えてしまうプロセスだといってよい。その意味で、フィクションとドキュメンタリーをなかば露悪的に交錯させてみせる現代的フェイクドキュメンタリーとは、いわばジル・ドゥルーズならば「偽なるものの力能」(『シネマ2』)とでも呼ぶだろうこうした事態を、巧みに構造化しているのだ。そして、『親密さ』や『なみのおと』(2011)などで主題的ないし演出的にフィクションとドキュメンタリーを混在させる濱口も、問題意識や手法などにおいて、広い意味では同様の流れに含まれるともいえよう。さらに、本稿では詳述はできないが、濱口作品を特徴づける圧倒的な長尺や、敬愛するジョン・カサヴェテスになぞらえられる俳優たちの多様なエクササイズの場面といった要素も、同様に、「作品」や「パッケージ」としての確固としたまとまりを失いがちな一方、フラットな情報環境の海で絶えず生成変化を遂げてゆくディジタルメディア特有の感性――たとえば「ロングテール」と呼んでもよいが――と共鳴するものがある。
ところで他方、こうした映像圏=ポストメディウム的状況とは、それこそ街中の監視キャメラ映像をはじめ、タイムライン上にうごめく無数のVine動画、GIFのアニメーションなど、いわば主体(ひと)の介入を離れて自生するように見える、「ひとでないモノ」としてのイメージが情報メディア環境の内部で能動的・自律的に氾濫し、そればかりか主体と不断に相互干渉すらしてゆく、これまでにはないハイブリッド的な状況をももたらしつつあるといえる。たとえば最近、日本でも注目を集めはじめている「新しい唯物論」やら「オブジェクト指向の存在論」やらといった英語圏の哲学的言説の数々は、フェイクドキュメンタリー的な虚実皮膜のハイブリッドとも一体となった、以上の新たな「モノとの同盟」(中沢新一)とでも呼べる局面こそを問題にしているわけだ。
さて、ここで最後に、あらためて冒頭に掲げた『うたうひと』のシークエンスに戻ってみよう。そのように問いを立ててみると、本作で濱口がそのフェイクドキュメンタリー的な形式性とともに試みようとしているのは、今日の映画的想像力における新たな「ひとでないモノとの同盟」なのだということができる(事実、中沢新一の議論も民話伝承につうじる民俗学的な文脈を経由している)。
猿や河童、小豆研ぎなどの動物や怪異との交流を語る語り部たちの姿は、そのまま世界に拡散される有象無象のモノ=イメージたちと相互干渉するわたしたち自身のリアリティとぴったりと重なるだろう。濱口は、『ブンミおじさんの森』(2010)や『メコンホテル』(2012)でアピチャッポン・ウィーラセタクンがやったことを、また別の切り口から捉えてみせたように思われる。だとすると、あの特異なショット/切り返しショットによって対話者たちをまなざし続ける濱口的なキャメラの視線は、その意味でまさにキャメラアイ=客体と人間=主体が精妙に循環する「視線のハイブリディティ」を象徴しているのではないだろうか。濱口竜介の作る映画の具体的細部は、わたしたちが直面する、世界と映画の循環構造をこのうえなく鮮やかに提示して見せている。

|筆者紹介|
渡邉大輔(わたなべ だいすけ)/1982年、栃木県生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部助教。主な著作に『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年)、『アジア映画で<世界>を見る――越境する映画、グローバル化する文化』(共著、作品社、2013年)、『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(編著、南雲堂、2015年)などがある。


映画⇆世界のサーキュレーションをめぐるフィルムガイド

選=イメージライブラリー

『夜と霧』
監督/アラン・レネ 1955年

『夜と霧』は、第二次世界大戦時のモノクロのニュース・フィルムと写真を用いてアウシュヴィッツ収容所でおこなわれたユダヤ人虐殺を告発した32分のドキュメンタリー作品である。ブルドーザーでかき集められる死体の山、切り取られた生首、目を覆いたくなるような残虐な映像の数々が連なる。しかし映画の導入部分では、実に穏やかな田園風景が映し出される。青い空、緑の草原。その長閑で平和な風景のなかに、廃墟となった収容所が存在する。流麗な音楽と抑制の効いたナレーションを従え、カメラは緩やかな速度で収容所の内部へと入り込む。交互に映し出されるカラーの現在とモノクロの過去。その鮮烈なモンタージュは、制作から60年の歳月を経てなお変わらぬ強度を保ち続け、今まさに観客自身が、映画のなかで目の当たりにした惨劇と地続きにつながった歴史の上を歩んでいるという事実を容赦なく突き付けてくるのだ。

