立教大学文学部仏文学科へ進学し、映画評論家でもある蓮見重彦の講義を受けて触発され、8ミリ映画を数本撮る。一方、イメージフォーラム映像研究所にも通い、在学中から高橋伴明監督のピンク映画に助監督としてつく。大学卒業後も若松孝ニ監督、井筒和幸監督らのピンク映画の助監督を務め、1982年、高橋伴明監督の「TATOO(刺青)あり」の演出部仲間の磯村一路、福岡芳穂、水谷俊之、米田彰と制作集団ユニット5を結成する。1984年、ピンク映画で監督デビューし、テレビやメイキング・ビデオの制作に携わった後、1989年に「ファンシイダンス」で一般映画に進出。1992年の「シコふんじゃった」は各映画賞を受賞した。1993年、製作会社アルタミラピクチャーズを設立、娯楽映画作家として支持を受ける作家となっていく。1996年の「Shall we ダンス?」は日本アカデミー賞で13部門を受賞した。