少年時代は満州(現・中国東北部)に住み、日本映画にふるさとを求める生活を送る。同志社大学法学部政治学科卒業後は、岩波映画製作所演出部に入社し、高村武次、京極高英などにつく。1958年、電気会社の海外向け企業PR映画「Electric Rolling Stock of Toshiba」で監督デビューし、つづく「海壁」「ルポタージュ・炎」で岩波のエースと目された。このころ同社の土本典昭、東陽一、小川伸介、岩佐壽彌らと<青の会>をつくる。自作脚本で劇映画と記録映画の融合を試みた「わが愛、北海道」を発表後、フリーとなった。1964年の「あるマラソンランナーの記録」は記録映画史に残る秀作となった。1966年「とべない沈黙」で劇映画に転向し、1975年の「祭りの準備」で広く認められた。テレビ界でも活動し、ドキュメンタリーやドラマを手がけた。