『営倉』
監督/ジョナス・メカス 1964年

実験劇団リヴィング・シアターによる公演のただ中に飛び込んだメカスが、役者たちと同じ時と場を共有しながら撮影を敢行した本作は、通常は「無いこと」にされるはずの撮影者やカメラの存在を観客に強く意識させる。しかしこの試みがメタフィクションにありがちな夢オチ的・一発ネタ的安易さに陥っていないのは、メカスによって身体化されたカメラの一挙一動から、撮る者の特権性に居座らず、自身もひとりの登場人物として舞台に立つのだという気概が感じられるからだ。要するに、「撮影者なのに舞台に上がっている」という事実そのものが賞賛に値するのではなく、そこで撮影者が役者にひけをとらないパフォーマンスあるいは演技を披露しているからこそ本作は感動的なのである。こうした「出演者としての撮影者/カメラ」という観点は、劇映画における主観ショット(POVショット)を考える上でも役に立つだろう。


『サン・ソレイユ』
監督/クリス・マルケル 1982年

女性の声が、世界を旅するカメラマンから届いた手紙を朗読する。画面にはそのカメラマンの旅を追体験するかのようにアフリカや日本の風景が展開される。カメラマンが視線を向けるのは、無数の招き猫が奉納された寺、電車内で眠り込む人々、街角のテレビが映し出す相撲中継。監督は、スチール写真とモノローグのみでタイム・トラベルを題材にしたSF映画『ラ・ジュテ』を制作したクリス・マルケル。この異国の監督の眼を通して見る1980年代初期の日本の諸相は、紛れもなくドキュメンタリーの手法で撮られているにも関わらず、そこが日本であって日本ではないような不思議な感覚をもたらす。心地よく耳に響くモノローグは異国の文化について次々と哲学的思考を巡らせ、『ラ・ジュテ』と同じようにこの映画もまた自在に時空を飛び越えていく。結局のところ映画作家の視線と思考に照射されたとき、慣れ親しんでいたはずの世界でさえいかようにも変幻し得ることを観客は知るだろう。

『ジュラシック・パーク』
監督/スティーヴン・スピルバーグ 1993年

リュミエール兄弟の『列車の到着』を見た観客が席を立ち逃げ出したとか、ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』を聴いた人びとが宇宙人襲来を信じてパニックに陥ったというような都市伝説的エピソードは今も、「ひとは何を本当らしく感じるか」という問いに関する魅惑的な事例であり続けている。スクリーン上に絶滅したはずの恐竜を復活させ、VFX技術の水準や人々の恐竜観を塗り替えた『ジュラシック・パーク』もまた、観客に新たなリアリティの条件を用意したフィルムの系譜に連ねられるだろう。世界中で大ヒットを記録した本作はシリーズ化され、1996年には作中のパークを模したアトラクションがユニバーサル・スタジオにオープン。さらにそのアトラクションの記憶を映画に逆輸入するかたちで2015年に最新作『ジュラシック・ワールド』が撮られるなど、ハリウッドならではのスケールで映画と世界の循環(サーキュレーション)が続いている。

『不詳の人』
監督/山下敦弘 2004年

フェイクドキュメンタリーと言えば低予算のホラーや侵略もののSFが話題に上ることが多いが、この手法の特性が露骨に浮かび上がるのはむしろ『不詳の人』のように日常的風景の中に虚構を混ぜ合わせるタイプのフィルムである。演劇ワークショップに多くの生徒を集める詐欺師についてのドキュメンタリーという体裁の本作では、詐欺師役の山本剛史がいかにも「こういう人いそう」な仕草や言い回しで笑いを誘う。その演技の再現性が高まれば高まるほど、映画的には妙な収まりの悪さが生じてくるのが興味深いところだ。すなわちフェイクドキュメンタリーは、日常的なリアリティと映画的なリアリティがイコールでないことを確認し、ふだん見慣れたフィクションのドラマが現実世界のありようをいかに抽象化することで成り立っているのかを検討する材料を与えてくれるのである。なお、本作の方法論がさらに洗練されたテレビドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』も必見。

