18歳から多くの仕事についたが、慈善公演の舞台に立ったのが縁で俳優の仕事を始める。1908年、バイオグラフ社から「The Adventures of Dollie」で監督デビューした後、13年までに457本もの作品を手がけた。なお、D.W.グリフィスの名を名乗ったのは11年以降で、それまでは俳優時代の名前を使っていた。このバイオグラフ社時代に、グリフィスは著しく演出技術を前進させ、シーンを交互に編集するクロス・カットという手法を創出した。また、大胆なクローズ・アップの多用や、出演者を舞台俳優から女優に切り替えたりと、新しい手法を次々と映画に取り入れていった。やがてミューチュアル傘下に移り、1915年、「国民の創生」を発表する。これはアメリカ映画初の12巻からなる超大作で、数々の技法の集大成となった。その後トライアングル傘下に加入すると再び超大作「イントレランス」に挑み、映画が独自の言語となり得たことを証明した。1919年、チャップリン、フェアバンクス、ピックフォードなどとユナイテッド・アーティスツを創設し、この<アメリカ映画の父>は「世界の英雄」を最後に引退した。