『四川のうた』
監督/ジャ・ジャンクー 2008年

50年にわたる歴史の幕を閉じようとしている中国巨大国営工場とそこで暮らす労働者たちにカメラを向けた『四川のうた』では、ドキュメンタリーとフィクションが巧みに融合されている。歴史を「『事実』と『想像』の混合物」と考えるジャ・ジャンクーは、朽ち果てていく工場と実在する労働者たちの圧倒的な存在感を映画に刻みつつ、そのなかにフィクションを演じる4人の役者へのインタビューを織り込んでいく。役者たちが演じるのは、100人の労働者たちから引き出した実話を基にして再構築された人物である。彼らには無数の名もなき労働者たちの人生が凝縮されているのだ。彼らがささやかな個々の思い出を語るとき、そこには多くの個人に影響を与え続けてきた中国の激動の半世紀が鮮やかに浮かび上がってくる。ドキュメンタリーとフィクション、それぞれの表現が及ぼす作用と可能性について改めて考えさせられる意欲作である。

『アクト・オブ・キリング』
監督/ジョシュア・オッペンハイマー 2012年

60年代にインドネアシアでおきた大虐殺事件。オッペンハイマーはその実行者たちに、自らの殺人行為を再演する「映画」を撮らないかと提案する。些かも悪びれずカメラの前ではしゃいでいた彼らが、モニタに映し出された自分の姿を見て当惑の表情を浮かべるのが印象的だ。カメラの眼によって切り取られた映像は時にそのひとの自己イメージを裏切り、見ることを避けていた「現実」を残酷なまでに突きつけるのである(なおこうしたフィードバック構造を用いた先例として、中谷芙二子による1972年のビデオアート『水俣病を告発する会 テント村ビデオ日記』がある)。またさらに、虐殺者のひとりがハリウッド映画への愛を繰り返し語ることによって事態はより複雑化するだろう。彼はかつて見た映画の記憶をもとに殺人行為をおこなったのだろうか。それとも、忌まわしい殺人行為の記憶を事後的に映画の記憶にすり替えようとしているのだろうか。

『フラッシュバックメモリーズ3D』
監督/松江哲明 2012年

ドキュメンタリーはフィクションと比べ制約の多いジャンルだと思い込みがちだが、松江監督は交通事故の後遺症で高次脳機能障害を負ったミュージシャンGOMAの復活までの過程を描くのに、3Dという手法を持ち込んだ。インタビューやリハビリの様子を撮影することを重視するのではなく、ディジュリドゥを演奏するGOMAの背景に、事故後から描き始めるようになったという緻密な点描画、GOMAと妻の日記、フラッシュバックを表現したアニメーション等のレイヤーを重ねることによって、GOMAの音楽や人間性、記憶障害の症状を多層的に描き上げたのだ。観客はあたかもGOMAの脳内に入り込むような錯覚にとらわれる。この映画をドキュメンタリーのジャンルに当てはめることについて監督は疑問を抱いているが、理屈ではなく五感で感じるリアリティがそこにはある。そして撮影時の記憶を持たないGOMAにとって、過去の喪失を埋めるリアルのひとつにもなるのだ。

『6才のボクが、大人になるまで。』
監督/リチャード・リンクレイター 2014年

例えばトリュフォーがジャン=ピエール・レオに20年に渡って同一人物を演じさせた「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズ。往年のスター俳優2人が27年前の共演作を観賞するシーンが強烈な印象を残すフェリーニの『インテルビスタ』。主要キャストの成長に合わせて製作スケジュールが組まれた「ハリー・ポッター」9部作など、映画は伝統的に役者の「生きた時間」と「物語の時間」とを結びつけてきた。長期撮影を通じて、はじめは6歳だった子役エラー・コルトレーンが18歳の青年になるまでを作中人物の成長と重ね合わせて描いた本作では、12年という時間がたった2時間46分へと圧縮される。そして観客はこの上映時間のうちに、永遠に続くかのような少年時代のまどろみと、振り返れば一瞬であったかのような儚い時間とを共に経験することになるだろう。この驚くべき経験は、切断の集積(編集)によって連続性を生み出す映画の魔術に他ならない。

イメージ・コレクション 其之十一 『It's only a paper moon』

文=松本夏樹(武蔵野美術大学、大阪芸術大学非常勤講師)

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(Web版イメージライブラリーニュースへの掲載に当たって、内容の一部を割愛・編集しております。名称・役職名等は掲載当時のものです。)